ヘルメスグッドスピード

御調

ヘルメスグッドスピード

 この世を去った柳浦やぎうらとの通信を試みてから既に二ヶ月が経過した。

 死者との通信など二ヶ月前なら一笑に伏していただろうし、今でも時折これは悪い夢なのではないかと考えてしまう。しかし頬をつねってみてもコーヒーを飲んでみても目は覚めてはくれず、仕方が無いので私は今日も研究を続けている。


 もともと私の研究課題はこんなオカルトじみたものではなく、電子素子の開発であった。様々な電気的性質を持った小さな回路用部品をまとめてそう呼ぶのだが、私の専門はその中でも圧電体と呼ばれるものだった。圧電体とはその名の通り、圧力を加えると電気を発するという面白い特性を持った物質である。とはいえこうした特性は意外にもありふれていて、例えば木材や象牙質、さらには人骨なども圧電体に含まれる。もっともそれらは電気的に扱いづらかったり加工しづらかったりといった理由で産業には不向きで、実際の現場で圧電体といえば大抵、水晶やセラミックを指す。私の研究は水晶やセラミックに変わる新たな圧電素材を見つけることだった。

 私達のチームが注目していたのは「ヘルメス石」と呼ばれる鉱物だ。ごく最近になって発見された新素材で、学術的な正式名称が決定していないため暫定的に発見者であるヘルメス氏の名を取って呼ばれている。外観は水晶によく似ているものの、その圧電特性が水晶とは大きく異なることが示唆され、より詳細な調査を行う価値があると考えられたのだ。とはいえ私自身もこの石がすぐさま産業界の常識を塗り替えるような新素材になるとは考えておらず、水晶との違いが解明されれば今後の研究に役立つだろうという程度に期待を抑えていた。

 死んだ柳浦はその際の共同研究者だった。二つ年下の彼女は私と違って野心家で、ヘルメス石を世紀の大発明に導こうと日々情熱を注いでいた。外形寸法や保管条件を緻密に調整し、面倒な手順の試験を何度も繰り返し、測定誤差と片付けても良いような小さな差異を検証してはモデルを練り直し、着実に成果を重ねていった。私もいつしか感化され、目の前の小さな石に夢の新素材を期待するようになっていた。

 しかしながらこの厄介な新素材は良くも悪くも期待を裏切ってくれた。徐々に明らかになったヘルメス石の電気特性は学術的には非常に興味深く、産業的には大変扱いづらいものだったのだ。通常の圧電体とは、言うなれば力と電気の変換装置だ。力を加えれば電気を発し、電気を加えれば変形する。つまり、入力と出力が見えている。ところがヘルメス石の場合、何ら力を加えていないにも関わらず不規則なタイミングで電気信号を発することがあるのだ。光や熱、音、電磁波、湿度に気圧、その他様々な要素を検証してみても信号のメカニズムは解明できず、結局その時点の私達は「現在は観測できていない何らかの外力が作用している」という、結論と呼ぶにはあまりにも拙い文言で茶を濁すことしかできなかった。


「さあて、八方手詰まりですね」

 柳浦がそう言っていたのを覚えている。彼女にしては珍しく弱気な台詞。しかし言葉とは裏腹に声色は諦めを感じさず、むしろ期待に胸を弾ませているようにすら聞こえた。

「ずいぶん嬉しそうに言うね」

 私はそんな風に返したはずだ。対する柳浦の返答もおおよそ予想はできていた。

「これだけ手を尽くしたのにまだ分からないってことは、これはもう大発見が隠れているという事ですよ」

「だとしたら秘密を隠すのが上手い石だ」

「そこなんですよね。まったく、名前に反して」

「名前?」

 私がそう訊ねると、柳浦は手にした万年筆をくるりと一回転させて持ち直し、机に軽く当て始めた。彼女が気合いを入れて何かを語るときの癖だ。コツ、コツと小さな音がリズミカルに響く。ああ、これは長話になるぞと私は覚悟した。

「この石の呼び名。ギリシャの神様の名前でもあるんです。ヘルメス神」

「名前は聞いたことがある。スピード系の神様」

 万年筆は随分長く使っているものらしく、キャップが緩くなっているようだ。机に当たる衝撃で緩みはじめたキャップを締め直しながら彼女は答えた。

「ですです。翼の靴で風よりも速く走る、旅人や商人、そして使者の神」

「商人なら、むしろ秘密を隠すほうがイメージに合っているけど」

「隠さず届けるべきなんですよ。ヘルメスは情報伝達の神ですから」

「何々の神、という肩書きが多すぎやしないか」

 ふふふ、そこが面白いところなんですよ、と柳浦は笑っていた。研究上の難題に立ち向かうときの不敵な笑みとはまた違う、悪戯っ子の様な表情だった。こんな顔もするのだな、と強く印象に残っている。同僚ではなく友人に見せる表情だ。私はなんだか彼女に認められたような気がして、こそばゆく感じていた。

「そもそもギリシャ神話が大昔ですからね。その時代、国々を旅する人なんて行商人くらいのものです。なので旅人イコール商人です」

「ふむ」

「そして商人に手紙を預ければそれは使者です。商人は遠くの国の話を聞かせてくれたり、手紙を運んでくれたりする存在だったわけです。だから商人の神たるヘルメスの本質は、情報の伝達です」

「なるほど」

 得意気に知識を披露し終えた柳浦は私の反応の薄さに不満気であったが、こうして今も思い出せるということは、あの会話はそれなりに深く私の心に刻まれていたようだ。情報の神たるヘルメス神。偶然とはいえその名を冠した鉱物が、なかなか情報を伝えてくれないというのは確かに意地の悪い皮肉に思えた。

 そしてそれは私達の思い違いだった。この小さなヘルメスはずっと、使者としての役目を果たそうとしていたのだ。遥か彼方からのメッセージに私が気付くのはもう少し先の話になる。しかしその話をするためには、先に柳浦の死について語らねばならない。

 死は突然であった。若く健康でエネルギーに溢れた柳浦はおおよそ最も死から遠い人間であったはずだが、運命はそのような理路を吟味してはくれなかった。見ず知らずの子供を庇っての事故死という最期はとても彼女らしく思えた一方で、柳浦ならば自身も生還する道を見つけられただろうと憤ってしまう気持ちもあった。同僚を、いや友人を失った痛みは思っていたよりも辛く、その事実を受け入れるために相当の時間を要した。何を考えても長く続かず、ただただ呆けている時間が増えた。ヘルメス石から発せられる不規則な信号も機械的にデータを採り続けていたものの解析する気にはなれず、蓄積されゆく信号パターンをただただ眺めているような日が続いた。

 皮肉にも、そうして眺めていたことで私は石の変化に気付くことができた。慌てて履歴を見返してみると、柳浦の死の数日後から明らかにパターンが変わっていた。寝起きに水を掛けられたような、その水が急速に沸騰したような感覚が身体を襲った。すぐに解析用コンピュータを立ち上げ、幾つかの試験を行った。そのタイミングで何かが起こったのか。保管環境や石の物性に変化はあったか。信号そのものは意味のあるパターンなのか。試験を重ねるうちに、ひとつの仮説に行き当たった。ひょっとしてこれは、電気的に変換された音声信号なのではないか。試験を重ねるごとに仮説は補強され、数時間後にはそうとしか思えなくなっていた。

 石から発せられる電気信号が音声に変換できる、つまりこの石が録音装置か通信装置のような役割を果たしているという仮説は突拍子も無いものであったが、検証自体は容易に可能であった。記録してあった電気信号をスピーカーに入力してしまえば良いのだ。それだけ、たったそれだけの作業なのに、あの時は何故か、やってしまえば後戻りできなくなるような気がして奇妙な緊張感を覚えていた。

 その予感は正しかったと言える。再生された音声は、柳浦の声だったのだ。


『このメッセ・・・が・・・・・・に届く・・・ります。私は柳浦・・・す』

 死んだはず人間の声が、死後に取られたデータから再生された。急速に現実感が薄れ、音や景色が抜け落ちていく。思考の止まった私を置き去りにして流れ続けた音声は、十数分で停止した。しばらく呆けしまってから、ようやくその音を言葉として聞くべきだと思い至った。始めから再生しなおしてみると、ノイズの多く含まれる声はかろうじて聞き取れる程度であったが、大まかな意図は汲み取ることができた。

『・・・は死んだ・・・・・・ですが・・・今は・・・こにいます。・・・便宜的に天国と・・・』

 聞き取れる単語を繋ぎ、いくつかの音声処理により可能な限りノイズを取り払って再現されたメッセージは、信じ難い内容だった。

 それによれば柳浦は自身が死んだことを自覚している。しかし何故か現在は意識と肉体を持ち、見知らぬ土地に居る。そこには他にも人々が存在し、彼らはその土地を便宜的に「天国」と呼んでいる。天国から現世こちらの情報は全く知れないが、彼らは皆、現世の存在を確信している。何故なら彼らも柳浦と同様に現世で死んだ者達であるからだ。ある者は愛する者と再び言葉を交わすため、ある者は世界の真理への探究心から、またある者はそこに商機を見出し、彼らはこれまで何世紀も研究を積み重ねて現世とコンタクトを取る術を探してきた。そして。

『・・・ヘルメス石が、受信体・・・を・・・』

 彼らは何らかの形で、現世のヘルメス石に向けて信号を送る方法を開発した。しかし受信体となる石の状態が知れないことからチューニングが上手くいかず、これまでメッセージを送れていなかった。そこに柳浦が来て、事態は動いた。

『私はヘルメ・・・・・・も保管条件も、全て覚・・・・・・たから』

 この研究室にあるヘルメス石についてならば、柳浦があらゆるデータを知り尽くしていた。外形寸法から保管条件、周囲の環境。彼らの言うチューニングにどのような情報が必要だったのかは見当が付かないが、とにかく柳浦を最後の鍵として通信が確立したということらしい。

 書き起こしたメッセージを読みながら、私は呆然としていた。死者の暮らす天国、天国からのメッセージ、受信機の石。そんな馬鹿なことがあるか。事態を受け容れきれず硬直する私に、呆けている暇は無いと突きつけるように、メッセージはこんなふうに締め括られていた。

「私達には通信の成功を確認する術が無い。このメッセージを受け取った者は、どうか返事を送って欲しい」


 あれから二か月。メッセージを受け取ってから、私は分不相応な大役の重荷に耐えながらこの研究室に籠り続けている。そう言えば聞こえが良いが、実際のところ期間に見合った進展があったとは到底言えず、いたずらに時間を浪費しているばかりだった。本来の研究であったヘルメス石の圧電特性に関する報告書は些細な成果を針小棒大に練り上げることで誤魔化している。悲しいことにそんなペテン紛いが今では私の十八番の一つになってしまった。柳浦がここに居てくれたらという気持ちと、彼女がここに居なくて助かったという気持ちが交錯する。

 天国の実在については今のところ誰にも報告せず、私の胸に留めている。天国側あちらの事情を汲むならば全世界に公表して研究を加速させてほしいところだろうが、今の段階で公表したところで誰かを納得させられるとは思えない。私が世界の笑い者になって、この研究室から追い出されて、それで終わりだ。そうなってしまえば研究を続けることもできなくなる。それは天国側の望むことでもないだろう。少なくとも双方向の通信が確立してから発表すべきだ。

 そのように言い訳してみても、自分の本心にはとっくに気付いている。私は臆病で、そのくせ傲慢なのだ。怖いのは天国の存在を公表して嘲笑の的になることではない。本当に怖いのは、万が一にもそれを信じた誰かが天国との通信を成功させてしまうことだ。私ではない誰かが、私よりも先に。

 柳浦の声が再生されたとき、私はそれが私に宛てられたメッセージだと思った。この研究室のこのヘルメス石に向けたメッセージであり、気付くとしたらそれは私である可能性が最も高いのだから。しかしメッセージは「このメッセージを受け取った者は」と締められていた。私に宛てたものではなかった。

 いや、わかっている。あの内容ならふつう宛名は付さない。受け取り手の分からない、ボトルメールのようなものだ。私が送る立場であっても宛名は書かなかっただろう。しかし、どうしても考えてしまうのだ。メッセージの送り主、柳浦は私に期待などしていなかったのではないかと。メッセージを受信することも、返事を送ることも、私には無理だと考えていたのではないかと。

 柳浦と過ごした時間の中で私は幾度も醜態を晒した。若き才能を前に上辺を取り繕って見栄を張り、どうにか張り合おうとしてきた。彼女からすると私の姿は滑稽に見えただろう。醜悪にすら見えていたかも知れない。そんなことはずっと分かっていたのだ。

 柳浦の死に際して長いあいだ感情を整理できなかった理由も今ならば分かる。友人を失った悲しみ、喪失感、寂しさ。私は心に空いた穴の形をそう認識して埋めようとした。しかし違った。あの時の私には、安堵があった。もうこれ以上柳浦に見下されることは無い、柳浦と比較されることは無い。そこに安心してしまった。そんな自分を認めたくなかったから、私は穴の形を正しく見ることができずにいたのだ。

 だからこそ私が天国へ、いや柳浦へ返事を返さなくてはならない。私が成功させなくてはこの穴は塞がらないのだ。


 天国からのメッセージは概ね二週間に一度の頻度で届いている。一度に通信できる時間には制限があり、また送信装置は一度使用するごとにある程度のクールタイムを要するらしい。二週間という時間は、進展を焦る心にとっては長過ぎるが、落ち着いて考えを整理するには短過ぎた。相変わらず「メッセージを受け取った誰か」に向けて発せられる柳浦の声は研究室に居た頃よりも随分と無機質に聞こえ、これは友人ではなく研究者に宛てたものなのだと再確認させられる。

 二回目以降のメッセージは送信原理についての説明が主であった。音声のみ、それもごく短時間の講義では伝わる情報に限界があるものの、天国あちら現世こちらの技術体系にそれほど絶望的な差は無かったことも幸いして、次第に私もあちらの技術の輪郭を掴み始めていた。そして輪郭が分かるほどに、天国への返信が想定していたよりも難しそうだということが分かってきた。

 私は最初のうち、受信側の石に電気信号ないしは圧力を与えてやれば逆方向の通信が可能ではないかと考えていた。しかしどうやらそう簡単ではなさそうだ。柳浦の説明によると天国から現世への通信原理は「遮断」である。大雑把に言えば、天国から現世に向かう波のようなものがあり、それが遮られたときにヘルメス石は電気信号を発するのだという。天国からの送信とはこの遮断をコントロールする技術である。つまりこれは川の流れだ。上流に天国があり下流に現世がある。上流で川を堰き止めたとき下流では水が減ったことを観測できる。流れを止めるタイミングや回数に意味を持たせれば下流にメッセージを送ることもできる。しかし下流で同じように堰き止めてみても、当然ながら上流に伝わりはしないのだ。

 そこまで考えて私は溜息をつく。この先はあまり考えたくない。

 下流から上流へと情報を伝えるためには、二つのやり方が考えられる。ひとつは流れに逆らって川を遡るモノを見つけ、そこに情報を乗せるやり方。もう一つは、流れの影響を受けずに上流に到達できるモノに情報を乗せるやり方だ。魚に手紙を括り付けるか、鳥に手紙を括り付けるか。魚か鳥かを見つけることができればこの問題は解決するのだ。そして私はこの場合の鳥を少なくとも一種知っている。人間だ。

 柳浦の説明の通りならば、こちらで死んだ人間があちらに行く。受信が成功したことを知った人間があちらに行けば、とりあえず双方向の通信も成功なのだ。通信が成功していることが分かれば天国側にとっては大収穫で、あちらの技術は大きく前進するだろう。思わず乾いた笑いが出てしまう。なんということだ、私がこの難題に最も貢献できる方法は、誰かを殺すか、今すぐここで死ぬことであるらしい。

 いや、分かっている。それは極端で短絡的な考え方だ。死ねば誰もが天国に行けるという確証もないし、仮にそうだとしても通信の度に命を一つずつ消費するというのも馬鹿げた話だ。取り返しのつかない選択肢は安易に取るべきではない。そもそも私だって死にたい、殺したいなどとは思わない、当たり前だ。

 しかし一度生まれてしまったアイデアは頭の中に棲みつき、何か他の作業に取り掛かる度に囁くのだ。お前が今していることは、今すぐに死ぬよりも価値がある事なのか、と。


 極端な考えに囚われてしまうのも、あるいは一種の逃避なのかもしれない。死ねば一つは成果を出せるのではないか、たとえ生きているうちに何もできなかったとしても。そう思いついてしまい、そこに救いを求めている。それが私の…いや、やめよう。無自覚な本心になど手を伸ばしたところで、何が進展するわけでもない。研究の進みが芳しくないとき、自身の心性に原因を求めるのは研究者の態度ではない。そうだろう。そう言っていたよな、と今は主の居なくなったデスクの方に目を向ける。ブラインドの隙間から差し込む光が眩しく、随分長い間、外に出ていなかったことに気付いた。

 もし旅立ったのが私で、残されたのが柳浦であったなら、彼女はもっと思いもつかない方法を見つけ出していたはずだ。明るい空の下、開放的な道を歩きながらも、どうしてもそのような考えに至ってしまう。私が試行錯誤を繰り返して辿り着く結論に、彼女はいつも最短距離で向かえた。いま目の前を通り過ぎて行ったノロノロ運転の軽自動車が私ならば、柳浦は地上を置き去りにして空を焼くジェット機だ。

 口をついて出たキーワードに思いがけず記憶の蓋が開く。そういえば直接、彼女にそう伝えたことがあった。ジェット機のようで眩しい、と。確かあの時は。

「あはは、なるほど私が“ミスター・ファーレンハイト”ですか」

 柳浦はそう言って笑っていた。そのミスターが何者なのかはわからなかったが、彼女の好きな楽曲に出てくる言葉なのだそうだ。パイロットか何かかもしれない。

 彼女はジェット機、もといそのミスターに喩えられたことがいたく気に入ったようで、ひとしきり笑った後「それじゃあお返しに」と私の渾名まで考え始めた。恥ずかしいからやめてくれと断ったのだが、一度興に乗ってしまった彼女を止めることができないのは私もよく知っていた。万年筆のキャップを締め直しながら暫く思案したのち、彼女は嬉しそうに言った。

「そうですね、“ミスター・グッドスピード”。ああ、ピッタリです」

安全運転グッドスピード?」

 ファーレンハイトに比べると何だか間の抜けた響きに聞こえたが、これも彼女の好きな映画の登場人物から取っているらしい。確かに高速で突き進む彼女の横をノロノロと進む私にはよく似合う名にも思えた。それを「遅い」とは言わずに好意的に表現してくれたことは彼女なりの気遣いだったのだろう。

 その後、私は彼女を渾名で呼ぶことはなかったが、彼女の方は余程気に入ったらしく暫くのあいだ私の事をミスター・グッドスピードと呼んでいた。やはり長い呼び名は扱いづらかったらしく次第に使わなくなってしまったが、時折思い出したように呼びかけてくることがあった。

 安全運転グッドスピード。なるほど、悪くない呼び名だった。右を見て左を見て、ゆっくりと発進。到着が遅れようと事故を起こさず、落ち着いて慎重に。それは確かに私の気質に合っている。天国への行き方にせよ、メッセージの届け方にせよ、同じようにじっくり探すのが私だ。柳浦が一足も二足も先に最短経路で行ってしまったのも考えてみればいつもの事だ。

 柳浦に追いつこうと躍起になって暴走しかけた考えをかつての彼女との思い出に制されるのは、どうにも振り回されているようで少し癪にも思えたが、何にせよ落ち着くことができた。高速で飛び去るミスター・ファーレンハイトは直ぐに見えなくなるけれど、その軌跡は彗星のように尾を引き、フロントガラス越しに空を見上げたミスター・グッドスピードを落ち着かせた、と。なんとも小恥ずかしい空想が頭に浮かんでしまった。

 そのミスター達が登場する曲や映画についてもっと柳浦に聞いておけばよかったな、と今になって思う。きっと問えば柳浦は嬉しそうに解説してくれただろう。いつものように万年筆をくるりと回して机に・・・机に?思考が不意に停止する。何か大事なものを見落としている。停止した頭の中で、コツコツと机を叩く音が小さく響く。そうだ、この音だ。柳浦の長話の合図。ごく最近も聞いた覚えがある。どこで。ヘルメス石から再生された音声でだ。まだだ。まだ何か見落としが、いや、聞き落としがある。

 脳内で急速に膨らむ仮説を必死に整理しながら研究室に戻り、溜め込んできた音声を再生する。いま重要なのはメッセージの内容ではない。背景の音だ。ノイズフィルタの設定を変更する。調整すべき周波数帯域は人の声ではない。狙うのはそう、万年筆で机を叩く音だ。

 思った通り、全てのメッセージに万年筆の音が入っている。ここまでは順調だ。そして記憶が正しければ、途中からはあるはずなのだ。もう一つの音が。

 ―――コツ、コツ、・・・キュッ

「見つけた」

 思わず出した自分の声がおそろしく異質に感じた。ノイズフィルタのみならず、私の耳も背景音にばかり集中していたようだ。これはキャップを捻る音。柳浦の手癖、あの古い万年筆のキャップを締め直す音だ。

 締め直す音が入っていたのは三度目以降のメッセージだ。それ以前のメッセージには机を叩く音だけが入っている。これも予想通りだ。なぜならば、二度目のメッセージが届いた時点では、あの万年筆はまだこの部屋にあったからだ。その意味を認識して汗が湧き出る。椅子に深く座りこみ、目を閉じ、自分に言い聞かせるように整理する。今わかったことは二つだ。

 ひとつは、天国あちら現世こちらで時間の流れが同期している、少なくとも大きくずれてはいないということ。もうひとつは、死んだ人間以外にも天国に行けるモノがあるということだ。


 二度目のメッセージと三度目のメッセージの間に何があったか。はっきりと覚えている。柳浦の家族が遺品を引き取りに来たのだ。万年筆もあのとき箱に詰めて一緒に渡したはずだ。引き取りに来ていたのは柳浦の弟だった。幸運なことに彼の連絡先を書いたメモは机の端に残っていた。ろくに片づけをしなかった自分の怠惰さにこれほど感謝したことはない。私はすぐさま彼に電話をかけた。

 繰り返されるコール音の一回一回が十数秒にも感じられた。このまま取らなかったらどうしよう、あるいは連絡先を変えていたら、などと考え始めた頃。

「…はい、柳浦です」

 コール音が途切れ、男性の声が聞こえた。覚えている、柳浦の弟の声だ。こちらが名乗ると彼はやや緊張を滲ませた様子で要件を訊ねてきた。考えてみれば亡くした家族の元勤務先から、二か月も経ってから連絡が来る理由などあまり想像できない。私は咄嗟に言い訳を考える。

「突然すみません。実は以前お引き取りされたお姉さんの私物類なのですが、誤って実験データを入れた媒体が紛れ込んでしまったようで…。大変申し訳ないのですが、そちらに伺って確認させていただけないかと」

 思い付きにしてはもっともらしい理由ではないか。悲しいかな、こういうペテン紛いは十八番なのだ。電話の向こうの彼も信じてくれたようだ。

「なるほど…あの、すみませんが一部は処分してしまって…。まだ残っているものもありますが、確認されますか」

 嘘で追い詰めてしまっていることに罪悪感を覚え始めたが、もう後には引けない。

「ええ、ぜひお願いいたします。それと」

 と、ふと思いついて付け加えた。

「お姉さんに、線香も上げさせていただければ、と」

 先程よりも少しだけ長い沈黙が流れた。余計なことを言ってしまったかと危惧したが、返ってきた声色は心なしか明るく感じられた。

「ええ、お願いします。姉も喜ぶと思います」


 柳浦の実家には葬儀の際に一度訪れたきりだったが、カーナビを頼りになんとか辿り着くことができた。流石はミスター安全運転、と自賛してみせる。

 家の前では柳浦の弟が出迎えてくれていた。大柄でフットボール選手のような印象を抱かせる彼は、姉とはあまり似ていない。

「お久しぶりです。どうぞ、おあがりください」

「突然無理を言ってしまいすみません。お邪魔します」

 柳浦家は建てられてから大分経つようで、床の軋みや塗装の剥離、柱の傷など、あちこちに老朽化の兆候が見て取れた。味わい深く親しみがあると言えなくもないが、ともすればエキセントリックな程に先進的な柳浦がここで暮らしていた様子をにわかに想像しがたかった。それでもよく見てみれば、本棚に学会誌が並んでいたりカレンダーが半導体メーカーのものであったりと、随所に彼女の痕跡を見ることができた。

 仏間に通されて線香を上げ、手を合わせる。綺麗に整頓された仏壇からは、それだけ残された家族が柳浦を大事にしていたことが察せられる。せめて家族には彼女が天国【あちら】で生きている事を伝えるべきではないかという思いが急速に膨らんだが、私はそれを振り払った。外部に漏れるのが怖いからではない。誰かに先を越されるのが怖いからでもない。ヘルメス石の運んだ、彼女の声を思い出したからだ。

 今まで考えたことも無かったが、いざ天国から現世へとメッセージを送るなったとき、柳浦が一番言葉を伝えたかった相手は遺してきた家族だったのではないか。しかしこれまでの複数回の通信を経て今に至るまで、彼女は個を捨て、技術の使者に徹している。その真意はわからない。遥か先を行く柳浦の目に映る景色は遅れて走る私には見えないのだ。だがきっと彼女は通信が確立するまでは、個人である前に研究者であろうと決めたのだと私は直感していた。根拠はない。思い違いかもしれない。しかし私は、メッセージを受け取った研究者としてその意志に応えねばならないと強く感じていた。何が何でも、先に通信を確立させなければならないと。

 決意を新たにして目を開けると、柳浦の弟が段ボール箱を運んでくれていた。

「姉の私物はこちらです。見たところデータ媒体のようなものは無さそうでしたが…一応確認してみてください」

 私は礼を言い、箱の中を探った。もちろん探しているのはデータ媒体ではなく万年筆なのだが、おそらくもうここには無いだろうと予想していた。埋めるなり燃やすなり、何らかの方法で破壊、もとい供養されているはずなのだ。柳浦家を訪れたのはその詳細を知るためだ。どのように話を切り出そうかと思案していると、意外なことに彼の方から話しかけてきた。

「あの、もし間違っていたらすみませんが」

「はい?」

 予想外の呼びかけに私は間の抜けた声を出してしまう。慌てて姿勢を正すも、続けて浴びせられた質問はさらに予想していなかったものだった。

「あなたが、“ミスター・グッドスピード”さん、ですか?」

 完全に呆気に取られてしまった。まさか研究室の外でその名で呼ばれるとは。驚きつつも肯定すると、途端に柳浦の弟は顔色を明るくした。

「ああ、やっぱり。姉がよく話をしていたんですよ。突っ走る私をしっかり軌道修正してくれる人がいる、だから安心して突っ走れる・・・って」

「え…私が?」

「ええ。本人はノロノロ運転だと言うけれど、そんな人がいてくれるからこの研究はきっと上手くいく。そういう意味で、とても良い渾名をつけることができた、と」

 彼の言っている意味がよくわからなかった。前半はいい。慎重すぎる私が突き進む彼女のストッパーになることはあった。足を引っ張っているのではないかと悩んだこともあったが、軌道修正だと言ってもらえたのは救われた。しかし後半は何だろう。上手くいく、というのが渾名と関係するように見えない。

「その様子だと、やはり姉から何も聞いていませんね?」

 困惑する私の様子を察した柳浦の弟は悪戯っ子のような顔を見せる。ここにきて初めて、目の前の彼はあの柳浦の弟なのだなと実感する。柳浦の弟は姉とよく似た口調で語り始める。

「まったく、そういうところ意地悪ですよね、あの人は。…グッドスピードという名前は姉の好きだった映画に出てくる人なんです。彼も最初は名前を『安全運転』だと言われるんですよ。でも物語が進むうちにもう一つの意味を知ります」

 彼が教えてくれたそれは、英語の古い言い回しだった。これまで知らなかった、構成する語からは想像できなかった意外な意味に驚いた。しかしそれ以上に、その華々しい響きが凡庸な自分に結び付けられている驚きが勝り、私は続ける言葉を失ってしまう。

「姉は昔から、一人で熱くなって暴走しがちな人だったんですよね。そんな自分を恥じることもよくあって。でもあなたがそれを肯定してくれた時、とても救われたのだそうです。そして、この研究が成功するならそれはあなたのお陰だと」

 そこから先の会話はあまり覚えていない。あの柳浦が自身を恥じていたなどと想像もできなかったし、私が柳浦に影響を与えたというのも信じられなかった。あんなに軽い調子で、なんてことのない普通の会話だと思っていたのに。そして彼女から私に送られた渾名。弟の話を信じるならば、その意味は、なんということだ。

「いつか気付くかな、と姉は楽しみにしていましたよ」



 一週間後、私は研究室でヘルメス石を睨んでいた。これまでのペースを考えれば今日か明日には次のメッセージが届くだろう。思いのほか長い時間そうしていたようで、つい先ほど淹れたはずのコーヒーがもうすっかり冷めてしまっている。

 予想通り、柳浦の万年筆は供養に出されていた。その供養先を確認したうえで私は柳浦家を後にした。私は今のところ、現世こちらで失われた人や物は、天国あちらに「移動」するのではなく「復元」されているのではないかと仮説を立てている。破壊されてしまったデータを別のサーバーで復元するようなイメージだ。少なくとも天国に渡った柳浦も万年筆も、あちらに行く前にこちらで破壊されていることが共通している。どのような作用でバックアップが取られるのか、そのタイミングはいつなのか、復元される条件はあるのか、全くもって分からないことだらけだ。あの万年筆が天国に渡った理由は材質に起因するのかもしれないし、処理方法に起因するのかもしれないし、他の何かに起因するのかもしれない。流石に神の意志や持ち主の思い入れや遺族の気持ちが…などと言われてしまったらもはや手が出せないが、手が出せなくなるまで手を尽くすのが研究者としての態度だろう。それを教えてくれたのは私の尊敬する彼女だ。

 遥か先を飛ぶ彼女の視界には置き去られた私など入る筈もないと嘆いてきたが、視界に入らずとも彼女の力になる方法などいくらでもあったということ、さらには私にはそれが出来ていたのだと気付かされた。そしてそれは今この瞬間も変わらない。柳浦はまたもや遥か彼方に行ってしまったが、そこに私を見せつけようとする必要などないのだ。見えない此方でできることをやるのが私の役目なのだから。

 あれから今日までの間に様々な条件のもとに私は何通もの「返事」を出してみた。材質、形状、質量、温度、圧力…その他思いつく限りの条件で試行した。そのどれかが天国に到達するかもしれないし、いずれも到達しないかもしれない。それでいい、今はそれでいいんだ。一つ一つ正解に近づいてゆけばいつかは、目の前の小さな石が使者となり私達を繋いでくれるだろう。

 そう考えてふと頭に浮かんだ台詞は、研究者としてはあまり適切でないものだった。しかし天国で奮闘する彼女が聞いたならきっとあの悪戯顔で笑ってくれるだろう。私は石に向かって呟く。

 情報の神よ、どうか旅の成功をヘルメス、グッドスピード

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