第2話・病に春は倒れ
ゲルト老の家は、一人で住むには大きすぎる邸宅だった。部屋のあちこちに飾られている銀製の食器や装飾品が、ろうそくの光にちらちらと煌めいている。燭台も銀製らしく、高い場所にあるものは手入れが行き届いていないのか、黒くくすんでしまっていた。
「昔はね、家族も大勢いたんだよ。昔と言っても私が君たちほどの歳だった頃だから、本当にずうっと昔だね。父と母、兄が二人に妹が一人、弟が一人。弟はまだ乳飲み子だった。にぎやかだったよ、実ににぎやかで、楽しかった」
老人は奥の部屋へ一行を通した。目を覚ましたばかりの白銀の女性ハーヴは、足元がおぼつかなかったため零夜におぶわれたままだ。奥の部屋は女性ものの調度品が揃えられており、かえって生活感がないほど完璧に掃除されている。「母と妹の部屋だよ」とゲルトは言う。天蓋つきの大きなベッドにハーヴを降ろし、零夜はふうと一息ついた。ハーヴはまだ夢うつつのようなとろりとした目で部屋を見回している。
「懐かしいわ……」
それは零夜たちに向けられた言葉というより、彼女の独り言だった。
「懐かしいって? ハーヴさんとゲルトさんは、お知り合いなんですか?」
ティエラの問いに、ゲルトはただ微笑んだ。「温かいお茶でもいかがかな」と、返事を待つこともなく老人は暖炉に火をくべ始める。それは要するに話が長くなるということであり、お茶を飲みながらゆっくり話を聞いてほしいということだった。
三人とも、特に異論はない。眠ったままの白銀姫は目を覚ましたのだし、今夜の宿も確保できたのだし。
煉瓦囲いの暖炉に火が灯る。この街の煉瓦は特徴的な錆色をしている。そのため炎の橙に照らされても暖かな印象はせず、むしろ寒々しさがいっそう際立って見えた。とにかくどこもかしこも、冬という概念を凝り固めたような街だなと、零夜は炎に手のひらを暖めながら思う。
ゲルトからマグカップを受け取り、尖らせた唇の先をつける。熱くてまだ飲めそうにない。
「六十年ほど前だったろうかね、この街は一年中良い気候でね。薔薇の花が名産だったんだよ。薔薇、知っているかな。とても香りの良い花で、見た目もそれは美しい……」
「この街が?」
懐疑に満ちた声を上げたのはキヤだった。キヤは熱さも気にせず、もうお茶を三口ほど飲んでいる。キヤの疑問も当然だと思ったのだろう。ゲルトは微笑みながら何度か頷いた。
「そう、花も果物も年中採れる、豊かな土地だった……六十年前はね」
老人は語る。六十年前、この美しい街を災厄が襲った。災厄はまず兆しとして、紅色の薔薇の花びらの、その裾にあらわれた。
花びらは腐ったような茶色に変色し、しかし萎びて乾いてしまうでもなく、ぼたぼたと腐汁を垂れ落とした。薔薇を栽培していたいくつかの家では、薔薇が腐りきってしまう前にと、いつもより早く薔薇を摘み取った。そのため収入が減ってしまうことを皆案じていたが、そんなことなど序の口であることを知ったのは、その茶色い腐りが人間にまで及んでからだった。
手足の指先から茶色く変色し、外見はそのままに、たった七日で身体の内側が腐り溶ける。腹部は大きく腫れ、身体中の穴という穴から腐液を垂れ流す醜悪な病は、街の人々が危機感を覚える間もなく恐ろしい速さで街を覆った。
その年ゲルトは十六になり、婚姻を翌年に控えていた。しかし当然、結婚の話など立ち消えとなる。ゲルトの母親と兄は病に倒れ、結婚して街の外へ出ていたもう一人の兄も、母親の様子を見に来たおりに病をもらい腐って死んだ。
一番下の弟はおかしな死に方をした。恐らく母親が病に侵されたとき、母乳に腐液が混じっていたのを飲んだのだろう。ある夜突然悲鳴のような泣き声をあげ、一晩中痙攣したすえに動かなくなった。幼い柔肌は炭のように真っ黒くなっており、見開かれた眼球だけが異様に白く浮き立っていた。
残されたゲルトと妹を連れ、父親は街を脱出しようと試みた。しかし街でも有数の富豪であった父親は、街を逃れる財力があることを妬まれたのだろう。夜道で襲われ殴打されたうえ、腐った薔薇の咲く薔薇園に生きながらにして埋められた。
そうなればもう、残されたゲルトと妹を庇護するものはなにもない。ゲルトは父親の銀細工の技術を受け継いでいたが、死の病に脅かされる日々に銀細工を求めるものもなく、広い屋敷の中で古いパンを細々と食べながら、ゲルトと妹はなんとか生きながらえていた。その妹の指先に腐食の兆候が現れた翌日、十二の年頃であった妹は水路に身を投げた。ゲルトは一人ぼっちになった。
それでもまだ、ゲルトの身を案じる者はあった。彼の婚約者である。彼女は街外れにある丘の上で、他の街との交易を主として財をなした家の一人娘だった。たった数ヶ月のうちに家族を皆亡くし、抜け殻のようになったゲルトのそばに、彼女は寄り添い続けた。
この街は薔薇と共に滅ぶのかも知れない。誰もがそう思い始めたとき、一人の男が街を訪れた。彼は医者であり、学者であり、旅人だった。遠く隣の街で腐り病の惨状を耳に挟み、解決策を持ってきたのだと言う。そんな話を信じる者は一人としていなかったが、結果として、その医者は真実を語っていた。
『この病は寒さに弱い。私は冬を持ってきた。この冬を供物と共に地面に埋めなさい。そうすればこの地は冬に覆われるが、病は二度と起こらない』
「冬を持ってきたって?」
ゲルトの話に黙って耳を傾けていたティエラが口を挟む。話に聞き入り過ぎてお茶を飲むのを忘れており、マグカップの中身はすっかり冷めてしまっている。ゲルトがおかわりを促すと、ティエラは慌てて冷めたお茶を一気に飲んで、マグカップを差し出した。
「今になって考えると、彼はミトラ売りだったのだろうね。強い力を持ったミトラを売り歩く、そういう職の者もいると聞く。
覚えているのは……そうだな、美しい人だったよ。男性だったけれどね、美しく……神様の遣いだったんじゃないかと噂されたのも、おかしくはないほどにね」
熱いお茶で再び満たされたマグカップをティエラに渡し、ゲルトは話の続きを語る。
旅の男が持ってきた「冬」は人間の赤ん坊ほどの大きさをしている、甲虫の幼体に似た醜く愚鈍なミトラだった。それを供物と共に埋めれば、病は収束する。簡単な話だったが、問題はその供物だった。旅の男は、ミトラが寂しがるといけないと言う。
この地に冬を根付かせるには、冬のミトラが地中に留まらなければならない。寂しいと、ミトラは人の声を求めて地上に這い出してしまう。そうなれば冬は掻き消え、また街は腐り病に蹂躙されることとなる。共に地に埋まり寄り添ってくれる人間さえいれば、ミトラは地中に留まり続ける。
意外にも、話の真偽に関して疑問を抱く者は多くはいなかった。この悪夢のような病が消えてなくなるのならばと、藁にもすがる思いで信じたせいもある。しかしそれ以上に、あまりに死に慣らされすぎたために、今さらたった一人の死に頓着するような繊細さを失ってしまったせいが大きかった。
とにかく、供物となる人間と共に冬のミトラを埋め、土地を冬で覆い尽くすことに反対するものはいなかった。供物となる条件に難しいものはない。強制ではなく自ら埋まる意思のあることと、病に侵されていない清浄な身体であることだけだ。
「私、供物になるわ」
人の気配の消えた屋敷でそう言った、銀の燭台を手に持った彼女の白銀の髪は、闇の中に幻のように揺らめいていた。ゲルトは縋るような目で自分の婚約者を見る。彼女の髪、頬、首すじ。柔らかな肌に触れようとして、寸前で躊躇する。ゲルトの指先は茶色く変色していた。その指で触れることは、純潔の白銀へ対する冒涜のように思えた。しかし彼女はその手を取り、すべらかな頬にそっと触れさせる。
「きみのいない世界に、俺を生かすというのか」
絶望に首を絞められているように、やっとのことで絞り出した声はひどく震えていた。
「私のいない世界だとしても。どうか、生きて」
それは死刑宣告に等しい、あるいはそれ以上に残酷な宣言だった。
もし病が街を襲っていなかったならば、その日はゲルトと彼女との結婚式を挙げるはずの日だった。
よく晴れて、空は抜けるように青い。純白のドレスに身を包み、美しい銀の装飾品に飾られた婚約者の姿――冬のミトラをその腕に抱く彼女は、まるで赤子を慈しむ聖母のようだった。冬のミトラは白くひび割れた皮膚を蠢かせながら、ギイギイと気味の悪い声を立てる。彼女はそれを見下ろして、なぜだか微笑んでいた。
大地に掘られた細長い穴は、まさしく棺桶だった。ミトラを抱いたまま仰向けに横たわり、彼女は穴の中で目を閉じた。白いドレスの上に土が被せられる。どさり、どさりと無造作に投ぜられる土の塊から身を守ろうと、ミトラは糸を吐き繭を作る。土はなおも被せられる。土と糸とに阻まれて彼女の姿が見えなくなるまで、ゲルトは瞬きすらできなかった。
最後に彼女の顔を隠したのは、土だったかそれとも糸だったか――思い出せないが、その顔がひどく安らかだったことだけは、はっきりと覚えている。
彼女はミトラと共に冷たい地面の下に埋められ、街には永い冬が訪れた。旅人の言う通り、病は嘘のように姿を消した。ゲルトの指先に現れた死の兆候も、ひと月もすれば治ってしまった。
街からは春が失われ、ただしんしんと雪が降り積もる。屋敷の屋根も、広い庭も、父の埋まる薔薇園も、妹の沈んだ水路も、彼女と穏やかな時を過ごした丘も――雪は全てを見境なく、厚く厚く無垢の下へと覆い隠していった。
ゲルトが語り終えると、部屋には沈黙が満ちた。雪の下に眠るこの街の残酷な歴史に、零夜も誰も言葉を失っていた。暖炉の炎が音を立てて弾ける。
「私は……きみのいない世界を生きた」
ゲルトの瞳は、真っ直ぐにハーヴを捉えている。ハーヴは声もなく涙を流していた。その涙を見て、零夜は確信する。ゲルトの話に出てきた彼の婚約者、供物として地に埋められた女性が一体誰だったのかを。
「そしたら、じゃあ、ハーヴさんは……」
同じことを察したらしいティエラは、改めてベッドの端に座るハーヴを見て絶句する。ハーヴはどう見ても十代そこそこの少女であり、とても六十年前に生きた人間とは思えない。頬にも指先にもしっかりと血色が通っており、死人とも思い難い。
「六十年……」
ハーヴが呟いた。その言葉の意味を噛みしめるように、ゆっくりと、はっきりと呟いた。
「六十年を、生きたのね。ゲルト。あなたは年を取ったわ。私は……」
彼女は戸惑うように首を振り目を伏せた。銀色の長いまつげが、頬に影を落とす。
「ハーヴ、きみは六十年、いったいどうしていたんだ? なぜ今、なぜあの時と変わらぬ姿で現れた? 話してくれないか」
ゲルトに促され、ハーヴはしばし目を閉じたまま考え込んでいたが、やがて薄いまぶたを開いた。暖炉の火が銀色の瞳に映り込み、星のように弾ける。
「私は、ずっと夢を見ていたわ」
何かを求めるように両手を伸ばし、彼女の指は空を掴む。
「夢を見ていたの。ずっと、あの子と一緒に……」
宝石のような両眼から、また大粒の涙が溢れた。
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