こいのうた 2nd

彼女はいつも遠くを見ている。

その先に俺はきっと指先すら届かない気がした。


−−−−−−−−−−−−


このクラスで彼女は、特に目立つこともなくすっと溶け込んでいて、俺が彼女を目で追うようになるのは入学してから、しばらくたってからだった。


製菓専門調理師学校。約一年で卒業するこの学校にはいろいろな人が通っていた。お菓子作りが好きで、パティシエに純粋に憧れている女の子、大学に入るほどの学力もなくやる気もない、とりあえず専門学校にでも入っとくかという子達、一度社会人になってから転職の為に入ってきた年上の人達。


俺の実家はケーキ屋だった。なので一通りの知識はもう頭に入っているし、実技だって幼い頃から家を手伝っている俺は、他の誰より上手かった。

普通の大学進学しても良かったのだが、将来実家を継ぐと決めていたし、大学で特に学びたいこともなくかった。かといって高校出てすぐに働くのも嫌で、それならばとこの専門学校に入り、働くまで学生としての一年の猶予を得たのだ。


授業は思っていた以上に面白く、そして思っていた以上に退屈だった。

実家で培ったある程度の知識、そしてそこで生まれた何故という疑問点を、理論の授業は解決してくれた。なんとなく感覚で出来てしまっていた作業の明確な理解、当たり前にしていたことの理由を知ることができることは、とても面白く、自分が知らなかった新たな知識を得ることができることも嬉しかった。

0スタートのみんなは大体は、何がわかないかが分かっておらず、ただ、授業についていくので精一杯といったところなので、俺はきっと他の誰よりも楽しんで授業を受けていたんじゃないかと思う。


実習の授業は、それなりの緊張感はあるものの、授業は授業なわけで。料理教室の延長上にしか見えなかった。

それなりに店での経験がある俺は、クラスメイトを見下しているところがあったのだと思う。

それなりにお菓子を愛しているだけに、やる気のないやつを見ると、無性に苛立ったりもした。

それでも大抵は人ごととして見ていた。そういう奴は大抵就職しても辞めていく。そんな人たちを今まで何人も見てきたからだ。


その中で、彼女はクラスのみんなとはどこか違っていた。その事に気付いたのはずいぶんと後だった。学科の教室では彼女は窓側の前から二番目であったし、俺は廊下側の一番後ろで、実習の班も一番遠く離れていて、彼女が目に入ることはほとんどなかったからだ。

でもある時、彼女のグループの実修デシャップの前を通り過ぎようとして、作業している彼女がふと、目に入った。


上手いわけじゃない。どこか不器用で、危なっかしい。

それなのに、どこか俺の目を惹きつける何かがあった。

一部を除けば、大体の人は真剣に取り組んでいる。

その中で、彼女に目を奪われた、その理由はなんだ。

特に目立つわけでもない。

どちらかというと大人しい彼女に。


それから、俺は意識的に目で追うようになった。 

学科で必死にノートをとる彼女を。

休憩中の友達と笑い合う彼女を。

実習でお菓子を作る、彼女を。



そしてある時ふと気がついた。

違うのは、彼女の眸だ。

学生の延長線上でできる眸じゃない。

そこには他とは違う、覚悟、がある。

ただ、好き、楽しい、と言う感情を超えた、覚悟、がその眼には宿んでいる。 

それは、僕が実家の店で長年働いている人達の眼に、親父の眼にとても似ているものだったからだ。


俺はきっと、その眼に共鳴したのだ。


この寄せ集めのようなクラスの中で、初めて仲間に逢えたような気がしたのだ。



それでも、彼女と話すことはほとんどなかった。

軽く挨拶を交わす程度。

1年間だけのクラスとはそんなものだった。


だから彼女の姿を視界の端にとらえては、

ただそれだけで、志を同じとした仲間がいると、少し心強い気持ちになれるような気がした。



教室で、彼女はよく、窓の外を眺めていた。

その横顔は、時折りとても大人びていて、俺はそれを盗み見ては、ふと、胸を突かれる心地になる。

普段は年相応の彼女の眸が、少し哀しそうに、それでいて愛おしそうに細められて、それはどうしてか、俺の心を動揺させた。


眸を細めたその先には、何が映っているのか。


挨拶以外交わしたことがない俺には、知り得ないことだった。





ある日の放課後。


休んだ分の補講を受けた後、開放されている屋上のベンチで一人、自販機のコーヒーを飲みながら、ぼんやりと空を眺めていた。

 

秋は少し、苦手だ。

夏が終わり、だんだん涼しくなってきて、少しずつ冬に向かってゆく。

弾けるような明るい夏が終わる、というのは少し切ない。というか、夏休み、という一年のうち、特にワクワクする時期が終わるということが、そこから暗く寒い時期に入っていく、ということが、どことなく俺の気持ちを切なくさせた。


もうすぐ陽が沈むだろう。

バイトもない。友達は先に帰った。

近くでは数人の生徒がタバコを吸って談笑している。

タバコの煙が、風にのってこちらにやってくる。


2年前に俺はタバコを辞めた。

親父に反抗して吸っていた中学、高校時代。


親父は厳しかった。

家に帰ると強制的に仕込みの手伝いをさせられる。

段取り、タイミング、素材の扱い方全てにおいて事細かに俺に教え込んだ。

親父は子供の俺にも容赦がなく、面倒くさがって手を抜くと、思い切り殴られる。

この今の時代に暴力を振るうなんて、クソ親父め、と、全てに嫌気が差して、家に帰らず友達の家を転々とし、遊びまわって隠れてタバコを吸った。

その毎日はそれなりに楽しかったが、どこか何かが足りない。発散しきれない、胸の内に巣食うもやが取れない。それが何かは本当はもう分かっていたが、分からないフリをして、逃げ回るように遊びまわった。 

そして、高2の夏に親父が倒れたと母から連絡が来た。

脳卒中だった。

幸い軽症で済んだのだが、少し呂律が回らなくなり、手がうまく動かないことも増えたのだという。

それでも退院して厨房に立ち続ける親父の様子を、後ろ姿を外からこっそりと見ていた。


逃げ続ける俺と、立ち続ける親父。


俺は今、何をやっているのだろう。


くだらない喧嘩。女に、音楽に、酒の味。

燻るタバコの苦さ。

胸に巣食う消えない苛立ち。


ぎり、と歯に力が入る。握り締めた拳に爪が深く食い込んでゆく。


俺は何をしているのだろうか。



それから俺は決意したように、久しぶりの実家に足を踏み入れた。



コックコートを着て厨房に入る。


こちらを振り返った親父は、そんな俺をみた瞬間に、つかつかと歩み寄り、俺の胸ぐらを掴んでは思い切り一発頬を殴った。


目が、覚める思いがした。グワンと頭が揺さぶられ、目の前がチカチカとする。

病気になって、力が入らないはずの親父の拳は、今まで殴られたどれよりも、重く、痛い衝をもって、俺の頬にぶつけられた。

それでも。そのまま親父を睨みつける。

もう俺は逃げない。


しばらく睨み合って、ふいと、親父は踵を返し、何も言わず、いつも通り仕込み始め、何もなかったように俺に作業の指示をした。


その日から俺はタバコを辞めたのだ。

それ以来、一本も吸ってはいない。


たった一つ、気付いたことは、俺はお菓子作りが、好きだということだった。


この道でやっていく。

ただそれだけを、その覚悟を決めたのだ。


それから一度も親父に殴られることはなかった。

母が言うには、俺の眼が変わったからだそうだ。


 


空の色が変わる。

タバコの香りもいつの間にか消えていて、紙コップの中身も残すところ後一口。


彼女のあの眸を思い出す。

彼女は、何を見ているのだろう。

彼女は、何を見てきたのだろうか。


最後の一口を口に含み、コーヒーの苦さが口に広がる。

そろそろ帰るかと立ち上がり、振り返れば、いつの間にいたのだろうか、俺が座っていたベンチの反対側に、さっき頭に思い浮かべた彼女がいた。

網フェンスの向こう側、陽の落ちる方角と反対側をじっと見つめる彼女がいた。それはいつも彼女が教室から眺める方角と同じだった。


陽が沈んでゆく。

それは、赤く、橙に、そして夜との境目を紫に染めて、この世界を彩ってゆく。

その中に佇む彼女の横顔が、この黄昏時の色彩に優しく彩られて、彼女の切なさを一層増すようだった。

彼女はいつも遠くを見ている。

友達と笑っている時も、授業を受けている時も。

ここではない、何か、を見ている。

それは、ここではない遠い誰か、遠いどこか、であり、そして、今、ここではない、遠い未来、を彼女はきっと見ている。

むしろ、そこだけを見て生きている。

そんな風に見えるのだ。

そのことが、少し哀しい、そう思う。


と、そこまで思い、気づき始めた、胸のうちにじわりと広がる感情に目を伏せた。


そして顔を上げ、彼女に歩み寄る。

お疲れ、と声をかければ、びくりと肩が揺れ、はっとした様子でこちらに振り返って、恥ずかしそうに笑った。

あぁ、と僕は確信する。この気持ちはきっと嘘じゃない。と。


お疲れ様、びっくりした、気付かなかったよ、補講後?と当たり障りない会話を彼女のその小さな口が紡いでゆく。

そう、補講。そっちは?、と俺も当たり障りなく返してゆく。

拙く続く、たわいもない会話。

俺に向かって、彼女の唇が言葉を紡ぐ、それが、どうしようもなく嬉しい。


こうやって話すのも初めてだね、同じクラスなのに話す機会あんまりないもんね、と彼女は小さく笑った。

俺はずっと話したかった。俺は君と話したかった。 

そう、声にならない言葉が暮れてゆく紅に溶けて消えてゆく。


そのかわり、俺は尋ねた。


夢はある?


なんて不躾で、なんてありきたりな質問だろうかと思ったが、滑り落ちるように口にしていた。



彼女はあまり話したこともない俺にそんなことを聞かれるとは思ってなかったというように、びっくりした様子で、あ…と一拍の間を置き、それから俺をじっと見て、少し微笑んで目を伏せた。

そしてフェンスの向こう、遠くを眺める。


…大切な人が、甘いものが好きで。


そう、ポロリと溢れるように言葉を紡ぐ。

ぎり、と胸が疼く音がする。


たまに、作ってたんだけどね、

あまりにも喜ぶものだから、嬉しくなっちゃって。

作り続けてるうちに、そのまま夢になっちゃった。

ただ、それだけなの。


そう、気恥ずかしそうに話す彼女は、 

こちらを見て、ふわりと笑った。

その笑顔が僕には何故か泣いているように見えた。


そしてもう一度、彼女はフェンスの向こう側へ目を向けた。


その横顔には、愛おしげで、切なげで、そして、どこか、諦めのようなものが滲んでいて。

諦めの先にあるものを、彼女は見ているような、そんなふうに見えた。


そうなんだ、とさりげに返したつもりの俺の声は、きっと少し掠れていただろう。


大切な人がいる、と言った彼女に、胸の内にある感情がずきりと、痛む。

それでいて諦めたように、泣いているように笑う彼女に、胸が締め付けられる。


どうして。

どうして、そんな愛おしげに話す癖に、

どうしてそんなに哀しそうなんだ。


やるせない感情が全身を駆け巡り、行き場を失って、俺の中の何かが押しつぶされそうだった。


それでも、遠くを見つめる彼女は、とても綺麗で。 どんな時も前を向き続ける彼女は、とても、とても綺麗で。

彼女はきっとその視線の先にいる、大切な人を、とても、とても愛しているのだと。



何かを覚悟したようなその横顔は、否応なく俺の心を打った。

そして思い知る。

始まったと同時に叶わないと知ったこの気持ちは、きっと彼女には届かないだろう。

遠くを見つめる彼女の視線の先に、俺は指先すら触れることが出来ない気がした。


それでも。

始まったばかりのこの気持ちが、今はまだ終わることはないだろう。


陽がもう隠れようとしている。

藍色が私達の世界を覆いつくす。


君が誰を好きでもいい。

本音を言うと、君がその顔を向けるのが、俺であってくれたらと。君が喜ぶのも、傷つくのも、僕の為であってくれたらと。そんな小さな希望はあるけれども。

俺は、俺の知らない誰かを想う、君に恋をしたんだから。そんな君が愛おしく思ったのだから。


だから、今はまだこの胸の温度は下がらないだろう。

願わくば、君が、そんな風に、哀しげに笑うことがなくなりますようにと。陽の沈んだ空に祈る。


そろそろ帰ろうかなと声をかけると、

そうだね、私も帰ろ、と彼女は手に持っていた紙パックのジュースを飲み干して、俺と並んで歩き出した。


こんな時間が、こうやって彼女と肩を並べることができる時間が、これから少しでもあるといい。 


そう願って、俺は、彼女と共に夜空にひとつ瞬く星が見え始めた屋上を後にした。






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こいのうた 7188 雨音あゆり @Chibiayu1203

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