空白な日常、その遙か彼方へ
岡崎順平
序章
君と僕との小さな序章
「ねえ、こんな想像を巡らせてみた事はあるかな。例えば、私たちには“ここではないどこか”があって、それはきっと、とても素晴らしい場所で、いつか、どこかにあるその場所に辿り着く事ができるんだって」
凍えるような寒空の下で、白い息を吐き出しながら、彼女は僕に問いかけてきた。
「何それ。有名な小説のセリフか何かなの?」
僕は、冷え切ったアスファルトを靴の先でコツンと鳴らしながら訊き返した。
「ううん。そんなんじゃなくて、私はよく思うんだよ。“ここではないどこか”って、それはどんなところなのかなって」
僕たちは大勢の人々のひしめき合う雑踏の中を歩いていた。歩道の上には街路樹から風に吹かれて落ちてきた枯れ葉がからからに乾いて敷き詰められていて、時々それが靴の底でぱりぱりと音を立てた。
「どうだろう。僕も一度くらいはそれについて考えたり、あるいは思ったりした事があるかもしれないし、やっぱり無いかもしれない。でも僕は思うんだ。人は従来“ここではないどこか”を夢想することで、この窮屈な“社会”に耐えてきたのではないか。でも、今はもう“ここではないどこか”は喪失されてしまったのではないかってね」
「相変わらず、よく分からないことを言うんだね」と彼女は言って、軽く微笑んだ。
今日出会ったばかりの相手に対して「相変わらず」なんて言う彼女の事を、僕は不思議に思った。彼女の顔にはずっと同じかすかな微笑みが浮かんでいた。僕は、それはとても美しいと思った。何者にも乱されることのない爽やかな微笑みだった。
「“ここではないどこか”を夢想し続ける人間は理性的存在だ。だけれども、この理性の存在ゆえに、その人は幸せになることができないと思う」
「そっか」とだけ彼女は言った。強く吹き荒ぶ冷たいビル風が、僕たちの肌を冷たく突き刺した。
街のあちこちにはクリスマスのイルミネーションが点されていて、赤や青や緑のネオンが華やかに彩られていた。でも、それも今日までで、明日になればここにある装飾は全て取り外されていることだろうと、僕はそんな事を考えていた。冷たい沈黙が続いていた。
「私たち、また会うことができるかな。こうやって、下らないとは思われるかもしれないような、他愛もない話をする事はできるのかな」
彼女は微笑みを喪い、虚ろな目をしていた。
「会おうと思えば会えるかもしれないし、会わないと思えば会わないかもしれない」
差し出した手の指先は悴んでいた。
「じゃあ、また私と会おうと思ってね」
彼女は寂しげな表情で、そう言った。
僕らは出会ったばかりだけれども、話を交わしていくうちに、好意とまではいかなくても互いに深い共感のようなものを抱きあってしまったんだと思う。でも、この先、僕が再び彼女と関わると言うことが、彼女を深く傷つけてしまう事になるなんて、この時の僕にはまだ想像すらできなかった。
まどろみの中で、僕は孤独な夢を見ていた。
「まもなく、新木場、新木場です。ドアから手を離してお待ちください」
次の駅に到着するアナウンスが流れ、耳を劈く金属の音で目を醒ました。
一人きりになった僕は、彼女との色々な会話を思い返しているうちに、ぼんやりとした空想の中に耽っていたらしい。立っている人たちの隙間から向かいの窓ガラスに映る僕の顔は、なんだか切なかった。窓の外には暗い夜の闇が続いていた。
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