第3話・母子の見る夢
苦しい、怖い、死にたくない。
最後にはっきりと思考したのは、そのようなことだったと記憶している。街を、婚約者の命を救うために我が身を捧げたことに後悔はなかった。しかし理性とは乖離した、いわゆる生き物としての本能の部分では、ハーヴはまだ生きたがっていた。
土の重みと冷たさとを感じながら、ハーヴは腕の中のミトラを強く抱きしめた。ミトラはシュウシュウと奇妙な音を出している。目を閉じていたために何をしているのか具体的には分からなかったが、シュウシュウは心地良い子守唄のように、いつまでも鳴り響いていた。
……そして、一体どうなったのだろう。
ハーヴの意識は真冬の星のようにちらちらと明滅していた。昏睡と覚醒とを繰り返し、その間にいくつか夢を見た。それは遠い昔、彼女が幼かった頃に家族と出掛けた楽しい思い出であったり、恋人と睦んだ甘い思い出であったりした。
断片的ではあるが親しみ深い光景の中に、しかし見覚えのない人影を見付けるようになったのはいつ頃だっただろう。その時すでにハーヴからは時間の感覚というものは失われており、ただ「初めは居なかったはずなのに」という違和感のみをその人影に覚えた。
それは女の子だった。背格好からして、まだ幼児という方が正しいかもしれない。顔かたちははっきりとしない。ただ、確かに女の子だった。
彼女はいつも少し離れた場所から、ハーヴの夢を眺めていた。家族団欒の食事の夢であれば、部屋の隅に寄せた椅子に座って。恋人と薔薇を摘んだ日の夢であれば、薔薇の花かげに佇んで。記憶の夢を邪魔するでもなく、何か介入してくるでもなく、ただ、そこにいた。
ハーヴはいつしか、彼女と話したいと思うようになった。幸福な夢の繰り返しは苦痛ではなかったものの、どこか虚しいものがあった。彼女と少しでも会話ができれば、きっと虚しさから救われるような気がした。
「こんにちは、あなたは誰?」
低木の影に隠れる女の子に話しかける。女の子は返事をしない。
今見ている夢は、春の麗らかな日に薔薇園の隅でおとぎ話の本を読んだ日の記憶だ。太陽は暖かく、少し暑いほどだった。ハーヴは父親に貰った童話の本と砂糖菓子を抱えて、薔薇の木の下へ寝転がっていた。草の香りが鼻をくすぐる。
女の子が何も話さないので、ハーヴは一人で喋ることにした。好きな薔薇の種類だったり、読んでいる本の内容だったりを、とりとめなく話した。
「お父様はね、行商から帰ると必ずお土産をくださったの。服だったり、お人形だったりしたこともあったけど、たいていは本だったわ。お父様は私に、たくさん本を読んで、色んなことを感じてほしかったのね」
低木の向こうで、女の子が頷いたのが分かった。ハーヴの話をよく聞いているようだ。気分が良くなったハーヴは、更に舌を滑らかに話し続ける。
「私、この砂糖菓子が大好きだったわ。お花の形をしているの。あなたも一粒、どう?」
女の子に差し出しても、彼女はハーヴの方を向こうとはしなかった。ハーヴは細眉をシュンと下げて、行き場のなくなった砂糖菓子を自分の口へと運ぶ。夢の輪郭は次第にぼやけ、ハーヴはまた眠りのときが来たことを知る。
「わたし、しっているわ……」
夢と夢の間の長いまどろみに意識を囚われながら、ハーヴはぼんやりと呟いた。
「あなた、ミトラだわ……わたしと一緒に埋まった、冬のミトラ……そうでしょう」
女の子はやはり無言のままだったが、木陰の向こうから細い手を伸ばしてハーヴの頬に触れた。小さな手は信じられないほどに冷たく、ハーヴは自分の考えは正しいのだと確信する。決して人の姿にだけは擬態できないミトラだが、
「ねえ、たくさんお話しましょう。ずっとふたりで、地面の下なんだもの。お話していれば……きっと、さみしく……ないわ」
ハーヴの手を握ったまま、女の子はギイイと鳴いた。
次に意識が覚醒したとき、ハーヴは夜の夢の中にいた。これはどういった記憶だったか思い出そうとする。空気は冷たく、辺りは草一本生えていない荒れた岩山だ。頭上には月はなく、代わりにまばゆい砂子のような星空がどこまでも広がっている。いくら記憶の糸をたぐっても、そのような思い出をハーヴは持たなかった。
星の下に、女の子が立っている。遮るもののない荒野では、彼女の姿はよく見えた。真っ白な肌に白銀の髪。女の子が顔を上げ、ハーヴは「あっ」と驚愕の声を上げた。
彼女の顔面には、ビー玉ほどの大きさの目玉がいくつも、等間隔に並んでいる。本来ならば少女らしいふくふくとした唇のあるべき場所には、四方向に分かれた顎が孔を開いている。その顔面のほかはどこを取っても、その姿かたちは幼い頃のハーヴにそっくりだった。
「……私を真似ようとしたのね」
女の子は頷いた。いくつもの目から、ぽろぽろ涙をこぼしている。きちんと真似られなかったことが、自分でもよく分かっているようだった。
「良いのよ、良いの。ちょっとびっくりしちゃったけれど、でもそれだけよ。お顔、ようやく見られて嬉しいわ」
膝をついて女の子を抱きしめると、小さな肩は震えていた。
「オ、ガ、サン」
異形の顎から、ひび割れしたしわがれ声が漏れる。
「オガア、サン……オカ、サ、ン……」
女の子はハーヴの背に腕をまわし、ぎゅうと強くしがみついた。服を通して、女の子の氷のような体温が伝わってくる。
「オカア、サン……サミシ、サミジイ……」
泣き続ける女の子を抱きしめたまま、ハーヴは星空を見上げた。紺色のベルベットに銀色の粒が散り、星々は今にも零れ落ちそうだ。
これはきっと、ミトラの記憶だ。ハーヴの目からも涙が落ちた。このミトラは、もしかしたら見た目の通りに、まだとても幼いのかもしれない。親から引き離され、どこか遠くの土地へ連れて来られて、わけも分からないままに大地深くに埋められる。その寂しさがいかほどのものか、ハーヴには想像すらつかない。
「泣かないで、泣かないでちょうだい。私があなたのお母さんになってあげるから」
どうか女の子が泣き止むように。ハーヴは彼女の頭を優しく撫でる。
「私、結婚するはずだったの。そしたらいずれ子供もできたでしょう。自分の子を愛するのも、あなたを愛するのも、そんなに変わらないわ。ね、だからもう泣かないで……」
荒れ果てた大地の真ん中で、ふたつの生き物は互いに縋り付く。温かい身体と冷たい身体とが抱き合って、ぬるいひとつの塊となった。
それからハーヴと冬のミトラは、何度も夢の世界をさ迷った。見る夢はハーヴの夢が多かったが、時おりミトラの夢らしきものも混ざり、その多くは夜、星を見上げている夢だった。ハーヴはミトラに、メイディという名を与えた。メイディはおとなしいが好奇心の旺盛な
時間ならいくらでもある。ハーヴは自分の知っていることを、ひとつひとつメイディに教えた。花の名前、鳥の名前、色彩の名前。それらを覚えるたびに、メイディは外の世界の美しさに異形の顔を紅潮させた。
星と星を繋げて、絵柄を想像する遊びを教えたこともある。ミトラと共に長いこと星空を見上げ、どの星が何の形に見えるかを語り合った。
あの星とあの星を繋げれば、薔薇の木になるわ。向こうの星をまあるく結んで、まるで丸まった猫のようね。あっちにあなたがいるわ。その隣にあるのが私よ。そうね、すぐそばにいるの。お空でずうっと、寄り添っているのよ……。
そんな会話をしていると、遠く現実の世界に置いてきたはずの「幸福」という感覚を取り戻しそうになる。しかしそこへ到達するには、どうしても足りないものがひとつだけあった。その不足へ思いを馳せるとき、ハーヴの表情は憂いに曇る。その
「オガア、ザン。サミシ、ドーシテ?」
ビー玉の目が心配するようにハーヴを見つめる。その視線に気が付いて、ハーヴは微笑んだ。
「平気よ、あなたと一緒なのだもの、メイディ」
いつしかハーヴは本当にメイディを我が子のように愛するようになり、それにつれて自分の寂しさを押し込めるようになっていた。
この子を不安にさせてはいけない。この子には、私しかいないのだから。
寂しさを埋め、幸福に到達するための残りひとさじ――ゲルト。愛しい婚約者の何もかもを、早く忘れてしまおうとした。
星空に歌った。雪が降れば踊った。夢の中で、ハーヴとメイディは永遠を過ごした。外の世界でどれほどの時間が過ぎているのかを知ることもなく……。
「オカサン、サミシ……ドーシテ?」
眠りにつく前に、メイディはハーヴの胸に顔を埋めたまま、ずっと呟いていた。どうして? 寂しいのは、どうして?
さあ、どうしてかしら。子守唄を歌っていないからかしら。まどろみながらハーヴは答えて、眠たげな声で口ずさむ。
眠れ、眠れよ可愛い子 お前の夢に遊びに行くわ 小鳥も母さんも遊びに行くわ
眠れ、眠れよ可愛い子 お前の夢に遊びに行くわ 子猫も父さんも遊びに行くわ
綺麗な薔薇を腕いっぱい 土産に持って遊びに行くわ
「ねむれ、ねむれよ可愛い子……」
胸の中、規則的な呼吸に上下する細い背中を撫でながら、ハーヴは歌う。自分もまた、いつもの昏睡の淵へ引き込まれるのを感じる。眠って、起きたら夢を見ていて、夢が終わればまた眠り、次の夢を見るためにまた目を覚ます。その繰り返しは、一体いつまで続くのだろう。
どうせ実体のない夢を繰り返すだけならば、次はあの日の夢が良い。初めて出会った幼い日の夢。初めて手を繋いで薔薇園を散歩した晴れた日の夢。薔薇の木陰で唇を触れ合わせた、あの日の甘い幸福な夢。
「会いたいわ、ゲルト……」
ハーヴの呟きに、メイディは閉じかけていたまぶたをぱちりと開いた。見上げれば、母の涙が頬に落ちる。氷のように冷たい手が、その涙を拭った。
「駄目ね、私。お母さんなのに……ごめんなさいね。愛しているわ。おやすみなさい。
もう忘れましょう。悲しいことは何もかも忘れて、楽しい夢を見ましょうね……」
自分と同じ、白銀の髪の美しい頭を撫でた。メイディは何事かを呟く。しかしその音がハーヴの鼓膜へ届く前に、ハーヴはまた深い眠りの谷へと落ちていった。
そして、目が覚めたときには――。
窓の外は既に暗く、街灯に照らされた綿雪が金の花びらのように、夜の中をひらひらと落ちていく。街は変わらず冬に閉ざされている。それは、冬のミトラが未だ地下に埋まっていることを示していた。
「で、あんたは何で自分があそこにいたのか、覚えてないのか」
キヤの質問に、ハーヴは力なく頷いた。
「どうして、どうして私だけ出て来られたのか分からないの。私、ゲルトにまた会えて嬉しいわ。もう二度と会えないと思っていたから。でも……」
ハーヴはとうとう、両手で顔を覆って咽び始めた。なだらかな曲線の肩が細かく震えている。
「あの子は、メイディは今どうしているの? 冷たい土の下に一人ぼっちで、一体どんな楽しい夢を見られるというの?」
それ以上は、ハーヴは何も話せないようだった。泣き続ける彼女に、ほとんど放心状態のゲルト。零夜とキヤ、そしてティエラは、困ったように顔を見合わせる。完全に通りすがりでしかない自分たちが、どこまで介入していいものか。考えあぐねたすえに、零夜は「あのう」と遠慮がちに手を上げた。
「俺、もしかしたら力になれるかも知れません」
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