第一章 君と出会えた季節

第1話 異世界への転生を夢見ていた

 西暦2018年12月25日。時計の針は19時半を少しばかり回ったところで、僕は京葉線の快速電車の車内にいた。


 12月22日に高校の冬季休暇が始まるやいなや、今日までの4日間連続でクリスマス関連の短期バイトへ働きに行った。そして、その最終日である4日目の勤務を終え、帰宅の電車に揺られているところだった。


 今日がクリスマスだからであろうか、車内には某「夢と魔法の国」へと向かうだろうと思われる男女二人組の姿が一定数見受けられ、いつもより少しばかり混雑しているような気がしなくもない。そして、いつもよりほんの僅かに華やいだ雰囲気を醸し出しているとも言えるようだった。


 ただ、本当にいつもより混雑しているかどうか?と問われれば、そんな事は単なる乗客の一人にしか過ぎない僕からは何とも言えない。正確な乗客数と混雑率など、一人の乗客個人が身体的な感覚だけで緻密な計測を行うことは到底不可能なのだから。


 正確なデータは乗務員なら知っているだろうが、この文章を書くためだけにわざわざ最後尾の1号車にある乗務員室まで頼みに行くつもりはない。

 この電車の車掌が若いのか年寄りなのか、男なのか女なのかは分からないけども、どんな乗務員であろうと「乗客にいちいち混雑率を教える義理はない」くらいに思っているだろう。怪訝な顔をされて「一体なんなんです、あなた?」とでも言いたげな表情と、そのような視線で一瞥され、そしてすぐに目を背けられてしまう結果が見えている。


 だから、今いる10号車から1号車まで200メートルもかけて向かい、車掌に混雑率など尋ねはしないし、この文章では「いつもより少しばかり混雑しているような気がしなくもない」くらいの書き方をしておくのが丁度いいのだ。

 それに、もしこの日の同じ時刻に同じ方面の電車に乗っていた乗客が偶然にもこの小説を読んでいたとして、「いや、俺もその電車に乗っていたが、絶対にいつもより空いていたぞ」なんて指摘でもされたら堪ったものではない。


 あくまで個人的な感覚に過ぎないものは「そのような気がした」と書くのが妥当なところなのだと、僕は思った。


 だが、普段よりこの路線を利用して通勤通学を嫌になるほど繰り返し続けている人たちからすれば、クリスマスで華やかに見えるカップルが総乗客数のうちの何割か占めていようが、普段より混雑率が数パーセント上がっていようが、普段とあまり変わらない光景に見えてしまう事だろう。

 どの道、年がら年中うんざりするほど混みあっている都市の電車では、多少の混雑度の増減は誤差の範囲だろうと、その程度に思っている者がほとんどであるような気がしなくもない。


 12月25日であろうと、それ以外の何月何日であろうと、混雑したこの電車の車内は、退屈で延々と終わりなく続く日常と、繰り返される不変の日々を形成する生活上のつまらない一コマに過ぎない。だいたいの人間がその程度にしか思っていない筈だ。


 だけれども、やはり今日がクリスマスだという事を意識すると、車窓に流れ行く東京ゲートブリッヂだとか葛西臨海公園の大観覧車なんかのイルミネーションが何時もより眩しく見えるのは気のせいだろうか。赤や青や白のライトが幾重にもなって、見とれるほど美しい夜の華となり輝いている。東京の、夜の妖艶で不気味な色彩感のネオンを横目に電車は湾岸を進んで行った。


 僕は湾岸の夜景をぼんやりと眺めるのが好きだ。湾の向こう、漆黒の夜の闇に浮かぶ臨海副都心の高層ビル群は煌々とネオンを輝かせていて、それはまるで銀河鉄道から眺める巨大な宇宙船で、SFの世界に紛れ込んだような錯覚を覚える。そして工場夜景もまた良い。そこには、人の手によって作り出された無機質な異世界が広がっていた。


 艶めかしく輝きを放つ大都会のネオンを電車の中から眺めるのも悪くはない。だけれども、やはりそれがクリスマスという作られた雰囲気の織り成すものの影響力だとしたら、商業主義的な巨大な怪物にひれ伏してしまう自分の無力さを痛感させられたりもする。クリスマスなんて嫌いだと、声を大にして言いたい。


「京葉線を何匹もの怪物が彷徨っている。クリスマスに浮かれているリア充という名の怪物である」と一人でブツブツ呟いた。

 そうして一人でクスッと笑っていると、私の前に立っているカップルの男の方から怪訝な目で見られた。


 いや、怪訝な目で見たいのはこっちの方である。新木場から乗車してきたこの大学生風のカップルはやたらと大きな声で会話をしていて、煩いことこの上ない。僕は呆れ果てていた。


「でさぁ、今晩どうする感じ?」


「えーっ、私は終電までに帰りたいって思うんだけど」


「舞浜の二つ先、市川塩浜ってとこに何軒かあるみたいだよ」


「この前もしたじゃん。たまにはそういう事は無しで」


「昨日はイヴなのに会えなかったじゃんか。今日はせっかくのクリスマスなんだし、俺は朝まで一緒にいたいんだけど……」


 僕は彼らに鋭い一瞥を投げかけた。やれやれ、“そういった会話”は電車内でするものではないと、その程度の常識を弁える事すらできないのはどうかと思う。


 電車がどこかの駅に停車をしたので窓の外に目を向けると「舞浜」と書いてある。満員に近かったが、この駅で多くが降りた。


「やっと舞浜か」と今度は周りの乗客に聞こえない程度に、ぼそっと呟いた。舞浜を過ぎても乗っている乗客の多くは、僕と同じように皆、長い一日の終わりに放心しているようで、とてもとても静かだった。


 乗客たちは、誰も彼も疲れ果ててげんなりしているように見えた。冬はただでさえ日照時間が短くてセロトニンの分泌が少なくなりがちなのに、ここ一週間ほどは鉛色の暗澹とした空模様が続き、陰鬱な雰囲気を醸し出す冷たい雨が残酷に降り注いでいた。

 普段から鬱のような症状が酷いのに、こんな天候が一週間も続けば狂人と化してもおかしくない。僕だって、こんな気候の真っ只中にいながら、今日はよく労働へ行けたものだ。


 ふと、部活動の後輩と何となく交わした雑談を思い出した。



「先輩、私、時々思うんです。もし私に別な人生があったとして、ここではない場所で生まれ育っていたら、今頃どんな風に生きていたのだろうかなんて、そんな事を考えたりするんです。先輩は、そんな事を考えたことはありますか?」


「あまりに曖昧すぎて、それが僕には何のことなのかさっぱり分からないな。例えばと言うのなら、どういう例があるのか教えてほしい」  


 僕は頻繁に、その種の事に考えを巡らせる癖があった。でも、そのような事に想いを馳せる人間は“ここ”に適合できていないからだ、という歪んだ認知を持っていた。

 後輩がどう考えているのかは分からないが仮に僕と同じような認知を持っていたら、と考えて、そして僕はどうしようもない見栄を張って曖昧に返したのだった。後輩の前で自分の内面までさらけ出そうとは思わなかった。



「例えばですか。うーん。例えば……、私たちが千葉県の高校生じゃなくて、北陸や東北の日本海側に暮らす高校生だったらとか。いつも私たちが通学で乗っている京葉線ではなくて、北国の海辺を行くローカル線に揺られているような通学をしていたのなら、とか。まるで天罰だと思うほど冷酷に空を覆い尽くす鈍色の雲と、それを陰惨に映しながら殺気立ち暴れる日本海の荒波を毎日眺めながら学校へ行っていたらとか。そんな事を考えるんです。先輩はそんな想像を巡らせることはありますか?」


「分からないな。知らないうちに考えているかもしれないけど、深く考えたことはない」と僕は嘘をついた。


「でも、それは今の僕とはずいぶんと違った種の人生に思える。まぁ、その“もう一つの人生”の彼も上京して大学生になってからの人生を考えれば、僕とはそう差異は無い人生になるのかもしれないけどね。18歳までは大きく異なるだけで、そこからは殆ど変わらないだろう。無論、都内に一人暮らしをさせてくれるだけの財力がその家庭にあればの話だが」


 頭の中でそこにある光景を思い描いてみた。その海の向こうには、北朝鮮やロシアしか無いんだ、という最果て感を毎日のように味わうのかもしれない。


 残酷なまでに暗く凍り付いた雲が太陽を覆い隠し、延々と海の彼方まで鉛色の空が続いていく冬の日本海側。光の喪われた空から降りしきるドカ雪が冷たく積もる寒村。もしそんな土地に産まれていたら、僕は今よりも鬱のような症状が悪化して薬漬けの廃人になっていたのかもしれないと、その時はそんな事を思った。

 冬場でもそれなりに陽が射して暖かな日もある関東南部に生まれ育った事に、少しだけ感謝をした。


 今の自分の人生よりも、もっと素晴らしいものがあるっていう想像を巡らせると同時に、今の自分の人生よりも恵まれていないものもあるって考えることで、今の自分の人生を少しだけ肯定できるようになるんじゃないか。僕は時々そう考える。それが、脆弱な自己肯定感をなんとか下支えする方法でもあった。


 電車は、夜の浦安市内を滑るように走っていた。



 時給が高く、交通費は家から職場まで全額支給されるとは言え、東京駅から更に乗り継いだ先の東京都心にある勤務地まで4日連続で出かけて精神的に疲れた。だけれども、往復の時間を考えても地元の千葉市内で働くより割がいい。


 ただ、これからまだ30分以上もこの電車に乗り続け、自宅最寄り駅で電車を降りてからは寒空の下で震えながら自転車を漕いで…と、この先に残された帰路のルートを想像すると少しばかり嫌気がさす。運良く東京駅で発車間際の快速上総一ノ宮行き(これは、自宅最寄り駅まで乗り換えなしで帰ることができる)の先頭車両に空席を見つけ、そこへ座れた事だけが唯一の救いだ。


 それは進行方向左側の席だった。両隣を恰幅のいい中年男性に挟まれたその席は猫の額みたく狭苦しかったが、おかげで発車時刻寸前でも空いていた。その席のすぐ前には丸の内の一流企業勤めだろうと推察される容姿端麗なオフィスレディが顔をしかめて立っていたが、彼女は決してその席には腰を下ろそうとしなかった。

 僕は横から割入って、そこがかなり窮屈なことには目をつむって着席し、直ぐに目を閉じて眠ろうとした。そうでもしなければ、その次の各駅停車蘇我行きを待つ長い列に並んで、50数分後に蘇我で降りたらまたその先へと向かう中距離列車を寒空の下で待つ羽目になっていたのだから。



 新木場で目を覚ましてから、この長い長い帰宅までの道中、何をして時間を潰せば良いものかと思い悩んだ。そして、とりあえずスマートフォンを取り出してみたが、それを開くことは躊躇した。

 どうせ、バイト先(短期ではなく、普段からやっている長期のバイト)とか、部活動とかのグループLINEの通知が鬱陶しいほど鳴り響いて「何月何日に予定が入っているのでシフトを代わってくださる方は~」「今日の練習で私はこう思ったのですが~」などなどの私にとってはどうでもよく下らないメッセージが何件も表示され、辟易とするだけである。


 下らない。実にくだらない日常だ。でも、日常があまりにも下らないからと言って、例えば異世界に転生できるのではないかとの有りもしない非現実的な妄想を抱えて自殺しようとも思わなくなったし、次の新浦安で電車を降りて「僕は死にません」と叫びながら国道を爆走するトラックの前に飛び出そうとも思わない。


 ただ、これまでに何度か自殺を試みたことはある。別に虐められたとか生きているのが辛いとか、そんなナイーヴな青少年特有の悩みがあった訳ではない。単に「異世界転生」をしてみたかった。ただ、それだけである。


 近年のアニメやライトノベルでは、僕のようにうだつの上がらない地味で惨めなオタクっぽい主人公が交通事故かなんかで「あの世」へ行き、そこで特殊な能力を授かり無双しながらハーレム状態になる『異世界転生モノ』のストーリーが流行っているようだ。

 いや、流行っているようだと他人事のように言うのではなく、まさに僕も一時期はその手の作品に熱中していた。その流行の渦中にいたのだった。


 そんな流行の中にあったからか、日々に退屈をしていて将来に対しても特に何の希望も抱いていない僕は、異世界に転生をする事に希望を見いだそうと思った。


 とは言ったものの、そんな簡単に異世界へと転生するなんてできる筈もない。あの世へと行ってしまいたいからと言ってラノベの主人公のように運良くトラックに跳ねられ即死できるわけもない。

 そんな、ご都合主義のストーリーは現実には存在しないのだ。だから、もし本当に異世界に転生をしたいと言うのなら、あとはもう「あの事」をやってしまうしかない。


 クスリ、首吊り、飛び降り、リストカット、鉄道への飛び込み…。だいたい思い付くものは全て試そうとしてみた。来る日も来る日もインターネットで方法を探した。


 だけれども、どれも「試そうとしただけ」で、中途半端に終わった。結局のところ僕にはこの世界を去るだけの決意ができなかったんだ。クスリを大量に飲んではみたけれども、苦しくて気持ち悪くなったらすぐ吐き出してしまった。首吊りは途中でロープが外れて地面に叩きつけられた。飛び降りをしようとしても、電車に飛び込もうとしても、足がすくんで震えて、結局あと一歩を踏み出せなかった。自分の手首にカッターを当ててはみたけれども、少し傷が付いただけで痛くて止めてしまった。


 これでもう分かった。自ら命を絶つ度胸や勇気すら持っていない奴は、異世界に転生をすることなんてできる訳もなく、特殊な能力を授けられて敵と戦いながら無双することもハーレムを形成する事もなく、この現実世界で鬱屈としたまま生き続けるしかない。異世界転生なんて無いのだから。


 かくして僕は、異世界に転生をするという夢を叶える事ができず、この日常を生き続けるという事を余儀なくされたのだった。そうして、今日もこのように、バイト帰りにぼんやり電車に揺られているのであった。



 スマホを開かないで時間を潰すのは退屈だけれども、やはり疲れ果てた状態で乗っている帰宅の電車では下らないLINEの通知で不愉快になるから、スマホなんて開きたくはない。

 通学やバイト帰りの電車内でライトノベルを読むのも飽きてきた。以前はあんなにも大好きだったのに、この頃はさっぱりと読まなくなった。

 無敵チートスキルを身に付けた主人公が異世界転生して無双するような小説より、もっと他に、こんな話が読みたいと思うものはある。金持ちに生まれて有名私大エスカレーターで何不自由なく生きて一流企業に就職した容姿端麗な男が、青森の片田舎に転生して貧困家庭で毒親に虐待されながら精神を病んで中卒日雇い労働者として生きていくような、そんな小説が読みたい。最後には連続射殺事件を引き起こして主人公は死刑になる。転生前の輝かしい記憶だけを懐かしく思いながら、彼は拘置所で余生を過ごす。僕はそんな小説が読みたい。だけれども、そんな小説はこの世に存在しない。



 だからこうして座席に座り、車輪から伝わる揺れに身を任せながら目を瞑って、今日あった出来事を思い返しながら物思いに耽る…。今の僕にできる事はそれくらいだ。



 さて…。今日やってきた事は何か。短期バイト。そう、短期バイトだ。自宅の最寄り駅に着くまでの残り30分ほどの時間は、今日の短期バイトでの出来事でも振り返りながら過ごす事にしよう。僕は、そう思った。

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