第5話 後悔と相知

朝方はうっすらと雲が空にあり、気温もそこまで上がらなかったが、正午を一時間ほど経過した現在は空の雲もすっかりと消え去り、太陽が降り注いでいた。

火鳥の運転する車の中にいる七草と袈裟丸はそんな太陽の恩恵のみを受け取っていた。あまりにも天候が良くなったためか、火鳥に言って暖房を消してもらっていた。それでも車内の温度は適温よりも少し暑いくらいだった。現に二人共コートを脱いでいる。

これは外環境だと風があるため、体感温度が低く感じるが車内ではその風も遮られているので太陽の熱のみを受け取ることができるからだ。

板倉悟のマンションを出発してから十分ほど経過した。車は県北の道に先程出たところであり、そのまま国道を走ってS県に向かっている。

七草は先程から顔を赤くしていた。体温が上昇したわけでも同じ空間の人間に恋心を抱いているわけでもなかった。

七草はお腹の音が先程から止まらないことに恥ずかしさを覚えていた。

袈裟丸は先程から下を向いている。火鳥は笑顔でバックミラー越しに七草を見た。

「ごめんね。今ちょうどお店が無い道を走っているのよ。もう少しでお店が並ぶ大通りに出るわ」

「あ・・・はい。ごめんなさい」七草は下を向いて耐えているようだった。

「お昼何食べたい?」火鳥は七草に向かって言った。

「何でも・・・良いです」七草は小声になる。

「七草、気にするなよ。俺も腹減っているしお腹もなっているから。ただお前よりは音は小さいけれどね」袈裟丸は笑っていた。

火鳥の運転する車は市街地へと向かって行った。

「すんなりと帰してくれたわね」火鳥がステアリングを回して言った。

「そうですね。こっちも急いでいたっていうことをわかってくれたんじゃあないですかね」袈裟丸は窓の外を見ながら言った。

「自分、初めて警察官が人を制圧というか、逮捕する瞬間を見ました」七草は興奮している様子で言った。

「そう何回も見るものじゃあないわよ」火鳥がバックミラー越しに言った。

車は国道に出た。他の車の流れに乗って順調に進んでいる。

「ラーメンとかでも良いかしら?」

火鳥が前方を見ながら言った。

後部座席の二人は何も言わずに頷く。

火鳥はそれを確認すると左車線に車を移す。

車は一件のラーメン店に入った。駐車場に車を停車すると三人は店内へと入って行った。

火鳥の奢りでそれぞれ食券を購入すると三人は席に着く。店内はテーブル席が一席とカウンタのみだった。

テーブル席に客が座っていたため、三人は横並びにカウンタに座る。

食券を店員に渡すと、五分程度でラーメンが運ばれてきた。

三人は無言でラーメンを啜る。十分後には三人の器の中は空になった。

店員のごちそうさまを告げると三人はまた車に戻って行った。

「おいしかったぁ。火鳥さんごちそうさまでした」七草が満脚げに言った。

「ごちそうさんでした。火鳥さんはこのお店知っていたんですか?」

袈裟丸は火鳥に言った。

「前にここを通った時に一回入ったのだけどおいしかったから覚えていたのよ。満脚した?」火鳥は七草に向かって言った。

「大満脚です。ありがとうございました」

火鳥は七草の笑顔を見ると車を発進させた。

「それにしても上手くいったわね」火鳥が袈裟丸に言った。

袈裟丸はバックミラーの火鳥と目を合わせると何も言わずに微笑んだ。

「本当に良く気づきましたね。あの部屋が盗聴されているって」

七草は横の袈裟丸に言った。

「本当、自分でも良く気が付いたと思ったよ」袈裟丸が顔を前方に戻して言った。

「どの時点で気が付いたの?」

「気が付いたのはキッチンでオリーブオイルが無いことを確認していたときですね」

「キッチンの中に盗聴器があったんですか?」七草は袈裟丸に言った。

「いや、場所まではわからないよ。それに盗聴されているかもしれないっていう可能性だけしかなかったよ」

火鳥は怪訝な表情をした。

「そんなことってあるの?」

「はい。笹倉さんのおかげで盗聴器の可能性に思い至りました。でも場所までは特定できませんでした。多分こたつのある部屋だろうな、くらいです」

袈裟丸はコートを脱いだ。ラーメン店に着いた時に着込んだものだった。車内に戻ってきたためまた暑くなったのだった。

「笹倉さんが何かしたかしら?」火鳥は怪訝な表情を崩さすに言った。

「最初にあの部屋に五人で入った時に笹倉さんがコートをラジオに引っ掛けて落としましたよね?」

「ありましたね。そんなこと」七草は思い出す。

「その時にラジオのスイッチが入ってハウリング音がしたでしょう?」

袈裟丸はニットの袖を巻くって言った。

「ああ、そうね。大きな音がしたわね」

「FMラジオだったんですけれど、盗聴器ってFMの周波数帯を使うことが多いんですよ」

「へーそうなんだ」火鳥は素直に頷く。

「それで、落とした拍子にスイッチが入ったんでしょうね。盗聴器の電波を拾ってハウリング音が響いたんです。多分ラジオが乗っていた棚の裏側のコンセントかな」

「なんでそんなこと知っていたんですか?」七草が純粋な目で袈裟丸に言った。

「えーっと、その説明はいるかな?」袈裟丸も純粋な目で返す。

「理由は不問にしましょう。これで二つ目ね」火鳥は真顔で言った。

袈裟丸は笑顔で会釈する。

「まあそのおかげで人生初の大捕り物を見ることができたから良かったですよ」七草は袈裟丸に笑顔で返す。

キッチンでオリーブオイルが無いことを確認した袈裟丸は盗聴器の存在に思い立つと冷蔵庫の扉に貼られていたマグネット式のホワイトボードにそのことを書いて全員に伝えた。その際に、刑事二人に盗聴相手に気付かれないようにその人物を探すことを伝えた。このマンション内にいることも同時に伝えた。

「どうしてマンション内にいるって判断できたんですか?」

「盗聴器の電波って弱いんだ。だから近くにいるはずだと思ったんだよ」

袈裟丸のアドバイス通りに寿が他の刑事にそれを伝えて他の刑事が在宅の部屋を回って行った結果、三〇四に住んでいた学生が逮捕されたということだった。犯人は隣の部屋にいたのである。

「寿さんが監視カメラの映像を確認していたのは無駄になったのね」火鳥は言った。

「いや、そんなことないですよ」袈裟丸は身体を伸ばす。

「あの映像があったから一階の住民は除外できましたからね」

「一階の人たちには三階に行く機会がなかったのですか?」七草が言った。

「ああ、一階の人が三階に行くにはどうしてもエレベータホールを通らなければいけないだろう?だとするとどうしたって監視カメラに映るんだ。殺害があった日に外に出る人はいても一階の人が階上に行く瞬間は映ってなかった。だから一階の住民は全て除外さ」

「なるほど。だとすると二階以上の人間ってことになるのね」

「はい。そして盗聴器の問題があるから三〇四、二〇四、二〇五の住人の誰かってことになります」

「ああ、その中で出入りをしたのは三〇四の住人だけっていうことね」

「そうなりますね」

火鳥は納得した表情をして頷いた。

「でも、盗聴器まで仕掛けていたんですね。我妻先生を殺害して脚を切断した後でさらに盗聴器まで仕掛けていたって行動力ありすぎでしょう」

七草は驚きの表情で言った。

「盗聴器は犯人ではないと思うよ」袈裟丸は言い切った。

「え?じゃあ誰ですか?」

「我妻明子ね?」火鳥が言った。

「はい。そう考えています」

「え?どうして?」七草は身を乗り出す。

「七草さん、今は煩いからシートベルト、しっかりとしてね」火鳥は首を少し後ろに向けて言った。目線は前を向いている。

「単純に三〇四の住人には盗聴器を仕掛けるタイミングが無いからね」

「電波が届きにくいのならば我妻さんも盗聴できないのではないですか?」

「恐らくだけど録音できるタイプの機種だったんじゃないかな?」

「大家っていう可能性もあったんじゃないですか?」

「そうだね。マンションの住人で誰も受信機を持っていなかったら大家だったかな」

七草は頷いた。

「我妻先生はなんで盗聴器をしかけたのですかね?」

「うーん、なんでだろうな?」袈裟丸は笑った。

「本人のみぞ知る、って感じね?」火鳥は袈裟丸に言った。

「まあ、そうですね。無粋ですが想像すると、多分二人は男女の仲だったんでしょうね。笹倉さんの言葉を借りましたけれど」

「え?誰と誰ですか?」七草は袈裟丸の顔を覗き込む。

「それは決まっているだろ?板倉悟と我妻先生だよ」

「え?そうなんですか?」

「想像ね、想像。それが無理なく考えられるっていうこと。我妻先生が多分板倉さんの部屋の二本目の鍵を持っていたんだろうね。行き来するのに便利だし」

「二本目の鍵を持っているくらいなのにマンションの住人とか大家に顔を覚えられなかったのかしら」

火鳥が運転する車は順調に走行していた。

「普段は我妻先生の部屋でこう、イチャイチャしていたんじゃないですかね。緊急用に二本目の鍵を持っていたっていうだけで、大学から家が近いとかじゃないですか?」

遅くまで大学にいて、それから二人で会う時間を作るならば、どちらかの家で過ごす方が都合は良いだろうということである。

「殺された日は、早く大学を出たのか仕事中に出てきたのかわかりませんけど、二本目の鍵で入って、盗聴器の回収をしようと思ったんだろうね」

袈裟丸は口元に笑みを浮かべているが、目はどこか遠くを見ているように七草には感じていた。

「板倉悟さんの失踪の手がかりになると考えたからですね?」

七草が袈裟丸の言葉を遮る。

袈裟丸は目だけ七草を見ると、少し目を閉じて頷いた。

「そうだろうね。いや、そうかもしれないね。でも、もう我妻先生はいないんだよ。その意味は、生きている方の人間が自分を納得させるためだけに各々がそう思っていれば良いんじゃないか?」

七草は無意識に両手を握っている自分がいることに気が付いた。ゆっくりと手を広げるように頭から信号を出すイメージをした。

「その時に隣人に襲われたのね?」火鳥が言った。

「詳しい動機とかは刑事さんたちにお任せしますけど、廊下とかですれ違って魔がさしたのかなぁ。衣服もだいぶ乱れていましたしね・・・」

袈裟丸はそれ以上言わなかった。

「その時に隣人が我妻先生の鞄を持って行ったのね?」

火鳥は袈裟丸の気遣いを受けて話を変えた。

「その鞄の中に盗聴器の受信機と二本目の鍵が入っていた・・・」七草は小声で呟いた。

袈裟丸も七草だけに聞こえるような声で、そういうこった、と言った。

七草は我妻准教授の事を考えていた。なぜこのようなことになってしまったのか、板倉悟と本当はどういった関係があったのか、それを我妻本人に聞くことはもう叶わない。

二人以外の第三者から聞くことは出来るかもしれないが、それはすでに憶測の話、伝聞の類になっている。

どう頑張って調べても、それは我妻准教授の言葉ではないのだ。ただ、一人例外がいる。

それは失踪している板倉悟である。

七草は板倉悟を見つけなければならないと強く思っていた。

それは袈裟丸も同じなのか、七草には分らなかった。でも、それを袈裟丸に聞くことを七草は止めた。

袈裟丸は火鳥から板倉悟の捜索の手伝いを依頼された時に、これは自分の物語だと言っていたことを思い出したからだった。

それならばこれは自分の物語だと思おうと七草は決意していた。

「あ、そういえば、我妻先生の脚を切断した理由は何だったんですか?」

七草は袈裟丸に聞いた。これならば聞いても良いだろうと考えたからだった。

「そうそう。そのこと、袈裟丸君まだ話していなかったわよね?刑事さんから検死の結果は聞いたけれど・・・後は犯人に直接聞くから良いって刑事さんたち笑顔で言っていたわね」

火鳥の発言はマンション前で笹倉と寿と別れる時のことを指していた。

犯人逮捕で湧いていた現場の隅で三人は待ちぼうけを食らっていたが、それも十分程度だった。

笹倉と寿が三人に近づき、袈裟丸へ犯人逮捕に協力してくれたことを感謝した。そして、もう拘束はしないので帰宅しても良いことを知らせた。その際に寿から検死を行っていたラム肉好きの先生から追加で検死結果の報告があったのである。

それは切断された脚の事だった。詳しく検死した結果、両脚とも膝下あたりから切断されていたこと、そして切断部の肉が刃物で切り付けられて極めて酷い損傷だったことが分かった。しかし、骨に関しては切断した痕跡がなかったことが報告された。

寿の話では速報としての性質があるのでまた判明したことがあれば連絡してくれるとのことだった。

「寿さんから連絡を待てばどういうことかわかるでしょうから待ちましょうよ」

袈裟丸は言った。

「それでも良いのだけど、袈裟丸君はどういうことかわかるの?」

「予想はありましたけど、最後の情報で確定した感じですね」

「先輩、本当ですか?」七草は懐疑的だった。

「お前も予想までは出来るはずだよ。俺と同じもの見ているはずだから」

そういうと袈裟丸は微笑んだ。

「全くわかりません」七草は即答した。

「お前さ、ちゃんと考えている?」

「はい。もちろんです。分からないから教えてください」七草は再度即答する。

袈裟丸は呆れた表情をしたがそれは口元以外だった。

「何度も言いますけれど、検死を詳細にすればわかることですよ?」

袈裟丸は火鳥と七草に向かって言った。

二人は頷いた。

「結論から言いますけれど、我妻さんが脚を切断されていたっていうのは間違いです」

「はあ?」

「なんで?」

火鳥と七草が同時に声を上げる。

「だから、脚は切断されていません」袈裟丸はきっぱりと言い切った。

「先輩、さっぱりわかりません。いつも先輩の言うことはさっぱりわからなくてフラストレーションがたまっていますけれど、今日ほどさっぱりわからないことは無いです」

「七草、何度も強調してカミングアウトしてくれてありがとう。嬉しいよ。でも、俺の結論は変わらない」

「検視結果はどうなるの?切断されていたんでしょう?」火鳥は袈裟丸に言った。

「検死結果を聞いてから切断されていないことがわかったんですよ」

袈裟丸は返す刀で火鳥に言った。

「・・・さっぱりだわ」火鳥は七草を見て言った。

「でしょう?」

「二人に友情が生まれたことは喜ばしいのだけど、俺だけ釈然としないから説明して良い?」

袈裟丸は火鳥と七草に言った。

「寿さんの検死結果から、骨は切断されていないって言っていただろう?」

七草は寿の言葉を思い出す。

「そうでしたね」

「なんでひざ下の肉は酷い状態になっていたのに、骨は切断されていないんだ?」

火鳥も七草も袈裟丸の言葉が良く判らなかった。

「どういうこと?」火鳥は言った。

「俺は現場の洗面所に残してあった肉切り包丁で骨が切断できるかは良く知りません。やったことないですしね。どちらにしても脚を切断したのならば、脚の骨に切断した痕跡が残っていないっていうのはどうしてかっていうことですよ」

二人はまた黙っている。

「犯人側に立って考えてみようか?何らかの理由で脚を切断しなければいけないならば、特殊な道具があればそれは簡単に出来るだろうけれど、そうじゃない場合、関節から切断しようと思わないか?」

「そうね。料理で骨付き肉を切る必要がある時も骨から切ろうとは思わないわね」

火鳥が言った。

「豚骨ラーメンのスープを摂る時は、鉈みたいな刃物で叩きつけて壊していますよね」

七草が思い出すように顔を上に上げて言った。

「そう。だから実際問題として、ただの肉切り包丁では脚の骨の切断は難儀するはずなんだよ」

「でも実際には脚は切断されて持ち去られていた・・・」

「だから素直に観察してみれば良かったんだよ」

二人は黙っていたので袈裟丸はしゃべり続ける。

「膝下の肉は切断されたが、骨は切断されていない。これが素直に見た結果だ」

「先輩、禅問答みたいなやつ止めましょうよ」七草がぐったりとした表情で言った。

「おお、禅問答なんて難しい言葉良く知っていたな」

袈裟丸が茶化すように七草を見ると、七草は目を細くして横目で袈裟丸を睨んだ。

「はい・・・続けます」

袈裟丸は首を正面に戻す。

「我妻先生はね、義足だったんだよ」袈裟丸は言った。

「え?」火鳥も七草も同じセリフで驚いた。

「多分両脚とも膝下から義足だったのだと思う」

火鳥も七草もまだ袈裟丸から発せられた言葉を理解している途中だった。

「先輩はなんでそれがわかったんですか?検死結果ですか?」七草が恐る恐る言った。

「それは決めてだな。それ以前からそうじゃないかなっていう程度には予測していたよ」

「そんなことが予測できたんですか?」七草は驚いた表情で言った。

「火鳥さんが深澤先生と我妻先生に話を聞きに言った時の話だよ」

「え?その時?」火鳥も不思議そうな顔をした。

「深澤先生がソファに座っていたのに我妻先生は椅子に座っていたって言っていたじゃないですか」袈裟丸はそんな火鳥の顔をバックミラー越しに見る。

七草は、袈裟丸と深澤教授に話を聞きに言った時の事を思い出していた。ソファに座る前に深澤教授は我妻准教授と打ち合わせをしており、二人がソファに座る前にキャスタ付きの椅子を移動させていたこと。つまりその椅子には我妻准教授が座っていたということである。

袈裟丸は火鳥に深澤研に行ったことを隠しているため、火鳥の話を引き合いに出していたが、確かに七草もその状態は見ていた。

「ソファに十分なスペースがあったのに座らなかったって言っていましたよ。それに大体ソファの前に置いてあるテーブルってソファに座った時の高さに合わせていることが多いですよ。だから普通の椅子に座っているとかなり低い位置にあって使いづらいはずなんです」

袈裟丸は淡々と話した。

「それなのに我妻先生は椅子に座っていたっていうのだから、脚が悪いのかなって思っていたんです」

「ああ、それで切断の時の状況から義足じゃないかって思ったのね」火鳥は言った。

「ええ。脚が無くなっているのに、骨は切断されていないのだから、その切断面が骨の終端だったってことです。事故か病気かはわかりませんが、何らかの理由で昔に脚を失う事態になったのでしょうね。骨はそれ自体が修復する機能がありますから、末端は綺麗になるのでしょうけどね。無くなった脚は義足でカバーしていたんです」

「最近の義足は品質が高いからね」火鳥は言った。

「えっと。あの、それは理解したんですけれど、なんで持ち帰ったのですか?それに包丁で傷つける必要はあったんですかね?」七草は言った。

「それは三〇四の住人にとって不測の事態だったんだと思うよ」

袈裟丸はゆっくりと言った。

「不測の事態?」七草はオウム返しをした。インタビュアだったら失格ものだと思った。

「まあ、その、そうだな。襲った時、というか、こう・・・」

袈裟丸は言いにくそうに頭を掻く。

「つまり、犯人が我妻さんを襲った時に義足が外れたか、犯人が自分で外したかした時に何かあったのね?」

火鳥が袈裟丸の気遣いを受けて言った。

「はい。そうです。ありがとうございました」

袈裟丸は礼を言ったが、七草は不思議な顔をしていた。

「そう。その時に犯人にとって都合が悪いものがあったと思うんだ」

七草は頷いて袈裟丸に続きを促す。

「それが何かは、これも想像でしか言えないけれど、多分イニシャルとかのタトゥーじゃないかと思うんだ」

「タトゥー?どこにですか?」

「義足の構造って義足本体と肉体の間で装着しやすくするためにホルダーのような構造をしているんだったと思うんだよね。この場合、膝から下が義足だから、膝から太腿の膝側に密着するようなものが義足についていたはずなんだ」

袈裟丸は目を閉じて言った。

「その時にホルダーで隠れる部分がある。そこに我妻先生はイニシャルのタトゥーを彫り込んだ」

「え?でも、その場合はさっきの話だと板倉悟さんのイニシャルですよね?犯人のイニシャルを我妻先生は知らないでしょう?」七草は言った。

「イニシャルが同じだったんだよ。板倉悟さんと犯人がね」

袈裟丸は七草の顔を見て言った。

「いやいや、そんなの名前をみればわかる・・・」

七草は思い出した。大家に連れられて三階の廊下を歩いた時、すべての家の表札が無記名だった。ましてや、隣人が知り合いということではなく、誰かも知らないということは七草自身にも覚えがあった。

袈裟丸はそんな七草の顔を確認する。

「犯人は我妻先生を殺害した後、外れた義足を付けようとしてそのイニシャルに気が付いた。これは自分のイニシャルではないと考えただろうけど、警察がこれを見つけた場合、最初にきっと同じイニシャルの自分に話を聞きに来るだろうと考える、その時に犯人自身が警察の追及に耐えられるだろうかと思ったんだろうね。盗聴器が無いか調べに刑事が来ただけですぐに部屋を飛び出して逃げてしまうくらい犯罪に向いていない性格だったのだから自己評価は正しかったわけだけど」

そう言うと袈裟丸は腕を伸ばした。

「後は肉切り包丁でイニシャル部分を削り取る様にして傷つけて義足を部屋に持ち帰ってバラバラにでもして翌日に捨てに行ったんだろう」

袈裟丸は言い終わると窓の外の風景を眺め始めた。

車内に静寂が訪れた。車の走行音だけが車内にも響いている。

三人を運ぶ車はS県に入ったところだった。




火鳥の車はコンビニエンスストアに停車していた。トイレ休憩と飲み物などを購入するためであり、袈裟丸と七草にとっては煙草休憩の時間となった。

すでに火鳥は車に戻っており、スマートフォンで電話をしていた。

「先輩、板倉悟さん、何しているんですかね」

七草は煙草の灰を落として言った。

「さあ。何しているんだろうな」袈裟丸は紫煙を吐き出して言った。

「最悪なことになっていないと良いですね」

七草は車止めを見ながら言った。

「最悪な事って?」袈裟丸は不思議そうな顔をして言った。

「あ、いや、その見つからないっていうことですよ」

七草は嘘を言った。本心としてはすでに板倉悟が亡くなっているのではないかという思いがあったからだった。しかし、袈裟丸にとっては板倉凌のこともあり、良く知っている間柄だったことを思い出していた。

「見つからないっていうことはないだろう」

袈裟丸は笑いながら言うと紫煙を空に向かって吐き出した。

「例え骨だけになっていたとしても、必ず見つけ出すよ」

袈裟丸の発言に、七草は心臓が大きく鳴ったのがわかった。七草が考えていたことが読まれていたのかと思った。しかし、七草にはすぐにそれが袈裟丸の覚悟なのだとわかった。袈裟丸は板倉悟の捜索の結果がどのようなものになったとしても、それを受け入れる覚悟を持っているということだ。七草は袈裟丸がどれだけの時間でその思いに至ったのかわからなかった。

「きっと・・・笑って悪りぃとか言って出てきてくれますよ」

七草は笑顔で袈裟丸に返事した。袈裟丸の覚悟に自分は寄り添わなければいけないと思ったからだった。

「悟さんはね。そんなこと言わないよ」袈裟丸はゆっくりと正すように言ったが、七草は理由もなく嬉しく思っていた。

二人で煙草を十分に二本吸った後、火鳥の車に戻った。

「ごめんなさい、ゆっくりとしてしまいました」袈裟丸が火鳥に謝罪する。

「いいのよ。今、板倉悟の叔父に連絡を取ったの。変電所に行く前に少し話を聞いておこうと思ってね」

火鳥はギアを入れるとバックでコンビニエンスストアの駐車場を出た。

「板倉さんの叔父さんってどこに住んでいるのですか?」袈裟丸が言った。

「変電所から遠くないわ。叔父の板倉正臣さんは実家に住んでいてね。開業医をしているわ。自分の父親、板倉悟から見れば祖父が医者をしていたからそれを継いだっていうことらしいわ」

車窓はとっくに繁華街を抜けて平屋の一戸建てや畑がいくつか見えてきた。

「話を聞くって何のですか?火鳥さんはお話ししたのですよね?」

七草は火鳥に購入してもらったお茶のペットボトルを開けて飲んだ。

「さっき、板倉悟の部屋のPCで見つけた変電所の事についてよ」火鳥は言った。

「その変電所って叔父さんはご存じなんですか?」袈裟丸は言った。

「多分ね。だって自分の兄、板倉悟の父親がそこに勤めていたのよ」

火鳥は言った。

「なるほど。そしてそこに板倉悟さんもいるかもしれない・・・」袈裟丸は腕を組んで考え始めた。

「いきなり変電所に行くよりか、良く知っている人から話を聞いておいた方が良いと思ったのよ」

袈裟丸は頷いた。

車は国道から県道に入り、さらに細い道に入って行った。舗装はされているものの、先程までの国道と比べると道幅も狭い。車がカーブに入ると袈裟丸と七草は身体を左右に揺らされた。

火鳥の車が速度を落とすと、目の前に綺麗に整えられた生垣が見えてきた。ここだけその他の家とは違う様子だった。

生垣に沿って進むと途中で途切れた。

途切れた生垣の奥には『板倉診療所』という文字書かれた看板があった。

建物自体はシンプルだが清潔感が漂う診療所だった。車は診療所を通り過ぎて、生垣の続きをさらに進むと次に漆喰の塗られた土壁が見えてきた。

車は土壁をさらに進み、途中に見えた大きな門に入って行く。火鳥は入ってすぐの駐車場に車を停めた。三人は車を降りる。

さらに奥には門があり、その中の屋敷が見えた。

三人は玉砂利の駐車場を抜けて、二つ目の門を通り過ぎて屋敷の庭に向かう。

「すげー」袈裟丸は辺りを見渡す。

「うわー綺麗」七草は敷地内に作られた大きくはないが、一般家庭では到底見ることのできない庭を見て言った。

火鳥も周囲を見渡すと腕を組んだ。

「凄い家ね。隣には診療所だし。まるで武家屋敷みたいね」

「そのとおりでございます」

不意に後方から声がして、火鳥は身構えた。

七草と袈裟丸も声のする方を見る。

底には小柄なスーツ姿の老人が僅かに会釈をして立っていた。右手は肘で九十度に曲げており、その先はお腹の方に向けている。

「驚かせてしまいましたでしょうか?これは申し訳ございません」

老人は一度頭を上げると再び頭を下げた。それは先程よりも頭の下げ方が深かった。一回目と二回目ではその意味合いが違っていたからだった。

「失礼ですが新聞記者の火鳥様でございますね?そちらは悟様捜索のお手伝いをされている方々、ということでよろしかったでしょうか?」

老人は丁寧に三人の身元確認を行う。

「あ、えっと・・・はい。その通りです」

火鳥はまだ驚いている様子だったが、老人の問いかけに肯定した。

「遠い道のりでお疲れでしょう。旦那様は今急患の診療を行っていますので、少々お待ちください。どうぞこちらへ」

老人に促されるまま屋敷の中に三人は入って行った。

落ち着いた雰囲気の中に日本家屋特有の空気感を三人は楽しみつつ、目の前を歩く老人の後ろについて行った。

「あの人は誰なんですか?」七草はそっと火鳥に尋ねる。

「多分、お手伝いさん・・・執事?」

「永く旦那様にお仕えしている者です。皆さまのお目に留まるような人間ではございませんのでどうぞ、お気になさらずに」

老人は前を向いたまま言った。

「そこまで私大きな声で話しましたっけ?」

袈裟丸が横で笑いながら首を振った。

「どうぞこちらの部屋でお待ちください」

老人は襖を開けると、自分は入室せずに廊下に立ち、軽く会釈をする。

そこが客間ということなのだろうと七草は思った。

部屋は二十畳ほどの和室で、テーブルが中央に置かれていた。家具類はほとんどなく、床の間に掛け軸と花が活けられた花瓶が置いてあった。

三人が中央に置かれたテーブルの前に着くころには襖は閉まっており、老人の気配も消えていた。

「凄い老人でしたね」七草が言った。

「あんな人がまだ生きているのね」火鳥は驚愕していた。

三人が下座に着席して待っていると、襖が再び開いて老人が入ってきた。手にはお盆を持っており、その上には湯呑にお茶菓子が置かれていた。

老人は手際よく、三人の前にお茶とお茶菓子を置いて行くと一礼してまた部屋を出て行った。

「完璧な執事ですね。まったく足音がしなかった」七草が言った。

「実は浮いているんじゃないか?実は死んでいましたっていう話だったらホラーだね」

袈裟丸が真顔で言う。

「うちに一人欲しいわ」火鳥が呟いた。

「足音もしない人が家にいるのは、俺はちょっと勘弁ですね」

袈裟丸は笑いながら言った。

せっかく持ってきてもらったからと三人でお茶とお茶菓子を食べていると、今度はしっかりとした足音が聞こえて襖が開いた。

「お待たせいたしました」

五十代前半で白髪が見えるものの、まだ黒々とした髪が残っている男性が入ってきた。ゆっくりと歩いて三人の前に座ると、すぐに老人がやってきて袈裟丸達とは異なるデザインの湯呑を男性の前に置いた。

「小さな診療所をやっているのですが、急患が出てしまってね。こうした仕事をしているんでお客様優先というわけにはいかんのです。勘弁してください」

そういうと笑って頭を下げた。三人も釣られて頭を下げる。

老人は三人が気付かないうちに部屋からいなくなっていた。

「いえ、突然訪問させてもらった私たちがタイミングが悪かったということだと思います。あ、申し遅れました可士和タイムスの火鳥です」

中央に座った火鳥が言った。左右にいた袈裟丸と七草も自己紹介をした。

「板倉悟の叔父の板倉正臣です」

正臣は頭を下げる。

「それで今日は何でしょう。悟の居場所が分かったのでしょうか?」

正臣は三人の顔を交互に見て言った。

「はい。その事で現状の報告をしたいのですが」

火鳥はそう言うとこれまでの事をまとめて説明した。

火鳥の説明を正臣は時折頷きながら、話の後半から腕を組んで話を聞いていた。

「そう・・・ですか。分かりました」

正臣はゆっくりと言うとお茶を一口飲んだ。

「お話に出てきた変電所は、この近くにあります。今は仰る通り廃墟です。使われておりません。いつまでたっても撤去されずに残っているなんの利用価値もない建物ですね」

正臣はテーブルを見ながら言った。

「悟さんがあの場所にいる可能性はあると思いますでしょうか?」

火鳥は正臣の顔を覗き込むようにして言った。

「ええ。あると思います。あそこはね悟の父、私の兄が勤めていた場所なんですよ」

三人は目を合わせた。

「本当ですか?」火鳥は言った。

「ええ。兄は技術者でね。板倉家の家系として代々医者をやっていたもんですから、私もてっきり兄が継ぐものだと思っていたのです。でも兄としては技術者に憧れがあったみたいでしてねぇ」

正臣は口元を綻ばせ、昔を懐かしむような顔をしていた。

「確かに、兄はそう言ったものが好きでした。自分で工作したりしてものを作るのが好きでした。私も学生時代に音楽にのめり込んでいたときにギターを繋ぐアンプが壊れてしまって、その時に兄に直してもらった覚えがあります」

正臣は火鳥をじっと見た。

「そんな兄が私は好きでね。兄が理系の大学に進みたいと行った時も両親親戚ともども反対していましたが、私も一緒になって説得しましたよ。私が代わりに医者の道を進むからと言ってね」

「そうですか」火鳥は正臣の話すトーンに合わせるようにして言った。

「お互い違う道に進みましたけど、兄弟仲は良かったと思いますよ。兄は結婚して子供も二人できましたが、私はこんな風な状態でね。結婚はしていましたが、嫁はがんで三年前に他界しました」

正臣は寂しそうな顔をした。

「兄夫婦も一年前に亡くなりました。ご存知かと思いますが飛行機事故でした」

正臣は言葉を区切ると湯呑を口元で一回傾けた。

しかし、今にも口からは寂しさがあふれてしまいそうな顔をした。

七草は袈裟丸を見た。袈裟丸も同じような顔をしていた。

七草はもしかしたら一度や二度、板倉凌と悟の両親に会ったこともあるのかもしれないと思った。

「残された子供たちは私が引き取りました。彼らが大学に行く学費だけは払いたいと思ったんです。それが兄への恩返しだと感じました。そうしたら今度は凌の方が殺人を犯すなど・・・」

「正臣さん、わかりました」火鳥は正臣の話を制した。

「だから、悟だけは何としても見つけ出して欲しいんです。お願いします」

正臣は頭を下げた。

「分かっています。そのために彼らの力も借りているんです」火鳥は左右の袈裟丸達を見た。

「悟さん達のお父さんがあの変電所に勤めていたということは、この家で生活なさっていたのですか?」袈裟丸は正臣に質問した。

「ええ。そうです。だから悟たちも休みにはこっちに帰ってきていました」

袈裟丸は頷いた。

「ここ最近で悟さんが帰郷した時に何か変わった様子とか、ありませんでしたか?」

正臣は机の上で手を組んでその手を見つめるように顔を向けた。

「一日中見ていたわけではありませんでしたけれど、思い詰めた様子はありませんでしたね」

正臣は顔を上げた。

「正臣さんから見て、悟さんの人柄ってどう思いましたか」

正臣は袈裟丸の顔を見た。

「大学や友達の中ではまた違う顔を持っていたのだろうが、私から見てということであれば温厚な性格だったよ。小さい頃はどちらかと言えば父親にくっついていたかな。だからかもしれないが父親そっくりになったと思う。凌の方は私と遊ぶことが好きだったかな」

正臣は少し顔が綻ぶ。その顔は親が子を思う様子そのものだと七草は思った。

「ただ、これも父親に似たのだろうが生真面目すぎるというか、自分の中で決めたルールがあるようでね。それを裏切るようなことは絶対にしなかった。修臣がよく言っていたよ。あいつは強情だってね」

正臣はそういうと自嘲気味に笑った。

「悟さんたちのお父さん、修臣さんの専攻は何でしょうか?」

袈裟丸が言った。

「それが悟の失踪に関係があるのですか?」正臣は不思議そうに言った。

「ああ、いえ。ごめんなさい。お父さんの方にも興味が出てしまって」

袈裟丸は申し訳なさそうに畏まって言った。

「構わないよ。兄はね電気電子工学を専攻していたよ。大学院の修士号まで貰ったのかなぁ」

袈裟丸はその間、すっかり温くなったお茶を一口飲んだ。

「ありがとうございます。では、なぜあの変電所に就職したんでしょうか?」

袈裟丸は言った。

「なぜとはどういう意味ですか?」

「なんとなくですが、必然とこの家に戻ってくることになるだろうことは想像できるのですが、家業を継がないと決めて違う道を進むことを決めたのに、その家に戻ってくることに抵抗はなかったのかなと思ったんです」

「それは・・・ああ、そう言えばそうだな。何十年と気にしていなかった。兄が結婚して帰ってきて私としては嬉しかったことしか覚えていないな。また一緒に暮らせるっていうことしか頭になかった」

正臣は呆然とした声で言った。

袈裟丸は頷くと火鳥を見た。

火鳥も頷く、そして七草を見た。七草は首を振った。

「長い時間ありがとうございました。では。私たちは変電所の方に行ってきます。もし、私たちが悟さんを発見出来たら、こちらにお連れします」

火鳥は言った。

「ああ・・・いや、こちらこそ、よろしくお願いします。悟を見つけてください」

正臣の声はまだ呆然としていた。



正臣は老執事を呼び出すと、お見送りを言付けて自室へと戻って行った。

三人はまた不気味に歩く老人の後ろを歩いて広い屋敷の玄関まで歩く。

「途中経過を報告できて良かったですね」七草は火鳥に言った。

「ええ、そうね。さて、変電所に行きましょうか。あそこにいてくれれば良いのだけど」

火鳥は憂い気な声で言った。

袈裟丸は何も言わずに廊下から見える荘厳な中庭に目を取られていた。

三人は玄関で靴に履き替えると一緒に外に出ようとする老執事に玄関先で構わないことを伝えた。

「あの」

車の方に向きかけた三人を老執事が呼び止めた。

「呼び止めてしまいまして申し訳ありません」

老執事は頭を下げる。三人は黙って見ていた。

「旦那様は悟様が失踪してから元気をなくしております。凌様があのようなことになってこのまま悟様にもしものことがあると・・・」

老執事は言葉を切る。そして何かを堪えるように口を閉じる。

「どうか、よろしくお願い致します」老執事は大きく頭を下げた。足音がしない動き方をする人とは見えないほど、取り乱していた。

三人は何も言えずに頭を下げるだけだった。

板倉家の玄関を後にして三人は玉砂利の駐車場まで歩く。

「どうあっても生きて見つけなくちゃね」

火鳥が決心したように言った。

「そうですね。叔父さんと執事さんを悲しませてはいけませんよね」

七草も握り拳を作って言った。

袈裟丸はそんな二人と異なり全く違う雰囲気を発していた。

「先輩」

七草が僅かに前を歩く袈裟丸に声をかけた。

袈裟丸はゆっくりと振り向いた。

「悟さん、見つけましょうね」

七草はコンビニの駐車場で袈裟丸が話した決心が頭に残っていた。

袈裟丸は僅かに微笑むと軽く頷いた。

車まで到着すると火鳥はロックを解除して乗り込もうとした。

「あ、火鳥さん、一服してきて良いですか?もう変電所に行くだけでしょう?」

袈裟丸は運転席に入ろうと身を屈めた火鳥に言った。

「え?まあ良いけど・・・喫煙者ってなかなか不便ね」

「ありがとうございます。すぐそこで吸っていますから」

袈裟丸は火鳥に礼を言うと歩いて玉砂利の駐車場から出て車道まで出た。車道を挟んで板倉家の向かいには空き地のようになっていた。

家の前で吸うのは申し訳ないと考えて袈裟丸と七草は車道を渡ってその空き地に向かう。両端は普通の民家である。

「凄い家でしたね。お医者さんって儲かるんですね」

七草は早々に煙草に火をつけて吸い始める。

「昔からの医者だって言っていただろう?その時の貯えみたいなものだって」

袈裟丸は煙草に火をつけると携帯灰皿を取り出す。これまで中に入っていた吸殻はコンビニで捨ててきていた。

「七草」袈裟丸が不意に声をかけた。

七草は煙草の煙が目に入って少し涙ぐんでいた。

「板倉さんが見つかってもここに連れてくるのはやめよう」

袈裟丸は紫煙を吐き出して言った。

七草は煙草を持ったまま固まっていた。

「何故ですか?」かろうじてそれだけ言葉にできた。

「理由は無い」袈裟丸は言った。

「清々しいくらいにはっきりと言いましたね。あ、さっき正臣さんと話して何か気づいたことがあるんですね?」

七草は袈裟丸の顔を見る。

「いや無いよ」

「え?無いの?」

「無いって。あのな、さっきは火鳥さんだけに質問させるのも俺らが嫌々捜索しているんじゃないかって叔父さんに思われちゃうかもしれないなって思ったから質問したんだよ。そんなに人の発言すべてに疑問を持っているわけじゃないさ」

袈裟丸は灰を携帯灰皿に落とした。

「じゃあどうしてそんなこと言うんですか?正臣さんは悟さんの帰りを待っているんですよ?」

袈裟丸は言いにくそうにしていた。目線は板倉家を見ている。

「悟さんが失踪して、どうやら行先はこの地だってわかった時に、なんで叔父さんの家に行かなかったんだろうって思った」

七草は困惑した表情で袈裟丸を見た。

「なんで変電所に行こうとしていたのかは知らないけど、少なくとも何人もの人が自分を心配して探しているだろうっていう想像ができない人ではないさ。研究室の人に言えないことがあっても家族や身内に安否の連絡すらしないっていうのはちょっとおかしいなって思うんだよ」

袈裟丸はまだ板倉家を見ている。

「あの家に帰りたくねぇんじゃないかなって、そう思うんだ。そんな気がする。全く無根拠、妄想の類だけどね」

七草は袈裟丸と板倉兄弟の間に繋がりのようなものを感じた。

七草は袈裟丸が何を考えているかでさえ、わからないことがあったからだった。

「先輩、凄いですね。そこまで相手のことを想って考えられるのは凄いことだと思います」

七草は携帯灰皿を持っている袈裟丸の手を自分の方に引き寄せて灰を落とした。

それを見ていた袈裟丸は僅かに微笑むと正面を向いた。

「土木工学は人間工学って言葉があってね」

「人間工学ってありますよね?」

「まあ実はそうなんだけれど、この場合はちょっと違う。土木工学って自然を相手に行う工学っていう側面がある一方で人間も相手にしなければいけないんだ。人間と自然との橋渡しの役目もあるんじゃないかっていう言葉だよ。だからっていう訳ではないけど少なくとも俺は土木だけではなく人間も見ていきたいなって思うんだ」

袈裟丸は七草を見て微笑んだ。

七草は自分が欲しい笑顔はそんな笑顔ではないと思ったが、笑顔で頷いた。

「さて、お姉さまが待っているから行きますか」袈裟丸は煙草を携帯灰皿に入れた。

七草も吸殻を携帯灰皿に入れる。

袈裟丸は車に向かって歩き出した。

七草はその後姿を見て力強く走り出した。




「到着まで時間かかったね」

坂口は前方でステアリングを握っている藪島に行った。坂口は後部座席で横になっている。収容所から連れ出された時と同じ格好だった。

「ええ。出る前に少し面倒なことになりまして」

「面倒な事?」

「はい。やはり次が上手くいきませんでした」

坂口は車の天井を見てため息を吐いた。

「なんで?」

「信号が届かないということでした」

「使っていないはずだろう?」

坂口は首だけ藪島の方を向いた。

「そのはずです。というより、そう言った連絡も来ています」

坂口はまた短くため息を吐いた。

頭の方の窓を坂口が見ると、鉄塔が空に向かって生えているのが見えた。横になっている坂口からは逆に見えるが、地上からかなりの高さに向かって伸びていた。間隔を開けて何本か坂口には見えた。

「上手くいかないもんだねぇ」

「人生みたいですね」

藪島は『人生』の部分だけ強調して言った。

「詳しく聞こうか?」

「またの機会にしましょうか。見えてきましたから」

藪島が車の速度を落とした。

車が完全に停車すると、最初に藪島が降りていった。一分ほどすると後部座席のドアが開く。

「どうぞ」

モアイ像のような顔をしている藪島が坂口の目に映る。坂口が横になっているので、見上げるような形で藪島の顔を見る。

「藪島さんってさ、ひっくり返しても同じ顔って言われたことない?」坂口はそう言いながら車を降りた。

「そんなだまし絵みたいな顔だと言われたことはありません」

藪島が淡々と言ったので、坂口は睨むように藪島を見た。

「冗談が通じないね」

「人の身体的な特徴やハンデの部分を受けての冗談はただのイジメです」

藪島は頭を少し下げた。

「真面目かよ」

坂口はそう言いながら歩き出す。ポケットから黒いオープンフィンガグローブを取り出して両手に嵌めた。

目の前にはコンクリートの壁に囲まれた施設があった。

壁に沿って藪島と二人で歩くとすぐに壁が途切れた。そこには鉄製のスライド式の門があった。

「この変電所は廃墟なんだよな?」坂口は車内で藪島が言っていたことを思い出した。

「はい。五年ほど前からです。今は中で働く人はおろか、施設自体も稼働していない状態です」

坂口は門の取っ手に手を掛けて左にスライドする。門は簡単に動き、壁の中に吸い込まれて行った。

「元から?それとも先客がいる?」

坂口は取っ手を持ちながら藪島の方に振り返る。

藪島は顔を振った。

「何が出てきますかねぇ」

坂口を先頭に藪島も入って行く。

施設は奥に大きな山があり、その中腹に建てられていた。施設は坂口が入ってきた入り口から左右に長く伸びている。

車の通り道から見ると、坂口たちは左手から来たようだった。坂口が車内から見えた鉄塔が施設を囲う壁の外に施設から離れるように間隔を保って立っていた。右手にも同じように鉄塔が施設外に一定の間隔で立てられている。

高速道路や郊外に行くと目につく数本の電線ケーブルと碍子が先端部近くに取り付けられている鉄塔である。このような高圧電線が流れる鉄塔の最頂端に一本だけケーブルが取り付けられているが、これはアース線となっている。それ以下のケーブルに電圧が掛けられている。

変電所とは、ダムや原子力発電所などの発電設備から送られてきた電圧を変換する場所である。

ダムなどの発電所の中や隣接した場所にも変電所は存在する。これは発電所で出力された電圧を数十倍まで増幅させるために存在している。

その理由は、大半が人口密集地から離れたところに存在する発電所から長距離へ送電しようとすると熱で電力の損失が発生するためである。長距離を送電するために高圧力かつ低電流に変換してその損失を防いでいる。

発電所から増幅された電圧で送り出し、いくつかの変電所を経て段階的に電圧を落として行き、最後は街角に立っている電柱の上に置かれている小型の変圧器で家庭用に百ボルトへ変換されて供給される。

坂口たちが今足を踏み入れたのは一次変電所として分類される。発電所から見ると二つ目に通る変電所だった。ここには約十五万ボルトの電圧で届くことになっていた。そのまま工場や鉄道に供給される場合もあるが、ここではそのまま役半分の七万ボルトまで降圧して送電されていた。

変電所は一般的には施設の中央に置かれている主変圧器を挟んで受電側と送電側に分かれている。また、各種設備は線対象になる様に置かれている。電力回路の入切や落雷や短絡発生時の安全を保つための遮断機や無効電力を調整することで電圧制御を行う目的の調相設備などがある。

ほとんどの設備はまだ撤去されておらず、坂口がざっと見ただけでもまだ使えそうに見えた。唯一この場所にないものは送電ケーブルだった。稼働していれば各設備の間を送電ケーブルが繋がれていたはずだった。

「一度、別の変電所にきたことあるけどケーブルが無いっていうだけですっきりするもんだな」

坂口はそう言うと送電側の鉄塔が見える方向に歩き出した。

「どっちが主役かわからんようになりますね」藪島が後ろから声を掛けてきた。

坂口たちが歩いて行くその先に三階建ての建物がある。これらの送電設備を管理するための建物だった。

送電設備に比べるとこちらの建物は廃墟そのものだった。窓ガラスは一部が割れており、玄関のドアもかつてガラスが嵌め込んであったと思われるフレームがただ取り付けてあるだけだった。

「若い奴らの溜まり場ってやつか?」坂口は藪島に言った。

「まあ、こんな場所なんて格好の遊び場でしょうからね」

坂口は振り返って送電設備を見る。

「しかしペンキやスプレィで誰某参上とか書いてないのは好感が持てるな」

藪島は何も言わなかった。

「さて、行きますかね」

坂口はオープンフィンガグローブを嵌めた手を握って突き合わせた。

二人は管理建屋入り口に向かう。ドアに窓ガラスが嵌められていないため、ドア枠を跨いで入った。入ったすぐの場所は広いロビーで、応接用と思われるソファやテーブルが置いてある。その傍にパーティションと思われる板状のものが倒れていた。外から見ても廃墟とわかる様子だったが、中に入ると廃墟という言葉が適切な状態だった。

応接セットのソファも座面が剥がれていたり、壁に掛けられている安全週間を伝えるポスタも破られていた。生き残っているポスタも皺だらけで色もくすんでいた。台風や雨が吹き込んだのだと坂口は思った。

ロビーを見渡すと見るも無残になった喫煙スペースや有名メーカの自動販売機等、誰が見ても廃墟だった。

坂口はこのような建物がなぜそのまま残っているのか不思議に思っていた。自治体や国に撤去の予算が付かないのか、何らかの理由で撤去工事が止まっているのか、他の理由があるのだろうかと考える。

二人は奥に進んだ。幸いだったのは地面が綺麗に残っていることだった。坂口の廃墟というイメージは足の踏み場もないような場所だったからである。

ロビーが特に酷かったようで、奥に進むにつれて汚れや破損は見られるものの、探索が難しいと言うほどのものではなかった。

ロビーの奥に建屋の見取り図があったので坂口は全体図を確認する。

管理建屋は地上三階建ての建物で、全ての階がおなじ作りだった。建物は横長で坂口たちが入ってきた入り口そして今いるロビーは右手の端にあった。

各階の構造は中央に部屋が固まって置かれていてその周囲を廊下が回廊の様に囲んでいる作りだった。中央に集まっている部屋群も中央に十字の廊下で区切られていた。つまり各階で四つの部屋群がサイコロの四の目の様に配置されていたのである。

「面白い間取りだな」坂口は言った。

二人はロビーを抜けて一階の回廊部分に向かう。

「この中にいるのは間違いないの?」坂口は藪島に言う。

「恐らくとしか言いようがありませんね」

「その程度なの確証なの?」

「はい。ですが、板倉修臣がいた職場ですからね。確率はかなり高いと思いますよ」

二人は回廊を進む。左手に窓ガラスがあり、送電設備が見えるようになっていた。

しばらく進むと右手に廊下が見えた。十字になっている廊下の端である。

「てっきり飛行機事故で無くなったと思っていたんだけどな。肌身離さず持っていたっていう訳ではなかったのね」

坂口は正面を見ながら言った。その言葉は藪島に向けられたものだった。

「そうですね。何か予感があったんでしょうかね。知りませんけど。我々にとっては運が良かったとしか言えないですがね」

藪島は素っ気なく言う。足元や天井等忙しく顔を動かしている。

坂口は途中にあるドアを開けながら回廊を回って行った。

「息子自体は人を殺したんじゃなかったっけ?」

「兄弟の弟の方ですね」藪島は転がっていた消火器を蹴って廊下の端に寄せた。

「そっちが持っていたっていうことは無いの?」

坂口も廊下に貼られていたポスタに手を掛けるが、すぐに朽ちて落ちていった。

「弟の方は親に関心がなかったそうですよ。どちらかと言えば自分の叔父の方と仲が良かったらしいですね」

「ふーん。それで人殺したって目も当てられないなぁ。その叔父さん」

坂口は最後の叔父さんで後ろを振り向いた。

「そうですね。この近くで町医者をしているようですよ」

「俺なら、そんな医者には行きたくないね」

「そうですか?」

「意外か?」

「はい。それは関係ないじゃないですか?子供がやったことでしょう?それも自分の子供じゃないし」

「君は良い奴だな」坂口は自分より年上の藪島に言った。

「俺もそう思うよ」

「では何故自分なら行きたくないと?」

「俺みたいな意見はきっと一定数いるだろ?別に医者に限ったことじゃないけどさ。そんな医者に診てもらっているっていうだけで批判されたりするのが今の世の中じゃん?俺は別に何とも思わないからそんな人に診てもらったって関係ないけど、それを見ている第三者からグダグダ言われるのが全く辛抱できないんだよ」

藪島は黙って聞いていた。坂口の後ろ姿だけした藪島の視界に入っていないため坂口がどんな顔をして喋っているのか藪島には見えなかった。

「それだと、評価して褒めてもらうことも我慢ならないっていうことでしょうか?」

藪島は坂口の後頭部に投げかけた。

坂口は振り向く。

「藪島さん、純粋な評価はね、自分だけが出来るんだ。他人からの評価は雑味が多すぎる」

二人は入り口から最も遠いところへと歩いて来た。回廊は右に折れる。その先に進むと階段が見えてきた。

「分かれて探すか」

坂口は藪島に提案する。

「良いですよ。では、私が二階と三階を探しましょう。一階をお願いします」

藪島は坂口に提案する。

「了解。確保したら連絡頂戴ね」

藪島は階段を昇って行く。

坂口はそれを見送ると回廊を進み始めた。

階段を通り抜けるとまた右折する。最初に進んだ長辺の反対側の廊下に該当する。

坂口が廊下を見渡せるような位置に立つと、足を止めた。

それは視線の先に人影がいたからであった。

丁度、十字の廊下がある位置に人が立っていた。

坂口はその場に立ち止まったまま動かなかった。

坂口らがここに来た目的である人物ではなかったからだった。

全身黒づくめの男は両足を軽く広げて腕も自然に垂らして立っていた。

ただ、その目は真直ぐ坂口の目を見据えていた。

坂口もその男の目を見る。視線を外すことはなかった。

「やっと会えたな」

坂口は口元に笑みを浮かべる。

黒づくめの男は笑わずに坂口をじっと見つめていた。



「ここね」火鳥は車を停める。

「あれ?車ありますよ?」七草は指を指す。

火鳥の車が停車した場所の前方に車が停車してあった。

三人は車を降りて歩き始める。

「悟さんですかね?」七草は言った。

袈裟丸は早足で車に近づき、ワンボックスのボンネットを触る。

「まだ温かいよ。駐車して時間は立ってないはず」

「忍者みたいなことする人って本当にいるのですね」

七草の発言を無視して袈裟丸は変電所を見る。

コンクリート製の壁に囲まれたその施設は袈裟丸には監獄のように感じていた。

板倉悟を飲み込んでしまったのかもしれない監獄。

三人はスライド式の門の前に立つ。袈裟丸は門の周辺を観察するが施設名を表示するものは見当たらなかった。門の右手に長方形に他のコンクリートとは異なった色彩のスペースがあった。本来であればそこに施設名を表示する看板が掲げられていたのだろうと袈裟丸は考えた。

火鳥は袈裟丸の脇を通り過ぎて施設入り口のスライド式の門の前に立つ。

七草が袈裟丸に近づいてきた。

「火鳥さん、さっきから喋りませんね。変電所が見えてきてからですよ」

七草は袈裟丸に耳打ちした。

袈裟丸は頷くと七草に顔を近づける。

「火鳥さんに注意しておけ。いつでも動けるようにしておいて」

袈裟丸も耳打ちすると火鳥に近づいた。

「開きますか?」

袈裟丸は火鳥の後ろから声をかける。

「ええ。大丈夫よ」

火鳥はそれだけ言うと門をスライドさせる。

「施錠してないんだ・・・」七草が呟く。

袈裟丸は施設に入る前に門に取り付けられている南京錠を取り付ける穴を確認した。

穴自体は破損もしておらず、傷もついていなかった。

火鳥と七草は先に歩いているので、袈裟丸も後を追おうと立ち上がると、門が収納された壁とは反対側の壁際に光るものが見えた。

袈裟丸は近寄って拾いあげると大きめの南京錠だった。本体ではなく穴に通す部分が切断されていた。

袈裟丸はそれをまた放り投げると七草に追いつく。

火鳥は奥に見える建屋に向かっていた。

送電設備は金網によって厳重に守られていた。袈裟丸はどこから入るのか入り口は見つけられなかった。

「火鳥さん、この設備の間とかは見なくても良いですか?」袈裟丸は言った。

火鳥は袈裟丸の位置から目が確認できるくらいに振り向いた。

「ええ。探さないで良いわ」

「そうですか」袈裟丸は微笑んだ。

七草はその設備を珍しそうに見ていた。

「先輩、ところどころ見えているあの白いグルグルは何ですか?」

七草は視線を設備から話さないで言った。

「お前この状況でよく質問ができるな」

「どんな状況ですか?」

「あ・・・いや、もういいよ。あれな。あれは碍子っていうんだ」

袈裟丸は七草の疑問に答えることにした。

「がいし・・・って何ですか?」

「町にある電線とかにもついていることが多いし、ああいった高圧電線にも取り付けられているから見たことはあるだろう?」

袈裟丸は敷地外に建てられている鉄塔を指差して言った。

「ああ、はい。確かに見たことあります。あと、アニメとかでも電気が発生する謎の機械のシーンとかで描かれていたりしますよね」

七草は笑顔で袈裟丸に同意を求める。

「謎の機械なのに電気が発生することは判っているんだ・・・それは謎だね」

袈裟丸は皮肉を言ったつもりだったが七草は答えを求めている顔で袈裟丸を見ている。

「碍子っていうのはね、そうだな、せっかくだからあの鉄塔を例に出そう。発電所から作られた電気がああやって電線を伝ってやってくるだろう?」

「そうですね。それで変電所をいくつか通過して電圧を下げながら家庭とか工場に電気を送電するんですよね?」

「そうそう。そのためにああいう鉄塔や身近なところだと電柱があるんだね。最近は電柱が無い地域もあるよね。地中に埋めることで見た目が良くなる効果が期待されている」

「実際にごちゃごちゃしなくて良いですよね。凧が電線に引っかからないからでんこちゃんの仕事がなくなりますね」

「お前のテンションがなくなれば良いのに・・・それにでんこちゃんの仕事は電線に凧が引っかからないように注意することだけじゃないからね」

袈裟丸は諭すように言った。

「えっと・・・鉄塔にもし送電ケーブルがそのままくっついていたらどうなると思う?」

「鉄塔にそのまま取り付けられたら?・・・格好悪い?」

「それが正解になる業界だったら無くなってしまえば良い・・・」

「でも格好悪いですよね?」

「俺に同意を求めるな。ちょっと聞いていてね。もし碍子が取り付けられてなかったら、送電ケーブルを通って電流が鉄塔に流れることになるし、その高圧電流が鉄塔を伝って地表面に流れ込むことになるんだ」

「うわ、格好悪い」

「その格好良いか悪いかの判断止めないか?」

「そうなることを防ぐ目的で碍子が取り付けられているんですね」

七草は一人頷く。

「だんだん、お前のそれに慣れてきたよ。七草の言う通りだ。その目的で取り付けられている。つまり絶縁だね。ここの鉄塔は送電ケーブルが外されているから見ることができないけれど、今度鉄塔を見つけたら碍子の周辺を見てみな。鉄塔に対になる様に碍子が取り付けられているよ」

七草は頷く。

「そうします。そう言えば碍子ってどうしてあの形何ですか?なんかビラビラしていますよね?」

「ちょっと表現が・・・まあ良いや。あの形の意味ね。碍子の形状はいくつかあるんだけれど、思想は同じだよ。絶縁するためには電流が流れる物理的な距離が長ければ良いんだ。だからえっと・・・ビラビラ?いや、溝かな。そういった形をとっているんだ。この溝には付着してしまった雨とかゴミや汚れで電流が流れやすくなって絶縁性能が低下することを防ぐ目的もある」

「ふーん、ビラビラなりの存在理由があるんですね」

「何か嫌。その言い方」

「碍子って何でできているんですか?」

袈裟丸は呆然とした顔で七草を見る。聞かれたことに答えようと袈裟丸はここに決めた。

「いくつかあるよ。ガラスや合成樹脂でできているものもあるけれど、最もよく使われているのはセラミックス、磁器だね」

「へーそうだったんですか」

「そう。絶縁性能、強度共に優れている材料だからね。あと紫外線に強いとか温度変化が小さいっていうのも利点だね」

七草が大きく頷いた。

「そろそろ漫才は終わったかしら?」

火鳥が管理建屋の前で二人を見ていた。いつの間にか管理建屋の前に到着しており、火鳥は二人の掛け合いを腕組みで見ていた。

「火鳥さん、ずっと見ていたんですか?そんな暇じゃなかったでしょう?」

七草は困った表情で言った。

「そっくりそのままあなたにお返しするわ。まあ何も言わなかった自分にも反省点はあるけどね」

火鳥はそう言うと管理建屋の方へ静かに振り返った。

三人は自然と管理建屋を見上げた。

「じゃあそろそろ行きましょう。もう二時間もしたら薄暗くなってしまうから」

火鳥は後方の二人に投げかけるように言って歩き始める。

ガラスの嵌められていないドアからドア枠を跨ぐ様に入る。

ボロボロに朽ちたロビーを観察しながら三人は奥へと進む。途中で館内の案内板が表示されているところで三人は歩みを止めた。

「これを見て。案内板よ」火鳥は二人に言った。

「三階までありますね」七草は案内板をしたから上に見て言った。

「そうね。ちょうど三人いるから手分けしましょうか?」火鳥は提案する。

「分かれて探すのは危なくないですか?」袈裟丸が火鳥に言った。

「どうして?時間がないのよ?効率的に探しましょうよ。案外部屋数もあるみたいだからそれぞれが探した方が良いわ」

火鳥は引かなかった。

「そうですか。分かりました。では悟さんをもし見つけたら連絡を取り合うことにしましょう。七草は俺に連絡してくれるか?そうしたら火鳥さんに俺が連絡するから」

七草は頷いた。

「じゃあ、お願いね。私は一階を探すわ」

「了解です。じゃあ、二階は七草、三階は俺が探そう」

三人で割り振りを確認すると火鳥はそのまま奥に見える回廊に入って行った。袈裟丸と七草は案内板の裏手に回って階段を上る。

二人が二階に到着すると袈裟丸はすぐに階段の下を覗き込む。

「何しているんですか?」七草は袈裟丸の背中に言う。

「よし。七草、二階を一緒に探そう」

「火鳥さんに怒られますよ?」

「指示が変だ」

袈裟丸は七草に構わずに二階の回廊部分に出る。正面には十字になっている廊下があるが、袈裟丸は左手に進む。

「指示?」

「この中がどうなっているかわからないのに時間がないからと言って手分けするのは危険だと思わないか?悟さんが追い込まれていて危害を加えてくるかもしれないだろう?俺は悟さんが普段からそんなことをする人ではないって知っているけれど火鳥さんは知らないはずだ」

「それは判りましたけれど、どういうことになるんですか?」

「うーん」

袈裟丸はまだわかっていないという顔をしていた。

「火鳥さんがすでに悟さんがどういう状態か知っている・・・それとも悟さんと共謀してこれを仕組んだ・・・」

「それってどういうことですか?」

七草が言った。

「すまん、今はまだわからん。火鳥さんが何を意図してこうした状況を作ったのか」

袈裟丸はゆっくりと歩き出す。

「でも、今やれることは悟さんを探し出すことだけだ」

袈裟丸は最初に右手に見えたドアを開ける。

部屋の中は事務机やキャビネットが並んでいた。オフィスのようなところだったのだろうと袈裟丸は思った。

室内を七草と声を掛けながら見て回る。

「いないね。次に行こう」

二人は部屋を出ると回廊の続きを進む。回廊は右に折れている。

袈裟丸と七草は迷いなく右に折れる。

左手には窓ガラスが並んでいた。いくつか割れている窓ガラスもあったが、外から見た一階の窓ガラスと比較するとまだ割れているガラスの数は少ない。

床には壁から剥がれたペンキのかけらや壁から外れてそのままになっているために湿気や埃でくたくたになった掲示物が落ちている。

しかし二人はそんなものをよりも全く異質なものを回廊の中腹に見ていた。

二人共それ視界に補足して認識しているはずだったが身体が動かなくなっていた。

袈裟丸が初めに動き出した。足がもつれて転びそうになったが何とか体勢を立て直して駆け出す。七草も袈裟丸に追いつくように走り出す。

袈裟丸と七草はそれが見える所までやってきた。

それは仰向けに倒れた人間の身体だった。ただ一点異なっていたのは、その人間の身体には首から上が無かったことだった。

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