バイト、始めます!(1)

「失礼します」


 一礼して、妙に存在感が強い一部屋に入る。


 本日、学生には嬉しい休日。

 本来であれば俺も優雅な惰眠に耽っているのだが、今日は違う。


 何と今日は人生で初めてのバイトの日。

 服を作ったりしているのは、バイトとは言えないのでノーカンだ。


 朝6時に起きて身支度をして、慣れないスーツを身に纏い、こうして2度目になる都内の高層ビルへとやって来た。


 神楽坂にはあらかじめバイトを始めることは言ってあるので、家の心配はないだろう。

 正直、ご飯やら家事やら心配なところではあるのだが、今日は麻耶ねぇと西条院が何故か家に遊びに来ると言う。

 なので、麻耶ねぇに飯のことは頼んだので大丈夫だろう。


 神楽坂にバイトを始めると言ったら「え?生活費が足りないの?私のお金使っていいから!お母さんたちに貰ったお金あるから!」とか「私もバイト始めるよ!時森くんだけに負担かけたくないから!」とか言ってきた時は正直困ったものだ。


 今回は将来の為の勉強としてバイトするので、別にお金に困っているわけではない。

 だから、そのことを神楽坂にしっかり説明したのだが、中々信用してくれなかった。

 ……俺って信用無いのかね?


 結局、西条院に説明してもらって納得したのだが、どうにも心が傷ついた。


「お、来たね少年」


「はい、本日は何卒宜しくお願い致します」


 中に入ると、豪華な椅子に腰を掛けている西条院パパと、もう一人ピシッとしたスーツを着ている女性の人がいた。


「とりあえず、そこに座りたまえ」


 そう言われて、俺は中央にあるソファーへと腰をかける。

 それに続いて西条院パパもソファーに腰を下ろした。

 ……あれ?こういうのって、先に座ったらまずいんだっけ?


「休日なのに来てもらって悪いね。正直、君を働かせるとなったら休日しか難しくてね」


「いえ、お心遣いありがとうございます。私は気にしておりません。むしろ働かせていただいて、社長には感謝しかありませんので」


「……少年、正直その言葉遣いに鳥肌しか立たないのだが」


 ブチ殺したろかこのクソ親父は?

 人が公私を分けてやろうと下手に出ていれば、むかつくことを……。


「まぁ、いい。仕事中はその口調で頼むよ。君とは娘のことがあってもここでは立場が違うからね」


「かしこまりました」


 俺が内心で青筋を浮かべていると、中にいた女性の人がお盆に乗せたお茶を差し出してきた。


「ありがとうございます」


 すると、女性の方は一礼して、お盆を戻しに行くと、社長の隣に立った。

 この人は秘書の人なのだろうか……?


「早速、仕事の話をしよう。生憎、この後に予定が入っていてね」


 ついに来たか。


 俺は背筋を伸ばし、しっかりと心構えをする。


 ここから、俺の初めてのバイトが始まるんだ。

 そのことに、妙に緊張してしまい、握りこんでいる手からは若干汗が出ている。


「今日、君には秘書をやってもらう。丁度一名秘書が寿退社してしまってね……その穴埋めとしてお願いしたい」


「承知いたしました。秘書というのは社長の補佐ということでしょうか?」


「あぁ……といってもいきなりというわけではない。まずは彼女の元で勉強してからだ」


「はじめまして、私は源 皐月と申します。本日はよろしくお願いいたします」


 すると、横にいた女性が俺に向かって頭を下げる。

 やっぱり、この女性は秘書だったようだ。


 秘書ということもあって、女性の雰囲気は少し固い感じがする。

 ちょっと強気というか、厳しそうなイメージをもってしまう。


「時森 望です。こちらこそよろしくお願い致します」


 俺も、源さんに向かって頭を下げる。


 今日から直属の上司となる人だ。

 失礼のないように心がけなくてはいけないな。


「実際に働いてもらうのは、今日の昼からだ。丁度私は昼から会議で外へ出る。そこには君にも同席してもらうから、それまでに彼女からしっかり学んでおくように」


「はい」


「うん、今日はよろしく頼むよ。……娘から話は聞いていてね、正直期待している。だから、あまり裏切るような行為をしないで欲しい」


「かしこまりました。社長のご期待に添えるよう頑張らせていただきます」


 すると、社長は立ち上がり、そのまま部屋を後にしてしまった。


 ……ていうか、期待って。

 やめて欲しい。そんな大層な人間じゃないし、あくまで高校生の範囲でしかできないのだから。

 といっても、これも社会というものだろう。

 期待に応えれるように頑張らなくては。


 ……というか、西条院って俺の何を話したの?

 すっごい気になるんですけど?


「では、時森さん。本日は何卒宜しくお願い致します」


「こちらこそよろしくお願い致します」


「では、早速補佐についてもらう前に、こちらを暗記してもらいます」


 そう言って、源さんは2枚の紙と————一冊の本を手渡してきた。

 ……すみません、軽く100ページはありそうなんですけど?


「こ、これを暗記……全部ですか?」


「はい、本日の社長のスケジュールと最低限のマナー、そして会議の内容と参加する方々の所属や所属場所の事業内容、取引先のデータがここに書かれてありますので、に覚えてください」


「……」


 この人は何を言っているのでしょうか?

 この量を全部?午前中までに?


 正直、人レベルの記憶力では無理があるのではないでしょうか?


 俺はあまりの衝撃的事実に、一瞬呆けてしまった。


「……無理じゃないですか?」


「柊夜様からは「時森さんは何でもできますので、一般の社会人以上の働きをしてくれますよ」と言われましたので、この量でも問題ないと社長が判断しました」


 ……あんのっ、貧乳がッ!

 変なこと言ってんじゃねぇよ!?この量を午前中までにって————後2時間しかないじゃねぇか!?

 俺、高校生だぜ!?しかも、これ社会人の人でも無理だって!?


「安心してください、分からないことがあれば、お教えいたしますので」


「……すみません、そういうレベルではないと思うのですが」


「ふふっ、頑張ってくださいね。私も、期待していますから」


 源さんは、困った俺を見て小さく笑った。

 堅苦しい雰囲気から、少しだけ優しい雰囲気を感じたのは、気のせいではないだろう。

 きっと、この人は公私をしっかり分けているだけで、源さん優しい人なんだ。

 何故か、この人とはうまくやっていけるのではないか?そう思ってしまった。


「分かりました、何とか頑張ってみます」


 出来るだけ、社長と源さんの期待を裏切らないようにしよう。

 ……一応、西条院の期待も裏切らないようにしないとな。



 俺は心でそう決意すると、噛みつくように渡された書類に目を通した。




 こうして、俺の初めてのバイトが始まる。

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