先生のお友達

篝遊離

先生のお友達

「緒川先生、お疲れ様です」

 名前を呼ばれた緒川涼が振り返ると、印刷室の入り口には先輩教師の南知多ゆまが立っていた。最終下校の時間になり生徒たちを学校から追い出すという役目を終えて職員室へと戻ってきたところらしい。

「お疲れ様。緒川先生、部活顧問にも慣れてきました?」

「ぼちぼちです」

「美術部の部員とはうまくやれそう?」

「耳のピアス見せると毎度馬鹿受けです。扱いやすくていい子たちですね」

「あのねえ……」

 淡々と話しけだるげに首を回す涼を背の低いゆまが見上げて、深い息を吐く。ゆまは涼といるといつも溜息ばかりついていた。赴任して数ヶ月、梅雨も過ぎた今では聞いてるだけで幸せが逃げそうな音にも涼はもう慣れてしまっていた。

「いい加減学校でピアス外す気はない?」

「偉い人に怒られたらやめます」

「私あなたの先輩なんだけど、偉い人にカテゴライズするべきじゃない?」

「南知多先生だって教師としてはまだまだ新米じゃないですか」

「新任のあなたに言われたくないのだけど」

 ゆまが担任をしているクラスの副担任でもある涼。その耳には、ショートボブの髪で隠れているがいくつものピアスがついている。先輩の注意を気にしてない様子でコピー機を操作し、授業で使うのであろうプリントを製販している涼を見てゆまは「暖簾に腕押し……」と呟いた。

 彼女は自らに先輩教師としての風格がなく生徒たちから「ゆまちゃん先生」などと呼ばれていることを気にしている。だからなのか、直属の後輩のような存在である涼にやたら先輩をふかしてくる。

 涼より背の低いゆまに先導されて、プリントを抱えて二人で職員室に戻る。この身長差で偉そうにされても、と赴任した時からずっと思っているが涼は言わないでいた。

「二人ともお疲れ様―」

 職員室のデスクから半田亜矢が手を振った。涼のデスクは亜矢の向かい、亜矢の右隣がゆまの席。英語教師でゆまの先輩である亜矢はしゃべり好きで新任教師の涼にもよく声をかけていた。職員室はデスクで仕事をする者、誰かと電話をする者、コピー機の音、などで授業時間が終わっても騒がしい。

「ねー涼ちゃん、舌見せてよ」

 席についた途端にそう言われ、涼は起動したパソコンから顔を上げないままべぇっと舌を出した。そこに光っているのは小さな金属製の球。舌に刺さったピアスが外れないよいにする留め具の部分だ。おぉ、と感嘆する声と今日何度目かの溜息を聴いて涼は舌を引っ込める。

「飽きないですね半田先生。楽しいんですかこんなの見て」

「だって涼ちゃんが真顔で舌を出すのが面白いんだもん。いつもそんなんじゃ生徒に怖がられちゃうよ?」

 涼は目を逸らして小さく息をつく。フランクに絡んでくる亜矢のことが涼は少々苦手であった。他の先輩教師らからも笑顔が少ないことや表情に乏しいことをよく注意されるが、だからといって笑われるというのもあまりいい気分ではない。ピアスのことは注意しても「緒川先生の授業で生徒たちが学びを得られているなら」と表情のことは注意しないゆまの方が、口うるさくはあるがその辺りでは好感が持てた。

「まだバレてないからいいものの、いい加減透明なのとかに変えたら涼ちゃん。いくらうちの学校が私立で校則とかちょっと緩いからって、いつか怒られちゃうよ」

「脱ブラック校則様様ですね。教師のブラックな仕事量もどうにかなりませんかね」

「やめる気ゼロだよこれ、ねえ南知多先生」

 ゆまがまた溜息をつく。幸せが逃げると言えばさらに溜息をつきそうだから涼は黙っておく。自分という新任教師を見なければならなくなった時点でそれなりの不幸だろうから。そもそも、学校においてはもう逃げるような幸福自体ゆまにはないのかもしれない。

「緒川先生、半田先生の言う通りです。せめて透明なものに変えませんか」

「南知多先生は涼ちゃんのこと気にするねぇ」

「そりゃ後輩ですから。半田さんも、あんまり面白がって緒川さんを甘やかさないでください」

「えー、先輩に指図するの、ゆま」

 急に低い声になった亜矢ににらまれたゆまは固まっていた。涼は先輩二人のやりとりをパソコンで作業しながら眺める。主に、涼には偉そうなのに亜矢には頭が上がらない様子のゆまのことを。

「私は半田先生のことあんまり先輩だとは思ってませんけど」

「ひどいなぁ。いっぱい面倒見てあげたのに」

「恩着せがましいです」

 亜矢はおかしそうに笑い、ゆまはげんなりとした表情。涼は教師として赴任し数か月、ゆまと他の教師の関係を観察してきた。お人好しでものを頼まれると断れないたちのゆまは、しかし亜矢の扱いは妙にぞんざいだった。そのくせ亜矢に逆らいきれず、亜矢はゆまの言動全てを楽しんでいるかのような雰囲気。絶妙なパワーバランスを二人は築いていた。

 ブラウスの胸元を大胆に開いた亜矢、特に胸元は出たりしない薄手のシャツゆま。自身に似合うばっちり化粧をしている亜矢、薄く施された化粧のゆま。ゆまよりもさらに亜矢は背が低い。色々と対照的な二人は今日も楽し気に言い合いをしている。

「先輩たちは仲良しですね」

 よくない、とユニゾンする二人に涼はくすっと笑う。笑った表紙にマウスをクリックしてしまい、作成していた授業の指導案の体裁が崩れてしまう。

「緒川先生、公開授業の準備進んでる?」

「はい。南知多先生は心配しすぎです」

「新任のうちはこういうことも多くて緊張するでしょう? 私は世界史であなたは美術だから、指導案作りとかも助けてあげられないし」

 さっきまで亜矢にいいようにされていたのにもう先輩面に戻っている。大丈夫ですよと涼は返す。大人になってから他人に親身に世話を焼かれるのはどうにもむずかゆい。

「ぱぱっとこなしてみせますよ。あまり心配しないでください」

「なーんか大物感あるよね涼ちゃん。さすが」

 亜矢に茶化されて涼は口を噤んだ。苦手と思われてることに気付いているのか否か、亜矢はただニコニコと笑っている。何を考えているのかよくわからない亜矢の方が大物感が漂っている気がしたが、指摘するのはなんとなくはばかられた。

 仕事のこなし方や生徒に対する態度など、歳上で先輩の教師らしい余裕と風格を亜矢は備えている。先輩であるゆまには余裕というものがまるでない。涼も経験を積んで風格を身に付けていけばピアスごときで注意されることがなくなるのだろうか。亜矢のようになれる気はまったくしなかったが、ゆまのように人からいいように使われるのも嫌だった。つくづく対照的な先輩たちだと思う。

「涼ちゃんはなんで先生になったの? そんなピアスばっかり付けて不真面目なのに」

「……別に先生になる気はなかったんです。教員免許を取ろうと思ったのもなんとなくです」

「ならなんでなおさら」

 亜矢に食いつかれ適当にかわそうとしたが、ゆまが興味津々という顔をしていることに涼は気付いてしまう。亜矢一人しかいないところでなら話さない。だがなんだかんだと面倒を見てくれているゆまが聞きたがっているなら話してもいいかもしれないと思った。

「なんていうか、昔、ある人に『お前にしか救えない生徒がいる』って言われたんですよね」

「へえ」

「なんで、なっちゃいました。先生」

 それきり涼は黙って、公開授業のための指導案作りに戻った。亜矢は「いい話だねぇ」としきりに頷き、ゆまは何か感激している様子だった。

「緒川先生にもそんなに高い志が……」

「これからの成長に期待していてくださいよ南知多先生」

 ニッと口角を上げてみせたのに、ゆまはまた溜息をついた。亜矢は目を丸くして驚いている。期待していた反応を期待していた人物にもらえなかった涼はスッと表情筋から力を抜く。

「まずはピアスを外すところからですよ緒川先生」

「これはですね南知多先生、脱ブラック校則を推進することも兼ねて業務に支障のない範囲の自己表現を教師自らですね」

 涼が弁舌を振っているとゆまが他の教師に呼ばれ、デスクを立って行ってしまった。涼は再びノートパソコンに顔を向ける。指導案作りはあまり進んでいない。

「ゆまと涼ちゃんは仲良しだねぇ」

「そうですかね」

「涼ちゃん、ゆまに懐いてて可愛い」

「懐いて、って」

「ゆまってば涼ちゃんをどうやって手なずけたんだろう。私ももっと仲良くなりたいなぁ」

 目線を向けると亜矢はいつも通りニコニコ笑っている。涼は二人きりだと亜矢と上手に話せない。涼の話すテンポに合わせることなく亜矢は自分の好きなペースで話しかけてくる。なら自分が何を思っていて何を話しても意味はないと、そんな気持ちになる。大袈裟だと理解しているが、そんな常日頃感じている諦念、思春期の頃からずっと感じている想いが顔を覗かせてしまう。

 ゆまは涼の言葉を最後まで聴いて、言葉の一つ一つにツッコミを入れる。涼が従わないとわかっていてもゆまは注意することをやめない。出会って数か月。夏休みを一月後に控えた現在。亜矢には語らないが、涼が手なずけられたのだとすれば、ゆまのそういうところだろう。

「半田先生と南知多先生の方が仲良しだと思いますが」

「そうかな。私ゆまには嫌われてると思うんだけど」

 ゆまがいなくなってからずっと、亜矢は「南知多先生」ではなく「ゆま」と呼んでいる。涼と二人で話している時はいつもそう。他の教師がいる時にはゆまのことを下の名前で呼んでいない。今、周囲のデスクの先生たちがそれぞれの仕事で席を外している。

「半田先生は、私にやたら絡みますね」

「涼ちゃん可愛いから」

「そうですか」

 こんな風になれたら、という理想の先輩にそう言われて反応に困ってしまう。そんな様子を含めて面白がられているのだと思うとますます亜矢への苦手意識がつのる。憧れと苦手意識が同時に沸いてしまい、亜矢とどのような距離でいたらいいのか未だに涼はわからない。

「目が離せないんだよね、ゆまも、涼ちゃんも」

「はぁ」

「二人とも、可愛い可愛い後輩だからね」

 涼が返事をしようとすると年配の美術教師に声をかけられる。デスクを立って美術教師のもとへ向かい、公開授業に関する打ち合わせが始まる。その間ずっと、「可愛い」と言う亜矢の普段より低い声が耳から離れなかった。

 校内の鍵を手にこれから施錠に向かうらしき亜矢にひらひらと手を振られ、べぇっと舌を出してすぐに引っ込める。視界の端では、人からものを頼まれていたらしきゆまが目を吊り上げて何か手ぶりをしている。

 いつの間にか涼の日常になった光景。教師になる気なんてさらさらなかった涼もなんだかんだ教師としての生活に馴染んできている。愉快な先輩たちに囲まれて目をかけられて、社会人一年生としては上々な滑り出しなのだろう。

 同僚やお偉方に見られながらの公開授業が終わればもうすぐ、教師生活として初めての夏休みがやってくる。夏休みだろうと教師の仕事がなくなるわけではないのだが、あの先輩たちと過ごせるのならまあ悪くはない夏休みになるのだろうと思った。

 ゆまに向かって舌を出して彼女が顔を真っ赤にして何か伝えてこようとする様子を眺め、そんなことを思った。





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