第6話 草鞋と総代

袈裟丸らが変電所に到着する一時間ほど前。

変電所管理建屋の一階回廊部分で坂口と黒づくめの男は対峙していた。

変電設備が見える側の廊下ではなく、その反対側の廊下、そこにも窓があり、外に設置されているフェンスのさらに向こう側には街並みが広がっている。

山の中腹を切り開いて建てられた変電所であるために見下ろすような形で街並みが見えている。

坂口は廊下の先にいる男を観察する。

雪駄に上下黒の作務衣、頭には黒いタオルを被る様にして巻いている。

「塗師明宏だな?」

坂口は少し大きな声で言った。男は頷いた。

「素直だな」坂口は声に出した。

回答がもらえるとは思っていなかったからだった。

「もう、板倉悟は見つけたのか?」

坂口は言った。

塗師は無言のままだった。今度は何も反応しなかった。

「それはすでに見つけているっていうこと?」

塗師は組んでいた腕を解くと、肩甲骨を伸ばす目的でそれぞれの腕をストレッチした。

次に足首を回す。

「なんかやる気になっているみたいだけれど、こっちの質問には答えてくれないの?」

坂口はまだ声をかける。

塗師は喋らない。

「埒があかないなぁ。あんたは俺が誰かもわかってないでしょう?自己紹介くらいはしたいと思うんだけど」

坂口が言い終わる前に塗師が動いた。

「お前は坂口」

塗師は一言そう言うと地面を勢いよく蹴って走り出す。坂口に向かって真っすぐ地面を蹴っている。

「知ってんのかよ」

坂口も地面を蹴って走り出す。

二人が立っていた場所から中間地点くらいの所に差し掛かろうとした時、二人は身体を回転させながら飛び上がった。

二人とも左回りに回転すると左足で後ろ回し蹴りをする。

空中で塗師と坂口の左足が交差する。

坂口が当たり負けをして体勢を崩す。

坂口は一旦地面に足が付くとすぐにバック転で距離を取る。

顔を上げた坂口の目の前に、塗師の無感情な目が飛び込んできた。

一瞬、坂口は思考が飛ぶ。

「やべっ」

坂口はすぐに両手を交差して防御する。

威力を逃がすために後方へ飛ぶことも忘れなかった。

塗師は坂口のガードの上から打ち下ろすようにパンチを打った。

坂口のガードの上から当てられたパンチで、坂口は後方へ吹き飛び、そのまま壁に激突する。

坂口自身も後方へ飛んでいたこともあり、身体自体へのダメージは壁に激突した背中以外はほとんどなかったが、かなり後方へと飛ばされていたことになる。

「馬鹿力だな」

坂口は視線を前方へと向ける。塗師が地面を踏み込む動作に入っていた。

塗師が坂口に第二撃を打ち込むのと、坂口が回廊の階段側に飛び込むのはほぼ同時だった。

塗師のパンチは空振りに終わった。坂口は回廊の短辺で体勢を立て直す。

塗師は大きな空振りによって体勢を崩していた。

坂口は逆に塗師の方へと飛び込む。

前屈みになっていた塗師の腹部、左わき腹あたりに振り上げる形でパンチを打ち込む。

形的にはアッパーだが、顎ではなくわき腹を標的とした。

それは単純に標的の大きさがある。顎に強打を入れれば、坂口のパンチの強さと人間の構造上脳震盪を間違いなく起こすが、正確に打ち抜くには難しい。

それは相手が塗師であるということも一つの要因として存在する。この体勢で顎に入れようとしても防がれた場合を考えると、今度は確実に接近戦を避けられない。

定石として、相手の底が知れない場合はヒットアンドアウトが鉄則である。塗師のインファイトの実力に関して、先程の一撃が坂口に警戒心を与えていた。

坂口がわき腹へパンチを打ち込むと塗師は左手でガードした。しかし、威力は大きかったようで、後方にあったガラスの入っていない窓へと飛んで行った。

塗師の身体はそのまま窓枠を通り抜けて落ちて行き、姿が見えなくなった。

坂口は息を整える。

あの窓の向こうはフェンスの奥に崖があったはずだと思い出す。

まだ痺れている腕を振りながら坂口は塗師が消えて行った窓に近づく。

坂口が覗き込もうと窓枠に手をかけた瞬間、塗師が下から突然現れた。

足を屈めるように飛び上がった状態で坂口の目と鼻の先にいる。

坂口は驚かなかった。ある程度は予想できたことだった。

塗師明宏が簡単にリタイヤするわけがないのである。

しかし、そこから塗師が何をするのか、ということは予想できなかった。

飛び上がった塗師は両手で屋外側の窓枠を掴むと、下半身側から室内へ入るように両足を伸ばした。

窓を覗き込もうとしていた坂口の胸部に両足の蹴りが打ち込まれた形になった。

再度坂口は身体を浮かすことになった。

塗師の両脚飛び蹴りは相当な威力で、坂口の身体は回廊短辺の中央、階段と十字廊下の場所まで飛ばされた。

坂口は胸の痛みで気絶しそうになるが、かろうじて意識を保つ。

塗師は蹴りの勢いのまま、回廊まで戻ってきた。

頬と腕は血が滲んでいた。無傷ということではなかった。

また塗師も追撃は諦めたようで息を整えている。

坂口は倒れた状態のまま回復に時間をかけた。

坂口は考える。このまま階段に逃げて階上の藪島に助けを求めるか、それとも回廊よりも廊下の幅が狭い十字廊下に逃げ込んで塗師の機動力を下げてチャンスを窺うか。

それぞれにデメリットがあった。階上に向かった場合でも藪島が二階と三階のどちらにいるのかわからない。二階にいればすぐに合流できるため戦力の増加が見込めるが三階にいた場合、逃げながら塗師の攻撃を躱す必要がある。十字廊下に向かって機動力を下げると言っても微々たるものだと坂口は考えた。

どちらの選択肢を選ぶべきか。坂口は迷っていた。単純な力量としては塗師の方が上になるだろう。自分は頭を使って挑まなければ確実にやられると思った。

坂口の身体からじんわりと汗が出ていた。暑さからくるものではないことは判っていた。

坂口はまだ痛む胸に意識を向ける。塗師に気付かれないように身体を動かしてみると胸は痛むものの、折れている感触はなかった。

坂口が上体を起こしかけた時と塗師が坂口の顔面を踏みつけようと飛び込んでくるのがほぼ同時だった。

坂口は咄嗟に反応して十字廊下の方に身体を転がして避ける。

塗師の足は坂口の頭が置かれていた場所を正確に打ち抜いた。

坂口は十字廊下に転がりながら侵入してそのまま立ち上がる。

よろよろと塗師から距離を取る。

塗師は先程から変わらぬ無表情で坂口に顔だけ向けた。ゆっくりと両足をそろえて体を十字廊下へ向ける。

坂口も息を整えて構える。

十字廊下の幅は四メートルほど、回廊よりは狭いが窮屈ではない。

坂口は走り出す。塗師よりも先手を取ろうという考えだった。

塗師との距離が縮まる。

坂口がパンチを繰り出す前に、塗師は勢いよく右横の壁に飛び出す。

そして、右足で壁を蹴って駆け上がると、身体を反転させて坂口の顔を右手を使って殴りかかった。

しかし、坂口もそれを読んでおり、左手のガードを上げて塗師のパンチを防いでいた。

坂口は身体が吹き飛ばされそうになるが堪える。

そのまま塗師の空いた左わき腹にフックを放った。先程窓から落とした時に打込んだ場所とほぼ同じ場所だった。

塗師の顔が歪む。坂口は塗師が着地したのを確認すると、連打を放った。

顔、顎、腹、わき腹、脹脛、上半身は手と脚による打撃、下半身は脚の打撃のみで攻める。時折防御されたが、無視して腕と脚を止めなかった。

坂口は無心で手脚を繰り出した。坂口の猛攻は一分ほど続いて止まった。

坂口が酸欠状態に陥ったからだった。

よろめきながら塗師から距離を取る。二人は十字路のちょうど中心まで来ていた。

塗師は腕で顔を防御しながら立っていたが、猛攻が止まると片膝をついた。

坂口は設備が見える窓が並んでいる回廊に出た。

坂口はまだ息を整えている。視線の先には十字路の廊下、その中央で立ち上がってこちらを見ている塗師の姿があった。作務衣から覗いている素肌の部分はすでに赤く腫れあがっているようであった。

「・・・いいね」坂口は無理に笑った。

塗師明宏の顔は無表情だった。



五十分後。

袈裟丸と七草は首を切断されて死んでいる遺体の横にいた。

遺体は手にオープンフィンガグローブを嵌めており、上半身はタンクトップ、下半身はスウェットを履いていた。靴はスニーカである。

切断された首の周囲には血だまりが残っていた。

「なんで行く先々で死体が転がっているんですかね?」七草が言った。

「知らないよ。人生で二度も死体を見るって無いからな。それも一日でだぞ?もっと言ってしまえば、どちらも切断された死体だ」

袈裟丸は口を横に広げて言った。

「そんなひと滅多にいませんからねぇ」七草は淡々と言った。

「お前、なんでそんなに平気なの?我妻先生の時、見てなかったでしょ?」

袈裟丸は七草の方を見て言った。

「いや、なんか人形みたいだし、それにちょっと慣れてしまって・・・」

「七草、こんなことに慣れるなって」

「誰ですかね?この人」

七草は袈裟丸の声を無視して言った。

「知らないよ。顔がないんだから」

袈裟丸は苦い顔をして言った。

「それもそうですね」七草は笑顔になった。

「お前・・・精神的に強くなったのか?」

七草はそれも無視する。

「随分動きやすい格好ですね」七草は死体を観察する。

「そうだな」

七草は死体を中心に回る様に動いた。

「何か、腕とか青くなっていません?痣ですかね?」

七草は死体の両腕に顔を近づけて観察した。

「お前、いつからそんな・・・凄いな」

「先輩、軍手持っています?」

七草は袈裟丸に手を出す。板倉悟の部屋を調べた際に袈裟丸が使った軍手のことだった。

袈裟丸は黙ってコートのポケットから軍手を差し出す。

「ありがとうございます」

七草は両手に嵌めると死体のタンクトップを捲った。

「・・・大胆」袈裟丸は呟いた。

「うわ。服の下も痣がありますよ」

七草はタンクトップを指で摘まみながら言った。七草はさらに下半身に回ってスウェットの裾を捲りあげた。

「おお、こっちも痣だらけだな」袈裟丸が言った。

「どういうことですかね?」七草は言った。

「いや・・・わからんが・・・身体を何度も打った、あるいは叩かれたとか?」

「虐待とかですかね?」

「この状況で?普通に見れば手にはオープンフィンガグローブを嵌めているから格闘技でもやったんじゃないかなぁ」

「この状況で?」七草は辺りを見渡した。

「まあ、邪魔は入らなそうだからな。ガチなやつをやりたかったんじゃないかな?」

「わかった。それで相手が勢い余って首を手刀でえいってやったんじゃないですかね?」

七草が興奮気味に言った。

「大山倍達かよ」袈裟丸は腕を組んで言った。

「先輩、それはビール瓶ですよ」

「うるさいな」袈裟丸はそう言うとゆっくりと首の方に向かった。

「先輩、良くそんなことできますね。私無理ですよ」七草は驚愕の顔で見た。

「これはできないの?まあどうでも良いよ」

袈裟丸は口元に手を当てながらしゃがみ込んで切断面を確認する。

「俺は専門家じゃあないから良く判らんけど、切断面を見る限り無理やり引きちぎったっていう感じがするな」

袈裟丸は立ち上がった。

袈裟丸は七草を見るが、七草は何も言わずに俯いている。

「どうした?」

「いや、この人が板倉悟さんっていう可能性は無いのですか?」

七草はゆっくりと話した。

袈裟丸は不意を突かれたように口を開けて黙った。自分でその可能性を根拠もなく破棄していたからだった。

「板倉さんが失踪したっていうことは何かしらから逃げていたからだと思うんですよ」

七草は立ち上がる。膝をついて観察していたため、膝に着いた埃を手で払った。

「何かしらっていうのはもしかしたら人かもしれないですよね?」

七草は袈裟丸をじっと見る。

「悟さんは誰かから逃げていたと?」

「可能性の話です」

「それならもちろんあるだろうな」

「それと、この死体ですけれど、重要なことは自殺ではないっていうことですよね?」

七草は袈裟丸に言った。

袈裟丸も同じ結論だったため、少し驚いていた。

「理由は?」袈裟丸は短く言った。

「もちろん、一人で首を切断できないっていうこともあるでしょうが、やる気と根性があればできると思うんです」

七草は袈裟丸から視線を外さないで言った。

「でも、首の処理は別です。これだけ見通しの良い廊下で見渡す限り首が見当たりません。ということは誰か第三者がこの首を切断したということです」

袈裟丸は少し苛立っていた。七草が言っていることがその通りであり、七草が次に何を話すかわかっているからである。

「じゃあ、なぜその誰かは首を切断したのか、ということになります」

七草は言った。袈裟丸と七草以外に誰もいない管理建屋の二階、七草の声だけが響いていた。

「七草はこの死体が板倉悟さんだって言いたいんだな?」

袈裟丸は冷静であることを意識して言った。そうしないと声を荒げてしまうと思ったからだった。

七草は黙ったままだった。それが肯定という意味だと袈裟丸も判っていた。

「どうだろうな。この死体に頭があったとして考えても悟さんよりは背が高いと思うな」

袈裟丸は早口で言った。

「そう・・・ですか」七草は声のトーンを落として言った。

袈裟丸は七草が目の前の死体を板倉悟だと考えていると思った。自分たちの目的だった人物が最悪の状態で発見されてしまったということに落胆しているのだろうと思った。

「七草、まだこの人が悟さんだと決まったわけではないよ」

「じゃあこの人は誰なのかってことになりますよね?」

「うん。そうだな。七草、スウェットのポケットに何か入ってないか?」

袈裟丸は七草に言った。軍手を嵌めている七草に確認をしてもらうことにした。

「わかりました」

七草はスウェットのポケットに手を入れる。

「何も入ってないですね」

袈裟丸は想定通りの答えが返ってきたことに安心した。少なくとも現時点で死体が板倉悟であることを証明する証拠は無いということになる。

「そうか。ということはこれ以上死体が誰かを特定することは困難だっていうことだな」

袈裟丸は言った。

「そうなりますね」七草も言った。

先程より少し声の調子が戻っていると袈裟丸は思った。

「じゃあ、それは置いておくか」

袈裟丸はあたりを見渡す。

「死体は誰か、誰が殺したか、なぜ首を切ったのか、首を切断した人物と殺した人物は同じか、どうやったのか」

七草はまとめた。

「そうなるな。でも今のこの状況でわかることなんか限られているよ。悟さんを探そう」

袈裟丸はそう言うと歩き出そうとする。

「先輩。十字路の方に行きましょう」七草が言った。

「そっちから部屋の中を探すか?」

「はい」

袈裟丸と七草は十字路の方に向かう。

「反対側の回廊に一旦出てみるか」

袈裟丸はそう言うと十字の交点を通り過ぎて反対側の廊下に出た。

「こっちに死体はありませんね」七草は言った。

「部屋の入り口も一つしかないな」袈裟丸は七草を見ないで言った。

袈裟丸の視線はこの階に入ってきた階段側に向いていた。そこの近くに扉があった。

「じゃあ、あそこの扉から一つずつ探していきますか」

七草が言うと二人でその扉まで歩いて行った。

「あ、そうそう、警察に連絡しておかなきゃ」七草がスマートフォンを取り出す。

「忘れていたね。まず警察に調べてもらった方が早いね」

「先輩、寿さんの連絡先知っていますよね?寿さんに相談っていうか、通報したほうが話は早いんじゃないですかね?」

七草が言う。

「お前覚醒したな」袈裟丸はおどけた調子で言った。

扉まであと二メートルほどのところで、二人は同時に足を止める。

後方で物音がしたためだった。

二人で同時にゆっくりと顔だけ振り返る。

二人の後方、回廊の端に男が一人立っていた。

七草は身体を硬直させて息を飲む。袈裟丸は表情を変えなかったが、心臓の鼓動は早くなっていた。

その男はスーツの上下、きっちりネクタイまで占めている。手には黒革のグローブ、髪も短くしてきっちり整えられていた。顔はモアイ像に似ており無表情、身長も確実に二人よりも高い。

男は棒立ちで二人を見つめている。横長の目の中に僅かに白目と黒目が覗いていた。

袈裟丸と七草はゆっくりと体を回転させて男に対して半身で対峙する。

すぐに動けるようにという目的だが、打ち合わせをしたわけでもなく、本能でそのような姿勢になっていた。

誰も口を開こうとしなかった。男は表情を変えることなく二人を見ている。

「ここを管理されている方でしょうか?」

袈裟丸は言葉を投げかける。この推測が当たっている確率が最も高いと思ったからだった。表情や外見などのバイアスを除き、状況を考えてみればそれが一番常識的だと思っていた。

男は何も答えない。

袈裟丸はこの変電所が廃墟になって五年が経過していることを思い出した。今更管理する人間が来ることがあるだろうかと考える。無い話ではないと思った。

その場合、あの死体の問題がある。

向こうからしてみれば、あの死体を確認しているか否かで自分たちへの対応が変わる。

明らかにこちらは人を殺害して首を切断した犯人である。ややこしいことになると非常に面倒である。

「あの、あそこ、十字路を抜けたところに死体があって。さっき見つけたんですけれど。あ、俺たちは人探しでここにいるんですよ。それで俺たち警察に電話しようと思っていたんですけれどね。あれ?もしかしてすでに電話されていたっていう話ですか?」

袈裟丸は笑顔を見せながら喋った。

隣の七草は喋りすぎだと思ったが、恐怖の方が勝っていた。

男は袈裟丸の口から警察という単語が挙げられると握り拳を作った。

しかし、それだけしか袈裟丸の発言に対しての反応は無かったため、袈裟丸は困惑した顔をした。

「ちょっと・・・何か言ってくれると嬉しいんですけれど・・・」

袈裟丸は困惑した顔で言った。

袈裟丸が言い終わると同時に、男は全力疾走で二人のもとに走ってきた。

両手を勢いよく振り上げ、両足も膝を腰の位置まで上げて走っていた。

「ちょっ」袈裟丸は驚愕の表情を浮かべながら男と逆側に走り始める。

七草もそれに続く。

「何なんですか?あれ」

七草は袈裟丸に言った。

「知らん、けど、多分あの首なし死体を作った奴だと思う」

袈裟丸は走りながら言った。

「どうしますか?やりますか?」七草は言った。

二人は入ろうと思っていたドアの近くまで走ってきた。

「できるか?」

二人は脚を止めた。袈裟丸は七草と向かい合って言った。

「できるかじゃなくてやるんでしょう?」七草は笑った。

不意に七草が袈裟丸を後方へ突き飛ばす。

「先輩っ」

七草は手をクロスしてガードする。そこに男の前蹴りが飛んできた。空手の前蹴りというよりは走ってきた勢いをそのまま利用して足を前に出したという形だった。

七草は回廊の短辺の壁まで飛ばされる。背中を強打した。

袈裟丸はその様子を横目に見る。

「七草ぁ」

「先輩、三階へ。すぐに行きます」

七草はすぐに構えると、男の方へと走った。

袈裟丸は七草の後姿を確認すると、後方の階段へと走り出す。

身体を階段の手すりにぶつけながら三階へと向かう。

二階から壁が崩れるような衝撃音が響いていた。



袈裟丸たちが死体を発見する四十分前。

坂口の猛攻をかろうじて防御していた塗師だったが、蓄積されたダメージが回復する間もなく、坂口からの追撃を防いでいた。

坂口は、状況が拮抗していることが心配だった。自分の体力と体のダメージは反比例している。ダメージを受けるほど体力は削られていく、さらに攻撃を繰り出しても体力は減っていく。本来、こうした攻防は短時間で決着をつけるべきである。

スタミナに自信があったとしても、身体に受けるダメージを回復することにも体力は消耗されていくからである。

二人の攻防の場所は最初に塗師と坂口が遭遇した回廊に戻っていた。

先程から坂口の攻撃と塗師の攻撃が交互に続いている。坂口の身体にも痣が浮かび始めている。

体中に痛みが生じている。骨が軋むような痛みを感じる。それでも、ガードしなければ一瞬で意識が飛ぶだろうと予測する。

坂口はそろそろ決着を付けなければ負けると思った。持久戦は得意ではない。そもそも面と向かってやりあうのが得意ではないのだ。

裏の仕事をやる上で持久力は必ずしも必要ではない。一度のチャンスに一撃で一死を勝ち取るように仕事をしてきたからだった。

坂口は考える。まず、大砲を使えなくすることが先決だった。普通のパンチのスピードで両手から大砲が飛んでくるからなかなか近づくことができないのである。

坂口はまず片手の大砲を打ち落とすことにした。

ガードしながら、塗師から間合いを取る。その間も攻撃の手は緩めない。

本来の目的から意識を外させなければいけない。坂口が何を狙っているのか、それから塗師の意識を外すことが重要だった。

坂口はハイキックを塗師の左側頭部めがけて放つが、ガードされる。

返す刀で右の掌底が飛んできた。坂口は背中を仰け反らせて躱す。

そのままバック転で回転して塗師との距離をさらに離す。

今のは絶好のタイミングだったと後悔する。

坂口は左脚を前にして、腕を体の下の方で構える。息がまた上がってきていた。

塗師は無表情で自然な構えだった。むしろそれが構えなのかも坂口にはわからない。

塗師はその状態から直ちに相手の攻撃に対応可能なのである。

まるで迎撃ミサイルのようだと坂口は思った。余程不意を突かなければ塗師のレーダに引っかかってしまうと坂口は思った。

そして、息が上がってもリカバリが極端に早い。こうなってはもはや化け物でしかない。

坂口は笑った。声は出していない。

ここまでめちゃくちゃな人間がいるのだと思った。

しかし、自分もここでやられるわけにはいかない。やらなければいけないことがあるからである。

坂口は覚悟を決めた。

塗師が距離を詰めてくる。坂口は動かない。そのまま塗師の間合いに入った。

その途端、塗師が右のフックを放ってきた。

坂口はギリギリで避ける。そして、振りぬいた塗師の腕を取ると、上半身は腕にしがみついた状態で両足を踏み切って飛び上がる。

坂口の左足を塗師の顔を跨ぐ様に首にかけて、右脚は腹に横から当てる。

腕関節を決めるための飛び付き腕ひしぎ逆十字固めだった。

坂口はずっとこの機会を狙っていた。それまでずっと打撃のみで対応していたのは、関節技を隠すためだった。

坂口は逆さになる風景の中で決まったと思った。

坂口の頭から肩に掛けて地面に触れる。

塗師は倒れずに立ったままだが、上半身だけが前方に折れ曲がっている。

坂口は懇親の力を込めて塗師の腕を反らす。しかし、塗師も左手で右手を持って曲げる方向に力を入れている。右手が伸びないようにしているのである。

坂口は塗師の首に掛けた脚を動かす。それだけで塗師にとっては嫌な動きである。それでも塗師の左手は外れなかったので塗師の右手を押さえている坂口の右手を離して塗師の左手に攻撃を加える。

坂口の攻撃でも塗師の左手は離れなかった。坂口は再び両手で力一杯塗師の右手を折り曲げるように力を入れた。ここで離されると今度は関節技を警戒されてほとんど決まらなくなるだろうと思った。

坂口は是が非でも塗師の右手を折りたかった。

坂口は頭に血が上っているのがわかっていたが、それでも決して両手を離さなかった。

次の瞬間、塗師が咆哮を上げた。

そして坂口から見える風景が次第に普段通りのものに戻ってきた。

坂口は何が起きたか一瞬わからなかった。頭に上っていた血が一気に全身を巡り始める。そして、目の前に血走った目の塗師が現れた。

坂口の身体を塗師は腕の力だけで持ち上げたのである。

「嘘だろう・・・」

塗師はそのまま、咆哮を上げながら、坂口を振り回した。坂口の頭が十字路側の廊下の壁に当たる。

坂口は意識が遠のきそうになる。しかし、この塗師の腕を折るという命令が坂口の頭から強く打ち出されているためか、塗師は決して腕を離さなかった。

塗師は坂口を持ち上げたまま窓側の壁や途中にある柱に坂口の頭を打ち付ける。

血があたりに飛び散っていた。それでも力が緩まないことを確認すると、その場で坂口の頭を何度も地面に打ち付ける。まだ坂口の手は離れなかった。

塗師は次に、再び十字路の入り口付近に動いて、十字路の両脇の壁に身体を左右に回転させて坂口の頭を打ち付けた。

坂口の腕が外れた時には、坂口の顔面は無残に腫れあがり、頭や顔から出血したであろう血で真っ赤に染まっていた。

坂口仰向けに倒れて気絶していた。

塗師は息を整える。その間で右手を動かしてみた。多少は痛みがあるが、支障はないくらいの痛みだった。

塗師は両手を膝に置いて深呼吸をする。

視線は自然と坂口の方に向いていた。

息が整うと、塗師は坂口の方に向かった。坂口のすぐ横に立った。首元に手を当てる。脈は弱いがまだあった。

このまま止めをさすことを考えたが、塗師は止めた。

すでにこの状態で坂口が戦えるとは思えなかったことと、一種の賞賛の意味も込めていた。ここで仕留めることは止めようと考えた。もし、ミッションを全てやり遂げて、それでも向かってくるようであればその時は本当に最後まで相手をしようと考えたのだ。

塗師は無表情でその場を後にした。



それから四十分後。

七草が男の前に立つと、一層男の背の高さが目立つ。七草よりも二十から三十センチ程度は高いだろう。

二人は対峙する。

「あんた、USB、持っているのか?」男は七草に言った。

「USB?なんのことですか?」

七草は言った。それは本当にわからないことだった。

「持っているんだったら、さっさと渡しておいた方が良いよ。というか、あんたさっきの蹴り食らっても立てるの?」

男は表情こそ変えなかったが、驚いているようだった。

「持ってないですよ」七草は言った。

七草は冷静に相手の出方を見ていた。このまま話で終われば上出来だろうと思ったが、先程の蹴りから見ても、穏便に終わらせてくれそうにはなかった。

「へー。じゃあ、さっさと出してよ」男は語気を強めて言った。

「たった今言ったこと聞いていましたか?それよりもあの死体ですよ。こっちもここに来て見つけたから驚いているんですよ。さっさと警察に言った方が良いと思うんですけど?」

「警察?そんなのに連絡しなくて良いわ」

七草は男と会話が成り立っていないと思った。しかし、目の前の男から異常な様子は見て取れない。

「平行線ですね」七草はあえて言ってみた。

「そうかぁ、平行線かぁ」男は下を向いて言った。

「じゃあ、氷持ってない?」

男は再び顔を上げて言った。

「氷?持っているわけないですよ」

七草は言い終わると同時に男は大きく一歩を踏み出すと七草にパンチを繰り出した。

七草は最小限の動きでそれを避けると、右肘を拳に合わせて軌道をずらした。

男は僅かに顔をゆがめると、七草から距離を置いた。

「へー。肘を使うんだ。珍しい」

男はすぐに構え直すと、七草に打撃を繰り出す。そのすべてを七草は肘と手のひらでいなしていく。

大きなダメージは受けていないが、それでも七草は男に押されて行く。

もともと七草の後方には余裕がなかったためもあるが、すでに壁際に追い込まれていた。

男のパンチの間を抜けて回廊の左手に向かう。袈裟丸が上がって行った階段がある、

七草はこのまま同じように押し切られたら、階段に意識が向いてしまうことを恐れた。

袈裟丸のもとに行かせるわけにはいかなかった。

男は向きを変えると、走り出し、七草の前で飛びあがると前蹴りを出す。

しかし、これも最小限の動きで七草は躱す。

着地した男は七草の脛を狙って前蹴りを出すが、七草はそれを足の側面を蹴ることでいなす。

男が繰り出す突きや蹴りを七草は必要最低限の動きで躱し、いなしていく。

男の蹴りを両手で七草がいなすと、男は七草と距離を取った。

男は息が上がっていたが、七草は平然としていた。

七草は男が息を整えているのを確認すると、コートを脱いで廊下の端に置いてあったキャビネットに掛けた。

「いいか?」男は確認するとすぐに距離を詰めてくる。突きや裏拳を繰り出すが、七草はこれもいなす。

男はその場で飛んで回し蹴りを繰り出した。しかし、七草は少し背中を反らせて躱した。

男は着地するとすぐに腹部へ振り下ろすように突きを繰り出すが、七草はそれを脚を上げて膝に当てることで回避する。

さらに男が突きを顔に当てようと繰り出した右の拳を七草は左手でいなした。

そして右手で掌底を男の顎に入れると、左右の手でパンチの連打を開始した。そのパンチは両手を前後にスピーディーに動かし、まるでチェーンソーのような動きだった。

七草のパンチの連打は男に防御されても関係なかった。防御が始まったら、七草は身体を動かし、肩やわき腹にパンチの目標を変える。

途中で男から攻撃があっても、同じように最小限の動きでいなした。そしてまたパンチの連打を浴びせる。

七草は連打の中にも変化をつけていた。時折顎にパンチを入れることもあった。

男は一度後方へ飛ぶと、前方へ飛び込み、地面に両手をついて両足で浴びせ蹴りを繰り出した。

七草はこれもわずかな動きで回避した。

相手の身体をよく観察して、攻撃のリーチを読み、自分と相手との距離を把握して避けていた。

男は体勢を立て直す。七草も構えを崩さなかった。

「ふー。その動きどっかで見たことあるなぁ」

男は表情を崩さずに言った。

「そう?」

「え?でも・・・まさかな。あれは日本人に伝承されていないはずだけど」

男は僅かに驚いたような顔で言った。

「ああ。そうね。私の祖父は中国の人だよ」

男は頷いた。

「なるほど。それでか」

男は一瞬で身体を寄せて七草を投げようとする。

七草は男が腕を掴もうとする動きを自分の腕を回転させるようにして回避する。

そして、両手で男の胸を押した。

男は後方へと仰け反る。

七草は一歩踏み込んで左右のチェーンソーのようなパンチを開いた胸に打込む。

男は後方へ押し戻されながら耐えていた。

七草は不意に掌底を顎に入れる。

男の身体が後ろに仰け反ると、七草は男の身体の横に回った。

そのままの流れで、左手で男の右脚を払う。

男の身体が大きく後方に一回転して胸から地面に落ちた。

七草はすぐに頭を跨ぎ、後頭部へとパンチの連打を浴びせた。

男はたまらずに頭を抱えながら回転する。

仰向けになった男の顔に七草はパンチを連打する。

男は顔を防御した。七草は標的を男の腹に向けておなじ速度でパンチを繰り出す。

男は脚を上げて七草の顔に蹴りを当てる。

七草は後方に避けた。口から鉄の味がしていた。七草は手の甲で口を拭う。赤い血がついていた。七草はそれをなめる。

男が立ち上がって、顔を赤くしながら七草の方に向かってきた。

七草は回し蹴りで、男の顔を打ち抜く、男はよろめきながら、回廊の角に衝突した。

男はすぐに振り向くと七草の右脚を払おうと右の蹴りを出すが、それを七草は脚を上げて躱す。

男の右蹴りは空振りに終わるが、左足に重心を乗せたまま、右脚で七草の顔を狙う。

七草は男の右腿辺りに前蹴りをする。

男は体勢を崩しかけるが持ちこたえる。

七草は一歩前に出て、前蹴りを右、左と男の胸に打込む。

男の身体が回廊の角に追い込まれる。

七草はさらに一歩踏み込む。

男の身体に左右のチェーンソーパンチ、頭と首筋に手刀、そしてまたチェーンソーパンチ、それを繰り返す。たまに肘で頭を打ち付ける。

チェーンソーパンチの一発で男は頭を壁に打ち付ける。

その反動で頭が戻ってきた。そこで七草はパンチを止めた。

男は気絶していた。

七草は脱力する。そしてキャビネットに掛けてあったコートを取りに戻った。

「あ、結局この人、誰だったんだろう・・・」七草は軽く会釈すると、二階の残りの部屋を確認してから階段室へ向かい、三階へと上って行った。




塗師が坂口のもとから立ち去って五分後。

藪島は一階に降りてきた。

「あれ?どこですかー?」

藪島は階段室から回廊に出る。回廊を回りながらスマートフォンを手にしていた。

二階には無かったことを坂口に連絡しようとしたが、呼び出しているものの電話に出なかったため、こちらに降りてきた。そのまま三階を探してみても良かったが、報告だけはしておこうと考えたからだった。

再び坂口に電話を掛ける。この管理建屋に入る前にそれぞれマナーモードにしていたためか、着信音は聞こえない。

藪島が歩きながら回廊を見る。先程よりも壁や地面が激しく壊れていることに気が付いた。

藪島はそのまま歩くと十字路が見えてきた。ふとそちらを除く。普段は細い藪島の目が大きく開く。

その先に、坂口が倒れていたからだった。藪島はゆっくりと歩いて近づく。

坂口が倒れていたのは藪島が入った十字廊下の反対側だった。

途中で左右に伸びる廊下との交点を通り過ぎる。右を向くと自分が二階から降りてきた階段が見える。

坂口に近づくと周囲の壁や地面に血液が付着しているのが確認できた。

藪島には、まだこの人間が坂口であることに疑いがあった。顔が酷く腫れてそして血で染まっている。

目の前の人間は服装からしてみれば坂口なのだが、藪島にはまだ確信がなかった。

藪島は腕を取って脈を測る。この坂口はすでに事切れているようだった。

藪島は目を閉じた。何をすれば良いのか考えていた。

藪島は目を開けると、その坂口の肩を抱えると、引きずるようにして運んだ、そのまま二階に向かう。

二階の回廊を移動する。十字路の入り口付近で坂口を寝かせて、回廊の先にある一室に入った。

そこは倉庫のような場所で備品が貯蔵されていた。

藪島は備品として置かれている中からラジエータ用の蒸留水を手に取った。回廊に出ると血まみれの坂口の顔に掛けた。顔面の血を洗ったのである。

藪島の目前に血を洗い流された坂口の顔が現れた。腫れはまだあるため、普段の坂口の顔とは違うが、藪島には坂口だと認識できた。

再び藪島は目を閉じた。次に自分は何をするべきなのか。考えを巡らせた。

目を開いた藪島に迷いはなかった。

備品倉庫からワイヤーを持ってきた。

送電線の予備なのか、他の用途で使われることがあったのか、藪島には分らなかった。

一緒に置いてあった皮手袋を手に嵌めて、坂口の首元に立った藪島は、まず坂口を俯せにさせた。次にワイヤーを坂口の首の下に通した。そのワイヤーの両端を藪島が握り、坂口の上に馬乗りのように座った。

藪島が握ったワイヤーは長すぎたために手に巻いている。

藪島は坂口の首を切断しようと考えた。

この方法で一体どれだけの時間を必要とするのかわからないが自分にできることを考えた結果だった。

坂口の死を証明する必要があると考えた。組織のために、そして後継者のために。

藪島は無表情で左右順番にワイヤーを引く。坂口の首にワイヤーが食い込み、やがて血が流れ始める。

藪島はもう何も考えなくなっていた。

首が胴体から切り離されたのは、二十分後だった。藪島にはこれが早いのか、遅いのか良くわからなかった。ただ無心で両手を動かしていたら、首が切り離されていた。

胴体から流れていく血が溜まっていく。

藪島は坂口の首を取ると、血溜まりから遠ざけた。

また備品倉庫に戻ると、置いてあったクーラーボックスを持ってきた。坂口の首はそこに入れた。保冷剤などは無いから、早く氷を入れなければならないと考えた。

USBを手に入れたら、さっさとここを離れようと藪島は思った。

藪島は立ち上がると、クーラーボックスを手にすると、近くの鍵が開いている扉の中に入れた。

再び坂口の遺体を見下ろした藪島の耳に管理建屋の前に停車する車の音が聞こえた。



袈裟丸と七草が死体を発見した同時刻。

火鳥は一階の探索を終えていた。

板倉悟は一階にはいなかった。また、板倉悟が所持していると思われるUSBも見当たらない。

すでに坂口たちが見つけている可能性もあったので、判断はつかないが、その場合連絡が入るはずだった。

現時点で坂口からの連絡はない。見つけていてくれていることを祈っているが、待っているのも合理的ではないと考え、こうして探索を続けている。

しかし、火鳥がこうしてここにいるだけで目的の一つは達成されていた。それが火鳥の今回のミッションだった。今、板倉悟とUSBを探しているのはついでなのである。

火鳥は回廊を歩く。

火鳥には気になっていることはあった。一階の廊下の一部が大きく破損していることと、時折血液が付着している壁があったことだった。

先に潜入している坂口と藪島に何かがあったのだろうかと考える。

不意に火鳥の右肘が疼く。

「まさか・・・ね」火鳥は呟いた。

それは突然だった。

火鳥は心臓の鼓動が大きく鳴った後、早鐘のように鼓動が響いているのを感じた。

その原因は目の前に突然現れた人物だった。

頭を覆うように巻かれた黒いタオル、上下黒い作務衣、足元の雪駄。

それが全て火鳥の数か月前の記憶を思い起こさせた。

「塗師明宏・・・」

火鳥は呟いた。

塗師は自然体で立っていた。

火鳥は身構える。しかし、違和感があった。それは曝け出されている手足に見える痣ではなかった。

何かが変だと火鳥は思った。

それが何かはわからなかった。

しばらく二人で対峙していると火鳥はやっと違和感に気付いた。

しかし、次の瞬間、塗師が自分に向かって走ってくると、その違和感が掻き消えた。

思考は向かってくる塗師への対応に大部分が割かれた。

火鳥は塗師の頭の位置へハイキックを繰り出す。

しかし、その位置に塗師の頭は無かった。

火鳥の腰より下に身を屈めた塗師は肘で火鳥の腹部を打った。

片足でハイキックを繰り出していた火鳥はバランスを崩して吹き飛ぶ、

塗師は素早く火鳥に近寄って、追撃に移行する。

吹き飛ばされた火鳥はすぐに体勢を整えるが、目前には高く飛び上がった塗師の両足があった。

火鳥は体を地面に転がすように回転させてそれを避ける。

塗師の両足は火鳥が今いた位置に着地する。

火鳥はその場で飛び上がって後ろ回し蹴りを繰り出す。

塗師がさらにこちらに追撃をすると予想したからだった。

しかし、火鳥の蹴りはまたも空を切ることになった。

塗師は立ち上がらずに屈んだ状態のままで火鳥が蹴りを繰り出した足を掴むと火鳥と反対側の壁に向かって叩きつける。

「馬鹿力っ・・・」

火鳥は背中を強く打ちつけながら言った。

火鳥はすぐに立ち上がれなかった。塗師が近寄ってきてもそのままの状態でいた。

塗師は火鳥の胸元を両手で掴む。火鳥も塗師が掴んだ手に自分の手を掛けると爪を立てた。

塗師の手から血が垂れるが、塗師は表情を変えなかった。胸元を掴んだまま火鳥を起こす。

塗師は火鳥の身体を壁に押し付けると右手を離し、火鳥の顔をめがけてパンチを繰り出す。

火鳥は悲鳴を上げる。三発ほど打撃を食らって、痛みと衝撃の中で冷静に考えられるようになった火鳥は繰り出された塗師のパンチを掴み、塗師の首に両足を掛けようとした。

塗師の腕を折ろうという考えだった。

しかし、腕を掴んで足を持ち上げた火鳥の行動を塗師は予測できていた。

火鳥が足を上げた途端に塗師は火鳥の胸倉を掴んでいた手を離した。

そして、勢いよく腕を引き抜いた。火鳥は掴んでいた腕も話してしまい、その場に落下する。

その火鳥の腹にめがけて塗師は蹴りを入れた。塗師はすぐに距離を取る。

火鳥は腹を押さえながら立ち上がる。額からは脂汗が流れていた。

塗師を観察すると全く焦る様子がなかった。

火鳥は先程の攻撃が予測されていたことに驚いた。

火鳥は上着を脱ぎ棄てた。

ゆっくりと構え直す。火鳥は移動しながら塗師と間合いを詰める。

塗師も移動しながら火鳥と間合いを測る。

火鳥は両腕を上げて、頭部をガードするように構えた。

塗師は、自然体で構えるというよりは立っていた。

火鳥は一歩踏み出す、後ろに置いていた左足を軸に右のハイキックを塗師の顔めがけて放つ。

塗師は脛に腕を当てるようにして弾く。火鳥は一歩踏み出して今度は右脚に重心を置いて左足の前蹴りを繰り出す。

塗師は右脚を上げてガードした。

さらに火鳥は攻撃を続ける。また左脚を軸にして右脚を塗師の腹めがけて放つ。

塗師はそれを半身で避けて脇で抱えるように火鳥の脚を掴む。

火鳥は残っている左脚で飛び上がり、塗師の後頭部へ蹴りを入れようとするがこれもガードされそのまま左脇で抱え込まれる。

火鳥の両足が塗師の両脇に抱え込まれる形になった。

塗師はそのまま体を回転させて窓に火鳥の身体を投げつける。

「ぐはっ」

火鳥は腹の底からうめき声を上げる。

塗師が投げつけた方向には割れたガラスの破片がまだ枠に残っている窓だった。

火鳥の身体はその窓枠に勢いよく衝突して管理建屋の外に飛び出た。

地面に倒れた火鳥はガラスで体中に切り傷がある状態だった。

塗師は投げ付けた反動で倒れ込んでいたが、立ち上がるとゆっくりと窓に近づいて下を覗き込む。

しかし、そこに火鳥の姿はなかった。

塗師は首を動かして周囲を確認するが火鳥は見当たらなかった。

それを確認すると塗師は窓から離れて、出口へと向かった。

その途中でスマートフォンを取り出してメールを確認する。

その内容を確認した塗師は歩みを止めて、玄関ホールの反対にある階段室へと向かった。



七草と二階で別れてから五分後。

袈裟丸は三階の回廊を見て回っていた。扉があれば中に入って確認もした。

三階の見回りも慎重に行った。二階で遭遇した化け物みたいな人間が隠れている可能性もあるからだった。曲がり角では身を隠し、覗き込むように先を確認して、誰もいないことを確認してから角を曲がるといった動きをしていた。

直線を進む場合には前後に視線を向けながら、どちらにも逃げられるように動いていた。

さらに十分ほどかけて回廊に面している扉の中は確認できた。次に袈裟丸は十字路に向かう。

同じようにして十字路の探索も行った。

十字路に並んでいる扉の内一つを開けるとこれまでとは違う光景だった。

そこは事務机が並んでいるオフィスのような場所だった、壁に施設全体のイラストと電光掲示板のようなものが組み合わさったパネルが掲げられていた。

袈裟丸は恐らく送電業務を管理するような場所だろうと思った。

今は電気も通っておらず、薄暗くなった部屋の中で、ただ一つだけ電気が点いている場所があった。

事務机の内の一つにノートPCが置かれていた。その画面から漏れている光だった。

袈裟丸は足早にその机に近づく。

それはモバイル用のノートPCだった。画面はデスクトップを表示されていた。マウスは無かった。トラックパッドで作業をしていたのだろうかと袈裟丸は思った。

起動されているソフトもなく、PCの電源を入れてログインした状態のままだった。画面を観察しても特別なファイルがあるわけでもなかった。

デスクトップの画面の下にインターネット通信のアンテナの表示があり、Wi-Fiでインターネットに繋がっているようだった。

ノートPCの近くを見るとポータブルWi-Fiルータが無造作に置いてあった。

袈裟丸はPCを捜査して本体の情報を確認した。そこには板倉悟の名前があった。

「悟さんはここで作業していたのか?」

しかし、今まで見たこの階に板倉悟の姿はなかった。

「せんぱーい」

外から七草の声がした。

袈裟丸は廊下の確認をすることもなく、開け放しておいた扉から外に出る。

「七草」

十字路の中央で声を上げると、十字路の一つから七草が顔を覗かせた。

「あ、いた」笑って駆け寄ってきた。

「お前、大丈夫なのか?」

袈裟丸は七草の身体を観察する。

「まあ。大丈夫です。歩けますし、手も動けますし、喋れます」

七草は変な踊りを踊った。

「ああ、そうか。今はその人を呪い殺しそうな踊りが全く気にならないよ。良かった」

「またそのキレッキレのツッコミを聞けて嬉しいです」

「やめてくれ、それはただの追い打ちだ」

「心配してくれたんですね」

「当たり前だろう。お前に何かあったら大学辞めて親に謝罪に行かなくちゃいけないからな」

「もしそうだったら、本気で殺されますよ」七草は言った。

「ああ・・・そうなんだろうな」

袈裟丸は苦笑いで言った。

「あの化け物は一体誰だったんだ?」

「さあ?」七草は首を傾ける。

「さあって・・・名乗ったりしないのか?」

「先輩は何時代に生きているんですか?」

「そう・・・か」

「まあそれはどうでも良いとして、見つかりましたか?」七草は袈裟丸に説明を促す。

「ああ。これを見てくれ」

袈裟丸は先程の部屋を見せた。さらに置いてあるノートPCが板倉悟本人のものであることも確認済みであることも伝える。

「じゃあ、ここに来ていたことは間違いないんですね」七草はノートPCを覗き込んで言った。

「間違いないな。しかも近くにいるはずだ」

「なぜですか?」

「スリープモードにしていないだろう?」

七草は納得する。二人はすぐに部屋を出ると、袈裟丸がまだ中を見ていない部屋を見て回る。

その結果、三階のどの部屋にも板倉悟はいなかった。

「どこにいるんですかね?」七草は腕を組んで考える。

「二階はどうだったんだ?確認できた?」

袈裟丸は七草に言った。あの状況で部屋の確認ができていなければ二階に戻ってみることも考えた。

「見ましたけれど、いませんでしたね。隠れる場所って言っても部屋の中にもそんなにないじゃあないですか?」

七草は言った。

「そうだよなあ・・・」

「そう言えば」七草が顔を上に向けて言った。

袈裟丸は七草の方に顔を向ける。

「あのモアイ男、USBを渡せってずっと言っていました。途中から氷を渡せになりましたけれど」

「USBと氷?何か関係があるのか?」袈裟丸は眉間に皺を寄せて言った。

「深く考えないで良いんじゃないかって思ったんですけど、ここにPCがありますからね。USBは何かしら関係があるんじゃあないですかね?」

「USBねぇ。そんなもん見当たらないからなぁ」

「ここにあるとは限らないのでは?」七草は袈裟丸に提案するように言った。

「いや、その男がUSBを欲しがっているっていることは、少なからずここでPCが置いてあることに関係あると思う。多分」

「随分自信無さげですね」

「頭で考えられる範囲はもう超えているだろ?さっきの首なし死体だって、全く何もわかってないじゃないか。少なくとも人が死んでいるっていうことだけがわかっていることだ」

七草は袈裟丸が言ったことに納得した。

例えそんな場面に遭遇したとしても、何が起こったかなど簡単に理解できることはまず無いと言って良い。

袈裟丸が我妻准教授の事件を解決できたのも、事前にあの部屋に入っていたアドバンテージがあったということと、盗聴器がアクシデントによって発見されたこと、またそれを補強するような知識を袈裟丸が持ち合わせていたことが重なって解決できたのである。つまり偶然である。

さらに言えば、二人が遭遇した首なし死体の解釈はある程度できるだろう。しかし、その時の解釈と真相の間の距離間の問題になる。我妻准教授の件はその解釈と真相との距離が短かっただけであり、首なし死体ではその距離が離れているのである。いくつかある選択肢から選んで解釈を組み立てることは可能だが、その選択肢に挙げられないものからは解釈のしようがない。

袈裟丸と七草はPCの置いてある部屋から出る。

「二階に戻ってみるか」袈裟丸が提案する。

二人で階段室へと向かう。

「もうここから脱出しているっていうことは無いですかね?」七草は袈裟丸に言った。

「それならどこかですれ違っていても良さそうなものだけど・・・あれ?」

階段室に入った袈裟丸は上を見上げた。

「どうしたんですか?」

「ここ、屋上にも上がれるのか」

七草も上を見上げる。

「あー本当ですね」

「行ってみるか」

袈裟丸は階段を上る。

二回の折り返しで二人は管理建屋の屋上へ続く扉の前に立った。

「鍵が開いていれば良いけどな」

袈裟丸がドアノブを回すと、簡単にドアは開いた。

管理建屋の屋上は何もない、広い空間だった。袈裟丸と七草が階段室から外に出る。五段ほどの階段を下りると屋上の床に足が着く。

そのまま屋上の中央まで歩いてきた。

二人が出てきた階段室の向かいには別の階段室があった。管理建屋の中を向かい合うように設置されている階段室の両方からこの屋上に向かうことができるのである。

屋上はアルミ製の柵に囲まれており、二人の左手には山が、右手には送電設備と麓の町並みが見えた。

「うーん、良い眺めだけど、眺めが良すぎるね」袈裟丸はうんざりした顔で言った。

それは屋上に何もなさすぎる、と言った意味だった。

七草は送電設備側のフェンスに近寄る。

「こうしてみると、施設全体が見えて良いですね」

七草はフェンスに身体を預けたが、想像していたよりも身体が前に倒れてすぐにフェンスから離れる。

「うわ。え?何?」七草はフェンスを見ながら言った。

「ああ。何か立て付けが悪くなっているんだね」

近づいてきた袈裟丸がフェンスを持って前後に揺らす。フェンスは簡単に前後に動いていた。

「さて。どうするかなぁ」

袈裟丸は立ち上がると頭を掻いて言った。

「まず、警察と火鳥さんに連絡じゃないですか?」七草は言った。

袈裟丸は短くため息を吐くと七草を見る。

「そうだな。火鳥さんももう二階を探そうとしている頃だろうからな」

袈裟丸はスマートフォンを取り出す。

その時、大きな音が二人の後方から響いた。

同時に二人は後ろを振り向く。

二人が上がってきた階段室にモアイ男が立っていた。

頭から血が一筋流れている。

七草が先ほどまで見ていたのはモアイのような顔立ちだったが、今は、怒りの表情が顔に表れている。

怒り狂ったモアイ。

七草が咄嗟に頭に浮かんだ言葉だった。すぐにモアイは二人の方に駆け寄ってくる。

身を隠す場所のない屋上に来てしまったことを袈裟丸は後悔していた。さっさと戻れば見を隠す場所を見つけられたはずである。

瞬く間に二人と怒り狂ったモアイの距離は縮まる。

袈裟丸と七草はそれぞれ別の方向に飛び退く。

空いた空間にモアイ男の大振りのパンチが飛んできた。

今モアイ男のいる位置から二人は二メートルほど離れているが、そこまで空を切った風が届いた。

袈裟丸は七草があんな化け物と戦っていたこと、そして勝利していたことに心の底から驚いた。

「先輩っ」七草が叫んだ。

袈裟丸の目の前にモアイ男が立っていた。

「やべっ」袈裟丸はフェンスの方に飛ぶが、モアイ男はその袈裟丸の脚を掴む。

モアイ男は袈裟丸を自分の方に引き寄せて持ち上げる。

タロットカードのハングドマンのような形で袈裟丸は持ち上げられた。

袈裟丸は逆さに吊られながら短く息をしていた。

このまま自分は死ぬのだと思った。

逆さに見えるモアイ男も大きく息をしていた。鼻息なのか口からの息なのか袈裟丸には判断できなかったが、生暖かい息が顔にかかる。

「おいあんた」

袈裟丸はモアイ男に声をかける。モアイ男は逆さの袈裟丸と目を合わせる。

「ひっくり返しても同じ顔だって言われたことないか?」

そう言うとニヤッと笑った。

モアイ男は一瞬驚愕の顔になった。

「こっちだ、モアイっ」

七草はモアイ男の膝を蹴る。

体勢を崩したモアイ男の後頭部に七草は飛び上がって膝蹴りを入れた。

モアイ男は袈裟丸を離して倒れた。

袈裟丸は背中から地面に落ちたが、すぐにその場を離れた。

立ち上がったモアイ男は振り返る。

そこには七草が立っていた。

再びモアイ男と対峙する。

モアイ男は咆哮を上げて七草に向かってパンチの連打を浴びせる。

七草は後方に下がりながら際どい距離でパンチを躱す。

モアイ男が右のパンチを放った瞬間、七草は右手でモアイ男の肘を軽く払うように叩く。

モアイ男のパンチの起動が斜め上へずれる。

七草は自然に右手の指を伸ばしてモアイ男の腹にその指先を当てた。

それと同時に右手を握って拳を作るとパンチを入れた。

袈裟丸が見た限り、腰の入っていない軽めのパンチに見えた。

しかし、モアイ男はうめき声を上げて身体が止まった。

七草はまた右手の指を伸ばすとモアイ男の胸に軽く当てた。

まるで腕を使って自分とモアイ男との距離を測っているかのようだった。

次の瞬間、再び握り拳を作ると、腕を軽く引いて、パンチをモアイ男の胸に当てた。

モアイ男は大きな呻き声を上げて後方へ吹き飛んだ。

袈裟丸は一連の七草の動きがあまりにも緩やかであり、全く力が入っていないように見えた。

現に今パンチを打ち込んだ七草の身体は全く回転していないのである。拳でモアイ男の胸を押しただけの様に見えた。

しかし、その結果はモアイ男を吹き飛ばすまでの威力があった。

吹き飛んだモアイ男は屋上のフェンスに激突する。

そのフェンスは衝撃で大きく歪み、今にも外れそうだった。

七草は声を上げて走り出すと、モアイ男の胸に飛び蹴りを当てた。

その衝撃でフェンスは破壊され、モアイ男は屋上から外に飛び出た。

しかし、モアイ男は七草の足首を掴んでいた。

七草の身体もつられて屋上から外に飛び出る。

「未来ぃーっ」

袈裟丸の身体は反射的に動いていた。屋上から飛び出そうとする七草の腕を掴む。

先に飛び出していたモアイ男の身体は重力が支配的となり、地上へと落下運動に入った。

左手で七草の腕を掴んだ感触があった袈裟丸は残りの右手で歪んだフェンスを掴んだ。

袈裟丸の身体も屋上から外に投げ出される。

アルミのフェンスがさらに歪む音がした。

このフェンスでは全く安心できなかったがそれしか持つものは無かった。

モアイ男と七草の体重を袈裟丸の右手で支えている状態になった。

モアイ男の掴む腕が次第にずれ落ちてきて、七草のスニーカを掴む。

しかし、すぐにスニーカは脱げた。

モアイ男は腕と脚を動かしながら落下した。その先は送電設備を囲うフェンスがあり、そこに背中から落下すると弾かれたように地面に叩きつけられた。

七草には完全に背骨が折れているように見えた。その傍に七草のスニーカも落ちた。

「未来っ、上を見ろ。両手で掴め」

袈裟丸の声のする方を七草は見る。ふらついていた左手を伸ばして袈裟丸の腕を掴む。

袈裟丸は頭の方からフェンスの軋む音を聞いていた。

袈裟丸の腕も限界が近づいてきた。

袈裟丸は火鳥に連絡を入れていなかったことを後悔していた。

まさかこんな状況になるとは思いもしなかった。

同時に袈裟丸の頭はどうやって七草を助けるかを考えた。

右手も震えており、左手もいつ限界になるかわからない。

この状況で火鳥が助けに来るとも思えない。

袈裟丸は右手の力が抜けてくるのを感じた。

「七草、すまん」

袈裟丸は必至の形相で七草に言う。それは巻き込んでしまったことについての謝罪だった。

しかし、七草は微笑んだ。

「面白かったです」

袈裟丸の右手がフェンスから離れる。

しかし、二人は落下しなかった。

袈裟丸の右手がしっかりと掴まれている感覚があった。

袈裟丸は上を見上げる。

知っている顔と知らない顔があった。

「袈裟丸、左手離すなよ」

知っている顔が言った。

知らない顔が袈裟丸の腕を無表情で掴んでいる。その顔は無表情だった。

次の瞬間、身体が大きく宙に飛び上がった。

袈裟丸と七草は大きく放物線を描くようにして屋上の床に落下した。

「ちょっと、助け方っ」

袈裟丸は叫んでいた。

顔を上げると、知っている顔、古見澤雄也が駆け寄ってくるところだった。

「ああ、無事そうだね。良かったよ」

もう一方の知らない顔の方、頭を覆うように黒いタオルを巻いて上下黒い作務衣に雪駄の男が壊れたフェンスから下を覗いていた。

「古見澤さんがなんでこんなところにいるんですか?」

呆然とした様子で七草が言った。

「俺が連絡したんだよ」袈裟丸が腕をぶらぶらさせながら言った。

それでも袈裟丸の両手は震えていた。

「いつですか?」

「板倉悟さんのマンションの前で警察から話を聞く前にね」

「あの時に?」

「そう。ここの場所の情報をメールで送っていたんだよ。何か知らないかなって」

袈裟丸は古見澤を見る。

「でも、なんで古見澤がいるんだ?結果的に助かったけど、ここまで来るとは思わなかったよ」

作務衣の男もゆっくりと振り返って古見澤の後ろに立つ。

「それと・・・あれ誰?」

袈裟丸は古見澤に言った。

「ああ。えっといろいろ話すことがあるんだけれど・・・」

古見澤は考えている。

「なあ?」

作務衣の男の方がこちらに声をかけた。しかし、その声は女性の様に高音だった。

袈裟丸も七草も虚を突かれていた。

「さっきのはワンインチパンチか?」

作務衣の男は七草に言った。

「え?は、はい」

七草は長い髪を振り回すように何度も頷いた。

「綺麗に決まったな」

そう言うとまた黙った。

「はあ。は・・・ありがとうござ・・・います」

七草は言った。

「袈裟丸、板倉悟さんなんだけど」

古見澤が言う。

袈裟丸は古見澤を見る。

「ああ、見つからないんだ」

「こっちで保護したよ」

袈裟丸は心からほっとした。

顔を空に向ける。

「良かったー」

「ほら。あれ」

袈裟丸はフェンスに近寄って下を指差す。

敷地外に車が二台あった。一台は火鳥の車、もう一台は最初から停車していた車だった。モアイ男が乗ってきた車だろうと袈裟丸は思った。

しかし、上から見るとわかるが、車が停車しているその先、コンクリート製の壁を曲がったところにもう一台の車があった。それは袈裟丸も見覚えがある車だった。

「古見澤も車で来たのか?」

古見澤は頷く。その車の側に、板倉悟が立っていた。

「悟さーん」袈裟丸は手を振る。

板倉悟はその声の場所を探すように辺りを見渡すと、こちらを発見したようだった。

はっきりと袈裟丸には確認できないが板倉悟は笑って手を振っていた。

「袈裟丸、ちょっといろいろあるんで、また後日詳しく話すので良いかな」

古見澤は言った。飄々と言っているが、目は真剣だった。

「わかったよ。とりあえず、今日は悟さんが無事でよかった」

古見澤は微笑んだ。

「さて、帰りますか」古見澤は歩き出す。作務衣の男もそれについて行く。

「ちょっと待った」

袈裟丸は二人に言った。

袈裟丸と作務衣の男が振り向いた。

「どうしたの?」

古見澤が不思議そうな顔で言った。

「一服ぐらいさせてくれ」

そう言うと袈裟丸と七草は同時に煙草に火をつけた。

遠くの鉄塔越しに見える夕日が地平線に落ちる準備に入っていた。

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