第4話 展開と相似

坂口は目が覚めてからしばらくベッドの上で天井を見上げていた。手を伸ばしてスマートフォンを掴んで目の前に持ってくる。

坂口が収監された時に所持品は全て没収されていた。そのまま逃げてきたため、自分の財布すら持っていない状態だった。

今坂口が手にしているスマートフォンは藪島が別れ際手渡してきたものである。新品同然のものだったので、これまでの手に馴染んだスマートフォンではない。

しかし、坂口にとってそれは問題では無かった。個人で使っていたスマートフォンは電話とメールだけであり、特別なアプリケーションも入れていない。いくら機能が高い製品であっても坂口にとっては電話とメールができれば差し支えなく日常生活を遅れた。これまでのボタン式の携帯電話でも坂口としては満足だった。電話は電話の機能があれば良いと考えていたからである。

自分でも古い考え方だと思っていたが、考え方と生き方は必ずしも有機的に結びつかないと思っていた。

坂口はまだ身体を起こさずにスマートフォンを操作して時刻を確認した。ここに運ばれてから一週間を超えていた。

坂口がいるのはこれまで働いていた建設会社の独身寮だった。寮と言っても現在は入居者は坂口しかいない。この独身寮は解体が決まっており、すでに入居者は新しく作られた寮に移動しているのである。

藪島が上手く段取りを行ってしばらく一部屋確保したようだった。そのため簡単に発覚することもなかった。また寮の場所も都内から離れている。近隣住民がいないとは言えないが、大人しく身を隠す分には全く問題がなかった。

食料や日用品は藪島が運んできてくれる。最初の数日は食事を摂っていると藪島は傍で座って待っていた。

坂口は一緒に食事を摂ってはどうかと提案したが、藪島はそれは仕事ではないと跳ねのけられた。

それから坂口は必要な時だけ藪島を呼び出すので、一人にして欲しいとお願いしたのである。

坂口が住んでいる部屋は基本的なものは全て揃っている。テレビにPCもあるし、数冊の本もある。現在の部屋の見た目としては上京して一人暮らしを始めた大学生の三日目の部屋くらいの散らかり具合だった。

坂口はゆっくりと体を起こして、ベッドから降りる。この部屋はワンルームだが一人で使うには広いくらいだった。

そのまま洗顔やトイレを済ませてキッチンへ向かい冷蔵庫を開ける。飲み物のペットボトルや食事を取り出して部屋の中央のこたつに置いた。こたつを準備してくれるというところが藪島らしいと思った。

坂口はテレビをつける。リモコンを操作してチャンネルを次々に変えていった。いつも通りに通勤通学の時間帯だったのでニュース番組がほとんどだった。

そしてそのニュース番組のほとんどが全く同じ映像だった。テレビ画面には真面目な顔をしたアナウンサがニュースを読み上げており、その前面には羽田空港の模型が置かれている。規模やクオリティは異なっているがチャンネルを変えていった範囲ではすべてに模型が置かれていた。

坂口はあの模型は誰がどれくらいの時間で作っているのだろうかと思った。昨日の午後からずっと同じニュースが報道されている。一からこの模型を作っているのだろうかと考えながら、サンドウィッチを口に運んだ。

少し前まで芸能人の不倫などのどうでも良いことが垂れ流されていたが、今は全局こぞって同じ報道をしている。特別に時間を長く取って報道しているようだった。芸能人のゴシップや、動物園の動物が子供を出産したことが本当に報道するべき内容ならば、この事故だけで時間を割くのではなく等しく同じ密度で報道するべきだと坂口は考えていた。

坂口はテレビを消した。サンドウィッチを食べきると、ペットボトルのお茶を飲む。そしてこたつの上でPCを起動させた。

PCを立ち上げると、メーラーを起動させる。坂口は表の仕事をしていた頃にも大量のメールを処理していたが、今現在は全く仕事関係のメールは来ていない。社会的には逮捕収監された身分の坂口に仕事に関するメールが届くことは無かった。

坂口は別アカウントの受信メールフォルダを開く。そちらにはいくつかのメールが届いていた。坂口はそれらを一つずつ読んでいく。返信が必要なものは未開封にして次のメールを読む。三十件ほどのメールを確認し終わると、先程未開封にしたものに一つずつ返信を返した。

それらの作業が終わるころにスマートフォンが鳴った。

「はい」坂口はマウスを操作しながら電話に出る。

「藪島です。おはようございますでしょうか?」

藪島は淡々とした声で言った。

「そうだね。おはよう」

坂口は簡単に返事する。藪島の声がする後ろの方が騒がしいので、藪島が外にいるか、担当している現場から電話を掛けてきているのだと坂口は考えた。

「ご気分はいかがですか?」

「朝起きて最初の会話がオジサンじゃあなければ、悪くないね」

「快調なようですね」

坂口はPCの電源を落とした。

「今日の分のメールには返信したよ」

「お疲れ様です」

「なあ、藪島さん、いつまでここに居れば良いんだ?」

坂口の発言に藪島はすぐに返事を返さなかった。

「はあ。でもただの運転者兼連絡係ですからね。こっちは。言われた場所に行ってピックアップしてから所定の場所まで送り届けるのが仕事なので」

藪島ではわからないということだった。坂口は予想通りの答えが返ってきたことが面白くなかった。

「とりあえず組織で動くことは出来るはずでしょう?建設会社は無理なのはわかるよ」

「はあ。それはそうでしょうね」藪島は淡々と言った。

「藪島さんの方から何とか手を回せないかな?」

坂口は組織運営に戻ろうとしていた。いつまでも生活感がない穴倉に籠っているのは心身ともに不健全だと思っていた。

「私の方から組織に意見しろと仰るのですね?」

「お願いできない?」

藪島はしばらく黙っていた。

「わかりました。とりあえずこちらから伝えてみます。が、どこまで届くかはわかりませんし、保証もできませんがよろしいですかね?」

「良い答えを期待して筋トレして待っていますよ」

スピーカから短い息が漏れる音が微かに聞こえた。

「わかりました。それはそれとして、今日は別の話です」

「ほう。何?」

「問題があった件についてです」

坂口は思い出す。

「ああ。二つあった問題のうち三つ目ね。でも上手く行っているようじゃない?」坂口は言った。

「そうですね。偶然が重なって滞りなく実行できました」

「偶然が重なったら滞りなくって言わないのではないかな?」

「まあ、そう硬いこと仰らずに」

坂口は短いため息を吐いた。

「分かったよ。それで?」

「はい。ですが、次が上手く行くかわからない状況です」

「でしょうね。最初は偶然が上手く重なったからなのでしょう?」

「その確度を高めるためにご足労お願いできませんでしょうか?」

坂口は藪島の要件が理解できなかった。

「俺が行ったところでどうにかなるの?」

坂口はこたつに入ったまま寝転がる。

「向こう側も動き出しているっていうことらしいので」

坂口の身体が硬くなった。身体を起こす。

「なるほど。理解できたよ」

「それは何よりです。ではどうしますか?」

「ここで待っていれば良い?」

坂口はすでに立ち上がってクローゼットに向かっていた。

「今日の午後にお迎えに上がります」

「わかった。準備して待っているよ」

坂口はそう言って電話を切った。坂口はクローゼットに並べられている数少ない服からいくつかを取り出して着替え始めた。動きやすい服装にするつもりだった。



七草はマンションと隣の畑を遮るフェンスに寄りかかり前の間を行き来する警察官を見ていた。隣には携帯灰皿で煙草を吸っている袈裟丸がいる。先程は七草自身も使わせてもらっていた。火鳥は少し離れたところでスマートフォンを耳に当てて電話をしていた。冷静に話しているが、かなり予定が狂ってしまったというような内容だった。

袈裟丸は外出する時は必ず携帯灰皿を持ち歩いている。本来であれば灰皿が置いてある場所で喫煙するのがルールであるが、すべての場所にあるわけでもない。今七草達がいる場所も灰皿が置いてあると思われるコンビニまで車で向かわなければいけない。

それに今のこの状況で、喫煙するためにコンビニまで行ってきますとは言えない立場に七草達は置かれていた。

マンションの前のスペースには車道にはみ出してはいないものの、パトカーが六台と赤色灯が回転している乗用車が二台停車している。二十分ほど前までは警察官がマンションに出たり入ったりしていた。

七草は顔を上げてマンションの方を見ると、三階の三〇五号室の前にブルーシートで囲いが作られている。入口の方に目を向けると、谷津庄之助とその妻みね子が並んで警察官から話を聞かれている。

板倉悟の部屋で発見した遺体。

自分自身が、横に袈裟丸も火鳥もいたが、その遺体の第一発見者になったのである。七草の人生でそんなことを体験するとは思いもしなかった。

このまま普通の人生を送って卒業して、就職して結婚、子供が生まれて家族が出来て、穏やかで健やかな毎日が続くのだと思っていた。

こんな非日常が自分の人生の中で起こると思ってもいなかったのである。

しかし、七草は起こってしまったことに対して悲嘆するといった感情は無かった。起こってしまったことはどうしようもないと考えていたからだった。

それでもあえてこのような状況に置かれている原因を挙げるならばそれは明白だった。

それは火鳥の依頼を受けたことにある。それが無ければこんなことに巻き込まれることは無かった。

七草は隣でスマートフォンをいじりながら煙草を吸っていた袈裟丸を見た。

「そろそろこっちの順番じゃないかな」袈裟丸が七草に笑顔で言った。

七草を安心させようと思って袈裟丸は笑顔で言ったのだろうと七草は思った。しかし、袈裟丸はこんな時にスマートフォンでメールを送っていたようだった。

火鳥も電話を終えて戻ってきた。

「上司の方は大丈夫でしたか?」

鞄にスマートフォンを入れながら火鳥は疲弊した顔をした。

「まあね。何とか納得してもらったわ。ちゃんと記事にしろっていうことが条件ね」

火鳥は笑顔で言ったが、朝から比べると随分疲弊しているように七草には見えた。また時折焦っているようにも感じていた。

谷津夫妻から話を聞いていたスーツの男性二人がこちらに向かって歩いて来た。

一人は髪の毛が波を打っている背の高い男性で三十代前半、もう一人は若い方から見れば背が低く白髪交じりの髪をきっちりと真ん中で分けている。どこか眠そうな目をしている男性で見た目から五十代だろうと七草は思った。若い方に比べると体格が良く顔も四角い武骨な印象を受けた。

「すいませんね。お待たせしました」眠そうな方の男が言った。

穏やかな声でゆっくりと喋っていた。

「えーっと、あ、C県警の笹倉と言います」笹倉は名刺を三人に配った。

「同じくC県警の寿です」寿も同じく名刺を配る。

袈裟丸と七草は名刺を見る。確かに寿と書いてあった。

「ああ、珍しい名前ですよね。こういう現場で煙たがれます」寿は手に持っていた手帳を開いて淀みなく言った。言いなれているのだろうと七草は思った。

「三人方が遺体の第一発見者ということですかね」笹倉は三人の顔を見て言った。

「はい。そうです」火鳥が代表して言った。この中では最年長ということで声を発したのだろうと七草は考えた。

「失礼ですが。お名前をお聞かせ願いますか?」笹倉は全員の顔を見て言った。

火鳥は言われてから鞄の中に手を入れる。中から名刺ケースを取り出した。

「私は可士和タイムズという地方新聞で記者をしています。火鳥真理恵と言います」

そう言いながら名刺を二枚取り出して笹倉と寿に渡した。

「ほう。可士和タイムズの記者さんですか。良く拝読させてもらっています」笹倉は火鳥に言った。

「私は署に置いてあるものをたまにしか読んでいません。ごめんなさい」

寿は申し訳なさそうに笑って言った。七草はわざわざ言わなくても良かったのにと思った。

「ありがとうございます。目にしていただいてもらっているだけで感謝です」

火鳥は二人にお礼をしたが、淡々としていた。

「ではそちらの方は・・・学生さんですかね」笹倉が袈裟丸を見て言った。

「自分はR大学土木工学科修士一年の袈裟丸耕平です。名刺は持っていませんので学生証を一応お渡ししておきます」

袈裟丸はジーンズポケットから財布を取り出して学生証を笹倉に渡す。

「私は同じくR大学土木工学科の四年生の七草未来です」

七草もバッグから財布を取り出して入れてある学生証を笹倉に手渡す。図書館の入館に使う以外に学生証を使ったことがなかったが、七草は初めて身分証として学生証を使った。

二人の学生証を手渡す時から笹倉と寿の顔に驚愕の表情が浮かんでいた。

笹倉は二人の顔を交互に見ながら学生証を受け取ると表に印字されている情報や顔写真を見比べた。横から覗き込むようにして寿も確認している。

「二人はR大学の土木なんだ」

寿はウェーブのかかった髪を掻きながら言った。

袈裟丸と七草は黙って頷く。

「古見澤とは友達?」寿が袈裟丸に近寄って言う。

「同期ですし、入学時から友達ですね。今でも定期的に飲んでます」

寿は満足そうに頷く。

「笹倉さん、縁ですね」寿が笹倉に向かって言う。

「寿、もう何も言うな。俺はあまり考えたくない」

笹倉は額に手を当てて下を向いた。

袈裟丸と七草は刑事二人の様子を見て首を傾けた。

「あの。何かあったのですか?」七草が不安そうに尋ねる。

「ああ、うん、まあね。二人は気にしない方が良いと思うよ」

笹倉の代わりに寿が返答する。

「はあ。そう・・・ですか」七草は良く判っていなかったが頷いた。

隣を見ると袈裟丸が理解したように頷いた。

「古見澤によろしく言っておいてくれる?」顔を上げた笹倉が袈裟丸に言った。

「はい。分かりました」袈裟丸はそう言うと微笑んだ。

七草は袈裟丸の飲み友達の古見澤のことを思い出していた。古見澤とこの刑事さん二人が知り合いということなのだと七草は考えた。

「興味深い友達がいるのね?」火鳥は袈裟丸に小声で呟く。

「はい。今度紹介しましょうか?」

「遠慮しておくわ。気が合わなそうだから」火鳥は正面を見て言った。

「すみません。人知を超えたものに触れたような気分だったので回復までに時間がかかりました」笹倉は言った。

「大丈夫です。人知を超えちゃうと時間かかりますよね」袈裟丸は言った。

「先輩、そんな慰め方は世の中にないですよ」

「いや、大丈夫だよ。ありがとう。取り乱して済まないね」

笹倉は改めて三人を見る。

「遺体発見時ですが、そもそもなぜこちらへいらっしゃったのですか?」

笹倉は三人に質問をした。

三人がここに来た経緯を火鳥が簡潔に説明する。笹倉が火鳥の聞き役に回っている間に寿が手帳にメモを取っていた。

「なるほど。部屋の住人である板倉悟が失踪したということでまず部屋を調べに来たということですね」

火鳥は頷いた。

「しかし、そう言ったことはあまり警察を通してやらんでもらいたいものですな」笹倉は眠たい目が一瞬鋭くなった。

「警察がほとんど動いていないから調べに来たんですよ」火鳥が被せるように言った。

「そうかも知れませんがね」笹倉はまた眠そうな目に戻って言った。

「中で亡くなっていたのは板倉さんでしょうか?」袈裟丸が笹倉に質問する。

七草はその質問がおかしいことを知っていたが、黙っていた。袈裟丸がその質問をしたのが、場を収めるためであることが分かったからである。

笹倉は袈裟丸の方に顔を向けた。

「その方が男性ならば違います。殺されたのは女性です」

「私たちはどれくらい拘束されますか?」火鳥が笹倉に言った。

「現時点ではあなた方も容疑者ですからすぐに帰らせるわけにはいきませんね」笹倉は淡々と言った。

「なるほど。ごもっともな意見ですね」袈裟丸は苦笑いをしながら言った。

「またしばらくしたら声をおかけしますから、ここにいてもらっても良いですか?」笹倉は三人の顔を見て言った。

「ですが」火鳥は笹倉に意見しようとする。

「じゃあ、こういうのはどうですか?」火鳥の発言に重なる様に袈裟丸が口を開く。

全員が袈裟丸を見た。

「俺らが事件を終わらせますから、そうしたら解放してもらっても良いですか?」

大きく口角を上げて袈裟丸が笹倉と寿に言った。

「君は何を言っているんだ?そんなこと許可できると思っているのか?」

笹倉は眠たそうな目をしながらも勢いよく反論した。

「警察の方々は事件を一刻も早く解決したい。俺らはさっさと板倉さんの捜索を続けたいが、警察に身柄を拘束されて動けない。ならば事件が早く解決したら、両方がハッピィじゃないですか?」

袈裟丸は飄々と言った。

笹倉は天を見上げる。

「結局こうなるのか」

「まあまあ、良いじゃないですか。古見澤の友達でしょう?何とかしてくれますって。僕からも古見澤に連絡して彼の事聞いておきますから」

寿は笹倉を宥めるように言った。

「わかったよ、寿。まずお前は古見澤に連絡しろ。彼は信頼に値するのか聞いてくれ」

寿は笹倉が言い終わる前にすでにスマートフォンを取り出して電話を掛けていた。

五人の輪から少し離れて寿が会話していたが、五分ほどするとまた戻ってきた。

「古見澤に連絡取れました。袈裟丸は変態だが、悪い奴ではないから大丈夫だとの事です」

寿と笹倉は袈裟丸を見る。

「随分な言い方ですよね。彼なりに褒めているのかな?」袈裟丸はウィンクして笑った。



刑事二人はとりあえず納得したようだった。刑事二人を先頭に民間人三人が後に続いてマンションのエントランスに入った。

入るとすぐに一人の捜査官が寿に近づいた。袈裟丸ら三人は離れて待っていた。捜査官の話を寿が聞きながらメモを取るという行動が五分ほど続けられた。

話が終わった寿が、すみませんと言いながら合流する。

先を歩く刑事たちは階段を上ることを選択したので、三人もそれに続く。

「今わかっていることをお話しします」寿が階段を上がりながら話し始めた。階段を上がりながら息を切らさずに話していたことに七草は驚いた。

「まず被害者ですが、これも偶然ですがR大学の先生でした」

「え?そうなんですか?」袈裟丸は驚いたように言った。

七草は今日の袈裟丸の演技は上手だと思ったが、果たして刑事を騙せるものなのだろうかと思った。

「そうなんですよ。R大学の情報工学科で准教授をしている我妻明子さんでした。これは持ち物からわかったことです」

笹倉は何も話さなかったが、寿の話には耳を傾けているようだった。

「遺体発見時の状況ですけれど」そういうと寿は言葉を切って三人を振り返る。

「お話ししても大丈夫でしょうか?」寿は三人に配慮しているのである。

三人はそれぞれ違う振幅で頷くと寿はまた前を向いた。先頭を歩く笹倉が三階に到着する。

「我妻明子は板倉悟の部屋で死んでいました。直接の死因は頭部への殴打です。しかし何より不可解なのは」

寿はそこで言葉を切る。板倉悟の部屋の前に着いたからだった。今はブルーシートで覆われている。

五人はブルーシートを潜る様にして室内に入った。



ブルーシートに五人が入る一時間前。

火鳥が開けた板倉悟の部屋のドアの向こうには死体があった。七草は咄嗟に目を背けたが、頭から映像が離れることは無かった。

火鳥と袈裟丸は身体が硬直していた。

「七草、大丈夫か」袈裟丸が七草の肩を持つ。

「ああ、ごめんなさい。大丈夫です」

「とりあえず、警察に連絡してくれるか?ゆっくりで良いぞ」

七草は袈裟丸を見る。その発言の意味が分からなかったからである。

次の瞬間には袈裟丸は靴を脱いで部屋に上がっていた。火鳥はすでに室内に消えている。

「ちょ、ちょっと何しているんですか?」七草はドアのところから袈裟丸に呼びかける。

「え?板倉さんが失踪した痕跡を探しているんだけど?」

「なにしれっと言っているんですか。死体があるんですよ?」

袈裟丸はキッチン部分に立っていたが、奥の室内を振り返ってからまた七草を見た。

「うん、知っているよ。俺にも見えるから。お前が幻を見ているとかじゃないよ。安心して」

「幻の方が安心しますよ。そうじゃあなくて、その勝手に入って大丈夫なんですか?」

「しらん。もし入ったことがわかったら謝れば良いだろう?」

「人がいるかどうか確かめるのに勝手にドアを開けることとはわけが違うんですよ?」

「同じだって。警察が来たらここはしばらく手が付けられないようになるだろう?その前に出来るだけ悟さんの情報が欲しいんだよ。大丈夫だって火鳥さんとも指紋は残さないようにするからさ」

そう言うと袈裟丸はコートのポケットから軍手を取り出した。火鳥も薄い手袋を装着しているようだった。

「だから、ゆっくり階段で降りて、外に出たら警察に連絡をするんだ」そう言うと袈裟丸は室内に戻って行った。

七草はゆっくりと廊下を引き返していった。

袈裟丸は室内へと戻って行った。テーブル代わりのこたつの天板に覆いかぶさるように死体が俯せで倒れていた。

火鳥はその死体の顔をしゃがみこんで見ている。

「この人、知っているわ」

袈裟丸は火鳥の隣に並びしゃがむ。

「女性ですね。友達ですか?」

火鳥は死体から目を離さずに立ち上がった。

「いえ違うわ」

「取材対象だったとか?」

「深澤研の准教授の我妻明子よ」

袈裟丸は視線を我妻の亡骸に戻す。

「この人が我妻先生?」

「ええ。間違いないわ。取材したばかりだしね」

火鳥は何気なく窓の外に目を向けた。

袈裟丸は火鳥がそれから何も言わずに家探しに戻ったのを見て、我妻の死体を観察した。こたつの天板を覆っていると見えたが、正確には天板の上に乗っていると言った方が正しい。袈裟丸が見ている我妻の頭と手が天板からはみ出すように床の方に垂れており、反対側の下半身も天板から垂れるように床に向かっていた。

上半身の衣服が乱れており、出血は頭と足の方からだった。頭は血の滴り具合から後頭部から出血しているようだった。対して下半身は裾の広がったスラックスを履いていたが、本来足が見えている部分が平坦になっている。

「足が切断されていますね」袈裟丸が立ち上がって言った。

袈裟丸が観察する限り膝あたりから下の衣服が平坦になっていた。

「袈裟丸君、時間がないから君も手を動かしてね」火鳥はこたつから離れて、ベッドが置かれている方を探していた。

「火鳥さん、部屋に死体があるのに怖がりませんね」袈裟丸は何気なく言った。

「覚悟していたからね」火鳥はベッドの周辺を立ったまま見渡していた。袈裟丸からは火鳥の背中だけが見える。

「覚悟ですか?」

「そう。よく不測の事態に陥った時に狼狽える人がいるでしょう?それって自分の予想というか、想像の範囲が及んでないから狼狽えると思うのよね」

火鳥はベッドの頭の方を覗き込む。

「自分の行動だったり、発言でも良いけれど、そういった行動の結果がどのようになるか予測できていないからだと思うのよ」火鳥は慎重に身体を動かしていた。

「火鳥さんはこうなることを予測していたんですか?」

「人が一人いなくなっているのだから人が一人死んでいてもおかしくないなっていうくらいの覚悟ね」

振り返った火鳥は口もとに笑みが浮かんでいた。

板倉悟の部屋は入り口から見ると右手方向に長い部屋だった。キッチンから続く引き戸に立ってみると右手にベッドがあり、正面にこたつで左手の壁にテレビ、本やDVDが並べられたラックがある、引き戸の正面の壁には机があり、PCが置かれていた。その壁を右手に見ていくと、窓があり、窓を挟んで反対側の壁には雑貨などが置かれているスチールラックがあり、そこには水槽もあった。この五リットルほどの水槽は袈裟丸も良く知っていた。

「苔が生えているじゃん。水も取り換えてないし、ポンプも止まっている。掃除してないのか」

袈裟丸は水槽を横から眺めた。水槽の床から液面まで二十センチ程度しかなかったが魚はいないようだった。

「板倉悟は魚が好きだったのかしらね?」

火鳥は視線を部屋中に行きわたらせながら言った。

「そうかもしれないですね。この程度の小さな水槽だからメダカとか小さな魚の可能性がありますね」

袈裟丸は過去、この部屋に遊びに来た時に元気に泳いでいたメダカの事を思い出していた。今この水槽を泳ぐメダカは一匹もいない。彼らの行方も知れないが、どこかで元気にいてくれることを願った。

袈裟丸はまだ火鳥に板倉悟と直接知り合いということは話さないでいた。すでに火鳥も感づいているかもしれない可能性はあったが、こちらから話さなければいけない理由はなかった。袈裟丸自身も板倉悟が失踪した理由も行方も全く見当がつかなかったからだった。

「何か見つかった?」火鳥は少し焦っていた。

袈裟丸も確認しているが、それらしいものは見当たらない。

「火鳥さんは、板倉悟さんのことを取材した時に我妻さんと会っているんですよね?」

「会っているわよ。そうじゃなきゃ、その死体が我妻さんだとわからないでしょう?」

「そうですよね。どんな人でしたか?」

「そうね。奥ゆかしいというか、一歩後ろで、と言った印象ね。深澤教授の部屋で話を聞いたんだけれど、教授と私はソファに座って向かい合って話をしていたのに、我妻さんはテーブルの脇にキャスタ付きの椅子に座って話を聞いていたのよ。教授の隣にも十分に座れるスペースがあったのにね」

袈裟丸は深澤教授の部屋を訪れた時に見たキャスタ付きの椅子を思い出していた。あの椅子は我妻准教授が使っていたのだと思った。

「そうだったんですね。大人しそうな外見をしていますからね。深澤教授のサポート役に徹していたのでしょうね」

袈裟丸は我妻の顔を確認してから火鳥に言った。その過程で視線がPCを捉えた。

おもむろにPCの乗っている机に近づく。簡単な作りの机だった。二段になっており、椅子に座ると正面にモニタ、その上に棚がありそこにはプリンタが置かれていた。モニタが置かれている天板にはモニタとマウス、キーボード以外の余計なものは置かれていなかった。

袈裟丸は一つだけの引き出しを開ける。袈裟丸の目に留まったのは煙草の箱とライタだった。

袈裟丸の記憶には板倉悟が喫煙をしていたシーンは無い。板倉悟自身もこの部屋でしか吸わなかったのだろうと袈裟丸は思った。一人部屋で煙草を吸う光景を袈裟丸は頭の中で思い描いた。そして、その時の板倉悟の気持ちに思いを馳せた。

研究室では優等生として振る舞っていた板倉悟がここで煙草を吸うときはどのような気持ちだったのだろうかと袈裟丸は推測する。

その気持ちを推測することは袈裟丸にとって板倉悟の失踪時の気持ちをトレースすることに繋がるはずだという期待があった。

袈裟丸はふと、目の前のモニタの電源が入っていることを確認してマウスをクリックする。PCの起動音はしなかった。

身を低くして机の下に置かれていたPC本体をチェックするが電源が落とされていた。

「ここもか」袈裟丸は呟く。

その時、廊下の方で気配がした。袈裟丸が振り返るとドアが腹いたままの玄関に七草が立っていた。

「お帰り。警察に連絡した?」袈裟丸がその場で言う。

「はい。あと十分くらいで到着するそうです」

「了解。ありがとう」

「あと十分?日本の警察は遅いわね」火鳥も先程よりも焦っていた。

「ちょっと不便なところにマンションがありますからね。早い方ですよきっと」

袈裟丸はPCの電源を押した。ファンの機械的な音が響いてPCが起動する。

モニタに映し出された画面にはデスクトップが映し出されていた。

「パスワードを設定していないの?不用心ね」火鳥はベッド側の捜索を終えてキッチンの方に向かっていた。

「確かにそうですね。情報工学科所属なのに」袈裟丸は笑顔で言った。

火鳥には同調したが袈裟丸はその理由を知っていた。板倉悟はこのデスクトップ型のPCをゲームや検索程度にしか使っておらず、研究を家に持ち込まなかった。それでも家で作業をしなければならない場合は研究室のノートPCを持ち帰っていた。

袈裟丸はデスクトップのファイル等を調べるが関連する情報は無かった。

マウスを持ったまま袈裟丸はしばらく考える。そしてブラウザを立ち上げると履歴を確認した。最後の閲覧履歴は二週間前だった。

その閲覧履歴を調べると、電車の運行案内が見つかった。それをクリックするとS県の都市名が出てきた。

「火鳥さん」袈裟丸は火鳥を呼ぶ。

「何か見つかった?」火鳥は袈裟丸の横に来て画面を覗き込む。

火鳥は袈裟丸が指し示す都市名を確認する。

「ああ、ここは板倉悟の叔父が住んでいる街ね」火鳥は言った。

「そこにいるんですかね?」

「叔父の所に身を寄せているのならばこっちに連絡があるはずよ」

袈裟丸は他の閲覧履歴を見る。その中から日を跨いで閲覧をしているサイトがあったのでクリックして表示する。

「このサイドが何回か閲覧されていますね」

袈裟丸が表示したサイトは日本中の廃墟マニアがこれまでに集めた写真を紹介しているサイトだった。写真の場所ごとに情報が簡単にまとめられているおり、履歴に残っていたのは変電所のページだった。

火鳥はスマートフォンで写真を撮る。

「解析してもらったのが無駄になったかしら?」火鳥が袈裟丸に言った。

「まあ、何が手がかりになるかわかりませんでしたから、大丈夫ですよ」

外からパトカーのサイレンが二人の耳に届いた。

火鳥と袈裟丸は我妻の足から出ている血に注意しながら七草が待っている廊下に出た。

「何かわかりましたか」七草は結局中に入らなかった。

「まあ、それなりに。次に行くところは決まったかな」袈裟丸は七草の耳元で言った。

最後に火鳥が部屋から出ると、扉は開けたままにしておいた。

「板倉悟は料理が好きなのかしら?」火鳥は言った。

「どうしてですか?」

「キッチンに結構調味料とかが多くあるから。ほら」火鳥が部屋の前の廊下から中を指さす。

キッチンには色とりどりのハーブが置かれていた。

「本当だ。塩コショウなんてレストランでしか見たことないシャカシャカ回すやつですね」袈裟丸が言った。

その横から七草が顔を出してみる。

「本当ですね。ローリエ、パセリ、バジルやローズマリーもありますね。手前にはオレガノやタイムやミント。吊るしてあるのは赤唐辛子ですよ。瓶に入っているのは・・・多分シナモンやナツメグじゃないですかね。全部イタリア料理の素材ですよ。イタリア料理が趣味だったんじゃないですか?」

「そうね。パスタストッカもあるし」火鳥も同意した。

「まあ、パスタは簡単ですからね」

袈裟丸の発言に火鳥と七草は頷く。

警察官が廊下の奥に現れると火鳥が駆け寄って、ここです、と手を振る演技をした。

七草はそのやり取りに隠れて袈裟丸の耳元に近づく。

「板倉悟さんってイタリア料理が得意なんですか?」

「ああ、プロ級だよ」

袈裟丸はそれだけ言うとにっこりと笑った。





現在。

板倉の部屋に入ってきた五人は鑑識の人間とすれ違いながらも部屋の奥に進んだ。

「五人で入ると少し狭いですね」寿が言った。

五人は死体が倒れていた部屋で広がって立つ。部屋にいた捜査官は現在ほぼ外に出ている。すでに死体も搬送されて床に流れていた血もある程度拭き取られていた。

「うわっ」笹倉が突然声を上げる。

笹倉の叫び声と同時に物が落ちる音がしたが、それ以上に大きな音が五人の耳に響いた。

「笹倉さん、なんでラジオ落とすんですかっ」寿が床に落ちていたラジオを拾い上げる。ラジオからは騒音ともいうべき音が響いていた。全員が耳を塞ぐ中、寿はラジオの電源を消す。

「笹倉さん、勘弁してくださいよ」寿は焦燥しながら言った。

「ああ、いや、すまん。本当に申し訳ない」笹倉も手を合わせて謝罪する。

「良くありますよ。気にしないでください」袈裟丸は慰めるように笹倉に言った。

七草は、袈裟丸の笑顔が本心ではないだろうと思っていた。

「この部屋のこたつの上で我妻さんは俯せで倒れていたということで間違いはないでしょうか?」寿は言った。

「はい。間違いはないと思います。顔までは確認できませんでしたが」火鳥は寿に言った。

「そうですか」寿はまた手帳にメモを取る。

「我妻さんですが、死因は後頭部への一撃でした。ちょっと状況から見て自殺とは考えられないので殺害されたということだと判断しています」

三人は黙って寿を見ていた。

「後頭部を打ったこと自体は事故ということは無いですか?」火鳥は質問をする。

「というと?」笹倉が言った。

「つまり火鳥さんは我妻さんが後頭部を打って死んだのは事故で足を切断したのは我妻さんが死んだ後に誰かの手によって切断されたと考えているってことですよ」袈裟丸は補足する。

「例えば転んで頭を打った場合は仰向けに倒れているはずですからね。それに事故にしても故意にしても後頭部を殴打したものが見当たらないのですよ」

「どういうことですか?」

「被害者の我妻さんの後頭部からは結構な出血がありました。あのくらいの出血だと後頭部に衝撃を与えたものにも血液が付着していた確率が高いです」寿は三人を見ながら言った。

火鳥は頷く。

「室内を見てもそれらしいものは見つかっていません。つまり、それは亡くなった我妻さんの意図に関係なくこの場から消えてしまったと考えられます」

「あの・・・自殺っていうことはありませんか?」七草が恐る恐る尋ねた。

「自殺ですか・・・あまり現実的ではないと思います。この部屋でなぜ自殺していたかということには目を瞑るとしても、やはり後頭部の一打を与えたものが見つかっていません」

「よく、ミステリとか小説だと氷を使ったトリックとかあるじゃないですか」七草は小声で言った。

「ま、それはそれ。小説ですから。ちなみに不自然に濡れた後は見つかっていません」

寿は苦笑いしながらも七草の発言を否定する。

「室内から犯人の指紋は見つかったのでしょうか?」袈裟丸は寿に言った。

「いや、住人の板倉悟さんの指紋らしきものが多数でと被害者の我妻さんの指紋は数点見つかったんだけれど、そのほかの指紋は見つかっていないんだ」

「もし殺人だとすると、計画的っていうことですね」

寿は頷いた。

「そして何より、不可解なのは」寿はそこでいったん言葉を切ると、こたつの方を見た。

「我妻さんの両足が持ち去られていたということです」

三人はじっと寿と笹倉を見る。

それは三人が、正確には火鳥と袈裟丸がこの部屋に入った時から考えていたことだった。

我妻准教授は後頭部の殴打が致命傷となって帰らぬ人になった。それが自殺であっても他殺であってもその事実には変わりはない。

しかし、死体の両足を持ち去るということは我妻以外の誰かが持ち去ったと考える方が確率は高い。

「切断にはキッチンの肉切り包丁を使ったようですね。洗面台に血まみれの包丁がありました。捜索中ですがまだ足も見つかっていませんし、我妻さんの解剖の結果がわかっていませんので、これはとりあえず保留ということにします」

寿は事務的に言った。

「最初に到着した警察官に説明をしたかもしれませんけれど、この部屋に来るまでの事をもう一度教えていただけますか?」

火鳥が代表して端的に説明した。

「このマンションに到着してからはあらかじめ連絡しておいた大家さん、谷津さんの旦那さんと一緒にこの部屋の前まで来ました。それから谷津さんはマスターキーを取り出して鍵を開けました。それからは・・・」

火鳥も淡々と説明する。七草はそれを聞きながら頭の中で思い出していた。

笹倉が振り返って寿と視線を合わせた。

寿が頷くと笹倉はまた前を向いた。

「わかりました。ありがとうございます。一点確認ですが谷津さんの手元は確認できましたでしょうか?」寿は火鳥に言った。

「ええ。多分この二人も見ていると思います。しっかりと谷津さんがポケットから鍵を取り出して鍵穴に入れて回しました。ロックを外す音も聞こえました」

火鳥の発言に袈裟丸と七草も頷いた。

「寿さん、間違いはないです。しっかり鍵は廻っていましたよ」袈裟丸も補足した。

「根拠は?」寿は言った。

「この部屋の玄関は左に開きます。谷津さんに連れられて玄関に着いた時、先頭を歩いていたのは谷津さんでした。俺ら三人は少し距離を置いて歩いていたんです。部屋の前に谷津さんが到着した時に俺はドアの取っ手が自分側に取り付けてあったから少し離れて止まったんです。谷津さんが開けてくれると思ったからです。つられて火鳥さんも七草も俺の後ろで止まりました。結局谷津さんは開錠しただけで帰っていきましたから死体を見ることはなかったんですけどね」

袈裟丸は手を後ろに回しながら話した。これは袈裟丸の癖だった。

「そうですか。分かりました。では施錠はされていたということになりますね」

「はい。困りましたね」袈裟丸は微笑んだ。

七草はまだ会話に追いついていない。この状況にまだ頭がついて行っていないのではないかと考えていた。

「どういうことですか?」

「七草、誰が施錠したかっていうことになるだろう?」袈裟丸は七草の目を見て言った。

「ああ・・・」

「少なくとも足を持って行った人物はこの部屋から出ているのだから、鍵を締めなければ死体の発見時の状況にならないだろう?」

七草はなるほどと思ったが、すぐに自分たちが置かれている状況に気が付いた。

「そう言うことになりますね。ところでこの部屋の賃貸契約は板倉悟さんですよね?」

寿はそう言った。隣の笹倉も眠そうな目に鋭い光が宿っている。

板倉悟の部屋の中で所属している大学の研究室の准教授が不審な死を遂げている。その上で遺体の足が切断されて持ち出されており、部屋の主である本人は失踪中という状況だった。

七草ら三人はそんな板倉悟を追いかけているのである。刑事二人の仲で今の最有力の容疑者は板倉悟であることは間違いないと七草は思った。

七草は袈裟丸を見るが、額に汗がうっすらと浮かんでいた。

「そう言えば板倉悟の弟は夏に大きな事件を起こしていますね。まあ直接は関係ないとは思いますし、余計な情報で捜査方針は変えませんが・・・」

寿はそこで一旦言葉を区切る

「これは偶然だろうかと思ってしまうんですよね」寿の薄く笑っていた。

「偶然だと思いますよ」袈裟丸は寿に言ったが、七草には強がりだとわかった。

「それにそもそもなぜ板倉悟の部屋に我妻さんがいたのかということも疑問ですね」

笹倉が袈裟丸の発言を遮るように言った。

袈裟丸は口元に笑みを浮かべているが、目は笑っていなかった。

「監視カメラはどうなっていますか?」火鳥は落ち着いた様子で言った。

刑事二人は揃って短いため息を吐いた。

「今解析中です。お察しの通り、そこに映っているのが有力な容疑者であることは間違いないはずです」

その時、別の刑事が部屋の玄関から寿に声をかける。寿は失礼、と言ってから外に出て行った。

残された笹倉はそれを見送ると再び三人を見る。

「死亡推定時刻ですが、詳しく調べてみないとわかりませんが昨日の十七時から十八時の間ということです。皆さんはその間どちらへ?」笹倉が三人に尋ねた。

「私は職場に居ました。何人も職員がいましたから、聞いていただければわかると思います」火鳥は言った。

「俺と七草は同じ研究室です。その時間はまだ作業していたと思います。他にも部屋にいた学生がいますから、聞いていただければわかると思います」

「わかりました。ご協力感謝します」笹倉は首を摩るようにして言った。

部屋の玄関の方からありがとう、という声が聞こえて寿が戻ってきた。

「お待たせしました。また新しい情報が入ってきました」

寿はそう言うと手帳に目を落とす。

「まず、先程も話に出ましたが、監視カメラの件です。このマンションは監視カメラが一階のエントランスにしかありませんでした」

寿は人差し指で下を示す。

「エントランスの監視カメラは一階のエレベータホールとその横の階段を撮影しています。マンションの二階以上に上がる場合はこのエレベータと階段を使うしかないということになりますね」

七草はマンションに入ってきたときの事を思い出していた。一階の住人はエントランスに入ったらすぐに左手に進むと廊下があるので、階段やエレベータは使わない。

「死亡推定時刻の話は・・・」

寿は笹倉に顔を向ける。

「すでにお伝えしたよ」

笹倉はそう言うと、火鳥と袈裟丸が言ったことを寿にも伝える。寿はそれを手帳にメモすると、度々失礼、と言って玄関の方に消えて行った。

すぐに寿は戻ってきた。七草らの証言の裏を取っているのだろうと七草は思った。

「えーっと、そうそう。監視カメラの映像を昨日の朝から袈裟丸君たちが我妻さんの遺体を発見するまでの間、確認しました」

「早いですね」

寿が感心したように言った。

「まあ、仕事ですから」寿は胸を張った。

「というわけで、映像を確認してみましたが、まず皆さんは遺体発見時にマンションに入ったところの映像しかなかったそうです」

七草は肩の力が抜けていた。袈裟丸と火鳥は落ち着いて話を聞いていた。

「大家さん同伴で確認もしてもらいましたが、板倉悟も出入りしていませんでした」

袈裟丸は寿の報告を聞いて肩の力が抜けたようだった。

「というわけで、みなさんの容疑は晴れましたね」寿は言った。

「ベランダから入れるんじゃないのか?」笹倉が言った。

まだ、板倉悟の犯行の可能性を捨てきれないという考えからの発言だと七草は思った。

「いえ、それは無理です」袈裟丸が右手を振って言った。

「なんで?」笹倉は橇の腰のあるあごひげを触りながら言った。

「鳥避けのネットが設置されているからです」

袈裟丸が言ったと同時に寿が閉じてあった遮光カーテンを開ける。

そこには少し汚れた窓があった。寿は鍵が施錠されていることを確認した上で鍵を外し、窓を開けた。

そこは洗濯物も干していないベランダだった。その奥に鳥避けネットの一部が見えていた。

「ああ、本当だ・・・」笹倉は後頭部をポンポンと叩いて言った。

寿は玄関から自分の靴を持ってきて、窓際に置いてから靴を履いてベランダに出た。それほど広くはなかった。

寿がネットをまくる様に動かすが、しっかりと固定されているために動かなかった。

「無理っすね」寿はベランダから戻ると言った。

寿は靴を玄関に置きに行くと頭を掻きながら戻ってきた。

「三階くらいのマンションだから外からも入れると思ったんだがなぁ」

笹倉は苦々しい顔で寿を見た。

「まあ、マンション正面からの侵入が難しいなら外からの可能性も考えますよ」

寿は優しくフォローを入れる。

「それで監視カメラの映像ですが、昨日から今日の遺体発見時までの間を見ると、このマンションの住人と被害者の我妻さん以外には出入りした人間はいませんでした」

寿は全員にその事実を伝える。

「マンションの住人としては全員が監視カメラに映っていました」

寿は手帳に目を落とす。

「一〇一から一〇五の住人、あと二〇一、二〇三、そして三〇一と三〇四の住人が出入りしています。ちなみに大家夫妻はここから五分ほど歩いたところに自宅があります」

「なるほど。絞れたかなと思いましたけど、結局マンションの全員が監視カメラに映っているんですね」袈裟丸は寿と笹倉に言った。

「そうなるね。このマンションはオートロックだから外部の人間が鍵無しで簡単に入ることは出来ない。お客として住人が招いていたり、鍵を貸したりしていなければね」

笹倉は自分に言い聞かせるように言った。

「大家立ち合いの元で住人の顔を確認しながら検証していきましたから、問題ないと思います」寿は笹倉に向けて言った。

笹倉も頷く。

「でも、我妻さんはどうやって入ったのかしら?」火鳥は下を向いて言った。

全員が火鳥を見る。七草も火鳥と同じ疑問を抱いていた。オートロックの解除には住民の鍵が必要であり、さらに板倉悟の部屋を開けるためにも鍵が必要であるはずだった。

「寿、被害者の所持品の中はどうだい?」

寿は手帳を確認する。

「所持品はありません。持ち去られたのか、何も持たずに来たのかはわかりませんが」

「さすがに女性が何も持たずに外出するのは無いと思います」火鳥が言った。

寿と笹倉は火鳥の意見に頷く。

「ならば持ち去られたと考えるのが良さそうですね」寿は手帳に書き込んだ。

刑事二人と民間人三人がこたつを取り囲むようにして立っていた。

「ちょっとわからないことがちらかってきましたね。すこし整理してみますか。今の時点で判断できそうな点もそうではない点も一緒にまとめてみましょう」

寿はそう言うと手帳に書き込んで、この事件の不明な点を以下の 点にまとめた。


Q①我妻明子はなぜ板倉悟の部屋に入れたのか?

Q②致命傷を与えた凶器は何か?

Q③凶器はどこに消えたのか?

Q④犯人が被害者の足を切断したのはなぜか?

Q⑤被害者の足は今どこにあるのか?

Q⑥犯人は誰か?


「こんなところですかね」手帳に自分で書いた文字を読み上げながら寿は言った。

「①に関しては、もう明確な気がしますね」袈裟丸が顎に手を置いて言った。

「確かにな」笹倉も同意する。

「このマンションのオートロックのことと、監視カメラの映像から見て我妻先生が板倉悟さんの部屋の鍵を持っていたということは間違いないでしょうね」寿は言った。

「ということは①の疑問点に対する答えがでるわね」火鳥が言った。


Q①我妻明子はなぜ板倉悟の部屋に入れたのか?

A①板倉悟の部屋の鍵を持っていたから


「とはいっても何故我妻が板倉悟の部屋の鍵を持っていたのかっていう疑問は残るなぁ」笹倉が言った。

「そうですね。笹倉さんはどうお考えになりますか?」寿は笹倉の顔を見る。

「そうだなぁ。我妻明子は板倉悟と男女関係で合い鍵を貰っていたっていうのはどう?」笹倉が自信気に言った。

「そもそも合い鍵ってあったのでしょうか?」袈裟丸は刑事二人に質問する。

「大家が言うには入居時に鍵は二本渡しているとのことだけれど、部屋からは見つかっていないね。この部屋の鍵は複製が難しいタイプの鍵で大家からメーカに申請をしなければいけないらしい。この部屋の鍵の複製を依頼されたことは無いそうだから、二本しかないっていうことだよ。それを考えると笹倉さんの言うことはあり得ることだと思う」寿は袈裟丸に言った。

「我妻さんが板倉悟さんの失踪に関わっているっていうことは考えられませんか?」

七草が全員の顔を見て言った。

「それはどういうことですか?」寿が穏やかな声で言った。

「えっとつまり、我妻さんが板倉さんを何らかの理由で殺害して、鍵を奪ったっていうことです」

「七草、それは無いんじゃないかな」袈裟丸が言った。

「どうしてそう思うんだい?」寿は袈裟丸に言った。

「二本目の鍵が見つかっていないっていうことが説明できません」

寿が首を傾ける。

「七草の説の場合、板倉悟さんが持っていた鍵を手に、我妻さんはこの部屋を訪れたっていうことだよね?そして我妻さんも殺害された。我妻さんを殺害した犯人は部屋を施錠しているから鍵を使ったことになる」

袈裟丸はそう言うと顔を七草に向ける。

「犯人にしてみれば、施錠する上で選択肢は二つある。一つは我妻さんの持っている鍵を使うこと、もう一つはあるかどうかわからない二本目の鍵を探して使うこと。わざわざ二本目の鍵を探すよりも我妻さんが持っていた鍵を使うほうが合理的なはずだ。それでも二本目の鍵が見つかっていない」

七草は、袈裟丸の話を聞きながら、そろそろ煙草を吸いたい時間だろうと考えていた。

「だから、施錠には二本目の鍵が使われたはずだ」

「そうすると一本目の鍵はまだ板倉悟が所持しているってことか」笹倉が言った。

「その方が自然だと思いますね。つまり、いつも所持している鍵っていうことですけどね」袈裟丸が笑いながら笹倉に言った。

「じゃあ、我妻さんが二本目の鍵でこの部屋まで来たっていうことになるのね」火鳥が袈裟丸に確認するように言った。

「いえ、それはまだわかりません」

「え?どうして?」火鳥は目を丸くした。

「犯人もしくはそれ以外の人物が二本目の鍵を使ってこの部屋に来て、オートロックを解除した可能性もあるからです」

「ああ」七草は声が口から洩れて出た。七草にとっては盲点だったためである。

「実際見ていないですけど、寿さんの説明通りの監視カメラ映像だったら、エレベータホールしか映っていません。オートロックがあるからだと思いますが、鍵を持たない外部の人が来た時に呼び出したのか鍵を使ったのかまではわからないのではないですか?」袈裟丸は寿に尋ねる。

「そう・・・だね。その通りだよ。なるほど」寿は頷いた。


Q①我妻明子はなぜ板倉悟の部屋に入れたのか?

A①板倉悟の部屋の鍵を持っていたもしくは持っていた第三者から招かれた


「まだどちらかは確定できないのね」火鳥は袈裟丸に言った。

「そうですね。ちょっとまだ確定はできないと思います」

「凶器に関してはどうでしょうかね」寿は手帳を見て言った。

我妻准教授の後頭部を殴打した凶器、その行方もまだわかっていない。

「寿さん、さっき疑問点として挙げられていましたけど、凶器が何かっていうのは警察の方である程度わかりませんか?」

袈裟丸が腕を組んで寿に言った。

「仰る通り。少々お待ちを」寿は手の平を袈裟丸に見せるとスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。

「お前はいつから執事になったんだ?」笹倉が冷めた目で寿を見た。

寿は四人から少し離れて、五分ほど通話をしていた。スマートフォンをスーツに仕舞うと袈裟丸達の所に戻ってきた。

「今、司法解剖をしてもらっている先生に直で聞きました。ちょうど検死中でしたよ」

「会話しながら検死していたの?世も末ね」火鳥が言った。

「そんなことないですよ。こちらが手を離せないときなどは遠隔で情報を聞いています」

七草はそんなものかと思った。

「それで、検死した先生によると、後頭部の右側が陥没していたということです。かなり強い力で殴ったのだろうと。それで時間がない中で詳細に見てくれたようです。その甲斐あって僅かですが、ガラス製の物質が付着しているのを見つけたとのことです」

「先生、申し訳ないね」笹倉は寿に言った。

「そうですね。今度、ラム肉送っておきましょうね」

「ラム肉?」七草が思わず声に出した。

「先生の好物です」寿は言った。

袈裟丸はずっと考えていた。袈裟丸の目的はこの事件をさっさと終わらせることである。

「ガラス製の何かっていうことですよね。部屋から見つかりました?」

「いや、寿が挙げた疑問点の三つ目にあるように凶器も見つかっていない」笹倉は苦い顔で言った。

「もちろん、ここら辺一帯で凶器が捨てられそうな場所を捜査していますが」寿も渋い顔をした。

「そうですよね」七草は言った。

「でもガラス製のものなんてこの部屋にも世の中にもあふれているわよね」火鳥は部屋の中を見渡しながら言った。

「そもそも室内のものを凶器に使ったんでしょうか?」七草は袈裟丸に言った。

「外から持ち込んだかもしれないっていうこと?」寿が代わりに発言した。

「この部屋で見つからないのは持ち帰ったからかもしれないですけど、そもそも犯人がこの部屋に来た目的が、我妻先生を殺すことだったら凶器を用意していてもおかしくはないんじゃないかと思うんです」

七草は考えながら言った。

「七草が言うことも良くわかるよ」

袈裟丸が口を開いた。

「でも、そうじゃないと俺は考えている。最初から我妻先生の殺害が目的だったら、そもそもここで実行しないと思う。板倉さんの失踪を知っていて発見が遅れると考えたのかもしれないが、そうだとしても不確定だ。俺が同じ状況ならば表の小高い山でやるかな」

袈裟丸は七草に微笑みながら言う。

「百歩譲って凶器の持ち込みにしても計画的なものだったら、毒殺の方が処理は簡単だよ」

「つまり袈裟丸君は衝動的な殺人だと?」寿が言った。

「はい。そう思っています」

「そもそもだけどな、強盗とか物盗りの線はないのか?我妻さんがここにいたっていう理由は棚上げだが、たまたまいた我妻さんが巻き込まれて殺されたっていうことも考えられるんじゃあないか?それなら凶器も持ち帰るだろう」笹倉が言った。

「実際に金目のものが無くなっていましたか?」

「あ、いや、無くなってはいないが」

「それにわざわざ足を切断した理由がありませんね。すぐに逃げますよ」

袈裟丸に反論された笹倉は黙った。

「ということはどういうことなの?」火鳥は袈裟丸に言った。

「俺は致命傷を与えた凶器はまだこの家の中にあると思っています」

全員が袈裟丸を見た。

「理由は?」火鳥が短く言った。

「シンプルです。包丁が持ち出されていないからです」

「足の切断に使った包丁ね」

「はい。包丁は残していたのに、致命傷を与えた凶器を持ち去ることの説明が付きません」

「どこにあるっていうんだ?どこにもなかったんだぞ?」

笹倉が少し語気を荒げて言った。

「ちょっと失礼」袈裟丸はそう言うとキッチンに向かった。

「台所?そんなのあったかしら?」火鳥は時計を確認しながら言った。

袈裟丸は台所に向かうと、触っても良いか寿に確認してから冷蔵庫やシンクの下の引き出しを開けたりしていた。そこにはキッチンに置いてあった食材のストックが全種類整理されて仕舞われていた。

袈裟丸は板倉悟の性格が表れていると思った。

「随分とイタリア料理の素材があるなぁ。冷蔵庫にもパンチェッタが入っている」

寿はキッチンとこたつのあるリビングとの境界に置かれている冷蔵庫を開けて言った。

七草ら三人は先程それを確認していた。

キッチンを探していた袈裟丸が立ち上がった。

「よし」

「どう?収穫はあった?」寿が言った。

袈裟丸はにっこりと笑うと冷蔵庫の前に移動した。

そして冷蔵庫に手を掛けて現状を整理して四人に伝え始めた。

刑事二人は目を合わせており、火鳥と七草も首を傾げていた。

寿は一度部屋から出て行った。

「さて、凶器の話でしたよね」

袈裟丸は寿が戻ってきたのを確認するとゆっくりと話し始める。

「刑事さん方、この部屋に入ってきて少し気になる臭いはありませんでしたか?」

袈裟丸は寿と笹倉の方を見て言った。

二人の刑事は袈裟丸の方を見ていた。袈裟丸は頷く。

「そう言えば少し煙草の臭いがしたような気がする」

笹倉が言った。

「笹倉さんは喫煙者ですか?」袈裟丸は二本の指をそろえて口元に当てる。

「うん、女房には止めろと言われているがね」

「まあ、止めませんよね?」

「そうだな。一箱千円になったら止めるかな」笹倉は笑った。

袈裟丸は頷く。

「恐らく板倉悟さんも喫煙者だったと思います。しかし、見渡すところに煙草もライタもありません」

袈裟丸は先程開けた引き出しを指差す。

「多分ここで作業をする時に楽しんでいたのだと思います。刑事さん、引き出し開けてもらえますか?」

寿は袈裟丸に言われた通り引き出しを開ける。この机には引き出しは一つしかない。

「本当だ。ありました」寿は煙草とライタを掲げる。

「俺も家でそれができたら研究も捗るのですけど、引っ越しの時の事を考えるとそれをためらってしまうんですよね。板倉悟さんはそれを躊躇しなかった。まさに喫煙者の鑑と言って良いでしょう」袈裟丸は饒舌に喋る。

「その煙草がどうしたの?」火鳥は恐る恐る言った。

袈裟丸は頷く。

「そう。板倉悟さんは喫煙者です。さて、何か気づきませんか?」

袈裟丸は四人に問いかける。

「そう言えば、寿さんと火鳥さんは吸いますか?」

「前は吸っていたけれどね。今は禁煙中さ」寿は言った。

「私は吸わないわ」火鳥も簡単に答える。

寿は喫煙者が三人いるということに驚いていた。

「なるほど。では喫煙組はどうですか?わかりませんか?」

その問いかけに悩んでいた七草が頭を上げる。袈裟丸はその姿を確認すると頷いた。

「灰皿、ですか?」

袈裟丸は大きく手を広げた。

「その通り」

「灰皿?」笹倉が力の抜けた声を出した。

「そうです。この部屋には灰皿が無いんです」袈裟丸はわざとらしく言った。

寿と笹倉がベランダを含めた部屋のいたるところを探すが、灰皿らしきものは見当たらなかった。

「確かにないな。灰皿を隠すことなんてないだろうしな」笹倉が言った。

「空き缶とかを灰皿にする人もいるって聞いたけれど?」火鳥が袈裟丸に言った。

「ここの地域がどうか知りませんけど、それだと捨ててくれない自治体もあるって聞いたことありますよ」

火鳥は頷いた。

「袈裟丸君、ということは凶器って灰皿?」

寿はゆっくりと言った。

「はい。ガラス製の灰皿だと思っています」袈裟丸は自信ありげに頷いた。

「ちょっと待て、部屋で使うんだからそんな大きな灰皿じゃあないだろう?だったら持って帰ることだってできるだろう?」笹倉は勢いよく言った。

袈裟丸は頷く。

「仰る通りです。でも犯人はそれをしなかった。その理由はわかりませんが」

袈裟丸は首を横に振りながら言った。

「少なくともガラスの灰皿はこの部屋にあります」

「それってどこにあるんですか?」七草が聞く。

袈裟丸は頷くとゆっくりと部屋の中を歩く。

そして生き物がいなくなった水槽の前に立つ。

「おい、その中は何もないだろう」笹倉が腕を組んで言った。

袈裟丸は笹倉の方を振り返ると微笑んだ。

そしてコートを脱いで七草に手渡し、ニットの袖を巻くって右手を水槽の中に入れた。

四人を振り返った袈裟丸は僅かに微笑む。

袈裟丸の右手はまだ水槽に入ったままである。

ゆっくりと手を引き上げる

袈裟丸の右手が液面との境界を抜けると、右手の親指と人差し指、そして中指に摘ままれてガラス製の四角い灰皿が姿を現した。

「はあぁ?」笹倉が奇怪な声を上げる。

「すげー」寿は手帳を脇に挟んで小さく拍手をしていた。

「どうなっているの?」火鳥は素直に驚いていた。

「えっと、早くこの灰皿回収してもらって良いですか?あと、キッチンペーパーかタオル下さい」

袈裟丸が言うと、寿はすぐにビニール袋を持ってきて、その灰皿を回収した。そしてキッチンのハンドソープで手を洗った袈裟丸はすっきりとした顔になって戻ってきた。

「なんで見えなかったんだ?」

水槽の前にいた笹倉が言った。他には火鳥そして七草も水槽を眺めていた。

「科学の手品ですよ」袈裟丸がタオルで手を拭きながら言った。

「先輩、これって油ですか?」七草が振り返って言った。

「そう。オリーブオイルだね」

「はあ、オリーブオイル・・・」寿が三人の後ろから水槽を眺める。

「油とガラスは屈折率が近いんです。だから油の中にガラスを入れると外から見た分には見えにくくなってしまいます」

袈裟丸は短くため息を吐く。

「科学の実験では普通のサラダ油とかを使うことが多いみたいですけど、この場合、黄色が強いサラダ油が入っていると色が不自然になるから、オリーブオイルを使ったのだと思います。この水槽の下の部分についている苔も見えにくくすることに一役買っていますね」

袈裟丸は水槽を眺める。

「その水槽には下の方に苔が付いていますけど、板倉悟さんが失踪したからなのか、手入れがしてなかったみたいですね。多分、殺害時にはまだ水槽に水が入っていて生き物も泳いでいたのだと思います」

袈裟丸は水槽から離れてこたつの方に向かう。

「犯人はさっきの灰皿で殴った後、洗面台で血を洗ったんだと思います。そして、ある理由で灰皿を持ち帰らずに隠すことを選びました。でもこの間取りの部屋ですからね。隠すところなんてたかが知れています。犯人はちょっと考えてこれを思い至ったんだとお見ます」

袈裟丸はタオルとこたつの上に放り投げた。

「まず犯人は水槽の中の水を捨てます。その時に生き物も流したんでしょうね。可哀想なことです。犯人は水気だけ丹念に拭いて苔は取らないようにしました。中に小石もありますから結構面倒だったと思います。それが終わったら、キッチンからオリーブオイルを持ってきてこの中に慎重に満たしていきます」

「さっき台所で確認していたのはオリーブオイルか」寿が袈裟丸を見て言った。

袈裟丸は頷く。

「板倉悟さんはイタリア料理が得意だったようですね。キッチンの所に食材がたくさん並んでいました。でも、変だなって思っていたのは、イタリア料理の基本となる食材がストック込みで揃っていたのに、オリーブオイルが置いてなかったんです」

袈裟丸は七草を見る。

七草は刑事が来る前にキッチンの食材を見て違和感があった。その違和感の正体を今袈裟丸から教えてもらったのである。

「この水槽は多分五リットルほどですから、乾燥で水分が蒸発したかの様に見せるために、オリーブオイルは入れる量を調整したのでしょうね。とはいってもストックを含めてすべての量を入れることになったようです」

寿は袈裟丸の発言が終わるとキッチンに向かった。

キッチンの隅に置かれていたゴミ箱の隣に中身が空のペットボトルが詰められた袋がお置かれていた。

寿はその中を漁る。そして、他のペットボトルと大きさと形状が異なるボトルを三本発見した。

「これだね」寿はそのボトルをこたつのテーブルの上に並べる。濃い緑のボトルが三本会並べられた。

袈裟丸はそれらをこたつに置いたまま確かめる。

「そうですね。これだと思います。この大きさだと七百ミリリットルくらいでしょうからストックが二本分で千四百ミリリットル、そして使い残しの分が一本あって二リットルくらいになったのだと思います」

袈裟丸はそう言うと七草からコートを受け取って着替えた。この部屋は暖房が付いていなかったため、袈裟丸はコートを着るとすぐにチャックを締めた。

「面白い隠し方ね」火鳥が言った。

「オリーブオイルがもったいない・・・」七草が呟いた。

全員が七草を見て頷く。

「見つかった灰皿から指紋は取れるのかしら?」火鳥が寿に言った。

「どうですかね。犯人は部屋にも指紋を残していませんしね。ただ、我妻さんを殴った凶器がどうかはわかると思います」

寿が言い終わると玄関の方で叫び声が聞こえた。

「大人しくしろっ」

刑事二人は素早く玄関に移動する。そのまま靴を履くと外に飛び出して行った。

その後姿を見た袈裟丸も走り出す。その後ろに火鳥と七草も続く。

玄関を出た廊下にすでに寿と笹倉の姿は無かった。吹き曝しになっている廊下からマンションの玄関前を覗き込むと寿と笹倉、そして数人の刑事に抑え込まれている男性がいた。

他の刑事に譲るようにして寿と笹倉が集団から離れると袈裟丸達を見上げた。

二人の刑事はそれぞれ拳を振り上げるポーズと、手を振るポーズを袈裟丸に送った。

袈裟丸は微笑みながら親指を立ててそれに応えた。


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