自害をやめさせる三本足のフェレット

増田朋美

自害をやめさせる三本足のフェレット

自害をやめさせる三本足のフェレット

冬らしくない、暖かい日だった。暖かいというより暑いくらいの日で、体がその変化についていけず、体調を崩す人が大勢いた。それではいけないと、テレビやインターネットなどで注意を呼び掛けていたが、何も効果がなく、体調を崩す人が続出している。そんな光景が、いたるところで繰り返されているのだった。

そういう日が連発して起きているから、梅や河津桜が思いもよらず早く咲さくなど、おかしな現象があちらこちらで起きていた。そんな変化をもたらすのは、動物や植物ばかりではない。小さな小さな生物、つまる所の細菌だって、変化が起きる場合がある。そういう時に、おかしな細菌が、活発に活動することだってあるのだ。

今日も、製鉄所では、杉三が水穂さんの世話を焼いていた。水穂さんが、布団のうえに座って咳き込んでいるのを、杉三が背中をさすってやったり、口元へタオルをあてがってやったりしながら、しっかりせい何て意味のない説教をしていたちょうどその時。こんにちは、と言って、ジョチさんがやってきた。

「やあどうも。ご精が出ますね。水穂さん、お体具合いかがですか?」

「いやあ、相変わらずこの有様だ。もう疲れちまっているみたい。」

杉三は、水穂さんにぬったばかりの羽織を着せてやりながら、にこやかに笑って言った。

「そうですか。水穂さんも気を付けてくださいね。最近、発疹熱が流行っているそうですから。静岡ではまだ少ないそうですけど、都内とか、神奈川ではすでに、何十人も罹患しているようです。」

「発疹熱?それなんだ?」

と、ジョチさんの発言に杉ちゃんが聞いた。冬だからインフルエンザとかそういうモノが流行るという事は分かるが、発疹熱とは聞いたことのない病名である。

「ええ、何でも、エルシニア菌とかいう細菌によっておこる感染症らしいですよ。重篤になることは稀ですが、何でも、ペニシリンが効かないので困っているようです。」

ははあなるほど。つまり、特効薬なるものがまだ見つかっていないのか。それは確かに大変だ。

「そういう訳ですから、水穂さんも気を付けてください。重症化すると、人工透析が必要になるくらい悪化するそうです。」

「へえ、人工透析?それは大変だなあ。」

杉三は、ジョチさんの説明に、おどろいた声で言った。それを聞いた水穂さんまでもが、心配そうな顔をしている。

「で、かかると一体どうなるの?ちょっと教えてくれよ。」

「ええ、何でも、二週間から三週間は、高熱で動けなくなってしまい、全身に発疹ができて、重症化すると冠動脈瘤がでたり、腎不全が起きたりするとか。」

「へえ!おっかないもんだなあ。それはどうすればかかるんだ。何か食い物が原因とか、我慢しなきゃいけない食い物があるとか、そういう事だろうか。」

「いやあ、それは僕もわかりません。それを知って居れば、こんな大流行は起こすことはありませんよ。まあとにかくですね、僕たちにできることは手洗いの励行くらいしかないでしょう。かかったら、もうどうしようもないと思って、予防するしかないですね。」

「そうだなあ。」

ジョチさんの話に、杉三は腕組をした。

「死者が出るという事はあるんでしょうか。」

細い声で水穂さんが聞く。

「いや、それはどうですかね。隣国では出たそうですが。確かに重症化して後遺症が残るという例はあったようですが、死者は今のところ出ていないようですよ。ただ、先ほども言いましたが、抗生物質が打つ手として使えないわけですからねエ。それは、考え方によっては恐ろしいものになりますよね。」

ジョチさんは、その問いかけにそう返したが、あまりはっきりした答えになっていなかった。

「まあ、いずれにしても、こちらでは特効薬の開発に期待するしかないんじゃありませんか。」

「そうですか。」

水穂さんは、なにか意味のありそうな顔をして頷いた。

「まあいずれにしても、ご飯を食べるのが一番重要だ。人間、栄養を取らなくちゃ、体を守ることはできないもの。だから、それはしっかり守ろうな。さて、僕はこれから、ご飯を作ってくるわな。」

頭を振りながら、車いすで台所へ移動していく杉ちゃんを、ジョチさんも水穂さんも、あんなふうに明るく過ごせたらいいだろうな、と思いながら、それを見ていた。正輔がそれを象徴するようにチーチーと鳴いていた。

「しかし、気候がおかしくなると、聞いたことのないものが流行るんですね。」

水穂さんは、ジョチさんの顔を見て、一寸溜息をついた。

「ええ、そうですね。ですから、これでもう、既成の概念は役に立たないという事に、偉い人が早く気が付いてくれればいいんですけどね。」

ジョチさんは、商売人らしくそんな事を言った。

「水穂さんも気を付けてくださいよ。杉ちゃんみたいに明るく過ごせる人は稀ですから。」

「ええ、わかりました。」

水穂さんは、小さく頷いた。

その数日後の事である。夕方の、人通りの少ない歩道橋で、一人の若い女性が歩道橋のど真ん中に立っていた。丁度帰宅ラッシュで、多くの車が、歩道橋の下を走っている時であった。

「おーい、お前さん、お前さん!」

不意に、歩道橋の下からそんな声が聞こえてきたので、歩道橋の女性は、思わず後を振り向いた。

「おう、お前さんだよ。ちょっとさあ、上るのを手伝ってくれや。ここの歩道橋、スロープ作ってあるのはいいんだけど、スロープが急でちょっといけないんだわ。全く困るよな、お偉いさんもよ。スロープさえ作ってやれば、何でもいいかってわけじゃないぜ。」

そういわれたら、歩道橋の女性も、手伝わずには居られなかった。その声がする方へ、仕方なく歩道橋を降りていく。歩道橋の端には、確かに車いすに乗った男性がいた。膝の上に、車輪のついたかまぼこ板に乗っている、フェレットを抱えていた。

「おう、悪いなあ。来てくれてありがとうよ。じゃあ、僕を歩道橋の向こうまで動かしてくれ。誰だって、歩道橋はわたりたいよな。ここの交差点、横断歩道がないからさ。こうして、誰かに頼むしか方法がないんだよ。」

というその男性であるが、どうしてもやくざの親分みたいな言い方をしていて、女性はちょっと怖いなという顔をした。しかし、彼の膝の上に乗っている、小さなフェレットがちーちーと鳴いたので、それが可愛くて、手伝ってやることにした。

「こう、動かせばいいんですね。」

彼女は、もう一回彼に聞く。

「おう、そうだよ。車いすに手でつかむ部分があるはずだ。それをおしてくれればいい。ではよろしく頼む。」

と、彼が言う通り、車いすの押手の部分を掴み、よいしょと、車いすを押した。確かに、歩道橋のスロープは急で、一人で渡るのはちょっと大変そうだ。もう少しなだらかな坂道だったらいいのに、と、彼女も確かに思った。彼女は、とりあえず、車いすを押して、歩道橋を渡らせて、今度は下り坂を移動させてやった。下り坂も、これまた急すぎて、車いすの人には無理そうだ。使う人の立場になって考えて居ればこうはならないだろうな、と彼女も思った。

でも、一寸苦労したが、なんとか、彼を歩道橋から渡らせることに成功した。道路の向こう側に就くと、彼が言った。

「どうもありがとうな。助かったよ。でもお前さんはどうして歩道橋のど真ん中に立ってたんだ?まさか景色でも眺めていたんじゃないんだろうな?」

そう、彼に聞かれて、彼女はぎょっとした。

「いえ、一寸訳があって。」

とりあえずそれだけ言う。

「はああ。ちょっと訳とは何だろうな?理由があるんだな。それを話してみろよ。こんな時間に歩道橋の上にああしてぼったっているんじゃ、何かわけがあるはずだよな。」

杉ちゃんに聞かれたら、答えが出るまで言わなければならなかった。わからないとか、一寸考えさせてくれとか言って、ごまかすことはできないのが、杉ちゃんなのだった。

「なあ、教えてくれよ。なんで、歩道橋の上にぼったっていたんだよ。」

「ええ、ただ、一寸考え事していたんのよ。それだけの事。」

「それだけの事じゃないだろ?」

と、彼、杉ちゃんは言った。

「それだけの事じゃないって?」

「ああ、お前さんの顔見ればすぐわかる。こんな時間に歩道橋の上にぼったって、考え事する奴がいるかよ。何なら僕が言ってやるか。お前さんは自殺しようとしてた。そうだろう?」

彼女は、黙り込んでしまった。なんでこうして邪魔されてしまうのだろう。もっと人が来ない建物を選ぶべきだっただろうか?あーあ、今回は、見知らぬ人まで巻き込んで、暫くは実行できないわ。きっとこの先、命は大切とか、生きたくてもいきらない人のことを考えろとか、そういう事がやってくるに違いない。そういうことは耳にタコができるほど聞かされている。そんな事は何も慰めにもなりはしない。むしろ、死にたい気持ちを強めてしまうものである。彼女は、今ここで逃げてしまおうかと思ったが、小さなフェレットが、またチーチー鳴くので、何だか見られている気がして、逃げられなかった。

「どうして、わかっちゃうんですか。」

とりあえずそれだけ言ってみる。

「だって僕は、お前さんの仲間が大勢いるところを知ってるぜ。まあ、そういうやつらってのはよ、客観的に見ても、死んだ方が助かるっていうやつも中にはいるかもしれないが、本当はそうでもないってことのほうが多いんだよな。もし、お前さんが、そう思っているんだったら、理由を言ってみな。ほんとうにそれが必要なのか、聞いてやるから。」

と、杉ちゃんはにこやかに言った。にこやかな顔をしているが、きっと頭の中ではきっと、説教をしようと身構えているんだろうな、と、彼女は思った。

「だって私は、人殺しだもの。」

と、彼女は言った。

「はあ、人殺しって誰をだ。」

杉ちゃんも、負けじと言う。

「おかあさん。」

と、彼女は答えた。

「はあ、どういうことだ。つまり、親子関係でうまくいかなかったという事か?」

と、杉ちゃんは聞いた。

「そういう事じゃないわ。あたしが、発疹熱をもらってきてしまったばっかりに、おかあさんに移って、そのままおかあさんのほうが逝っちゃったの。」

「はああ、なるほどねエ。それじゃあ、ものすごい罪悪感というモノになるよなあ。けどよ、人間っていうもんはそういうもんだと思うよ。それは、しょうがないと思う。まあ、それで死にたくなるのもわからないわけじゃないな。でも、そういうことを考えられるっていう事は、お前さんはかなりの暇人だな。本当に生活が困窮している奴は、そういうことを考える暇もないからな。まあいいよ、環境を変える事もお前さんの力ではできないから、そうなってしまうんだろ。よし、それならな、ちょうどいい。僕たちの手伝いをしてもらうかな。明日、お昼くらいに富士駅の北口へ来てくれる?僕も、一緒に行くから、お前さんの仲間が大勢いる場所へ連れて行ってやるよ。」

彼女が理由を言うと、杉ちゃんは、そういうことを言った。この杉ちゃんを信用してもいいのか、彼女はずいぶん迷ったが、考えていると、人差し指に鋭い痛みが走った。正輔が、彼女の指を噛んだのである。

「じゃあ、頼むよ。明日の昼前に、富士駅の北口へ来い。どうせ、そういうことを考えているんだから、家でもやることがなくて、困っているような奴だろ。それなら、ぜひ、僕たちの手伝いをしてくれ。やることはいっぱいあるぜ。あ、ちなみに僕の名前は影山杉三だ。綽名を杉ちゃんという。別に怖いもんじゃないから、にこやかに接してくれ給え。お前さんの名前は?」

杉ちゃんに聞かれて、彼女はしかたなく、

「勝村昌子。」

と自分の名を名乗った。

「勝村昌子ね。じゃあ、カッツでも呼ぶかな。ほんなら明日、忘れないで、富士駅に来てくれよ。よろしく頼むな!お前さんが来てくれることは、ほかのやつにも言っておくから。」

杉ちゃんが強引にそういう事を言うので、昌子はちょっと怖いなという気もしたが、確かに自分には行くところもないことは確かだった。

「おい、マー君、指を離してやれ。」

杉ちゃんにそういわれて小さなフェレットは、指を離した。このフェレット、足が三本しかない。左前脚がかけているのだ。という事は、なにか事情でもあるんだろうか。昌子は、そう考えると、悪い人の集まりではないような気がして、行ってみることにした。

翌日、昌子は富士駅に行った。指定された北口へ行ってみると、タクシー乗り場に障害者用のタクシーが止まっていて、杉ちゃんがその前で待っていた。運転手が、杉ちゃんと昌子をタクシーに乗せ、タクシーは、富士の街の中を走り出した。

タクシーがついたところは、大渕という所だった。ちょっと駅からは離れるが、周りは森や茶畑で、自然の多いのどかなところだった。

「ここだ。」

と、杉ちゃんに言われて、タクシーはある建物の前で止まる。そこにあるのは、なんだか日本旅館風の大きな建物で、一体何をする施設なのか、見当もつかないところだった。杉三は、お前さんの仲間が大勢いるところと言っていたが、それはどういう意味なのだろう?よくわからなかった。

運転手に促されて昌子はタクシーを降りた。杉ちゃんも運転手に手伝ってもらってタクシーを降りる。杉ちゃんは、運転手に電子マネーで料金を払った後、その建物にどんどん入ってしまうのだった。建物はインターフォンが付いていなかったので、玄関先で挨拶するしかなかった。杉ちゃんはでかい声で、こんにちは、お前さんたちの新しい仲間を連れてきたというと、二人の利用者たちが、出迎えた。

とりあえず出迎えた利用者は、女性だった。男性の利用者は、昼間滞在しているものは少ない。彼女たちはそれぞれ、大学と専門学校に通っていると自己紹介する。聞けば実家は遠方にあり、彼女たちの大学や専門学校は寮を置いていないので、ここから通っているという事だった。という事はつまり、下宿屋か何かなのだろうか。

「ここでは、利用するには規則があってね、ここを終の棲家にしないという規則があるの。どんなによくても、いずれは親元へ帰るのよ。」

と、利用者の一人がそういった。終の棲家の意味が分からなかったけど、どういうことなのか。

「それでは、新しいお仲間には、とりあえず、庭を掃いてもらおうか。掃除用具は、応接室の中にあるから、そこから、竹ぼうきでも出してくれ。僕は、ご飯を作ってくるよ。」

と、杉ちゃんが言った。二人の利用者たちが、ここは利用するには、なにか役目を負わなければならない、という規制があると教えてくれた。そして、昌子を応接室へ案内して、竹ぼうきのある所を教えてくれる。さらに、庭掃きようの下駄も出してくれて、そこまでは親切にしてくれたが、彼女たちも学校の宿題があると言って、食堂へ戻っていってしまった。昌子は、とりあえず、中庭へ出て、そこに落ちている落ち葉を掃き始めたのだが、風の良く抜けるところなのか、落ち葉は大量に落ちていて、短時間では終わりそうもなかった。全く、杉ちゃんときたら、お前さんの仲間が大勢いるところなんて言っておきながら、やらせることは、下宿屋の下働きか、何だ、そんな事だったのか。と、昌子は、ちょっとがっかりする。本当は何か大きな変化でも起こしてくれるのかと期待していたのに。

とりあえず、膨大な落ち葉が落ちている庭を掃いていると、ふいに、ふすまを開ける音がする。なんの音だと思って、昌子が振り向くと、ふすまが開いて、そこになんとも言えないきれいな人が、白い寝間着に紺色の羽織を着て、正座で座っていた。その後ろには布団が見えたので、何かわけがあって、ずっと寝ていたのかという事がわかった。彼の隣には、昨日杉三が抱えていた小さなフェレットが、昨日と同じように車輪のついたかまぼこ板に乗っていた。

「あ、すみません。杉ちゃんから、新しい利用者が来てくれると聞いたものですから。」

と、その人は言った。

「申し遅れましたが、僕は、磯野水穂と言います。早速庭掃きの仕事を仰せつかってくれて、有難う。」

そんな、仰せつかってくれてありがとう何て、言われるほどでもないと昌子は思ったのだが、水穂さんは、丁寧に礼を言った。

「本来、そういう雑用は僕がやる役目でしたから、別の人にやってもらうのは、どうも申し訳ない気がするので、ご挨拶しました。」

そうか、私は、この人の代理をさせられにここに呼び出されたのか。昌子は、それもちょっと腑に落ちないところがあった。そこで、水穂さんに、聞いてみようと思って、箒を持ったまま、こう聞いてみるのである。

「あの、ここは一体どういう所なんですか。あの杉ちゃんという人に、ここはお前さんの仲間が大勢いると聞いたのですが。」

「ええ、まさしくそうです。」

と、水穂さんは答えた。

「ここは重い事情がある人たちが、同じような事情のある人を求めてやってくるところですよ。そのほか、家に居場所がなくて、単に勉強や仕事をするために来られる方もいますけど。みんな独りぼっちで勉強するよりも、なかまがいるほうが能率が上がると言って、利用してくれています。」

「重い事情?例えばどんな事情でしょうか。」

昌子は水穂さんに聞いてみる。

「ええ、いろんな人がいらっしゃいますよ。例えば先ほどお話をしたあの二人は、一人の方は高校でいじめにあって、二年間不登校だった方で、今は大学に通っていらっしゃいます。もう一人の方は、家で親御さんと折り合いが合わず、家庭内暴力に走ってしまわれた方で、現在は、専門学校に通いながら、精神科にも通われていますね。何でも、お母様と衝突が絶えなくて、お母様にけがをさせたとかで。」

うそ!あの二人はあんなに穏やかで優しそうな人たちだったではないか。そんな事ってあるんだろうか。

「でも、お二人とも優しそうな方ですが。」

「ええ、優しいですよ。だからこそ、世の中の不条理に耐えられないんですよ。だから、そういう暴力的なものに走ってしまう。」

水穂さんは、そういった。

「今のところ、彼女たちを含めて六人の利用者がいますが、中には、親御さんの過剰な期待に耐えられなくて、実際に事件を起こした子もいます。」

「事件を起こしたですか。じゃあ、殺人とか、そういう事でしょうか。」

「いいえ、傷害事件ですが、彼女の場合、警察沙汰になって大変だったそうです。幸い彼女はまだ未成年者でしたので、刑務所にはいかなかったそうですが。」

そうか、では、実際に殺めたという人は、居ないという事か。

「でも、その彼女は今、一応大学に通って、心理学を学び直していますけどね。あなたも、何かあってここへ来たんでしょう。ここに来る人は、皆、ちゃらんぽらんな生き方をしてはいませんよ。必ず何か重たい理由があってきますから。何か、訳があるのでしょう?」

と、水穂さんは昌子に聞いた。昌子は、自分の抱えている理由を話してもいいかどうか迷ったが、なぜか言う通りにしなければならないのではないかという気持ちになってしまった。

「あたしは、その事件を起こした方に比べたら、たいしたことじゃないのかもしれません。」

とりあえずそういってみる。水穂さんの隣で、小さなフェレットが、真剣な顔をしているのがちょっと緊張させる一因でもあった。

「ええ、私は、ただ。ああ、あの、平たく言えばこういう事です。学校の勉強についていけなくて、一寸母とけんかして、二万円をもって東京まで家出したんですが、その時、東京で発疹熱が流行っているのを知らなくて。結局補導されて、家に帰ってきたんですけど、そのあと私は発症しないのに、母が発疹熱にかかってしまって、結局、治療も何もしないで、母は虹の橋を渡ってしまいました。」

やっとこれをいう事が出来た。人にいう事なんてできなかったのに。成文化することすら、難しかったのに。

「そうですか。それで、あなたは歩道橋に立っていたんですか。おかあさんに対する罪の意識から、自殺をしようと思って。」

不意に水穂さんがそういう事を言うので、昌子はびっくりした。

「ええ、あなたの事は杉ちゃんから聞きました。あの杉ちゃんという人は、何でもしゃべってしまう人ですから。」

そうか、もうそんな事も話していたのか!でも、どうして水穂さんは私の事を、叱らないのだろう。私は、さんざん、近所の人から、親殺しの悪童と言われてきたのだ。善良極まりないあの人を、こんな不条理な逝き方で逝かせるなんて、なんという悪い奴だと、昌子はいつも罵られてきた。

「そういう事では、自殺したくなるのも、当たり前の事だと僕は思いますけどね。」

え?待ってよ、当り前って。あたしは、間違ったことをしているのよ。と言いかけたその時、

「しかたないの一言では済まされないでしょうし、非常に複雑な思いだったのでは?人が亡くなるときって、大体そうですけどね。必ず何か疑問点が残るんですよ。どんな偉い人でも解決できないようなやり方をすることが多いんです。なんの疑問点も反省点も残さないで、逝ける人なんてどこにもいやしないですよ。でもそれはね、多分きっと、故人の残した言葉なんじゃないかなと思うのですけど。罪深さもそういう事なんじゃないかな。今逝ったら、答えははっきりしすぎているじゃないですか。それでは、残された人の記憶に残ることもないでしょう。明確な答えを残して逝くことほど、悲しい事はないと思うので。」

と、水穂さんはそういうことを言った。そんな事、あり得る話なのだろうか。私は、これ以上親殺しと罵られる以上、しあわせは得られないと思っていた。だから、今逝った方がいい。そう思っていたのに。

「今はまだ、早すぎると思います。僕みたいに、生きるべきではないという身分であるわけでもないのだし。」

そういう水穂さんは確かにきれいな人であったが、何か悲しい雰囲気もあった。水穂さん自身が、口に出して言ってはいけないものを持っている。

それは、今追及するのはやめておくことにした。たぶん、母が理由もわからず発疹熱に罹患したのと同じように、なにか理由があるのだが、それは、わからないままであってもいいはずだ。それはきっと、そういう風にできているのが世のなかなんだろう。

ちーちーと小さなフェレットが鳴いている。何があったかと思ったら、いきなり水穂さんが咳き込んでいる声がした。口に当てた指は赤く染められていた。小さなフェレットは、三本足で縁側を走りだそうとする。昌子は、急いで誰かを呼んでこなくてはと思った。そこで小さなフェレットを抱き上げて、急いで縁側に駆け上がり、食堂へ向かって走っていった。




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