第3話 君と出会えたクリスマス

 彼女とは、都心の某遊戯施設に併設されたショッピングモールでの、クリスマス関連の短期アルバイト最終日に知り合った。


 この短期アルバイトに参加していた4日間、仕事の内容は乾いた笑いが出てしまうくらい退屈で、そして単純なものであった。

 ただ暑苦しく動きにくいだけのサンタクロースの衣装と帽子を被らされて、僕とは程遠い生活をしてそうな浮かれ足のカップルとか家族連れなんかを相手に「3階で抽選会やってまーす」などと声をかけたり、あとは「幸せなクリスマスを過ごしてくださいね」だなんて、拷問で思想転向を強制されても本心からは決して想うことはないだろうセリフを言わされ続けた。


 クリスマスを含め、冬のイベントはあまり好きではない。夏のイベントは独りぼっちでも楽しめる(夏という季節の中にいる事そのものがイベントのようなものだ)けど、冬のイベントは優しく自分を受け入れてくれる恋人や、多くの友人や、幸せな家庭環境などに恵まれていなければ楽しむことのできないものばかりで、排除性を常に孕んでいる妖怪であると思うのだ。


 夏であれば、その季節に特有の高揚感や眩しさによって、この世に存在するあらゆるものが他の季節よりも光り輝いて煌びやかに見えるから、通り過ぎる季節に身を任せるだけで何か特別なイベントを味わってるかのような気分にさせられる。しかし、冬は自ら主体的に動かない限り物語を与えられる事はない、そんな事を考えていると休憩時間になった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 休憩時間は1日に2回与えられていて、彼女と出会ったのはその2回目を過ごしていた時の事であった。もう既に1回目の休憩時間で大量の昼飯を胃袋の中へ入れてしまったため、この時間になっても腹は膨れており、何も食べたいとは思えなかったので休憩室でぼんやりとしていた。すると、向かいの席に女の子が座って来た。


 イベントの短期アルバイトには、だいたいは友人同士で参加していたりするものだが、彼女は見た感じ1人で来ているようだった。スマートフォンを弄る訳でもなく、読書をする訳でもなく、ただぼんやりと頬杖をつき、とても自然に寛いでいた。


 地味っぽい感じで、大人しそうで、学校ではクラスの端っこにいてあまり目立つようなタイプでは無い感じの子である。身長は160センチに少し満たない程度、イベント用のだぼっとしたサンタクロースの衣装に身を包んでいるので具体的な体型は分からなかったが、そこまで豊満な体型でもないし、逆に痩せ型でも無いと思った。胸部のあたりに着目してみたが、やはりイベント用のダボダボしたサンタクロース風の制服のせいでボディラインは見えてこなかった。


 ただ、その一点にばかり目を向けていたら彼女から怪訝に思われるかもしれないし、僕が単なる変態のように思われてしまいそうであるため、すぐに目を逸らした。そして、彼女の顔の方へ目をやった。


 彼女の顔は色白で、黒い髪の毛が胸の少し上あたりまで伸びていた。レンズが大きい黒縁のメガネで隠されて瞳は正確に認識できないが、若干のたれ目であった。


 さて、腕時計の針に目を落とすと休憩時間は20分ほど残っている事が分った。そして、この休憩時間には何もすることがなく手持ち無沙汰だったため、暇つぶし程度のつもりで僕は彼女に話しかけてみようとしたのだ。でも、僕が話しかけるよりも前に、彼女は僕に話しかけてきた。そうして僕たちは不思議と話が弾んでいった。



 彼女の雰囲気はとても落ち着いていた。それに、見た目が大人びていた(悪く言えば老けた雰囲気を醸し出していた)ので、僕よりも何歳か年上の、大学生か専門学校生だろうと思っていた。

 しかし、年齢を訊いてみると、なんと僕と同い年で、高校2年生だそうだ。随分と年増に見えるので驚いてしまったが、よくよく考えてみれば僕のクラスにもこんな風に老けた雰囲気の子はいたような気がする。それに、僕も人のことを言えたものではない。私服を着ていれば大学生と間違われる事も少なくない。



 色々と雑談して行くなかで、「バイト代は何に使うんですか?」と彼女から聞かれた。


「大学生になってから一人暮らしをするための費用に、あとは今度の春休みに旅行をしたいと思っていて、それに使うつもりだ」と僕は言った。


「旅行ですか?どうやって行ったりするんですか?一人旅とか?」と言って、彼女はやけに喰いついてきた。この事に少し驚きながらも、この前の夏休みには青春18きっぷで城崎、鳥取、出雲など山陰方面へ一人旅をした話をしてみた。


「出雲大社とか行ったんですか?良いなぁ、行ってみたい。山陰の方とかに、ふらーっと一人旅するの憧れるなぁ」なんて、やたらと旅の話には食いついてきた。


 大人しめに見えても、案外お喋りな方なんだなと思った。最初は、無口であまり話さないタイプだとばかり思っていた。


「旅とか、好きなの?」と僕は聞いてみた。


「まだ高校生だから、それに自分は女子だというのもあって親が許してくれそうにはないからそんな遠くまで行けないけど、色々なところに行くのは憧れるな」と彼女は返してきた。


 なんだか話が合いそうな気がしたので、少年の日の夏の面影を追い求めてノスタルジックで切なさを感じる雰囲気(そこがどこを意味するのか僕は分からないけど、もしかしたらそれが本当の思い出の在処なのかもしれない)を追い求めたりとか、ローカル線にぼんやりと揺られて知らない土地へ行きたいとか、軽くそんな話をしてみると、彼女の方も同好の志を見つけた嬉しさを隠しきれないような勢いで話し続けてきた。



「学校に行きたくない日とか、学校の最寄り駅を過ぎても電車を降りずに、そうしてぼんやりと電車に乗って景色を眺めてると心が洗われるような気がするなぁ。マニアとかじゃないけど、知らない場所でぼんやり電車に揺られてる時間が好きなんだ、私」と彼女は言った。


 言いたい事は何と無く分かる。僕もクラスの居心地があまり良くなかった1年生の頃は頻繁に学校をサボった。


 通学の電車に揺られている時に、ふと、今日は学校へ行きたくない、このまま電車に揺られ続けていたいな…と思った日には電車の路線図を眺めながら「今日はどこまで行こうかな」なんて考え、線路の先にある「まだ見ぬ遠い街並み」を夢見た。


 みんなが狭苦しい教室に押し込められて、過剰な同調圧力を強いられている授業や昼休みや部活動の時間、僕はみんなの知らないどこか遠い街で好き勝手に散策をしているという解放感と優越感が言いようもないまでに気持ち良くて、その背徳感から来る刺激がとても好きだった。


 訪れたこともない街で、適当な定食屋に入って一人でご飯を食べたり、海辺を散歩しながら地元の釣り人に話しかけたり、浜辺で寝転んだりしているのが、とても贅沢な一時だった。その体験から得たトキメキは、今も心の奥底に刻み込まれている。


 学校をサボってどこか遠い町を訪れている瞬間はまるで、初夏の夜に空気の澄んだ高原の芝生に寝転んで星空を見上げているかのような果てしない開放感だった。

 車窓から眺める風景を輝かせる眩しい日ざしとか、窓を開け放った時に流れ込む微かな風のそよぎとか、これらの一つ一つが無性に恋しくて、夏になればまた行ってみたいと思わされた。 


 でも、1年生の頃にサボりすぎたので、これ以上欠席日数を重ねてしまうと卒業が危うくなるだろう。


 そんな感じに話が盛り上がり、LINEを交換しようと言う流れになったのでお互いに携帯を取り出した。向こうが提示して来たQRコードを読み取ると、僕のスマートフォン上にあるLINEの画面には「高坂美咲」と彼女のフルネームが表示された。高坂美咲…、これが彼女の氏名らしい。


 僕は彼女とは違ってLINEの表示名に名字しか書いていない。そして、彼女の端末には僕の「直哉」と言う下の名前だけが画面に現れた。


 僕はLINEの表示名にフルネームでも名字でもなく、下の名前だけを載せていた。学校の人たちは僕のことをみんな下の名前で呼んでいたからだ。

 同じクラスには僕と名字が同じ人がもう一人いたし、学年では他に5人もいた。ありふれた名字だった。だから、僕の学年で同じ名字の人たちは皆、下の名前で呼ぶ事が暗黙のルールみたいなものになっていた。それは生徒だけでなく、朝のSHRで出欠確認をする担任もそうだったし、授業中に指名をする教科担当教員たちもそうだった。


「直哉くんって言うんだ?ふーん。あ。だから城崎に旅行して来たの?名前が同じだからネタとしてみたいな感じで?」と美咲は言った。


 先ほどまでの落ち着いた喋り口調からはまるで打って変わり、とても気が知れた仲の相手に話しかけるかのような口ぶりだった。


 あぁ。そういえば1年の頃、現代文の教科書にそんな話が載っていたなぁ…と思い出した。昨年の話であるのにも関わらず、なんとなく懐かしい記憶であるような気がしなくも無い。


「別に、僕の名字は志賀でもないし、山手線の電車に跳ねられた傷を療養するための湯治に行った訳ではないけど」と僕は返してみた。


「なんか、現代文の教科書をしっかり読んでいるみたいで、話のネタが通じて嬉しいです」


 高坂美咲はどういうわけか急に落ち着いた口調へと戻り、微かな笑顔を見せつつ尋ねてきた。


 何故、打ち解けた口調になったと思いきや急に敬語に戻り、落ち着いた話し方をするのだろうか。このように表情や口調、話し方が何度も急に変化をする事がとても引っかかった。


 まあ、たぶん情緒があまり安定していない子なのだろう。急激な気分の浮き沈みがあり、それによって話し方もいきなり変化をする。メンタル不安を抱えながら生きている人にありがちな話し方だと思ったのであるが、本当のところどうであるかは分からない。


「別に、教科書なんてしっかり読んだことは一度もないけどね」と僕は返した。


 そして、1年生の頃の現代文の授業中の光景を思い返した。


 おい、お前と同じ名前の小説家じゃないか…と現代文の教員に言われ、1年の時の現代文の授業中にこの物語が扱われた時、クラスの皆から囃し立てられた記憶が蘇った。


 まぁ、日本史の授業中にもクラスにいる生徒の名字と被った歴史上の偉人が登場する度に「おい、○○君と同じ名字が教科書にあるぞ」なんて騒ぐのが好きな連中はいたが、まさか現代文の時間に自分が名字でなく名前の方でその立場になるとは思いもよらなかったのだ。


 こんな事を暫く話してみたが、どうやら彼女は現代文の授業がとても好きらしい。別に、特定の好きな作家がいる訳でもなければ熱心に読書に励む趣味がある訳でもないし、近現代文学への造詣が深いという訳でもない。だけれども、何となく現代文の授業が好きなのだそうだ。


 そして、それは僕も同じだった。僕もとりわけ好きな作家がいるわけでも、好きな作品があるわけでもなかったけど、現代文の授業はとても好きだった。学校では基本的にどんな授業も退屈でつまらないと思っていた。だけれども、現代文担当の定年間際の教師の話し方とか授業の合間に挟んでくる様々な知識教養とか、そんなものがとても好きで熱心に耳を傾けていた。


「自分からは読もうと思わないような小説とか、今までは絶対に読む機会が無かったような作品とかに触れて、世の中にはこんな素敵な文章があったんだって、そんな感動を教室という空間とクラスメイトたちとの共同体の中で共有することのできる感覚が好きなんだ。だから、現代文の授業が私はとても好きなの」


 高坂美咲は、目を輝かせながらそう言った。


 近現代文学が特に好きな訳ではないとは言っても、地味で大人しめで黒髪でメガネを掛けていて…と、ここまで典型的な「文学少女」っぽい雰囲気を醸し出している子なんて珍しいものだ、と僕は思った。


 僕は自分のスマホ端末画面に目を下ろすと「高坂美咲」という文字列の並びに再び目を通した。ここに表示されている「みさき」という名前は普通に読む事が出来たのであるが、問題は名字の方であり、「高坂」を「たかさか」と読むべきか「こうさか」と読むべきか。それを聞くタイミングが掴めず、彼女の事をなんと呼べば良いのか悩んでいた。


 すると、彼女の方も、僕が何かについて悩んでいるような表情をしている事に気が付いたようだ。


「ふうん、もしかして私の名前の読み方が分らなくてこまっているの?」と訊いてきた。


 どうやら相手の表情から考えている事を読み取る能力には長けているようだ。まさにその通りなので僕は軽く頷いた。


「じゃあさ、当ててみてよ。私の名字が“たかさか”なのか“こうさか”なのか。さぁ、どっちでしょうね。頭脳明晰で優秀そうな直哉くんなら分るよね」と軽くおどけながら言ってくる。


 いやいや。僕は別に頭脳明晰でもなければ優秀な人間でもないし、それに初対面の人間の名字がどういった読みなのかなど分るわけがないよ、と面白くなさそうな表情を見せた。


 彼女にとっては面白いのかもしれないが、それとは対照的に、僕は少し不機嫌そうであった。だけど、それも何となく見透かされているような気がして、少しばかり癪であった。


「も~っ。そんな不機嫌そうな顔をしないでよ」


「いや。そう言われようが、分らないものは分らん」


「じゃあ特別に正解を教えちゃいま~す」と高坂美咲は上機嫌だった。


「正解は二番の“こうさか”です。“たかさか”じゃなくて“こうさか!”埼玉県に“たかさか”って街があるけど、それとは違う読みだって覚えてね」と得意げに言った。でも僕は、埼玉県の地理になんて詳しくはなかった。


 やけにハイテンションであるのが鬱陶しい気もするが、まあすぐに落ち着くだろう。この手の人間は軽い躁状態と鬱状態を何分おきかに、めまぐるしく繰り返しながら一日を過ごしているのだから、そうやって自分を納得させた。


「別に埼玉県の地名だろうと、それと異なろうと、どうでもいいけどね」とだけ僕は返した。


「素っ気ない人なんだね。直哉くんって」


「別にそういうわけじゃない」


「つれないなぁ~」と言って落ち込んだ素振りを見せてからは、ハイテンションな状態は潜めていった。


 それから僕と高坂美咲とは、現代文に載っている文学の舞台になった土地などをゆっくりと旅して周りたいとか、ローカル線にぼんやりと揺られて知らない土地へ行きたいとか、理想の夏の過ごし方を描いた自作小説を書いてみたいとか、中二病だった頃に書いていた自作小説の事とか、そんな話をした。

 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 短期バイトは今日で最後であり、休憩時間ももうすぐ終わりを迎える。まだお互いに話し足りない雰囲気を醸し出してはいたので、僕の方から「よければ、また夜にでもLINEで話さない?」と提案してみた。



「LINEあんま見ないから返すの遅くなるの多いかも。怠いというか、めんどくさいんだよね…」と、美咲は先程までの明るさから程遠い表情と口調で返してきた。


 めんどくさいと言われて僕はハッとして我に返った。まあ、それもそうだろう。短期バイトの休憩時間に少し会話しただけの男らLINEを送られてきてもダルイだけだ。それはよくよく考えれば分かる単純な事である。


「ごめん。そうだよね…。いきなりよく分からない相手からそんな事言われてもめんどくさいよね」と直ぐに詫びた。


「違う。違うの 」と、美咲は面食らったかのように慌てふためきながら僕の発言を否定してきた。まるで「勝手に私の感情を推測してしまわないで」とでも言いたげである。


「別に直哉くんと話すのがダルイんじゃなくて、なんと言うか、LINEとかSNSに縛られている状況が凄い苦しく感じるの。既読無視とか、未読のままだとダメとか、なんかに駆り立てられたかのような強迫的な観念に支配されているかのようで」


 まあ、それは僕も分かる。グループLINEの馴れ合いみたいな会話にいちいち反応するのは本当に重圧感があって、そして怠い。


「インターネットって、本来は偶発性のタームだったんだけどね。今じゃすっかり異なるものになっているような気がする。例えば、SNSの存在というのは、延々と繰り返され続ける生きづらい日常における“恒常的なしがらみ(家庭、学校、部活、会社など)”が世界のどこにいても追いかけてきて、そこから逃れる事を一瞬たりとも許されず、自分一人だけの時間を疎外されてしまう側面もあるんだよ。それが閉塞感のある息苦しさと根源なっている人もいるんじゃないかな、って僕は思うんだ。常に誰かと繋がることを煽られる装置というのかな」


「確かに、そうかもしれないね」と美咲は言った。


「一昔前まで、インターネットはリアルから離れた空間で、ブログや個人ホームページ、掲示板などの“ここでない場所”で“自分ではない誰か”という秘匿的な存在となり、見ず知らずの他者と繋がることを主とした偶発性“だけ”のメディアであった筈なんだけど、今ではすっかり変わってしまった。まぁ、僕はリアルには体験していない時代だけれどね」


 僕は、90年代半ば生まれの兄からの受け売りを、さも自分の知識であるかの如く自慢げに披露した。でも、美咲は興味深そうに聞いていた。


「なんか、クラスの子たちとかグループでの会話とか、めんどくさくて、自分のコミュニケーション力も問題もあるのかもしれないし、それに、現代に生まれた以上は仕方ないのかもしれないって思うんだけど」


「自分のクラスや部活を見ていても思うけど、そういう部分でも女子は大変なんだね。僕は男子だからコミュニケーションも密じゃなくて、悪くいえば素っ気ないというか、だからその部分での心労は無いかなぁ。SNS疲れって言うの? 大変だなぁ」


「だから一人になれる時間が本当に好き。こんなコミュニケーションに縛られ、がんじがらめにされて、電波の奴隷みたいに生きる世の中。本当にみんなよく狂人にならないねって思っちゃう」


「全くだ…」と返した所で休憩時間は終わった。


 そのコミュニティや個々人によって差異はあるだろうし、一概には決めつけられないが、やはり男子に比べて女子は大変なんだな、と思う。男子のような希薄さが無い分、そういったグループやコミュニティに捕縛されやすいのだろう。


 …そういえば、彼女は学校をサボって電車に揺られて何処かへ行くのが好きという僕の話に共感してくれていたり、遥かなる遠い土地へと旅へ出ることに憧れているとか、そんな事を話していたのが何と無く気になってしまった。


 なるほど。この子が憧れているものは、単なる遠い場所への移動ではなく、日常の煩わしい人間関係から解放され、主体性を疎外する他者との関わりから逃れ、閉塞感漂う日常から離れた「どこか遠く」見知らぬ場所へと連れ去ってくれることなのだろう。そして、ここではないどこかへと繋がるその象徴の代表的な例が果てなく続く彼方へのレールなのかもしれないなぁ…と、そんな事を思わされた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 僕と高坂美咲は、アルバイトが終わってからも少しだけ話を交わした。期間雇用者向けに拵えられた仮設ロッカールームの前で待ち合わせて、もう今後の人生で再び来ることがあるのかすら分からないそのアルバイト先から最寄りの駅まで歩き、そうして他愛もない話をしてみた。


 彼女は私服に着替えていて、それはとてもシックで大人びた雰囲気を醸し出していた。どう見ても成人しているように見えた。例えば、自然と相席屋とかに入店して行けそうであったし、そのまま夜中まで歩いていても職務質問を行っている巡査から年齢確認をされる事はないだろう、と思った。


 ヒールの低いショートブーツの音が冷え切ったアスファルトに響く度、それからライトグレーのコートの裾とか濃いグレーのチェックのスカートが北風に翻る度、僕はまるで、女子大生か社会人の女の人と一緒にデートをしているかのような気にさせられた。


 彼女とは違い、僕は通っている学校の制服を着ていた。制服だけでは寒いからブレザーの下に黒いセーターを着て、GUで購入した安物のマフラーを巻いていた。


「学校に寄ってから来たの?」


「いや、家からそのままここへ来た。僕はどこへ出かけるのにも基本的に制服だよ。土日祝日でも、夏休みでも冬休みでもね。さすがにレジャーに行くときは私服を着るけどね」


「制服を着るのが好きなの?」と美咲は不思議そうに言った。


「いや、そうじゃないよ。学生服はどこへ行くのにも全く違和感のない服装として機能するし、何より頑丈で使い勝手も良い。ただ、それだけだ。通学はもちろん、放課後や土日に遊びに行くのにも何の違和感も無いし、冠婚葬祭にだって着て行く事のできる“万能服”だと僕は思っている」


「ふぅん」と美咲は言った。「私はあんまり好きじゃないかな。なんか、学校という画一的な空間の象徴として記号化されている感じがして、うん。やっぱり、あんまり好きじゃないかな」


「確かに、制服というのは個々を潰して画一化させるためのツールでもあるからね」と言った。そして美咲は頷いた。


「それに、私、制服を着ていても似合わないし」


「別に、僕だって似合っている訳じゃないよ」


 僕たちは交差点の赤信号で立ち止まった。頭上は鉄道の高架線で、電車が通過すると金属の擦れる厭な音がキンキンと鳴り響いた。そこに雑踏とかクルマのクラクションとか客引きの掛け声とか、そんなものが混ざった不愉快な不協和音を聞かされる待ち時間が続いた。


「私、直哉くんの話し方、とっても好きだなあ。なんか、同級生には一人もいない独特な話し方をしている気がする」


 信号が青に変わって、高坂美咲はまた歩き出しながら言った。ガード下には何羽かの伝書鳩が丸くなって震えていた。鳩をじっくりと見たことはあまり無かったが、意識して見ると都会の鳩は郊外のそれに比べて随分と黒い羽をしているんだな、と思わされた。そうして、隣を歩く一回り背の低い白い肌と見比べていた。


「僕も、高坂さんの話し方とか仕草とか、好きかもしれない」と僕は言ってみた。


「ありがとう」とだけ美咲は言った。


 それからは、本当にただ中身のない話だけを続けた。ここまでと同じ、全く生産性もない、どうしようもない会話だけをした。でも、僕たちはそれで満足させられた。雑談に何の意味があるのかなんて、そんな事を考える方が時間のムダなのだ。


 それから、帰宅する路線がそれぞれ異なるので、駅の改札で別れた。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 こんな風に今日の短期バイトでの出来事を思い返していると、気がつけば僕の乗っている電車は自宅の最寄り駅の一つ手前を出たところだった。


 そして、何もない暗闇の野原の中を進んで行くと次第に街の灯りが見えてきて、自宅の最寄り駅に到着した。改札口を出て、駐輪場から我が愛車に跨がり、自宅前に戻った時には20時半頃であった。


 吹き付ける夜風が身を突き刺すように寒く、早く家の中に入った方が良いような気がしたのだが、どういうわけか玄関前で立ち止まり、ふと夜空を見上げて見た。


 はぁーっとため息を吐けば、掴む事のできない白い塊が空気中を所在無さげに彷徨い浮かんで行く。泣きたくなるような寒さを感じる闇夜の中で震えながら、冷たく透き通っている冬の星空を眺め見ると、それは心を突き刺してくるようで、悲しくなるほどに美しい眺めであった。


 冷たく澄み切った冬の空気は、夜の星空を観察すると言う事…それだけに関しては最適な環境を作り出していると言えなくはないだろう。


 はぁ、あれはオリオン座だろうか。冬の大三角形の一部を形成しているものだと聞いたことがある。満天とは到底叶わぬ東京通勤圏内の、千葉市泉区まゆみ野のニュータウンの夜空であるが、一つ二つ、その他にもまたいくつかの星が瞬いては消え、儚く浮かんでいることを目で見て確認する事ができた。


 星に願いは叶わない…。相変わらず、我ながら意味の分からぬ事をぼそっと呟いた。


 視線を空から地上へと下ろして見ると、この街もずいぶんと暗いんだなぁ…と気付かされた。やはり冬だからであろうか、寒さから逃れるために殆どの人家では雨戸やカーテンを閉め切っていて、僅かな灯りさえ外には漏れておらず、ぼんやりとした街灯がしーんと静まり返った寂しい夜道を照らしているだけであった。


 駅周辺と大通りだけは賑わっているものの、少しでも住宅地へ足を踏み入れればこんなものであると、「郊外」特有の寂しさを感じながら、暫し虚無感に浸り続けた。


 何分ほど経っただろうか、次第に寒さに耐えきれなくなってきたため、家の中へと入ることにした。だけれども、鍵を開けて玄関を入ったところで「ただいま」とも「おかえり」とも交わす言葉は何一つない。何年も前から機能不全状態となってしまった希薄な家庭なのだから仕方がない事なのだろう。すぐに風呂に浸かって一日の疲れを癒し、自分の部屋でベッドに横たわり、そして僕のクリスマスは幕を閉じた。



 例年通りなら、誰からもプレゼントなんて貰えやしないし、一緒に祝ってくれる相手の存在もない。だけれども、今日は素敵なプレゼントを貰えたのかもしれないとも思った。コミュ障の僕が久しぶりに異性と会話を交わし、連絡先を交換させて貰えた。これを素敵なプレゼントと呼ばずして何と言うだろうか。久しぶりに、良い夢を見させてもらえた。


 そんな事を思いながら、僕は眠りに就いた。




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