冬人、レポートのための取材をする

第39イヴェ ジュヴナイル、ヤングアダルト、あるいはライト・ノベル

 毎週金曜の四限に、冬人が受講している講義は、一般教養科目、いわゆる〈パンキョー〉の『大衆文学論』のオムニバス講義であった。

 オムニバス講義というのは、フランス語の乗合馬車という意味の〈オムニビュス〉という語に由来していて、何らかの共通テーマの下に、多くの場合、三~四回で、様々な講師が講義をリレーしてゆく科目である。


 これまでの担当講師が、江戸時代の黄表紙や、あるいは、海外の文学作品を翻案した、たとえば、黒岩涙香といった日本の小説家を扱っている中、十一月から『大衆文学論』を担当することになった講師は、その一回目の講義を、こう切り出したのであった。


「僕は、青少年向けの小説、いわゆる、〈ラノベ〉を題材にします」

 冬人は、大学で扱う文学とは、ある程度、価値が確定した、新しくても、昭和の作品を対象とするものだ、と思い込んでいた。そのため、最新の大衆小説であるラノベが大学という場において扱われることに、すっかり驚いてしまった。

 講師は、それから、次のように語り始めた。


「〈ライト・ノベル〉や、それを略した〈ラノベ〉って言い方は、〈軽小説〉を日本語にした和製英語です。

 自分は、青少年向けの小説を、中高生の頃から熱愛してきたので、実は、どうしても、〈ラノベ〉って言い方がしっくりこないのですよ。

 というのも、僕が大学生の頃は、ラノベという単語が未だ存在していなかったからなのです。

 いったい、この〈ラノベ〉って呼び方が、いつごろから流布し始めたのかは定かではないのですが、僕が大学生や大学院の修士課程に在籍していた二十世紀末には、未だ流布していなかった、と記憶しています。

 〈ライト・ノベル〉って呼び方が流行り始めたのは、二十一世紀に入ってからのように思われます。つまりは、非常に新しい呼称なのですよ。しかし、その新語が、今や完全に定着していますよね。

 それでは、〈ラノベ〉という呼称が出現する以前には、少年少女向け、あるいは、青少年向けの小説が何と呼ばれていたかというと、〈ヤングアダルト小説〉、あるいは、〈ジュブナイル小説〉って呼ばれていたのです。

 今の学生諸君には、むしろ、この言い方の方こそ、なじみがないかもしれませんね。

 そもそも、〈ジュブナイル juvenile〉とは、〈少年期(ティーン・エイジャー)〉を意味する形容詞です。

 この語は、日本では一九七〇年代頃から使われ始めたそうなのですが、どのような物語を〈ジュヴナイル〉とするのか、その細かい定義は、出版社によって異なっていたそうです。

 とまれ、十代から二十代初めの少年・少女、あるいは、青少年向けの虚構作品を、〈ジュブナイル〉と呼んでいたようです。

 ちなみに、これは形容詞なので、英米圏における、正確な呼称は、後に名詞を付けた、〈ジュブナイル・フィクション〉、あるいは、〈ジュブナイル・ノヴェル〉であるようです。


 この〈juvenile〉って英単語、初めて知ったって受講生も中にはいるかもしれません。

 ちなみに、ネット辞書でこの単語を引いてみると、『レベル7、大学以上の水準、大学入試・難関大対策レヴェル』に分類されていました。

 そりゃあ、耳慣れないはずですよね。

 そして、この〈juvenile〉という形容詞は、英米圏においてすら、改まった場面以外ではあまり用いられない、堅い表現であるらしく、英米圏において、〈ジュブナイル・フィクション〉という固い呼称の代わりに使われるようになったのが、〈ヤング=アダルト・フィクション〉という言い方なのです。

 〈ヤング young〉は、中学以上のレベル1の単語、〈アダルト adult〉は、高一以上のレベル2の単語に分類されているし、両方とも、すでに日本の中で、普通に使われている外来語ですよね。

 しかし、それらを繋げた〈ヤング=アダルト young-adult〉となると、事情は異なります。これは、二つの形容詞を繋いだ造語なのですが、その語源は、十九世紀の初頭にまで遡ることができるようです。


 十九世紀初頭に、イギリスの作家であるサラ・トリマーは、、十四歳から二十一歳までの読者層を、〈ヤング・アダルトフッド young adulthood〉と呼んだそうです。

 ちなみに、十九世紀において、この〈ヤング=アダルトフッド〉の読者層に好まれた作品とは、『モンテ・クリスト伯』や『トム・ソーヤの冒険』、『不思議の国のアリス』、あるいは『宝島』などで、これらは、翻訳もあるし、中には、小中高生の頃に既に読んだことがある受講生もいるかと思います。

 これらのヤング=アダルト小説における主人公は、その主たる読者層である青少年と同年代であることが多く、物語内容は、波乱万丈の冒険であったり、SFやファンタジーにも通じる不可思議で幻想的な要素が含まれている事が多く、つまるところ、主人公が少年少女であったり、冒険や、SFやファンタジーが、〈ジュヴナイル〉、あるいは、〈ヤングアダルト〉という事になるのです。

 しかし、やがて、この〈ヤングアダルト〉という言い方も使われなくなってゆきます。


 日本では、〈アダルト〉という語は、大人向け、いわゆる十八禁の作品のことを指します。そこからの類推で、〈ヤングアダルト〉とは、青少年向けのちょっとエロい作品と誤解されてしまう事もあったそうです。

 僕は、皆さんと同年代の頃、青少年向けの物語を、〈ジュヴナイル〉、あるいは、〈ヤングアダルト〉と呼んでいました。

 しかし、前者は英語として難しく、後者は誤解のせいで、徐々に使われなくなってゆき、二十一世紀の今現在では、〈ライト・ノベル〉、省略して、〈ラノベ〉という和製英語に完全に取って代わられ、〈ラノベ〉というこの呼称は、今や完全に市民権を得ていますよね」


 それから、講師は、自分の分担講義では、ライト・ノベルだけではなく、それを原作とした、コミカライズ、アニメ、ゲームといったメディア・ミックス展開や、アニメにおけるオープニング、エンディング、あるいは、キャラソンといった、アニメ・ミュージック、さらには、物語の舞台となった場所を訪れる、〈聖地巡礼〉などに関しても、ラノベを取っ掛かりにして、縦横無尽に講義を展開してゆく、と語っていた。


 どれもこれもが、冬人にとっては実に興味深い内容であった。


 オムニバスの講義では、担当教員のいずれかを選び、レポートを書く事になっており、ラノベ先生が提示したテーマは、ラノベに関わっていれば、何でも構わない、とのことであった。


「アニメやマンガ、あるいは、ラノベのようなポップカルチャーなんて、研究じゃない、と否定する人もいるけれど、対象について、厳密な調査をして、それを材料に論理的に思考し、自分独自の結論を述べる事ができれば、なんだって研究になるのですよ」


 講師は、初回講義をそう締め括った。


 冬人は、『大衆文学論』のレポートの提出先は、迷う事なく、ライト・ノベルを扱う、この講師を選ぶ事にした。


 問題はテーマだ。


 アニメ・ミュージックのイヴェンターである冬人は、当然、〈アニソン〉をテーマにすると発想したのだが、これだけでは、いわば、ただ単に、料理のジャンルを決めたに過ぎない。問題は、何を材料にして、いかに料理をするかなのだ。

 オンライン講義が終了し、自室を出た後で、今日の講義内容の事を、同じ大学に通う先輩でもある、兄・秋人に語った。


「あっ、それって、……~じん師匠だな」

 兄は、したり顔で冬人にこう返じた。


 兄曰く、かの先生は、大学でも有名な〈ヲタク講師〉であるそうなのだ。


              *


 物販列の最前に並んでいた冬人は、頼まれていた分も含めて、買うべきグッズは全て問題なく購入する事ができた。そして、突然の購入上限数の設定によって、頼まれていた代購の代行をお願いしたヲタク仲間からのグッズの受け取りを終えるや、武道館脇にあるレストランの方に向かった。

 そのレストランの近くのスペースに、武道館開催記念グッズのガチャコーナーが設置されているからである。

 

 つまり、今回は、物販とガチャのコーナーが別々の場所に設置されていて、それぞれの購入列が形成され、冬人や、兄の秋人、グッさんや杉山さんは物販列の方に並んだのだが、ぼうくんさん、コマさん、ふ〜じんさんは、ガチャ列の方に並んでいたのであった。


 ガチャは五〇〇円玉で一回回せるタイプだったので、冬人も、前日に銀行に行って、両替をして、大量の五〇〇円玉を準備していた。


 物販を終えた冬人は、今度は、既に長々と伸びているガチャ列に並ぶ事になった。

 牛歩で少しずつ前進しながら、冬人は、たまたま履修した、オムニバス講義の『大衆文化論』で書いた、アニソンをテーマにしたレポートが切っ掛けになって、まさか、卒業研究においても〈アニメ・ソング論〉をテーマにする事になった不思議について考えていた。


 何事も〈合縁奇縁〉なんだよな、と。

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