タイムリミットを知りたくなくて
眠りから覚め、真っ先に感じたのは、鼻腔をくすぐる甘い匂いだった。
夜鈴の居る時にしか使われない、こじんまりとしたキッチンスペースでは、恐らく、彼女が朝食としてホットケーキを作っているところなのだろう。甘い匂いと同時に、時折、カチャカチャという調理器具が立てる音が耳に届く。
いつもと同じ、何一つ変わらないその朝の雰囲気は、昨日の行為は全て夢だったのではないかと、そんな錯覚を、僕に抱かせる程であった。
もちろん、夢ではないことくらい僕が一番よく分かっている。熱を分け合い、熱さで思考がどろどろと解かされてしまうかのような、そんな昨夜の行為。その証拠は確かに、僕の体に刻まれているのだから。倦怠感の残る体に、少し視線を下げれば目に入る、鬱血痕。それらは全て、間違いなく、昨日の行為が何一つ、夢ではない証拠だ。
そのはず、なのに。
あんなことをした翌日でさえ、代わり映えのない、いつも通りの朝がやって来ることが、なんだか少しこわくなった。まるで、昨日の行為なんてなかったかのように、何一つ代わり映えのない朝が訪れたことが、なぜだか少し、こわかったのだ。
僕が目を覚ませば、夜鈴がご飯を作っているのはいつものこと。ご飯を作り終えた夜鈴が、ここに戻ってくるまで微睡んで過ごすのだって、いつものこと。
あんな、ひとには言えないような夜を過ごした次の日すら、僕らは何一つ変わらない朝を迎えるのだ。ご飯を食べて、服を着替えてこの部屋を1歩出れば、いつもと変わらない日常が、僕らを迎えるのだろう。
そんな日常が、くるくると何度も訪れる。僕達がなにをしても、どんな夜を過ごそうとも、それは変わりなく訪れて、僕達を大人へと変化させていく。
そうだ。その、変わりないようで変わりゆく日々が、どうしようもなくこわくなったのだ。
あんなふうに体を重ねたところで、日常はなにも変わりはしないのだと。それを嫌という程実感して、どうしようもなく、こわくなってしまったのだ。
特別なことをすれば、何か変わるのではないかと思ってしまった。
だからこそ、夜鈴の言葉に乗っかった。
僕を押し倒す、彼女の腕を拒絶しなかったのは、僕の意思だ。君がそうしたいなら、と。彼女の熱い手のひらを受け止めたのも、彼女の唇を受け入れたのも、僕の意思だ。
愛の言葉のひとつも吐かずに、彼女と体を重ねたのだって、きっと、僕の意思、だったのだ。
でも、それでは駄目だったことに、僕はようやく気がついた。
恋人として、隣にいる訳でもない。そんな関係になるつもりもない。でも、友人などという距離感のままで居るには、僕らはお互い踏み込みすぎた。
そんな、名前の付けられない関係のままで、ずっと隣でいられるほど、この世界はきっと甘くはない。
本当に、僕らのあいだに、隣でいられる理由は何一つないということに、ここまで彼女に深く踏み込まれて、ようやく気がついたのだ。
だからこそ、何一つ変わりない朝を迎えたのがこわかった。なにをしたって何も変わらない事実を突きつけられるかのような、変哲のない朝。そんな朝を迎えて、僕らはまたひとつ、大人へと近づいてしまった。
大人になることは、きっと僕らのタイムリミットだ。君の隣でいられる、そんな日々の終わりは、きっとそこにある。
このままの関係で大人になってしまえば、きっと周りの人間は、僕らに奇異の目を向けるだろう。ふたりきりで、君が隣にいてくれればそれだけで良いなんて、言えなくなる日は、きっと来る。
その日が来るまで、そんな事実に気付きたくなかった。気付かせてほしくなかった。
それなのに、どうして。
どうして今、気付いてしまったんだろう。知りたくないことを、知ってしまったのだろう。
どうして、何も知らないままでは居られないのだろう。
(だから、大人になんて、なりたくないんだ)
ずっとずっと、このままで居られればいいのに。
ずっとずっと、君の隣でいられたらいいのに。
その願いを打ち砕くような、いつもと変わらない、甘い朝の匂いはずっとそこに漂っていて。
少し大人に近づいた、今日という日常が扉を開けるのも、あと数分なんだろうなという予感を、僕に抱かせるのだった。
悲哀小噺 一澄けい @moca-snowrose
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