第8話

 介護請求ソフトを起動し、電子データと、前任のケアマネージャーが残したファイルの情報と照らし合わせる。

 新後閑タキに近しい親戚はいない、とデータには書かれていたが、フェイスシートの家族関係の欄は、大変簡素な状態だった。

 タキには子どもがおらず、夫も夫の親戚も全員亡くなっている。タキのキーパーソンは、北海道上川町に住む妹の娘、つまり姪だけだ。

 タキの家の近くには新後閑姓が密集しているが、必ずしも全員が親戚だというわけではない、と近所に住む職員から聞いたことがある。

 実質、タキは孤独な状態なのだ。

 4月2日がタキの誕生日。その近辺で、前任のケアマネージャーによって認定調査が予定されていた。

 いっそのこと、介護度を変更するか。介護度が高くなれば、単位数の上限も上がり、介護サービスの種類も回数増やす事ができる。

 来月は現状のサービス利用にしてみて、4月か5月以降にサービス内容の変更を考えるか。

 タキだけでなく、他の利用者にも同じくらい考えてケアプランを立てなくてはならない。

 薫は、手元に伏せたスマートフォンを確認した。

 定時の17時半はとうに過ぎ、18時になろうとしている。蒼良そらからの連絡はない。お知らせします、というのは、今日中だと薫は思っていたが、蒼良の感覚では今日中とは限らないのかもしれない。

 連絡を待ちつつしばらく残業をしよう、と決めたとき、スマートフォンのバイブレーションが電話の受信を告げる。相手は、“片山蒼良”。

 薫は事務所を出て、給湯室で応答した。

「はい、有坂です」

『片山です』

 爽やかな声が、電話越しで耳をくすぐる。

『今、タキさんの家を出ました。話したいことがあるので、今夜会えますか』



 蒼良が指定したのは、近年オープンしたハワイアンカフェだ。

 先に蒼良が席を取り、後から薫が合流する。

「お待たせ」

 薫が声をかけると、蒼良は弾かれたように顔を上げた。

「すみません、先に食べていました」

「いいわよ。ぼくが遅かったんだもの。ごめんなさい」

「いえ、呼び出したのは俺ですから」

 薫はおしぼりで手を拭き、サラダとコーヒーを注文する。

 蒼良はチキンカレーを食べていた。バターの匂いが、テーブルの向かいの薫にまで届く。

「タキさんのお話、色々聞いてきました」

 蒼良は、唇についたカレーソースを舌で舐め、スマートフォンを出した。

「この写真、若い頃の旦那様とタキさんだそうです」

 スマートフォンで撮らせてもらったというモノクロ写真に写るのは、おそろいのダブルのライダースジャケットとジーンズに身を包んだ男女だ。バックは、山と池。渡良瀬遊水池だわ、と薫は気づいた。若い、といっても、30歳の薫と同じくらいかもう少し上の年齢だ。

「旦那様はバイクがお好きで、よくおふたりでツーリングをしていたそうです。タキさんもバイクが好きだったみたいですが、時代が時代ですし田舎ですし、周りの悪口が酷くて何度もタイヤをパンクさせられて、おふたりともバイクをやめてしまったそうです」

 酷い話だわ。薫は奥歯に力を入れてしまった。

 蒼良の白く細長い指が、スマートフォンの画面をズームする。

 タキの夫の写真が拡大され、薫は「あっ」と声を上げてしまった。

 蒼良が顔を上げ、にたりと口角を上げる。

「俺も驚きました。旦那様、そっくりなんですよ」

 写真に写るタキの夫は、あのフィギュアのキャラクターにそっくりなのだ。もちろん、アニメ絵と実写という違いはあるが、タキの夫をアニメ絵にしたら、高確率であのフィギュアのキャラクターに似る。そのくらい、細身のイケメンだった。タキはタキで、可愛い女性だ。

「その旦那様ですが、日本人形の職人だったそうですね?」

 蒼良は蛇のような目で薫を見つめ、確認するように訊ねる。

 知らなかった、なんて薫は答えられず、スマートフォンを注視するふりをして下を向く。タキの夫が職人だとは聞いていたが、大工か左官職人だとばかり思っていた。

「テレビのところにあったお人形は、亡き旦那様の作品だそうです」

 蒼良は、画面をスライドさせて、次の写真を表示する。

「モデルはタキさんだそうですよ。タキさんの本当の誕生日に、旦那様からプレゼントされたんだとか」

 日本人形は、いわゆる市松人形ではなく、日本髪に結った女性の姿をした人形だ。

 それも重要なことだが、薫は蒼良の言い回しが気になった。

「本当の誕生日?」

「はい。タキさんは4月2日生まれで出生届が出されたそうですが、本当は2月28日生まれだそうです」

「昔ならでは、だわ」

 薫も、たまにそういう話を聞くことがある。親の都合ですぐに出生届を出すことができなかったり、年度末近くに生まれた子を次年度生まれとして出生届を提出するケースは少なくなかったそうだ。



「俺の推測なのですが」

 蒼良はスマートフォンを伏せ、薫をまっすぐ見つめる。その眼差しは、爬虫類の目が可愛い、と豪語したかつての薫の同僚を一瞬だけ思い出させた。

「タキさんはボランティアの高校生をきっかけにして缶バッジのキャラクターを知り、それが旦那様に似ていると思われた。メロンパンを買いに行く要領で通い慣れた高崎駅前までバスで向かい、高校生から教えてもらったうちの店にたどり着いた。店内をきょろきょろするうちに、缶バッジのキャラクターが人形フィギュアになっているのに気づき、手に入れたくなった。旦那様と錯覚したのか、旦那様と似た人形をテレビの隣に並べたかったのか」

「だとしたら、後者ね。タキさんはの症状があるけど、重症ではないわ。……今回が引き金になって進行しないといいけど」

 すっかり冷めてしまったブラックコーヒーを口にして、薫は溜め息をついた。

 自分に絶望した。いくら賑やかな店内とはいえ、公にできない話をしていた。

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