第7話
デイサービスに飾られた雛壇の雛人形を上から下まで眺め、薫は深く溜め息を吐いた。
介護職員の多くは、季節の行事は開催するのに、自分自身が季節を楽しむことを忘れがちだ。
薫が介護職員として現場経験を積んでいた頃は、四季なんてお構いなしに仕事に忙殺されていた。今のように働く環境が良かったわけではない。スキルアップしてデスクワークがやりたかった。そのために、ケアマネージャーになりたいと思っていた。
ところが、ケアマネージャーになった今、また仕事に忙殺されている。
ケアプラン、サービス提供票、認定調査、区分変更申請、主治医意見書の依頼、国保連に請求……仕事をやり切った感がない。
それでもケアマネージャーの仕事にしがみついているのは、意地と責任感と、初心ゆえだ。
「薫ちゃん、お待たせ」
顔馴染みのデイサービス職員に声をかけられ、薫は頭を下げた。他の職員は、利用者の朝の迎えに出ている。
「ごめんなさい。忙しいのに。ちょっと訊きたいんだけど」
薫は、スマートフォンの画像を職員に見せる。タキが万引きしようとしていたフィギュアの、元のキャラクターだ。
「
「あ! これこれ!」
質問自体が
「冬休みに、高校生がボランティアに来たでしょ? 鞄にこのキャラクターの缶バッジをつけている女の子がいて、タキさん、色々訊いてた。駅前のマンガの店で買えるって、高校生は言っていたよ」
同日の昼過ぎ、薫はタキの家を訪ねた。書類にサインをもらう口実に、仕事が休みだという片山
「タキさん、こちら、片山蒼良くん。タキさんのこと、心配して来てくれたのよ」
蒼良は、タキに深々と頭を下げた。畏敬の念を抱く姿勢だと、薫は思った。蒼良は、髪色と目つきと雰囲気に近寄りがたさはあるものの、礼儀正しく真面目な若者だ。
タキは目をぱちくりさせ、首を傾げる。
「薫ちゃんのお婿さん?」
「違います」
薫は即座に否定した。
「上がってちょうだいな。お茶を淹れましょう。若い子は、コーヒーがいいかしら」
「タキさん、ぼくは要らないわよ。蒼良くんだけにあげて」
「薫ちゃんは堅いのねえ」
昔ながらの木造家屋に上がらせてもらう。玄関より奥にお邪魔したのは、実は初めてだ。
居間のテレビの隣には、日本人形が置かれていた。
タキは、炬燵テーブルの、蒼良の前にお盆を置く。
「若い子はお腹が空くでしょう? コーヒーとメロンパン、どうぞ」
蒼良は目の動きで、薫に助けを求める。頂いて良いのか、判断がつかないようだ。薫は、蒼良だけに見えるように、OKのジェスチャーをした。
「……このメロンパン、駅前の」
蒼良が呟いた。タキは嬉しそうに頷く。
「そうなの。昔から、ここのメロンパンが好きなの。あたしも、夫も。夫が生きていた頃は、ふたりでバスに乗ってよく買いに行ったわ」
「もしかして、これもわざわざ買いに行ってくれたんですか?」
蒼良が訊ねる。
「今でも食べたくなるのよ。バスに乗って駅前に行くのは疲れるけど、そうしてでも食べたいの」
つながった、と薫は思った。
タキはバスに乗って駅前に行くことができる。むしろ、慣れている。だから、あのキャラクターの缶バッジの話を聞き、“アニマ高崎店”に行くことができたのだ。
蒼良はタキの話に相づちを打ち、クリームでふわふわのコーヒーをすする。
「美味しい?」
タキに訊かれ、蒼良は、美味しいです、と答えた。
「俺の祖母も、よくこうしてコーヒーを淹れてくれました。懐かしいです」
コーヒーの表面を見つめる蒼良の眼差しが、柔らかかった。
薫は書類にサインをもらい、先に退散することにした。蒼良は遊びに来ているようなものだから長居できるが、薫はそうもゆかない。
腰を浮かせると、袖を蒼良に掴まれた。
「何かわかったら、お知らせします」
顔を近づけられ、耳打ちされる。
「薫ちゃん」
吐息どころか唇が触れ、薫はくすぐったさに顔をそむけた。
庭に出ると、梅が花を咲かせていた。もうじき3月になるのだ。
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