後編

 私は横断歩道を渡り洋菓子屋さんに入った。チョコレートやバターの匂いがすうっと私の鼻腔を通る。安物の気持ち悪さはなく、まるでこの店のスイーツを食したかのような気分にさせられた。


 歩みを進めると磨かれた鏡のショーケースにチョコレートやクッキー、ケーキやシュークリームなど多くの洋菓子が並んでいた。左側に固められたチョコレートのブースにすぐさま私の視線が行った。


「いらっしゃいませ」


 ショーケースの奥の部屋から店員が現れ私に挨拶をした。私は軽く会釈しチョコレートを見つめていた。


「チョコレートをお買い求めですか?」


 店員は穏やかな口調で私に問いかける。


「あ、いえ、おいしそうだなと思って」


 私は買う気はないと遠回しに店員に伝えつつも、購買意欲は決してないわけではなかった。その証拠に私はいまだにショーケースから目を離していなかった。すると店員は小皿に洒落た楊枝に刺さった半分に切られたチョコレートを乗せて私に差し出した。


「よろしければご試食をどうぞ。こちらはキャラメルの入ったトリュフでございます」


 私はその楊枝に刺さったチョコレートを受け取り口に入れた。


「おいしい」


 昨日食べたチョコレートよりも甘くて、けれど少しだけ塩の味を感じた。


「ありがとうございます。こちらの商品には塩が少々入っていて、それがアクセントになっていて人気の商品なんです」


 愛想よく接客する店員に私は好感を持つ。


「他にお勧めのものってありますか?」


 私はこの店の雰囲気や店員の接客によってすっかり買う気になり店員に尋ねた。


「そうですね、今はイチゴの商品も人気です。こちらはボンボンショコラと言いまして、ドライイチゴを使ったチョコレートで見た目も可愛いことで人気です」


 そう言って店員は四角く白いお花が乗ったピンクのチョコレートを私に差し出した。確かに見た目がとてもかわいくて食べてしまうのがもったいなかった。口に入れた瞬間、イチゴの酸味とチョコの甘さが混じり溶け合って私は思わずため息をついた。


 きっと顔の表情も緩んでいたのだろう、店員が私を見てくすりと笑った。その笑いは決して嘲笑などではなく甘いものが好きな同士への共感の意味を持っているようだった。


「いかがでしょう?」

「おいしいです」


 私はショーケースに目を移しイチゴを使ったチョコレートの詰め合わせとさっきのキャラメルのトリュフの入ったアソートを見つけた。


「それとそれください」


 私は見繕った商品を店員に頼んだ。


「ありがとうございます」


 おしゃれな缶のケースに入ったチョコレートが包まれていくのを私はまじまじと見ていた。今からチョコレートを食べるのが楽しみで仕方ない。


「お客様」


 注文を受けてくれた店員が私を呼んだ。


「もしよろしければこちらはいかがですか?」


 そう言って店員は私にチョコレートのムースの写真を見せた。


「中にイチゴのソースが入っておりまして、数量限定でそちらのカフェスペースでお出しすることができるのですが、いかがでしょう」


 そのチョコレートムースにはイチゴが乗っていて多分、いや絶対に私好みの味であった。


「お客様にはたくさんご購入いただいたので紅茶をサービスでつけさせていただきます。いかがでしょう?」


 私は生唾を飲んだ。食べたい、食べたい。


「いただきます」


 私は己の欲望に負け、店員の提案に応じた。


「かしこまりました。ではお席まで商品をお届けしますのでお好きな席にお座りください」


 店員に手でカフェのスペースを案内されると私はカフェの中に入った。さほど待たずに先ほど買った商品とチョコレートムースは届いた。中のイチゴソースとチョコレートムースを合わせて食べると、食感といい味といい想像以上に私好みで私はもう昨日のチョコレートの味なんてどうでも良くなっていた。


「いかがですか?」


 店員が紅茶を持って私の席まで来た。


「おいしいです」


 私は即答し次の一口を口に運んだ。


「ありがとうございます。こちらも一緒に食べていただくとおいしいですよ。」


 店員はそう言って白いクッキーのようなもの皿に乗せを机の上に置いた。


「これは何ですか?」

「メレンゲと言います」

「小麦は使ってますか?」

「いいえ、こちらは卵白と砂糖を低温で焼いておりますので小麦は使用しておりません」


 私はそう聞くと安心してチョコレートムースとともにそのメレンゲを食べた。至れり尽くせりのこの店はとても居心地がよかった。けれどその割に、店に客は私以外にいなかった。


「この時間は、あまりお客さんが来ないのですか?」


 私は店員に聞いた。すると店員は少し悲しい笑顔を浮かべた。


「いつもこうなんです。最近はネットで買われるお客様が多いですから。私共のインターネットのサイトをご利用になるお客様は多くいらっしゃるのですがお店の方はいつも空いていて。今日お客様が来てくださってとても嬉しくてついサービスしてしまいました」


 今のご時世はそんなものなのか、と私は思った。流行にも疎く、携帯もさほど使わない私は今のこの世の中の風潮が分かっていなかった。でもなぜかこのチョコレートムースは、この店内で食べたほうがおいしいと私は思う。いっそのことさっき買ったチョコレートでさえも今この店内で食べたいと思ってしまうほどここは居心地がよかった。


 その時私の携帯が鳴った。画面を見ると彼氏からの着信だった。そうだ、私は今彼氏とデート中なんだった。すっかり忘れていた。私は急いで電話に出た。


『美和、もうすぐ順番来るぞ』

『うん、今行くね』


 ちょうどチョコレートムースも食べ終わっていた私は電話を切ると伝票を持ってレジへと向かった。


「またいらしてください。いつでもチョコレートとお待ちしております」


 店員はそう言ってこの店の名刺を私に渡した。


「また来ます」


 私は荷物を持つと頭を下げてこの店を出た。彼のいる店を見ると確かに彼の順番は次のところまで迫っていた。私は横断歩道を渡り彼のもとへ行った。私の姿を見るなり彼は紙袋を覗いた。


「こんなに買わなくてよかったのに」

「え?」


 私は彼の言葉の勘違いの甚だしさに思わず聞き返した。


「こんなに食べきれないよ」


 私が食べるんだよ。


 その言葉は私の口からは出なかった。彼が私のチョコレートへ手を伸ばす。私はとっさにそのチョコレートを自分の体に近づけた。私の態度に彼は驚いたらしく眉間にしわを寄せていた。


「持つよ?」

「いい、大丈夫」


 彼は私のいいものは何でも持っていこうとする、いつもそうだ。まるで私を自分の所有物のように扱って、少しも私なんか大切にしてはくれない。


 順番が回り私たちは店内に通された。先ほどとは違いにんにくの匂いが私の鼻腔を通る。気持ちが悪い。私は手で鼻をばれないように塞いだ。彼は上機嫌で店員の案内に従って歩いていく。席についてメニューを渡されるとメニュー表が少し油でべとついているように感じた。


 不愉快、不愉快極まりない。この悪臭は何も輝かしいものを彷彿させない、私にとっては苦行だ。大体、私がいつパスタを食べたいと言った?彼は何故この店に私を連れてきたのだろう。


 ペペロンチーノ、カルボナーラ、ゴルゴンゾーラ。


 嗚呼、帰りたいな、帰ろうかな。


 目の前にある粉チーズも床にぶちまけて、隣に座ってるカップルにオレンジジュースひっかけてパスタの麺を一本一本足で踏みつぶして床掃除大変なぐらい床に麺を擦り付けて、帰ろうかな。


 うん、帰ろう。


 私は荷物を持って席を立った。


「どうしたの? トイレ?」


 私は丁寧に椅子を戻して店の出口へ向かった。


「美羽?」


 そんな彼の言葉を無視して店の扉を開けた。外の空気は排気ガスの匂いが充満していたが、にんにくの匂いよりはだいぶましだった。匂いへの不快感よりも開放感が大きかった。家に帰ったら紅茶を沸かして一緒にチョコレートを食べよう。途中スーパーで大きなステーキ肉を買って何も気にせず家で食べてもいいな。


「美羽らしくないよ?」


 私らしいって一体何?彼の言うことを聞いて生きることのどこが私らしいっていうの?気分が乗らなきゃやめればいいの。


 食べたいものを食べて、少し太ったっていいの。変なことしたって変なこと言ったっていいの。恋も愛もなくたっていいの。心の中に自分しかいないなんて、なんてすがすがしいのだろう。


 何にも固執しなくていい。一人になってもいい。執着も信用もしなくたって生きていける。


 だってチョコレートとあの人は私を待っていてくれる、私の人生を決めるのは私だ。


 自分の女を管理するキャパシティーが小さい貴方は、他でも飼っているアンドロイドでもせいぜい愛していればいいの。


 私の腕を強く引っ張る下世話な手を振りほどき、思い切り私は彼の頬を打つ。


 快晴の空に響き渡る破裂音は、私の心に爽快感を与える。



「さようなら。かねてからの表面上でのお付き合い」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ねぇ。 狐火 @loglog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説