第36イヴェ 最初にして最後の、最良のライヴ 

 かのガールズ・バンドの解散ライヴの会場となった、千代田区に位置している神社、その神田明神に隣接したホールは、二年前の、二〇一八年の十二月に完成したばかりの比較的新しい会場である。

 その収容人数は、オール・スタンディングで七〇〇名、着座で三六〇名である。

 だがしかし、今回のライヴでは、着座での観覧方式が採用され、さらに、感染症のパンデミックの対抗策としての政府のガイドラインに基づいて、いわゆる、〈社会的距離〉を保つ為に、間隔を開ける目的で席間が一席空けられ、結果、観客数は半分の〈一五〇名〉に限定されてしまっていた。


 そのように、人数が制限された状況での解散ライヴとなった結果、ラスト・ライヴのチケットは売り切れ御礼になってしまった。そのため、急遽、ライヴの前に、ミニ・ライヴと特典会が催される事になったのであった。

 そのおかげで、この日の解散ライヴに参加できる、観客の総数は、最大、のべ三〇〇名になった。


 もちろん、グっさんも秋人も、この日の解散ライヴには、前哨戦のミニ・ライヴにも、本戦のフル・ライヴにも、その両方の参加の予定になっていた。


 かくして、まず前哨戦のミニ・ライヴに参加するために神田明神に来た秋人は、深々と一礼をした後で、鳥居を潜ったのであった。


 実は、当初、秋人は、夜のラスト・ライヴにだけ参加の予定であった。

 しかし、昼のミニ・ライヴの方にも参加する事にしたのは、本当のラスト・ライヴと言ってよい夜公演の前に、生歌と生演奏を一度聴いておきたい、という気持ちが湧いてきたからである。


 ミニ・ライヴに参加するために、会場に入場すると、指定された座席には、幾つかの記念品が置かれており、こういう所にも、〈最後〉のライヴである事を意識させるものがある。


 しかしながら、まだ、前哨戦の昼公演だ。


 つまり、セミ・ファイナルである分けだからなのか、ホール内の雰囲気は、解散や引退イヴェントに特有の〈暗い〉雰囲気や、その逆に、度を越した〈明るさ〉が漂ってはいなかった。


 解散ライヴが初現場である秋人が、最後っぽくない雰囲気の〈普通さ〉に、違和感を覚えているうちに、昼の部のミニ・ライヴが始まった。


 感染症対策からなのか、この〈現場〉のミニ・ライヴにおいても、着席が義務付けられており、観客全員が着座状態のまま、ライヴが始まった。


 彼女たちはバンドなので、その楽器ごとに位置が固定しており、ドラムが真ん中、下手、客から見て左側がベース、右の上手側がギターというのが基本ポジションであった。

 例えば、これが、感染症のパンデミック以前のオール・スタンディングでのライヴならば、観客たちの多くは、自分の〈おし〉の前にポジショニングする。つまり、ソロ・アーティストのライヴのように、必ずしも、ステージのセンターがベスト・ポジションという分けではないのだ。

 つまり、バンドのライヴにおけるベス・ポジとは、自分の〈おし〉の正面なのである。

 これは、グループ・アイドルのライヴでも同じことが言えるかもしれない。


 だがしかし、である。

 今回は、座席指定制という事もあり、観客たちは、自分の好きな、つまり、〈おし〉のスペースに身を置く事ができない。

 だからであろう。

 ヲタクたちは、己が身体を、自分の〈おし〉の方に向ける結果になる。

 その様子を見ていた、後方の列に座っていた秋人には、自分の〈おし〉の方に向けられたヲタクたちの視線が、会場内でランダムに交差しているように思えたのであった。

 普段、秋人が通っているのは、ソロ・アーティストの〈現場〉なので、こういった不可視の視線が交差する現象が実に物珍しかった。


 そして、ミニ・ライヴの終了後、会場内のスペースで特典会が催される事になった。

 この広い空間を〈ホワイエ〉という。

 ホワイエとは、劇場やホールなどにおいて、出入り口と観客席を繋ぐ、広い通路のことである。この空間は、開演の前後、ヲタクの社交の場になったり、ここで物販が行われたりする。

 今回の解散ライヴでは、そのホワイエにおいて〈特典会〉が催されたのである。


 特典会とは、いわば、ライヴのプラス・アルファで、演者とヲタクの交流会で、〈接近〉、あるいは、〈接触〉と呼ばれている。

 ちなみに、今回の特典会の内容は〈チェキ会〉であった。


 チェキ会とは、インスタント・カメラを用いて、演者を、あるいは、演者と自分自身を撮影してもらう会のことで、さらに課金すれば、撮ったチェキにサインをプラスしてもらう事も可能なのだ。そして、この特典会の際には、自分の〈おし〉の演者と会話を交わすことさえできる。


 今回のチェキ会は、先ず、バンドのメンバーごとの個別撮影会が催され、秋人は、かねてから逢いたいと念じてきたベースの子の列に並んだ。その待ち時間の間に、秋人は、演者と〈ツー・ショット〉を撮ることに決めたのであった。


 この状況下、感染症対策のために、演者との間にはアクリルの透明な仕切りが入れられ、さらに、演者もヲタクもマスク着用が義務付けられ、その状態でチェキを撮ることになる。


 秋人は思った。

 〈会話タイム〉の時はマスク着用は必須かもしれないけれど、アクリル板が間に存在するのならば、せめて、演者さんの方はマスクを取ってくれないかな。せっかくの初チェキなのに、彼女の美顔をチェキに残すことができないではないか、と。


 一般に、チェキが機械から吐き出され、そのチェキにサインを書いてもらっている、この時間が、演者との会話時間になる。

 実を言えば、チェキの撮影よりもむしろ、この演者との刹那の会話こそが、特典会の本質で、かつ、より緊張する時間なのである。

 

 秋人は、初めての〈接近〉なので、話すべき事をあらかじめ考えておいたのだが、演者と直面した瞬間、ほとんど全て頭から飛んでしまった。

 かろうじて、今日が初めてで、それと、バンドを知った切っ掛けについて話したように思えるのだが、過緊張のため、うまく話せたかどうかはよく覚えていない。


 特典会への参加希望者は数多く、夜の公演の準備のために、待機列が途中で打ち切られてしまう程の人数であった。


 夜公演のライヴは、スタンディングが解禁され、結果、もの凄く盛り上がり、あっという間に終わってしまった。


 ラスト・ライヴの後も、ホワイエでチェキ会が催された。


 秋人は、昼に引き続き、今回も、〈お気に〉であったベーシストの列に並び、今度は、演者だけを撮影する、いわゆる、〈ワン・ショット〉で撮ってもらう事にした。

 自分抜きの、麗しい姿の一枚が欲しかったからだ。

 そのワン・ショットの一枚は、解散記念にプロデューサーから贈られた花束を、彼女が両腕で抱えた姿であった。


 列に並んでいる間に、秋人は、今日のライヴの感想を述べる事にしていた。

 昼の特典会で、ツー・ショットを撮ったばかりという事もあり、彼女は秋人のことを覚えてくれていた。

 秋人も二回目という事もあり、頭が真っ白になる程には緊張せずに済んで、胸に手を置くと、ゆっくりと自分の想いを口にし始めたのであった。


「これは率直な印象なんだけれど、この一、二年の間に観たライヴの中では、トップレヴェルに入る、良いライヴだったよ。

 というのも、自分、後方から観ていたんだけれど、ものすごい〈一体感〉があったんだよね。前も後も真ん中も、観客席にいたヲタクたちが一つになって、ライヴを作っているって感じがしたんだ」


 これは本心であった。

 ラスト・ライヴという状況や、一五〇人と、参加人数が限定され、ずっと〈おし〉てきた〈おまいつ〉と、最後のライヴに参加したくて、発売開始時刻直後に購入した人しか、この空間にはいないのだ。

 だからこそ、現出された、演者と観客の一体感だったのかもしれない。


 ライヴは、最前列こそが最善だと思っていたけれど、最良のライヴというものは、最後部においても楽しいものなのだろう。


「そう言ってくれて、本当に嬉しい……」


 そして――

 彼女とは、「また、どこかで」という言葉で別れたのであった。


 バンドそれ自体は解散するけれど、彼女自身は、少し活動を〈休憩〉するものの、音楽そのものは続けてゆくつもりらしい。

 それならば、これは、もう二度と会えない、二度と生で歌を聴けないかもしれない、というような〈絶望〉的な状況ではない。

 個々のメンバーごとには、会える可能性がゼロではないのだ。

 だから、ヲタクたちは暗く、沈み過ぎてはいなかったのだろう。

 自分だって、彼女がソロ活動を始めたら、逢いに行く気マンマンなのだ。

 たしかに、バンドに対しては、最初で最後のライヴの参加になってしまった。

 

 だがしかし、「また、どこかで」という彼女との約束を果たしに行きたい、と、この時の秋人は思ったのであった。


〈参考資料〉

〈WEB〉

 「ホワイエ」、「不動産用語集」、『日本最大級の不動産・住宅情報サイト ライフルホームズ』、二〇二〇年十一月十四日閲覧。

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