ep11,克服

世界は色に溢れていた。

ガイドをなくした彼を突き放すようだった。目印も何もない。秩序も提案もない。雨の水滴に滲んだ、小さなくすんだ光の球が、濡れた瞳にまとわりつく。赤。緑。オレンジ。青。黄。紫。藍。

キララは奥歯を噛み締めた。鉄っぽい味がする。

瓦礫の向こうに大通りが見える。揺れ動く銀色の影が、ちらちらと反射を返している。スケアクロウたちの後を追って駆け出そうとするが、身体がうまく動かない。

歩かなきゃ、行かなきゃならないんだ。邪魔な前髪を振り払って、上を見る。雨が額を叩く。

辺りの高層ビル群は途方もない背丈で街の歪みを覆い隠そうとしている。それを無視して、空のど真ん中にぽっかりと穴が空いていた。膿んだ瘡蓋を抉り取ったような。そこには紫解バイオロジーの水槽があった。砕けて割れた巨大なガラス壁の破片が足元一面に積もっている。粉々の堆積物は、水槽から流れ出た濁流の凄まじさを思わせた。


寒さは肌を刺すようだった。どうにか歩いて、通りとの境目まで辿り着く。銀色の支流は、加わる人数をさらに増やしてうねり続けている。キララの脇を数体のスケアクロウがすり抜けて、それに混じり合っていった。

セントラルの入り組んだ交通網はさっぱりわからない。でも、この流れがどこへ続いているのかは知っている。

海。導いたのは俺だ。俺が行くべき場所もそこだった。叶えられなかった夢の場所。

今は違う。俺はもうカズヒサじゃない。もと来た世界に帰らなきゃならない。でもどうやって?


何か柔らかいものを踏んで足がもつれた。小さく毒づいてそれを跨ぐ。見ると、マイモの死骸だった。

息を呑む彼の小さな靴を舐めるように、瓦礫の隙間から隙間へ、別のマイモが飛び出して走り去った。慌てて跳ね退き、消えた先を視線で追う。

ビルの一部だったらしいコンクリートの塊が、巨大なクランチチョコレートになって道路に突き刺さっている。マイモの潜り込んだ隙間からは腕が伸びていた。青縞柄をしたシャツの袖が僅かに見える。腕時計をした手首は、何かを掴もうとして開きっぱなしになっていた。濁った赤色の水がその下に溜まっていた。

キララは目を背けた。激しい耳鳴りが彼を咎めた。寒くてたまらなかった。

勝ったんだ。もう怖くない。なのに、何でこんなに震えてるんだ?


小さな身体は冷え切っていた。白衣も髪もずぶ濡れで、灰の混ざったビル風が叩きつける度に、全身が鋼に戻ったようになった。両腕で身体を覆って縮こまる。震えは止まらない。スケアクロウの行進についていけるとは到底思えなかった。

セントラルは8歳の女の子が歩けるようにはできていない。このままじゃ、海は遠すぎる。

彼は首を振った。

あいつの元に帰るんだ。俺だ。俺がどうにかするんだ。考えろ。

生身の身体。面倒を見てくれるAIはもういない。サジェストもなし。凍えて死にそうだ。道もわからない。

だったら何がある? 行くべき場所。帰るべき所。どうすれば辿り着ける?


雨の向こうから、相変わらずけたたましい耳鳴りがする。こめかみを殴りつけられた気がして顔を上げると、音の原因がわかった。それは道端に乗り捨てられた車の警報だった。雨に濡れた黒光りする鉄の塊。開きっぱなしのドアが絶え間なく吠え続けている。

クソ。まずはあの音を止めなきゃ何もできそうにない。大股に近づいていって、右手を振り上げる。焦燥感と怒りの混ぜ合わせをドアにぶつけようとして、手を止め、ふとその中を伺った。

車は無人だ。エアコンがついていて暖かい。ドライヤーのような温風が外気を追い出そうと最高出力で吹き出している。冷えた肌には痛いくらいだった。

キララは助手席に上がり込んで、内側からドアを閉めた。悲鳴は止んだ。

膝をついて運転席まで這っていき、ハンドルの周りを覗き込んだ。小さなモニターがついていて、ナビゲーションの道から外れていることを示している。

AUTO PILOT。頭の中で、祈るようにコマンドを思い浮かべる。反応はない。モニターを拳で叩く。AUTO PILOT。何度か繰り返してから、彼は声に出して笑った。画面にマイクのアイコンがばかでかく表示されている。


「自動運転」


車が答えた。


〈目的地を選択してください〉

「シナガワ。海浜公園」


地図がズームアップされて、指定された地域を示す。キララはホテルを見つけ出し、指で触ってピンを打った。


〈シートベルトを締めてください。運転中はハンドルから手を離さないでください〉


運転席に座る。フロントガラスの先を見るには背が足りなかった。びしょびしょになった『本日の主役』のタスキと交差するように、言われた通りシートベルトを締めて金具を触り、確かめる。座席に浅く腰を下ろし、腕を目一杯伸ばしてハンドルを握る。電子音とともに車は静かに動き出し、瓦礫と縁石を踏み越えて道路へ戻った。センサーは障害物としてスケアクロウたちの群れを検知し、通行可能な迂回路をサジェストしながら目的地へ向かって走り始めた。


車内は綺麗な箱で、薄暗く、暖かくて、静かだった。カーラジオと屋根を叩く雨音、時々瓦礫を踏み越える振動がランダムに混ざり合って心地良かった。


「……セントラル・シンジュク区の現在の様子です。市中では、倒壊した紫解バイオロジー本社ビルから逃げ出したとみられる数多くのマイモが街の中を走り回っています。

倒壊したビルは120階立てで、当時1800人の社員が中で働いていたということです。これまでに多数の死者・行方不明者が確認されており、治安維持局は身元や安否の確認を進めると共に、犯人の行方を追っています」


エアコンのおかげで、そのうち身体の震えは治まった。これでいい。


「自分が生き延びるためなら、何をやったって構わない」


頭の中の、もう存在しないチャット欄に文字を書いた。


「そうだろ」


車内を照らす窓からは、赤・青・緑の混色がでたらめに瞬いて流れ込んだ。

ヒノキの爽やかな芳香剤の向こうで、生臭い血と、劇物臭、鋼鉄の粉塵の匂いがした。

小さな手で握るハンドルは、硬いウレタンでできていた。ざらざらしていて冷たく、指先はまだかじかんで凍えていた。身体中が鈍く痛んだ。

世界は答えた。そうだ。だが、必ずその報いはある。キララはそれを受け止めた。



「この倒壊事故と関連性は不明ですが、セントラル区のほとんどの地域で紫解社製アンドロイド・スケアクロウの集団暴走が発生しています。命令を受け付けなくなったアンドロイドは非常に危険です。絶対に近づいたり、触ったりしないでください。また、エクストラ市全域で同様の暴走が発生しているとの情報も入っています……」





スケアクロウたちの足音が、セントラルの巨壁に反響して街を震わせた。

最初は坂道に点々と転がるビー玉のようだったが、数を増せば増すほど、彼らはひとつの巨大な生き物になった。シンジュクとシナガワを繋ぐ最も大きな道路はカズヒサたちで溢れかえり、もう地面のアスファルトの色も見えなかった。人々は建物の中や道の脇に身を寄せて、ただ眺めているしかできなかった。

海を目指す彼らの姿は、銀色の蟹のようにも見えた。硬質な殻の中で、白い、柔らかな筋が収縮し、彼らの意思を以てその足を動かしている。もう誰も彼らをただのアンドロイドだとは思わなかった。命のある足取りは艶かしかった。

どうして、生きていなきゃならないのか。

何で、こんなのを耐えなきゃいけないのか。

有機部品の残滓の声が、印刷されたその日からずっと問いかけてきた。

答えはどこにもなかった。いつか報われるはずだから。いつか兄ちゃんが迎えに来るから。怖いことなんて何もない、幸せな日が来るはずだから。11歳の頃に刻んだ、アキヒサの残した言葉を代入し続けてきた。

それなのに。


スケアクロウたちを傷つけたのは、悪夢だけではなかった。

キララには既に答えが分かっていた。彼はスケアクロウに見せるための記録を最も悪趣味なシーンで締め括らせた。オキザリスにはその意図を理解できなかったが、指示通りに編集した。それは恐ろしく上手く機能した。


悪夢の終わりに閃いたのは、待ち望んだその人の姿だった。キララにとっては、弟。

白い巻毛。金色の瞳。

カズヒサにとっては、自分。あるいは誰か。スケアクロウ素体。兄さんと同じ姿の人。手を差し伸べてくれる人。大丈夫だと言ってくれる人。兄さん。アキヒサ。


深夜のどこかのチェーン店で、レールの上を寿司が回っている。ボックス席。モノクロの世界の向かい側にその人は座っている。机の上にいくつも皿が並ぶ。その人は宝石でも見るようにそれを眺め、感嘆し、やがてそれを口に運ぶ。咀嚼して、喜びに悶えて、なにか呟く。ずっと夢に見てきたものの味。


薄靄の中、その人は背を向けて砂浜に座り込む。足元の何かを拾い上げ、振り返る。髪が潮風に揺れる。角のとれたガラスの破片を差し出し、その眼の中に海の瞬きを光らせ、微笑む。

ずっと会いたかった人。この世で最も恋しかった人。愛しい人。やっと会えた。そのはずなのに。


願いは叶った。悪夢の果てに。そして知ってしまった。

お寿司なんかどうでもよかった。海に来たかったわけでもない。兄さんは死んだ。もう一度会えたって、別に何も変わらない。願いが叶ったからといって、それで、どうなる? この密封された箱詰めの地獄の、何が終わる?

終わらない。何も変わらない。誰も救ってくれやしない。幸せな日なんて二度と来ない。この先に待っているのは苦痛だけだ。だったらどうすればいい? 答えはひとつしかない。

平穏は、過去と、もう一つの場所にしかない。静かなところ。誰も自分を傷つけないところ。掴めない望みが目に飛び込んでこないところ。アキヒサはそこへ先に行った。僕を置いて。


カズヒサたちの心は澄み渡った。胸の真ん中を失くして戸惑いと空虚に押しつぶされそうではあったが、うらはらにどこか晴れやかで、ピクニックに行くような気分でもあった。もういいんだ。もう待たなくていい。僕も行こう。終わりにしよう。


最初のスケアクロウが砂浜に辿り着いた。カズヒサは独り、ざく、ざくと砂を踏んで、波打ち際に立った。海は彼が誰であろうが気にしなかった。

殻に覆われた脚を波が濡らし、招き入れた。本物の潮騒の音にカズヒサの心は少しだけ躍った。もう怖くなかった。

つま先のつかない深瀬まで水に揺られながら歩いていって、身を委ねた。雨のひとしずくのようだった。小さな泡を水面に残して、銀の装甲は沈み込んで見えなくなった。

もうひとり、またひとり、銀の足が砂を踏み、海に溶けた。



「やめて!」


ホテルの窓からはそれがよく見えた。人ひとり分の広さの窓枠が景色を切り取り、絵画として飾っている。テレビよりリアルだった。

水平線の上で工業地帯の青白い光が瞬いていた。砂浜に群れを成す滑らかな装甲がそれを跳ね返し、信号となって彼を呼んだ。カズヒサにはもどかしかった。


「僕は行かない! 僕は違う……!!」


スケアクロウ素体には恐ろしかった。窓の下は暗闇で、どのくらい高さがあるのか想像もつかなかった。カズヒサは網入りの窓ガラスに全身の体重をかけ、掌で押し破ろうとした。スケアクロウ素体は額を窓枠に叩きつけて逆らった。殻のない身体は痛みに呻く。お互いに耐えがたい苦痛だった。


「やめて……! 返して……! 僕のだ……あなたのじゃない! 返して!!」


海は綺麗で、目の前にあった。恐怖がガラスに小さなヒビを入れた。


「助けて……にいちゃん! 助けて!!」


戻ってきて、助けてくれる。そう信じたかった。声に出して願わなければ嘘になってしまう気がした。

どうして、なんで。どこにも行かないで、ずっと一緒にいてって言ったのに。浜辺で拾った宝物が、今はほとんど砕けて、床にぶちまけられていた。


「お願い、帰ってきて……置いていかないで……!」






たった数時間前にいたはずの場所が、まるっきり別の景色に見えた。キララはスケアクロウで埋め尽くされた道の手前で車を乗り捨て、路地をすり抜けて走った。息が上がって脇腹が攣った。自分の心臓の音が鬱陶しかった。

ホテルのエントランスは何もかも巨大だった。石板に似た縦長のタッチパネルボードに飛びついて、自分の部屋の鍵番号を打ち込もうとした。

それで自分が相変わらず無力なことを思い知った。部屋の鍵、パスワードがわからない。これまでコインロッカーで取引をしてきたのと同じように、全てのパスコードはオキザリスが記憶していた。英数字の入り混じった呪文を唱えなければ、エントランスの自動ドアさえ開けられない。

『機械義肢にもバリアフリー』を謳うタッチパネルは、シンクチャットの入力に対応しているが、子供の背丈は想定していなかった。何度もその場でジャンプして、背丈の限り手を伸ばし、仮想キーボードにあてずっぽうのパスワードを叩き込む。


「クソ!」


電子音と共に拒否された。最初の一文字さえわからなかった。ランダム生成で推測もしようがない。3回試して、キララはパネルを殴った。


「クソ、クソ、クソ……!」


結局オキザリスがいなきゃ何もできないのか。ふざけるな。彼は頭を掻き毟りながら石板の前を左右に歩き回った。善処。善処だ。善処しろ。今の俺には何ができる。パネルの前で立ち止まって、睨みつける。タッチパネルの反応部分を触らずにいたせいか、画面は電源の消費を抑えるべく暗転した。パネルの足元、ぱっ、と暗くなった液晶に自分の顔が映った。女の子だ。8歳の。『本日の主役』。

さっきまで、この世で一番恐れていた相手の顔。今は怖くも何ともない。


「…………」


キララはパネルの先に歩いていって、強化ガラスでできた自動ドアに両方の掌をついた。上の階へ通じるエレベータホールが奥にある。壁一面塞いでいて抜け道はない。

紫解バイオロジーのオフィス階にも同じ素材でできた、同様のセキュリティドアがあった。プラズマ砲でもなければ容易には貫けない、乳白色に滲んだ強固なガラス。

でも、割れた。

あの時砕けたのは穴が空いていたせいだ。それにあと少しで死ぬところだった。恐ろしかった。PSIは防御反応、自分を危険から守る力だった。

今必要なのは違う。どうすれば引き出せるのかわからない、使い方も知らない何かだ。それでも。


「……できる」


俺は、悪の帝王だ。ルールなんかどうだっていい。


目を閉じて、ガラスの手触りを確かめる。温度のない氷みたいだ。彼はゆっくりと息を吐いた。額がガラスに触れた。

真っ暗な瞼の裏にテレビのモニターを描いて、そこに映像を映した。薄氷。夜明けの水溜まりに張った、上等なワイングラスよりもっとずっと薄い、透き通った透明な層。自分はそこに両手をついて触れている。掌は虹色の鋼。冷たい夜。冷え切った鋼鉄に霜が下りている。ビル風が長裾のコートを翻す。氷の鏡面に映るのは真っ黒なマスク。

キララは重機の手を握り締めた。

世界は鏡だ。触れなければ何も変わらない。伝えなければ届かない。破らなければ壊れない。顔の周りで、チカ嬢の長い黒髪が重力に逆らって浮かび上がるのを感じた。


「ふざけるな」


拳を叩きつける。

強固なセキュリティドア一面に亀裂が走った。


「ふざけるな……! こんな所でぐずぐずしてられるか! たかがガラス扉一枚だろうがッ!!」


不条理が殴られて揺らいだ。


「ふざけるな!!」


キララは叫んだ。鋼の両腕は、強化ガラスを貫いた。


「……ッ!!」


雹ほどの粒になった無数の破片が一瞬宙に静止し、ホテルのエントランスの床一面に飛び散った。

壁はもうそこにはなかった。目の前は拓けて、エレベータまで素通しだった。


やった、と叫びかけて、心臓を握り締められたようになって呻いた。送り出した圧力が逆流するような感覚。いや、違う。どこかから返ってきた波だ。脳みそを揺さぶられ、ガラス片の上でよろめいた。貝殻を踏み砕く音がした。

脳裏に研ぎ澄ませたテレビモニターの表示が、誰かのノイズで歪んだ。今の彼にはわかった。あいつの声だ。共鳴。二の腕と背中に鳥肌が立った。何かとてつもない、底のない穴が胸に空いたような無色の空虚。怯えて助けを求めるビビッドカラーの感情。その混ぜ合わせ。


ガラスの破片で切った指先に唾をつけて、彼は声のほうへ走った。

エレベータに飛び込んでボタンを叩き、籠が着くと同時に廊下を出来る限りの早さで駆け抜けた。色のない記憶を頼りに自分の部屋を見つけ出すと、自動ドアと同じ方法でその扉を叩き壊し、中へ飛び込んだ。誰かが飛び降りようとしていた。

真っ暗な部屋の中、ホテルの長方形をした窓は割れてしまって塞ぐものがなく、鈍色の風雨が部屋に吹き込んでいる。窓の外の青白い光が、窓辺に寄せた四角い椅子の上に立つ人の輪郭だけを際立たせた。広げた両腕を左右の窓枠にかけて、髪は雨の飛沫に濡れ、薄く銀に透けている。藍色のパーカーとの間から頸が白く覗いた。

雨のせいか、その姿はくすみ、滲んで見えた。


「兄ちゃん」


やけにはっきりと聞こえた。答えようとしたが、声の振動でさえ突き落としてしまいそうで、息を呑むことしかできない。キララにはそこにいるのが誰だか分からなかった。


「……兄ちゃん」


そして気づいた。あれは、カズヒサだ。


「やめて」


窓枠にかけていた片方の手が悶えて、空っぽに見えた身体に色がついた。厚いアクリル板に光が通って七色に屈折したときのような。


「やめて……!」


ひとつの身体の中でふたつの意思が拮抗しているのが見てわかった。震える腕が窓枠にしがみつく。身をそらしてゆっくりと振り返り、横顔が露わになって、泣きそうな弟がこちらを見た。


「助けて……にいちゃん、助けて……! 止めて!!」


聞き取る前にその背中へ飛びつき、椅子の上から引きずり下ろしていた。バランスを崩して倒れ込み、ふたりは部屋の床を転がった。服の上から刺さる破片の痛みに小さく唸りながら、絡んだコードのようになって、キララは気づくと弟を絨毯に引き倒して胸の上へ馬乗りになっていた。


「にいちゃん!!」


弟はそれを抱き締め返そうとして、目の前にいる相手の姿を見た。


「え……」


長い黒髪。


「……あ……」


白衣の、小さな女の子。


「にい……ちゃん………?」


悪夢の中で見たばかりの。


「……そうだ。俺だ」


キララは弟の瞳に映ったものを察し、自分の頭を殴りたくなった。この世で最も恐れていたもの。さっき自分でそう認めただろうが。


「……わかるだろ」

「兄ちゃん」


カズヒサの頬から血の気が引き、口元が恐れに歪んだ。瞳孔が開いていくのが見えた。金色の瞳の奥には、恐怖を鋳る灼熱の炉が燃料を得た。

頭ではわかっていても、感情には逆らえない。よく知っていた。止めるには誰かが心を引き戻すしかない。アキヒサはこういう時、弟の名を呼んで宥めた。


「どうして……」


俺にはできない。カズヒサと呼んだらあいつが消えてしまう。でも、名前のないものには呼びかけられない。

絨毯に散乱した思い出、宝物、この部屋の窓だったのか海から来たのかもわからない全部入り混じった粉々が、微弱に振動しながら宙に浮かんだ。銀の髪が揺らめき、瞳は黄金に燃え、力が熱を帯びた。切れ味のない極太の鋏に挟まれるような圧力。


「……ダメ! 逃げて!! 離れてッ!!」


弟は目の前にいる人を突き飛ばした。キララは身を仰け反らせたが、圧縮された空気に押し潰されて呻いた。胡桃を擦り合わせた音が身体の内側に響き渡った。

紫解のビルで殺した警備兵の肉塊が頭に過ぎった。


「あああああっ!! にいちゃん!! にいちゃんっ!!」


自分がどうなっているのかよくわからなかった。痛みを通り越した衝撃を頭が理解しきれていない感覚だった。鈍い破砕音が聞こえたのか、弟は狂ったようになって泣き喚いた。


「だめええええッ!! やめて!! にいちゃん! 死なないで! にいちゃんッ!!」


即死は免れた。ヨツヤ博士のあの執拗な躾に救われたのか、力は彼の身体の中心を避けた。だが、入り混じって乱れたふたつの心は完全にコントロールできるほどカズヒサのものではない。

やめてくれ。キララは潰れかけた身体で喘いだ。違う、お前は違うんだ。あんな奴を怖がらなくていい。あのクソ野郎はもういないんだ。スケアクロウとは、ほかのカズヒサとは違う。しかし、キララにはそれを証明できなかった。目の前の青年が古い彼自身、カズヒサ、彼の弟のうちどれであるか、わかっていてもその名前を呼ぶことができなかった。


「やめて!! どうしよう!! どうしようっ!! あああああっ!! 殺さないで!! だめ!!」


スケアクロウ素体の両手には、さっき感覚付きで幻視させられた悪夢の一部がまだ残っていた。真っ白で無機質な部屋の中で、自分と同じ姿の人を自ら縊り殺す。柔らかいものを弾けるまで圧して、魚卵でも潰したように内容物が溢れ出るのを想像した。嫌だ。怖い。その嫌悪がさらにPSIを強めた。キララは呻いた。


「お願い!! やめて……やめて……やめてええッ!!!!」


弟は両手で自分の髪を鷲掴んで、頭の中のもう一人に縋った。身を捩った拍子に、その顔に雨が吹きつけた。


「あ……」


窓があった。彼の目はガラスのない虚無を見つけた。

キララもそれに気づいた。


「バカ」


カズヒサだったら、どうする。あの日、あの時、俺は。手を。


「バカ、やめろ……」


離そうとした。兄さんを俺から守るために。

カズヒサには、俺にはできなかった。でもこいつは違う。


「やめ……」


意識の朦朧とする中で、青年は女の子を押し退け、立ち上がり、外の光に照らされ靄がかって見えた姿は、止めようと伸ばした細い腕の間をすりぬけて、壊れかけの小さな身体を右足で跨ぎ、左足は椅子、また右、足はもう窓枠にかかって、カズヒサの肉体を宙に持ち上げ、窓枠の向こうへ身を放り出し、見る間に暗闇へ溶け、セントラルの途方もない高層構造物のひとつであるホテルの一室の窓から外へ……




「わあああああああっっっっっ!!!!」


キララは叫んだ。バネ仕掛けのように跳ねて窓から身を乗り出し、掌を翳して弟の両腕を不可視の力で引き寄せ、その手首を掴んだ。


「あああああッ!!!! あああああ!!」


彼は重機だった。その瞬間は、自分の器を博士と入れ替えたことも、いま自分が砕けて死にそうなことさえも忘れていた。

キララは弟の顔を見た。弟は目を丸くして、何が起きたのかよく分からないまま、なすがままにぶら下げられている。それから自分の細い腕と階下の奈落を見た。強い風が二人の身体を煽った。

我に返って、嘘だろ、と思った。魔法が解け、本来の重力がかかりはじめた。PSIで折られた骨の痛みが今更になって脳に伝わり、現実味を帯びて彼の意識を襲った。質量に引きずられて自分も一緒に窓の外へ落ちていきそうだった。


「ぐ……あ、……」


気を失いそうになった。それに従うまいと、頭に浮かぶ言葉を片っ端から喚き散らした。


「ああああッ……」


オキザリス! オキザリス、助けてくれ。頼む。オキザリス。誰か。何でもいい。俺に力を貸してくれ。こいつを引っ張り上げる力を。誰か。誰でもいい、誰か……俺じゃダメだ。俺なんかじゃ助けられない。自分よりもっと優れた誰か、何か、途方もなくよくできていて、ためらいも迷いもなく万物を捻じ曲げる力を持つ、全能の神のような。そんな誰かが聞き届けてくれることを祈った。雨の向こうに、奈落の上に、ここから救いあげてくれるものの存在を願った。誰か。ああ、どうか。もう二度とあの日と同じことを繰り返させないでくれ。どうか、誰か……


「にいちゃん……」


違う、俺だ。ふざけるな。

胸の奥底で、何か新たな感情が蠢いた。

ふざけるな。祈ったって誰も助けてくれやしない。今までずっとそうだった。願って、だから何になる。

寿司を食うときだって同じだ。ただ指を咥えて好物が来るまでレールを眺めてるだけか。本当に好きなものを食いたかったら、せめて自分で注文くらいはするだろうが。

誰かじゃない。俺だ。俺が、やるんだ。


「にいちゃん! 離して! 死んじゃうよ……!」


嫌だ。


「ぐ……」


キララは弟の腕を掴む手に、力を込めた。重機の腕を思い浮かべた。モーターの熱と振動を頭に描いた。


「だめ! だめ……離して……早く……!! どうして……!!」


弟の恐怖がそれを拒んでいる。繋いだ手が圧し潰されていく感覚。強烈な痛み。手首がちぎれそうだった。二の腕の辺りが不可視の圧迫に沸騰して、どろついたものが肌に迸った。今は、そんなことはどうでもよかった。

嫌だ。やっと掴んで、二度と離さないと誓ったんだ。こんなことで失くしてたまるか。


「やめて……! お願い! 離して!! にいちゃん……!!」


あの日、アキヒサも同じように何かに願ったのだろうと思った。それに答えて、世界はふたつの魂を二本の線路の左右に置いて、11歳の男の子にどちらか片方だけ選ばせた。そういうふざけたルールにさせた。それで、ああなった。

俺は違う。俺はこの世を支えるバカみたいな歯車になるのはやめた。誰が従ってやるものか。


「嫌だ」


キララは目を見開いた。チカ嬢の濃褐色の虹彩は眩く黄金に塗り変わり、燃え滾る恒星の色に煌々と光った。長く黒い髪が極熱の陽炎に揺らぎ、毛先から虹を抱く銀へと静かに透き通っていった。


「嫌だ!」


彼の怒りは呻りを上げて駆動した。重い鉄塊の腕は物体の理を、誰かの定めた巨大なものを、ここに至るまでに在った全てのものを捻じ曲げた。


「ふざけるな!!」


キララは弟を、彼の失いたくなかったものを、今度こそ死から引っ張り上げた。力強くその柔らかな身体を掲げて、胸に抱き、部屋の中へ背中向きに倒れ込んだ。

二人で。



冷たく濡れた身体は凍え切って、抱き締めて触れる互いの腕の中だけが温かかった。二人はしばらく、そのまま吹きさらしの霧と風に震えていた。吐息と胸の激しい鼓動が、今ここで起きたことの証明だった。


「……俺を!」


キララは弟の襟ぐりに、小さな両手で掴みかかった。


「俺を置いていくな!!」


雨で顔はぐちゃぐちゃだった。今自分の胸の内から溢れ出しているのが涙なのか、激昂なのかも、彼にはもうよくわからなかった。ただただ濁流を止められずに吐き出すしかなかった。


「ふざけるなッ!! 勝手に俺を救おうとするな! 俺のためみたいに死のうとするな、このバカ野郎が!!」

「ごめん……」


両手を拳にして、目の前の相手の胸に何度も叩きつけた。何年も、十何年も心の奥底で渦巻いてきた、吐き方のわからなかった言葉だった。


「何が幸せだ! 何がずっと一緒だ! 後のことも考えずにその場だけの適当な嘘つきやがって! デタラメだって気づくまでどれだけかかったと思ってんだ!! 次から次へとクソみたいな事しか起きなかっただろうが!!」

「にいちゃん」

「俺は……! ずっと信じてた……! ずっと待ってた……! ……ふざ……ふざけるな……俺は……!!」

「にいちゃん……」


うう、とキララは呻いた。弟のパーカーの両紐を思い切り引っ張って、懐に頭を押し付けた。


「俺は……」


何をどうしたら今抱いた感情を伝えきれるのか、伝えたいのか、本当は誰に言いたかった言葉なのか、何もわからなかった。俯くと、真っ白になった髪のカーテンで何も見えなくなった。


「……俺には……お前が必要なんだ……」


流れ出してしまった言葉の、底へ最後に残ったものをさらおうとして、途切れ途切れに呻くように声を絞り出す。彼の弟はその前髪を指先で掻き分けて、小さな耳にかけてやった。


「もう、全部壊して、捨ててきた。何にもないんだ。俺には。だからお前が要るんだ」


キララは弟の瞳を、髪の隙間から見上げた。


「アキヒサでも、カズヒサでもない。お前が」

「僕が?」

「そうだ。お前は」


呼びかけて、口ごもる。それから失くしっぱなしの鍵がポケットから出てきた時のように、小さく笑った。


「……光。光だ。俺の光。もう二度とどこへも行くな」

「置いてったのはにいちゃんじゃない? こんな、テープで手も足もぐるぐる巻きにしてさ……」

「うるさい。光。とにかくヒカリだ」

「ヒカリ」


ヒカリは言葉の響きにはにかんだ。


「綺麗な名前」

「当たり前だ」


輝きのどこかに、小さな喪いがあった。器のラベルは変わった。


「光。そうだ。光……」


その名はきっと、子供の頃眺めた水滴の光からやってきた。でもそいつは死んだ。もうお別れだ。

光。うわ言のように何度も呟いていると、窓ガラスいっぱいの雨粒が見える気がした。水の中に跳ね返った冷たさが彼の意識に手をかけて、どこかへ連れて行こうとした。自分の身体が冷えたせいか、触れ合う僅かな温もりがやたらと心地よかった。弔ったものと一緒に、自分も満ち足りて溶けてしまいそうだった。


「……にいちゃん! ダメ! 起きて!」


胸の中で眠りそうな身体を揺さぶって、ヒカリは鋭く声を上げた。それから恐怖がこぼれ出さないよう自分の口を両手で覆った。押し殺した声で必死に囁く。


「……これからどうしたらいいの!」

「大丈夫。大丈夫だ」


微睡みの中で、キララは答えた。


「あいつらは、平穏を手に入れた」


窓の外を指す。浜辺にはまだ行進と銀の海が広がっていて、最後の一人が消えてしまうまで続きそうだった。


「スケアクロウを作ってる奴も、会社ごとやっつけた。怖い奴はみんないなくなった。金だって博士の口座にいくらでもある。何も心配しなくていい」

「どこへ行けばいいの」

「もう怖いものなんて何もない。怖がらなくていいんだ。これから……」


声はどんどん小さくなった。ヒカリには、耳を寄せて微かに聞き取るのがやっとだった。


「二人で……どこにでも、好きな所へ行こう。眺めのいい場所へ」










セントラルの街には、凄まじい混沌が洗い流したあとの途方もない静寂があった。ざらざらした波がまだ海のほうから聞こえてきた。

ヒカリはキララの小さな身体を横たえたまま抱えて、ひと気のなくなった広いアスファルトの道を歩いた。側溝に水が流れる音でさえ、腕の中の吐息をかき消しそうだった。

抱きかかえられたまま、うっすらと目を開けて景色を見ているのは楽しかった。一歩進むたびに揺られて、身体の芯の潰れた部分に鈍く響いた。脳の絞り出したヴェールに覆い隠され、痛みはどこかへ消えてしまった。ずっとこうしていたい、と思った。


「にいちゃん」


動かない兄を不安に思って、ヒカリは立ち止まった。


「にいちゃん……大丈夫?」


キララは手を伸ばし、弟の頬を撫でた。


「寿司だ」

「え」

「寿司、食いに行こう。一番旨い寿司だ。セントラルの端っこの。板前が目の前で握ってくれるんだ」

「すごい」

「見たいだろ」

「……そうだね」

「見せたいんだ」

「うん……」


ああ。

手が震え始めた。

寒い。暗くなってきた。冷蔵庫の中にいるみたいだ。


「にいちゃん……」


腕の中の呼吸は浅くなって、電池の切れかけた時計のようだった。ヒカリは立ち止まって膝をついた。

道脇にそっと横たえられて、伸ばしていた腕が弟の顔から遠ざかった。さらに遠く、帰れない所まで引き離されていく気がした。

終わりが背中のすぐ後ろまできて、彼を呑もうと口を開けていた。弟の両手が頬を包むように撫で返して、その温かさが恋しかった。


「にいちゃん。やだよ。にいちゃん……」


このままじゃ、ダメだ。このまま博士の身体のままでいたら、こいつとは一緒にはいられない。

新しい器が要る。生きたい。


「置いていかないで」


俺は死にたくない。


「目を開けて。にいちゃん……」


俺はまだ……





「みゅう!」


突然、思いがけないものが二人の間を隔てた。

ヒカリは悲鳴を上げて飛び退いた。一匹のマイモがキララの胸の上に乗って、人懐っこく少女の顔を覗き込んでいる。


器だ。


水に濡れた体毛は変に柔らかく、六本の足の重みにぞっとした。どうして。何で。いや、理由はある。これは報いだ。審判の門はやっぱり機械がやってるのかもしれない。とびっきりの悪趣味でおせっかいなのが。そいつならきっとオキザリスと気が合うだろう。


マイモは気まぐれに首を傾げた。ヒシダのマンションの部屋にいた群れを思い出す。脳みその容量は人よりも遥かに少なく見える。

ヒカリが何か言うのが聞こえた。あいつはマイモを嫌うだろうか。鳩が平気なら、俺とは違うだろうか。俺だとわかってくれるだろうか。俺は俺でいられるだろうか。


このまま瞼を閉じてしまうこともできる。その方がずっとましかもしれない。

レールの上を流れて回る、色とりどりの皿のことを思う。選択だ。今の俺には望みを選び取る自由がある。

だが、選択には、自由には、誰かの命を奪うことには必ず報いがある。


虫は何も知らずに、興味深げに覗き込んだ。真っ黒な眼球が雨の一粒のように彼を映した。キララは笑っていた。

金色の瞳。

掴み取る。








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重機のキララ 完

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重機のキララ かぎ @realkey

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