こいのうた 7188

雨音あゆり

こいのうた 1st

私のこの恋は叶わない。

小さな小さな光のような、私の恋心にはきっと貴方は気づかない。

けれど、そんなあなたが、そんなあなただからこそ、好きなのだから。きっと今の私にはあなた以上はいないでしょう。





寒さは今週末がピークだと天気予報は言う。

空気に直接触れている顔が冷たくじん、と痛い。吐く息は白く夜空に吸い込まれていく。


空を見上げると真冬の夜の鈍い黒さがどこまでも広がり、いつまでも明るいこの街では星さえも見つけられない。

その中でひとつだけ、頼りなく、でもきらりと確かに輝く星をひとつ見つけて、おにぃみたいだと、楓はほおを緩ませた。


この冷たく、不平等で、グレーで曖昧な世界で、たった1人、幼い楓の手を引いて、ここまで連れて来てくれた。

この世界の、理不尽で苦しくてやり切れないたくさんのことから、私を守ってくれた。

寂しくて、さみしくて、どうしようもなく泣き出してしまった私を、いつまでもその温かい手でギュッと抱きしめあやしてくれた。

頼りない笑顔で、途方もない優しさで、いつも私のそばにいてくれた。


たった一つの、

たった一つの、私の輝く星。

血の繋がらない私の兄。



楓は団栗の橋の桟にもたれ、もういちど空を見上げた。

今頃おにぃは、彼女と仲良く過ごしているだろうか。

冷たい風が通り過ぎる。

楓はぐるぐる首に巻いた大判のストールに顔を埋め、女子高生にしては無骨な真っ黒いダウンにくるんだ身を縮こませた。

寒い、けど暖かい。

このコートは何度もねだり、頼み込んで貰ったおにぃのコートだ。もっと可愛い、今っぽい、女子高生っぽいのを、買ってあげるのに、とおにぃは呆れたように言っていた。でも楓はこれがいいと言って聞かなかった。

かつて、これを着て手を引いてくれたおにぃの後ろ姿が、楓はとても、とても好きだったから。

この大判のストールもこの前の誕生日におにぃが買ってくれた。

あたたかい、そう思い、楓は夜空に長く白い息を吐いた。


社会人になったばかりのおにぃが孤児となった10歳の私を引き取って、一人でここまで育てるのは、どれだけ大変だったことだろう。泣き言ひとつ、弱音ひとつ吐かなかった。


夜は必ず家に帰ってきて、私と一緒にご飯を食べた。どれだけ夜遅くなっても、私はご飯を作っておにぃを待った。

今日あったことを話し、食後はアイスやお菓子を食べながら、コタツに潜って一緒にドラマや映画をみた。時には笑い、時には二人で涙して。感想を言い合って、結末を毎日楽しみにして、明日またこの時間を迎える。そんな愛しい幸せな日々だった。


おにぃには、きっと今まで何人か彼女がいたんだろうと、楓は思っている。たまにおにぃから女物の香水が香っていたのを楓は知っていたからだ。

それでもおにぃが夜ちゃんと帰って来ないことはほとんどなかった。必ず帰ってきて、楓と一緒にご飯を食べた。

楓がいるせいできっと満足に恋愛すらできないのだろうと申し訳なく思う反面、おにぃを独り占めできることに、少しほっとすらしていた。


きっと、楓は、あの暖かい手に、手を引かれて歩き始めたあの頃から、ずっとおにぃが好きだった。その恋心は、今降り始めたこの小さな雪の結晶のように透明で澄んで、楓の心に少しずつ、少しずつ降り積もっていった。


けれども。

楓はそっと目を閉じた。

きっとこの恋は口にすることはなく、伝わることもなく、叶うことはないだろう。

予感めいた、確かな未来を、胸にしまう。


最近、長らく彼女がいなかったであろうおにぃに、大切な女(ひと)ができた。おにぃから直接聞いてはいないけれど、女の感というやつで、この直感は正しいと楓は踏んでいる。

例年、バレンタインにおにぃは働いている会社の女性社員一同から、バレンタイン戦線で売られているその時々のチョコをいくつか貰ってくるのだが、今年は少し違った。

その中でひとつチーズケーキを持って帰ってきた。チョコレートじゃない、チーズケーキ。

仲のいい同僚が作ったそうだ。楓は実はチョコレートが好きじゃない。楓が一番好きなのはチーズケーキで、そのことはおにぃと楓の一番の親友のゆみしか知り得ない。その手作りの可愛い包みを見ていて、なんとなく気付いてしまった。このケーキをくれた人の想いを。私を気にしてくれる、少しの気遣いが、ともすればあざといように思えてしまうようなチョイスだが、そんなことは微塵も感じさせず、いくつかのチョコレートの包みの中で、それはひときわ優しい色彩を放ち、ふんわり光っていた。

それから、ちらりとメールに目をやるおにぃの優しい眼差し、ときどき電話に出る優しい声音。きっと彼女だと、どうしてか楓は思った。あのチーズケーキをくれた女(ひと)。

何かの兆しが小さく光った気がした。

きっと今回はおにぃにとって大きく、大切な、そして長くなるであろう出逢いだ。

楓の感がそういっている。あのチーズケーキから薫った香りと、おにぃが放つ香りがそういっている。

楓は分かってしまうのだ。

だって楓はおにぃをずっと見てきた。

おにぃだけをずっと、ずっとみてきたのだ。


それでも。ちくりと痛む胸に気づかないフリはもうしない。この痛みも全ておにぃを愛したわたしのものだ。


おにぃは楓にとって、兄であり、父であり、初恋の人だ。

おにぃ、と楓が呼びかけた時、ん、とこちらに振り向くあの柔らかな微笑み。過保護気味なおにぃが鬱陶しくて、ぞんざいに接した時の拗ねた顔。言いつけを破って、迷子になり、警察沙汰になりかけた時の初めておにぃが怒ったあの日。心配でどうになりそうだったと、ひとつ涙して抱きしめられた、そのあたたかさ。そして手を繋ぎ帰った夕焼けの美しい紅。おにぃが好きだと気付いた時の湧き上がる恋慕と、苦い胸の痛み。



一度だけ、たった一瞬だけ、おとこ、のおにぃを楓は見たことがある。

一年ほど前、珍しく酔っ払って帰ってきたおにぃが、ソファーで倒れ込むように横になって眠っていた。

楓がそっと毛布を掛けると、おにぃがぼんやりと目を覚ました。かえで、と舌足らずにつぶやく。普段見ない、そんなおにぃになんだか微笑ましくなって、ん、お水持ってくるから待ってて、と踵を返した瞬間、おにぃが楓の片腕を強く引っ張り、楓を抱きすくめた。

ねぇ、どうしたのおにぃ、そう言い、おにぃの顔を覗き込むと、そこには熱情の孕んだおにぃの眸が楓を見ていた。お酒の力ででトロリとした眸に、確かな熱を持って楓を見ていた。

強く握った楓の腕におにぃがひとつ、ふたつ、口付けを落とす。それはとても、とても熱い口付けだった。息が詰まりそうだった。おとこ、のおにぃを初めて目の当たりにした。楓は少し怖くなって、でも心がぎゅっと熱くなって。それで楓は逃げなかった。経験したことのない予想外の出来事への怖さは、うまれてくる喜びの感情に勝つことはなかった。

熱をもって楓を見るその目に背筋が震えた。そして楓の降り積もった恋心に楓自身がようやく気づいたのだ。


あぁ、わたしはおにぃを愛している。



楓はおにぃに問うた。

わたしのことをどう思っているかを。

その瞬間熱っぽい口付けが離れ、寝ぼけながらもふと我に帰ったらしいおにぃがふにゃりと顔を緩ませて、兄の顔でいったのだ。

ぼくの世界で一番大事で大切な、妹だよ、と。

そしてそのまますぅすぅと寝てしまった。


翌朝起きてきたおにぃは、何にも覚えていなかった。なんだか楓の夢を見たような気がする、とけろりと話し、二日酔いで痛む頭を抱えていた。

きっと本当に覚えていないだろう。覚えていたら嘘のつけない不器用なおにぃはしどろもどろで、気まずそうに楓にそれとなく昨日のことを聞いてくるはずだから。

それ以降も兄としての態度を崩すことは一度もなかった。

街ゆくカップルを見て、楓がお嫁に行ったらきっと泣いちゃうだろうなぁと、本気で寂しそうに、兄の顔で呟いていた。


あの夜のおにぃは、おにぃの心の奥に密かに持っている、真実だったのか。ただの一瞬の、お酒が惑わした男の性であったのか。

楓にはわからない。


あの熱情のこもった眸はもしかしたら楓が密かにずっと望んでいたものかもしれなかった。胸がぎゅっと熱く苦しくなり、微かな期待に胸が高鳴った。

けれどあの時、

大切な妹だといった、あのおにぃの幸せそうな顔を楓は一生忘れないだろう。きらりと光る宝物を楓はもらった気がした。もっと暖かい大きいものが楓を暖めて、楓を満たしていった。その時に楓の心は決まったのだ。

愛しい、大好きな私の、たった一人のおにぃ。


わたしのこの恋は叶わない。

口に出すことも、伝わることもない。

そして、終わることも、ない。

ただ小さいちいさい光のような、わたしの恋心には、貴方はきっと気づかない。

けれどもそんな貴方がわたしはすきなのだから。




今日はおにぃの誕生日だ。

楓は昨日おにぃの誕生日を祝った。

おにぃの好物の目玉焼きのせハンバーグを作って。

プレゼントも暖かそうなグレーの手袋を渡した。ありがとう、大事にすると、優しい瞳を細め、ますます優しい顔をして、楓の頭をくしゃりと撫でた。これちょうど欲しかったんだよ、よく分かったねと笑うおにぃに、あたりまえだよと楓は心の中で独りごちた。

そう、知っている。

おにぃが何が好きで、どんな物に興味があるのか。

おにぃの頼りなさそうでいて、実はとてもしっかりしているところも。朝がとても弱くていつも目覚ましを細かく刻んでも、なかなか起きれないことも。子供みたいな猫舌で熱い物がなかなか食べられないことも。甘いものが大好きで、楓が作ったお菓子を大袈裟に喜んで食べてくれるその笑顔も。困った時に後ろ髪をかく癖も。


けれど知らない。


これから彼女に見せるであろう彼女のためだけのおとこのおにぃを。

やきもちを焼き、彼女のために微笑んで、彼女のために傷付くおにぃを。


おにぃには、今日楓は友達の家に呼ばれていると言っていた。

毎年2人で誕生日を当日には欠かさず祝っていたのに。おにぃは少し寂しそうに、けれども分かったと、気を付けて行っておいでといつものように頼りなく微笑んだ。


だって、おにぃが部屋で小声で電話しているのを聞いてしまったから。その日は毎年楓と過ごすんだ、ごめんねと、申し訳なさそうに、それでもきっぱりと電話の向こうに断るのを。


あたりまえに楓を優先してくれた、そのことに、楓はなんかもうそれだけで十分だった。




1人暇をつぶす夜の橋の上。

一年のうちで今が一番寒いであろう、そんな寒空の下、楓はもう一度空を見上げた。

寒い、けど暖かい。楓はおにぃと出逢って、いつもずっと暖かかった。


彼女には弱音を、吐けているのだろうか。

そうであると、いい。

見たことはないけれど、きっと素敵な女だろう。

そうであるといいと思う。


楓はおにぃのたった1人の妹だ。

どれだけ喧嘩をしても、遠く離れても、ずっと、一生縁の切れることのない、家族、だ。

もし、おにぃが今の彼女と結婚したとしても、それは変わらない。もし別れたとしても、楓はずっとおにぃの妹で、いつでも側にいてやれる。

もしおにぃが犯罪者になったとしても、楓だけはおにぃの味方になってやれる。

かけがえのないただ1人の楓の家族。

それ以上は、ないじゃないか。


一粒の涙が、目尻からすっと流れ落ちる。

楓はそれをぬぐいもせず、大きく息を吸い込んみ、夜空に向かって長く白い息を吐いた。




そろそろ帰ろう。楓はケータイの時間を確認した。きっとそんなに遅くないうちにおにぃは帰ってくる。楓があまり遅くなるとそのうちおにぃはオロオロしだし、沢山のメールと電話がかかってくるだろうことは目に見えている。そして挙句には一緒にいると嘘をついたゆみの家に電話をかけるかもしれない。今日はゆみの家族は外食なのだ。そうなったらとてもまずい。



帰ったら。


そう帰ったら、そんなおにぃにマグカップいっぱいのカフェオレを入れて、昨日の残ったケーキを2人で食べよう。



それがわたしの全てだから。



わたしは幸せとは何かを知っているのだ。

そしてわたしはそれを一生、追い続けるのだから。



楓は手に持っていた進路希望の紙を鞄にしまう。

東京の専門学校へ進学したいと伝えれば、おにぃはなんて言うだろうか。でも答えはなんとなく知っている気がした。


さようなら、おにぃ。

しばらく貴方の元を離れるよ。それまではいつものように側にいさせて。


わたしのこの恋はきっと叶わない。

口に出すことも、伝えることも、届くこともない。そしてずっと終わることもない。

欲を言えばきりがないから、望みは言わない。

けれど、

きっと今のわたしには貴方以上はいないでしょう。


「愛してる。」


呟く楓の声は夜の寒空の向こうへ消えていく。

空にはたったひとつ、頼りなく浮かぶ星がキラリと光った気がした。






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