第29イヴェ 秋人、最前にして最善の光景と、最後にして最高の光景

 この日のオンライン・ゼミは、自分の発表順だったので、発表の時間的長さをコントロールし、一分でも早くゼミを終了させて、少しでも早く会場に向かおう、と考えていたのに、その秋人の目論見は完全に狂ってしまった。

 ゼミの前半の発表者が、まず遅刻し、さらに、ミーティング・アプリに不慣れ過ぎて操作に手間取り、かつ、そいつは、準備不足のせいで、発表そのものもグダって、結果、講義全体が〈押し〉てしまったのである。

 かくなるうえは、とばかりに、自分の前の発表者の話の間に、秋人は、Tシャツとランニング・スパッツというライヴ・スタイルへの着替えを済ませておいた。

 秋人の発表が終わった時点で、既に講義終了時刻は過ぎていたので、先生にもさっさと話を切り上げて欲しかったのだが、こういった時ほど、担当講師の指導が長いのだ。

 これは、オンライン講義の弊害であろう。

 つまり、次の講義のために教室を明け渡す、という空間的束縛がなくなった結果、講師は時間を気にする必要がなくなった。

 ただの聞き手ならば、講義終了時刻がきたら、そのまま途中抜けしてしまっても問題はないのだが、この日は、秋人自身が発表者なので、さすがにそういう分けにもいかなかった。

 ようやく指導時間が終わった時には、時計は三時を回っており、ミーティング・アプリの接続が切れるや否や、秋人は、これまで体験したことのないような焦りを覚えながら、ダッシュで部屋を飛び出したのであった。


「まさか、三十分以上、延長になるなんて……」

 デイ・ユースのためだけに借りたホテルをチェックアウトした秋人は、速やかに、荷物を札駅のコインロッカーにぶち込み、ライヴに参加するために最低限必要な物、チケットとドリンク代とスマートフォンだけを持つと、身軽な状態で会場に向かって全力で駆け出した。


 しかし、である。

 秋人が、ライヴ・ハウスに到着した時には既に、ファンクラブ枠の〈A番〉の入場はとっくに終わっており、さらには、一般枠である〈B〉の入場もほぼ終わりかけていた。


 な、何てこった……。お、俺の五番が……。

 余裕で最前列を狙える番号だからこそ、オンライン・ゼミからライヴに回せるように、札幌駅近くの、デイ・ユース可能なホテルを探した、というのに……。

 ゼミの〈押し〉のせいで、完全にパーだ。


 実は、この〈A・SYUCA(ア・シュカ)〉の晩秋のツアーの最初の会場である高松で、秋人は、整理番号順・一番を引き当て、高松のみならず、ツアーの最初の入場客となって、最前列のど真ん中でライヴに参加したのだった。そして続く、二公演目の京都は、ドセンではなかったものの、最前・下手を取ることができ、かくして、秋人は完全に、最前の味を占めてしまっていた。

 だからこそ、「最前しか勝たん」とばかりに、もう一度、最前列で味わった最善の光景を見たくて、結局、この晩秋のツアーは、A・SYUCAに時間的リソースを極フリし、ツアーを全通する決意を固めてしまったのである。

 そんな中、三公演目の札幌でも一桁番号が回ってきたのだ。

 しかも、札幌では、自分も含めた一番から五番までが、今回のツアーの全通組だったので、最前センターエリアを、いつものメンバー、すなわち、〈イツメン〉で固める事ができる稀有な状況下にあった。

 札幌は、自分たちで〈現場〉を作れるね、そんな話を、ゼミの前にラインで話していたというのに……。

 その一角を担うはずの秋人が、ライヴの入場に遅刻して、最前どころか、最後列になってしまったのである。


 しくった。

 最前、一回、損しちまったよ。

 イツメンで最前のセンターを固められる今日の〈現場〉は、〈楽しい〉が約束された会場だったのに、まさかの最後列……。

 秋人のテンションは、ぶっちゃけ、駄々下がりであった。


 そんなテンションで最後列に位置した秋人が、スマフォのSNSアプリを立ち上げると、最前にいるであろう何人ものヲタク達からDMが入っているのに、ようやく気が付いた。

 ホテルから、札駅を経由して、ライヴ・ハウスまでの間、スマフォを見る余裕など、まるでなかったのだ。

「講義延長して、今ついた。地元のライヴで碁盤なのに最後尾、しょぼんです」

 慌てて打ったので、「五番」を「碁盤」と誤字ってしまっていた。

 イツメンの一人に返事を返すと、最前の四名が一斉に振り返って、後方に向かって手を振ってきたので、秋人は、右手を小さく上げて、それに応じた。


 最後尾か……。

 この辺りは、一般枠で入った客のエリアだし、ノリ方も分かっていないような雰囲気の客ばっかで、隣の子なんて、学ランの高校生だよ。

 ライヴって、ほぼ一緒の動きをする、〈現場〉の楽しみ方が分かっている〈分かり手〉が隣にいる時こそが、動きがシンクロして楽しいのだ。だからこその、イツメンと連が組める稀な、今日みたいな状況って貴重なんだよね。


 秋人が、そんなことを考えていると、会場の照明が落ち、歌い手の登場を告げる〈SE〉が鳴り出した。


 A・SYUCAのライヴは、当局の取り決めに従順であった。

 というのも、政府や自治体が提示しているライヴ・ハウスでのライヴの開催の絶対条件とは、収容率五十パーセントと、声出し禁止のこの二点だけで、実は、それ以外の事柄は何も禁じられてはおらず、これ以外のルールは、それぞれの運営やライヴ・ハウスごとのローカル・ルールなのである。

 それが、秋人のこれまでの理解で、さらに、このライヴの直前に読んだイヴェント規制に関する資料で、秋人の理解度も高まっていた。

 要約すると、声を出しさえしなければ、全ては問題なしなのだ。

 高松でも京都でも、運営が何も言ってこなかったのは、つまりは、そう言うことなのだろう。


 声出し以外の動きの容認に加え、ビフォー感染症の観客率一二〇パーセントのギュウギュウ時代とは違って、自由に動けるスペースもある。

 だから、ライヴが始まるや、最前列のイツメン達は、曲に合わせて全力で身体を動かし始めたのだ。

 ここまでの二つの〈現場〉で、秋人は最前にいたので、自分たちイツメンが、普段どのように動いているのか知るべくもなかったのだが、今回の札幌では、期せずして最後尾になってしまったので、いつもの自分たちがどんな動きをしているのかを、客観的に知る事ができた。

 そして分かった事は、最前のイツメン達の動きは、手振りも、ステップも、ジャンプ・ポイントも、そして、ヘッド・バンギングまでもが、キレイに揃っているのである。


 指定座席や整理番号がバラバラの時って、なかなかイツメンが連番するような状況にはならないので、これって、平日の昼間の札幌での開催という状況が生み出した奇跡のような光景なのかもしれないな、と秋人は思った。


 その秋人はというと、最後列ではあったが、逆に、後方部には横や後に人がいない分、前方部よりも自由に動けるスペースが広く取れた。つまり、より自由に好き勝手に動き回れたが故に、ライヴへの没入度が思った以上に高かったのだ。

「あれっ!? 最前しか勝たんって思っていたけれど、最後列、思った以上にメッサ楽しいぞ」

 

 ライヴの終盤のマイク・パフォーマンス(MC)で、A・SYUCAは、マスクの下で息を整えている最前列のヲタクを弄りながら、こんな事を語った。

「ねえ、すぎやまさん、汗、めっちゃスゴいね。前髪、おでこにピタッって、くっついちゃっているよ。水分、大丈夫? みんなも、ちゃんと水分補給してね」

 そうA・SYUCAに言われたヲタク達は、一斉にペットボトルをを口にし始めた。

「アタシも飲んでくるね」

 そう言ったA・SYUCAは、ライヴで常飲している喉に良いハーブティーを飲みに行った。

「あれ、今日って、ファイナルだったっけ? そのくらい、みんな盛り上がっているね。今日のA・SYUCAのライヴには、アンコールはないので、次が最後の一曲になるんだけれど、後悔がないように、全力を出し尽くしましょう。

 それでは、『ユー・ノウ?』、みんな、盛り上がってユッコウ」


 今回のツアーの第一部では、ラストに、演者とヲタクのマインドをゼロにするような、〈折りたたみ〉曲が置かれている。

 〈折りたたみ〉とは、ジャック・ナイフのように前方に身体を曲げる応援行為なのだが、最前列の観客達がバーを掴んで、一斉に前方に身体を投げ出し始めるや、二列目以降も、最前に引き摺られたかのように、身体を大きく前方に折り出した。


 たとえ、ツアーを〈全通〉レヴェルで回ってはおらず、曲のノリ方を知り尽くしてはいなかったとしても、ど平日の昼間にライヴに来るのは、暇だから、というよりも、A・SYUCAが好きで、わざわざ時間を作って来ている豪の者がほとんどなのだろう。

 つまり、最前のイツメン達が、折りたたみを始めるや、自分たちも負けじと同じように動ける、そんなノリの良さを持ち合わせている、愛すべきイヴェンター達なのだ。

 札幌のライヴ空間には、ライヴ・ハウスでのライヴの盛り上げ方が分かっている者ばかりだったので、最前ではなく、最後列にいても、秋人は純に楽しかった。


 ライヴは最前が最善だと、これまで考えてきたけれど、実の所、本当に楽しいライヴって、会場全体に一体感があって、最後列でも楽しい、そんなライヴではなかろうか、と秋人は思った。


 最後列の秋人の隣には、学ランの高校生がいて、いかにもライブ・ハウスに不慣れで、最初のうちこそ、どうノッてよいのか、まるで分かっていない様子で、好き勝手に暴れまくる、他の観客の挙動に戸惑っている感じさえあった。

 だが、その学ラン君が、最後の曲では、前のヲタクたちに合わせて、腰を前方に大きく折り曲げていたのだ。

 

 最前のみんなの熱、ここまで伝わってきているよ、今日〈現場〉作れていたよ。

 いかにもニュービーな学ラン君が、一所懸命、折りたたみをしていたのが〈ヲタクの証〉さ。


 遅刻して最前を棒に振った時には、今日の札幌は最悪の〈現場〉だ、と思っていたのだけれど、この会場の一体感や、新たなヲタクが生まれた瞬間、この最高の光景は、最後列からしか視認できなかったのではなかろうか、そんな風に感じた秋人であった。

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