第3話 鉄枴と装用

袈裟丸と七草が火鳥と出会った翌日の土曜日、七草はR大学の正門に急いでいた。

昨夜、袈裟丸と別れて帰宅した七草は夕飯と入浴を終えたタイミングで袈裟丸からメールが入った。明日は午前十時に大学の正門に集合ということだった。

袈裟丸は帰宅している七草に電話で連絡をすることがない。袈裟丸自身が電話を苦手としているということもあるが、人のプライベートな空間に他人の声が入ることを極力避けようとしている袈裟丸なりの気遣いでもあった。

七草の下宿から大学までは歩いて十分もかからない場所にある。七草は朝食を済ませると、一本の支柱からいくつかの枝が伸びている木製のハンガに掛けてあるコートを手に取った。このハンガは別の目的で使われるものだが、今はハンガとして七草は使っている。コートをしっかりと着込むといつもよりゆっくりと部屋を出た。

七草の目にR大学の正門が見える所まで来ると、すでに袈裟丸が立っているのが目に入った。袈裟丸は呆然として立っていた。

今日の袈裟丸はトレードマークのカチューシャを外して、前髪を整髪剤で撫でつけオールバックになっていた。

七草は腕時計を見ると待ち合わせ時間の十時まであと五分ある。

七草にとってこれは珍しいことだった。袈裟丸は時間に間に合うことが無いのである。これは遅刻癖があるとか、そういったレベルの話ではない。

袈裟丸曰く、待ち合わせの時間に間に合うように家を出ると決まって自転車のタイヤがパンクしていたり、ドブに落ちたり、道に迷っている外国人に声を掛けられるといったイベントが発生するのだ。それによって間違いなく遅れることになる。時間を気にせずに適当に家を出たとしてもそれが集合時間に間に合う時間だとイベントが発生し、集合時間に間に合わない時間だとイベントが発生しないのである。これは袈裟丸が大学生になってから始まった現象らしい。

この現象は授業や試験といった場合は発生しない。袈裟丸自身が人と所定の場所で時間を決めて待ち合わせる場合にのみ生じる現象だった。袈裟丸自身は、自分と待ち合わせる人がうんざりするだけで特段自分は迷惑していないため、その現象自体を楽しんでいるようだった。

袈裟丸の厄介な体質には七草も何度も巻き込まれている。

七草としては極力、袈裟丸と行動を共にするようにしているし、待ち合わせる場合はそうなることを覚悟して待つことにしていた。

あらゆる想定外のことは起こるのだから、覚悟を常に持っていれば良い。そうすればいざそうなったときに覚悟していない時と比べて冷静に対処できるまでの時間が短縮できる。七草はこれも袈裟丸から教えてもらっていた。

袈裟丸は最初に七草と会った時、つまり研究室配属後、袈裟丸の研究テーマを手伝うことになった時、自分で何とかしない代わりにこういったこと伝えていた。

目前の袈裟丸をめがけて七草は駆け出す。

土曜日の大学の正門は閉じているが、正門脇にある通用口は開いている。通用口のすぐ横には警備員の詰め所があり、そこから入るためには学生証などが必要である。しかし、研究室に所属している学生達はどうしてもやらなければいけないことがあれば土日であっても研究室や実験スペースで作業することはできるようになっている。

「おはようございます」七草の声は震えていた。

「お、おはよう」袈裟丸の声も震えていた。二人共寒くて震えていたわけではなかった。

「どうしちゃったんですか?雪でも振るんじゃないですかね」

七草は雲一つない快晴の空を見上げて言った。

「どうしちゃんたんだろうな。俺にもわからん」

「間に合っているじゃないですか」七草は腕時計を見せて言った。

「そうなんだよ」

袈裟丸はそう言うと七草の腕時計を確認する。

「ほら、俺の時計と同じ時間だ」

「時計を進めてっていうことではないですね」

「俺の時計は電波時計だからな。何で?」

「わざと進めておいて時間に間に合うように家を出たのかなと」

「そんな小細工で俺の体質を克服できないよ」

「それもそうですね」

七草は素直に納得した。その程度で袈裟丸の体質が克服できていたら袈裟丸の事だからもっと早く対応できていただろう。

「本当、良く判らないことが起こっていますね」七草は昨日の事を思い出すように空を見て言った。

「全くだな。あ、そうだ。これ」

袈裟丸はコートのポケットから缶コーヒーを取り出した、

その缶コーヒーを七草に手渡す。七草がラベルを見るとブラックだった。袈裟丸の好みだが七草の好みでもあった。

「あ、ありがとうございます。これどうしたんですか?」

「さっき自分の分と合わせて買ったんだ。お前の分」

「はあ。そうですか」

「頭すっきりとしておいた方が良いと思ってね。せっかくだからカフェとかでと思ったんだけれど、この辺には無いしね。華も色気もないけれどこれで我慢してくれ」

そう言うと七草に笑顔を向けた。

「ありがとうございます」

七草はもう一度笑顔で言うと、遠慮なくプルトップを開けた。袈裟丸がいつも通りの様子に戻って七草自身安心していた。

すでに人肌に温くなった缶コーヒーに口を付けて、苦い液体を流し込みながら、七草は昨日の事を思い出していた。



カナル食堂の一階は騒然としていた。二人が柱に掛けられているテレビに辿りついてからも、何人かの学生が二人の後ろからテレビを眺めていた。

テレビ画面からは通常の無音の文字と写真のみの要約された映像ではなく、右上にLIVEと書かれてあり、流れている映像がリアルタイムであることを示していた。

画面全体には映像が映し出され、その下に『速報』と書かれたテロップにこうあった。

 『羽田空港滑走路大破』

衝撃的な文字だった。

画面には滑走路が映し出されており、その半分が失われており、煙が少し確認できた。

学生の声が周囲からしてきたが、二人はテレビのアナウンサの声に耳を集中する。

『繰り返しお伝えします。現在、ご覧いただいているのは、羽田空港のD滑走路です。先程からお伝えしていますように、轟音と共にD滑走路が大破したという情報が入りました』

マスコミも現時点で状況が把握できていないようだった。

映し出されている映像はD滑走路の空撮映像だった。

『現時点でこちらに十分な報道が入っておりません。えーこれは。はい。まずこの大破による死傷者ですが、現時点では確認できていないということです。また、巻き込まれて破損した旅客機もその他航空機もないということは情報として届いております』

「桟橋部分だな」袈裟丸が横で呟く。今七草の耳は、テレビの音声と袈裟丸の声しか受け付けなくなっていた。

羽田空港のD滑走路は、2010年に竣工を開始した、羽田空港の四本目の滑走路である。特徴としては羽田空港の南東沖の海上に建設された滑走路で、滑走路の三分の二が埋立部で三分の一が桟橋構造となっているあまり世界でもみないハイブリッド形式の滑走路である点だ。

海上に建設されているために、発着場からこの滑走路に向かうために飛行機は途中で連絡誘導路を渡ることになる。連絡誘導路はD滑走路の桟橋部分と接合されている構造になっている。

七草が映像を見る限り、滑走路の桟橋部分の半分ほどが海中に沈んでいる。埋立部分と桟橋部分の境界から桟橋部分の方に大破しており、桟橋部分の先端部がかろうじて残っているように見えた。さらに連絡誘導路も半分が破損していることが確認できた。

D滑走路の桟橋部分はジャケット工法と呼ばれる工法で作られている。海中の基礎地盤に打ち込まれた基礎杭の上部に鋼管で組み立てられた立体トラスを被せるようにして接合した構造をしており、この杭に被せるという状態からジャケット工法と名付けられた。さらにその上に床版を設置することで滑走路としている。D滑走路の桟橋部分を側面から見ればいくつもの柱が海中に突き刺さっていることが確認できる。この工法にすることで水平変位を押さえることが出来ることが利点と言える。

D滑走路の桟橋部分は埋立部分との境界から桟橋先端部にかけて大きく破損しているが先端部は少し残っているようだった。桟橋部分の残骸は海に沈んでいるのかほとんど確認できない。

滑走路上空の絵以上がズームインすると、消防車や警察の車両も見える。海上にも海上保安庁の船が集まってきていた。

先程から全く変化のないテロップの下に現在の旅客機の運行状況が流れているが、そのほとんどが欠航、あるいは運転見合わせとなっていた。

『速報としてお伝えしています通り、えー、羽田空港D滑走路が大破ということです。画面下に情報が出ておりますが、現時点では羽田空港発の全便で欠航と運行見合わせの処置がとられています。また、羽田空港着の航空機に関しては、他の滑走路の安全が確認でき次第、着陸に入るということが発表されました。その他の便に関しては、ちょっとまだ情報が入っておりません』

画面のアナウンサはさらに続ける。

『えー現時点で滑走路大破の原因に関してはまだ発表になっておりません。調査中ということです』

七草はそこまで聞き取ると、短くため息をついて袈裟丸を見た。

袈裟丸は腕を組んでそのニュースを見ていた。

「先輩、なんか大変なことになりましたね」

「うん」

「テロでしょうか。それとも事故ですかね」

「どっちだろうな。どちらにせよ、滑走路をあれだけ破壊できるんだからな。相当な破壊力があったのだろうな」

「爆弾とかですかね?」

「あーいいね爆弾。平和ボケした日本人にドカンぶちかましたかった?」

七草はじっと袈裟丸の目を見た。

「分かったよ。真面目だなお前。こういう時こそユーモアを持つということをだな・・・」

「何かコメントがあるなら早くお願いします」

袈裟丸は七草の冷たい視線に耐えられなくなる。

「爆弾だとしたら、仕掛けるのが大変だなって思うんだよ」

「仕掛けるのが大変?」

「爆弾とかを仕掛ける場合、あの映像から判断するなら、桟橋部分の床版を支える杭とかに仕掛ける必要があるだろう?詳しくは合六とかに聞いた方が良いんだろうけれど、床版の下には何本も柱があるはず。その柱にある程度の量の爆弾を仕掛けなければあんな壊れ方はしない」

「現実的ではないということですか?」

「うん。お前がアイドルになるくらい現実的ではない」

「まあまあ確率高いですね」

袈裟丸は驚愕の目で七草を見た。一度目を閉じて落ち着かせるように胸に手を当てた袈裟丸はゆっくりと目を開けて話を再開する。

「それに爆弾だったら、先端部だけ残っているっていうのもちょっと変だな」

「どういうことですか?」

「爆弾の仕掛け方が中途半端なんだよね。何か意図があるのかもしれないけれどさ。先端部だけ残しても意味ないというか、仕掛けるなら綺麗さっぱり壊せば良いのに」

「理由があるんじゃないですか?もし爆弾ならば」

「うん、だからわからん」

「事故っていうことは無いですか?」

袈裟丸は人垣から抜け出し、入り口付近に向かったので、七草も後に続く。

「事故か、事故ね。例えば?」

「旅客機が墜落したとか」

「なら一緒に大破した旅客機が映し出されるよ」

二人は食堂を出る。

「あ、桟橋って海中に立っているんですよね?だったら、局所的な地盤沈下が起きたんじゃないですか?そうすれば桟橋の一部だけ残っていることも説明が付きますよ」

七草は早足で食堂を出る袈裟丸に追いつくように小走りになった。

「かもしれないな」

「そうですよね。ああそうか。地盤沈下か」

「外から言うことって簡単に出来るからな。これから調査が入るだろうからきっとすぐに原因がわかるよ。現実は推理小説の様にはならないって」

袈裟丸はそう言うと食堂の前の車道を渡ってキャンパス内へと入った。二人は図書館の間を抜けて五号館を目指す。

「空港の事は気になるけれど、まずは目の前の事じゃんね?」

五号館が目前になった時、不意に袈裟丸は右手の建物に入って行った。

「先輩。六号館から五号館に行くのですか?」

七草は六号館の入り口すぐの案内板を眺める袈裟丸に言った。五号館と六号館はそれぞれの二階が渡り廊下でつながっている。

「だったらこんな案内板見ていないだろう?」袈裟丸は笑顔で七草に返事する。

「六号館に用事ですか?でも今日プログラミング実習は無いですよね?」七草は入り口から伸びている廊下の脇にあるコンピュータ室を覗き見るようにした。

地球環境工学研究室の大学院生はティーチングアシスタントとしてプログラミング実習の手伝いをしている。七草は袈裟丸の用事が実習の手伝いだと思っている。

「今日は講義の日じゃないって。講義の日にこんな適当な格好はしないだろう?」袈裟丸は七草に言った。

袈裟丸はプログラミング実習の日には存分なオシャレをして臨む。他の大学院生に比べると天と地ほどの落差がある。それは袈裟丸の行動原理として、女性に好かれたいということがあるためで、そのためのオシャレだった。実習の対象となるのは土木工学科の一年生であり、初めての実習の科目となる。

他の実習でも同様に、初回はスタッフの紹介があり、教員を含めて簡単な自己紹介を行うが、袈裟丸の決められた時間に必ず遅れるという体質のため、自己紹介の最後に実習室のドアを開けてやってくる。

そのインパクトで全員ではないが半数以上の女子学生がまずファンになる。それから実習中のトークで残りをカバーする。

袈裟丸の体質と努力によって自身の欲望を満たしているといっても過言ではなかった。

「ああ、あった」

案内板から目当ての文字を見つけた袈裟丸は六号館の奥に向かって歩き出す。七草も袈裟丸を追って向かう。

六号館は長方形の建物で道を挟んで五号館とずれるように並行して建っている。五号館と六号館は二階部分が渡り廊下でつながっている構造になっている。渡り廊下は五号館の端から六号館に伸びており、六号館とは建物の端へ繋がっている。六号館には入り口が四つ存在している。長方形の長辺と短辺の中央にそれぞれ一つずつだった。

袈裟丸は力づよく一階の廊下を進む。先程七草がのぞいたコンピュータ室を通り過ぎ、長辺の出入り口があるところまで歩くと左側の出入り口の方に向かう。

入り口の脇には階段があり、袈裟丸は長い足を使って一段飛ばしで上る。七草は一段ずつ、早足で上って置いて行かれないようにしている。袈裟丸は同じ調子で三階まで上がると廊下を左に折れる。二人が六号館に入った入り口から奥に進む形になる。

廊下には情報工学系の研究室が並んでおり、各研究室で行っている研究内容がまとめられて掲示されていたり、部屋のドアにアニメのキャラクタが貼ってある部屋もあった。恐らく学生部屋でその中の学生が面白いと思ってやっているのだろうと七草は思った。

袈裟丸は目線を上げて少し歩くとある一室で止まった。その扉には『深澤研究室(学)』と書かれていた。

「先輩、ここは?」

「板倉悟が所属している研究室だ」袈裟丸は扉から視線を外さないで言った。

「え?」七草は袈裟丸を見る。

「凌と、板倉悟の弟と俺は友達だったからな。お兄さんがドクターコースにいることだって知っていたよ。行ったことはなかったけれど所属の研究室もね」

「それは・・・」

「たまにお兄さんも一緒に遊んだりしていたんだよ。兄弟の仲は良かったからね。俺も楽しかった」

七草は火鳥と話していた時の袈裟丸に戻るかと思ったが、そうではなかった。

袈裟丸はカチューシャを外して、腕に着けている髪ゴムで長髪を後ろで縛った。

「火鳥さんだけの話だけだと伝聞だからね。こっちでもできることはやっておくつもりだ」

袈裟丸はそう言うとドアをノックした。室内からどうぞ、と声で返ってきた。

「失礼しまーす」袈裟丸はそう言うとドアをゆっくりと開けた。

室内は暖房が効いているのか暖かい空気がわずかに廊下へ漏れ出てきたのが七草にはわかった。

袈裟丸と七草は一歩研究室の中に踏み込む。研究室内は見晴らしが良かった。室内は壁に文献や資料が並べられている。その中には紙製のファイルやバインダーも多く確認できた。また学生は七草が確認できる範囲で四人おり、全員が机でPCに向かっていたようだった。今はモニタに向けられていた視線が珍しい二人組の方に向いている。部屋の中には机が並べられていて、もれなく机上にはPCが置かれていた。

研究テーマ上、PCを扱うことがメインである点で袈裟丸と七草の研究室と同じだと言える。

「はい。何でしょうか?」

四人の中で奥に座っていた男子学生が席を立って二人の方に向かいながら言った。

「あのー板倉悟さんに会いに来たんですけど」

袈裟丸は屈託のない笑顔でそう言った。七草はそんな袈裟丸を横目に見ていた。

板倉悟の名前を出した途端に、研究室の中に研究室の中に張り詰めた雰囲気になった。袈裟丸が見ていたか七草には判断できなかったが、七草には対応に出ていた学生の後ろで残りの学生が三人とも目を見合わせているのが目に入った。

袈裟丸はそれを確認していたのかどうか、さらに言葉を続けた。

「いや、電話も出ないし、メールを送っても全く応答がないもので。手っ取り早いと思って来ちゃいました。あ、ごめんなさい。自分は土木工学科の修士一年の袈裟丸って言います。袈裟丸が来た、って言ってもらえれば悟さんには分ってもらえるんですけれど」

そう言うと袈裟丸はわざとらしく室内を見渡すようにした。

「土木、ああ、そうですか・・・」男子学生は少し悩むような顔をした。

「板倉さんって今どこにいらっしゃいますかね?」袈裟丸は笑顔で学生の顔を見る。

「ごめんなさい。ちょっと。あの、ちょっとです。深澤先生のところでお話し聞いてもらえますかね?」男子学生は言いづらそうに言った。

「深澤先生?指導教員ですかね?先生の部屋はどこにありますかね?」

「あ、はい。ご案内します」男子学生は二人を外に促そうとする。

「ありがとうございます。あ、そうだ。忘れていた」

袈裟丸はわざとらしく額を叩いた。

「悟さんに頼まれていたものを持ってきたんだった。ごめんなさい。悟さんの席はどこになりますかね?」

袈裟丸はわざとらしく言った後、男子学生に顔を近づける。

「あ、えっと。その。こっちです」

純朴そうな顔をした男子学生に、袈裟丸は強すぎた。男子学生が赤面している理由を着席している三人の学生に推し量ることは無理だった。

この部屋は、先程の男子学生の言葉から学生部屋だろうと七草は思った。男子学生に連れてこられた場所は室内の奥まった場所で、L字にパーティションが区切ってあるところだった。その中に机が置かれている。

七草が見たところ、他の学生が使っている机よりも大きいサイズの机だった。その真ん中にモニタが乗っている。その右側にノートPCが置かれているが、今は画面を閉じた状態で置かれていた。モニタの前にはキーボード、そしてキーボードの隣には無線マウスが置かれていた。

「ここです」

男子学生がモジモジしながら指示した。

七草はその理由を考えるのを止めた。

「あ、ありがとうございます」袈裟丸はそう言って男子学生の肩に手を乗せる。

さらに顔を赤くした男子学生の横目に袈裟丸はパーティションの中に入った。七草も続くが、それほど広いわけでもない空間のため、パーティションの入り口に立つ程度だった。

袈裟丸はコートの内ポケットから封筒を取り出した。

それはTOEICの試験申込書だった。七草はどうしてそんなものを袈裟丸が持っていたのかわからなかったが、すぐに思い出した。テレビのニュースを見るために食堂に入った時に手にして持ち込んでいたとしか考えられない。食堂に入る時は七草が最初に入ったため、後ろに居た袈裟丸の行動を見ていなかった。

袈裟丸がたまたま手にしていたのか、最初からこの目的で持ってきたのか、七草には判断できなかったが、とりあえずは袈裟丸の目的を達成するための道具として使われていることには間違いない。

袈裟丸は表紙を確認して席に置いた。その時、袈裟丸が体勢を崩して板倉悟の机に手を付いた。

「大丈夫ですか?」七草が声をかける。

「どうしましたか?」案内してくれた男子学生が奥のパーティションから顔を除く。

「あれ?歳かな?足腰が参っているようだね」袈裟丸はゆっくりと立ち上がると男子学生に笑顔を見せた。その横にはモニタの脇から落ちたマウスが転がっている。

「気を付けてくださいね」男子学生はまた顔を戻した。

袈裟丸はそのマウスを拾い上げると元の場所に戻した。その時に七草の耳にはクリック音が二回聞こえた。

「よし。じゃあ、先生に話を聞きに行ってみようか」袈裟丸はそう言うとパーティションから出てきた。

「大丈夫っすか。ではこちらです」

男子学生が出口の方に促す。

「あ、その前に。悟さん今いないんでしょ?」袈裟丸は男子学生の後姿に向かって言った。

「え?ああ、まあそうですけれど」男子学生はリズムを崩されたように振り向いた。

「悟さんって確か博士課程の学生だよね?」

「えっとそうですね」男子学生は袈裟丸の目をわずかに見てから言った。

「悟さんが最年長?」

「あーはい。そうですね」

「一人だけ?」

「そうです」

「今この部屋にいる皆さんは・・・」

「あ、今いるのは四年生だけですけれど」

袈裟丸は、そうですかと言うと少し部屋を見渡した。

「せっかくだから今いる皆さんに悟さんの人気を聞いてもいいっすか?」

「人気・・・ですか?」男子学生は訝しげに袈裟丸を見た。

七鞍は少し袈裟丸のやり方が強引だなと思ったものの、袈裟丸の雰囲気に男子学生は押され気味だった。七草は他の三人の学生の方も確認するが、どのような感情なのかはその表情からはわからなかった。

「そう。あ、でも人気っていうとちょっと言いにくいかもしれないでしょうから、研究室での振る舞いというか、研究室の学生への指導の仕方とかそう言ったことを教えてもらっても良いですかね?」

袈裟丸は笑顔で言う。

「それを・・・聞いてどうするのですか?」男子学生は袈裟丸の質問の意図を探る様に言った。

七草は男子学生の言う通りだと思った。

「悟さんが良く自分に言っていたんですよ。後輩の指導が修士以上の学生の研究以外の義務だって。俺はそれだけではないと思っていたんだけど、そんなこと言っている本人が実際はどうなのかなって気になってね。本人居ないからリサーチしてみようと思ったんだよ」袈裟丸はあっさりと言った。

七草は袈裟丸と男子学生を目で追う。

「ああ、そうですか。まあ良いと思いますよ」

男子学生はなぜそんなことを聞くのか納得していない顔だったが、袈裟丸の提案を飲み込んだ。

「ありがとう。早速だけど、悟さんはどんな感じでみんなに接しているの?」

袈裟丸は感謝の言葉からすぐに最初の質問に移った。

男子学生は他の三人の方を見るが他の三人の学生は黙ったままだった。回答者を男子学生に押し付けた形になる。

「どうって、普通ですかね。分からないことがあって聞きに行ったらちゃんと教えてくれますし、夜遅くまで研究室に残って作業している時は板倉さんと夕飯に行くこともありますし。他の研究室がどうかわかりませんけれど普通じゃないですかね」

男子学生は途中詰まりながらも話した。

袈裟丸はそれを口元に笑みを残しながら、時折短く頷いて聞いていた。七草はこう言った時の袈裟丸は天才的だと思っていた。相手の警戒心を解きながら、ちゃんと相手の話を聞いているという態度で、相手の話を促す方法は七草には真似ができない。同じように同期の友達にやってみることはあるが、全く上手く行かないことがあった。

「そうですかー。なんだちゃんとやっているんだな」袈裟丸は大きく頷きながら言った。

「皆が尊敬できる先輩ってやつですか?」

「それは間違いないと思いますよ。自分の研究があるのに後輩が遅れているとアドバイスをくれたり、時には手伝ってくれることもあります。その時はこっそりと他の人から悪く言われないようにやってくれたりするんですけど」

男子学生は後ろの三人の学生を見た。

「全員、お世話になったことはあるんじゃないですかね?」

三人の学生は各々が首を縦に振った。

そんな深澤研の学生達の話を聞きながら、袈裟丸は満足そうに頷いていた。七草は袈裟丸の目が仄かに潤んでいるように見えていた。

「そうだったんですね。では自慢の先輩だったんだ。なんだ、ちゃんと俺に忠告するくらいのことはしているんだな。納得だ」

そう言うと袈裟丸は笑顔で男子学生を見た。男子学生は俯いて一言、はいとだけ言った。

「じゃあ」

袈裟丸の声のトーンが少し変わったように七草は感じた。

「最近の悟さんはどうかな?」

男子学生のみならず、机で作業している学生達の緊張が七草にも伝わってくるようだった。

「僕らに対しては普通・・・だったと思います」

男子学生が声を振り絞るようにして言った。

「何かに悩んでいたりしていない?そんなそぶりを見せているとかないかな?」

袈裟丸は男子学生が言い終わると同時に質問を再度投げかけた。

「心配なんだよね。俺に全く連絡してくれないからさ」

「確かに、何か悩んでいたようなところはあったと思います。声かけてもボーっとしていることが多くなっていたと思います」

「そうなんだ。好きな子でもできたかな。どうもありがとう。帰ってきたら土木の袈裟丸が来て机の上に置いて行ったって言っておいて」

袈裟丸はそう言うと研究室の学生にお礼を言って、男子学生に深澤教授の部屋まで案内してもらうことにした。

七草は袈裟丸にすべて任せることにした。こちらが心配してもどうにもならないということと袈裟丸自身が板倉悟の行方を何とかして探し出そうとしていると感じたからだった。

袈裟丸は友人である板倉凌を殺人犯として逮捕された。

そう言った意味で板倉悟を同じ感情になっていた時期があったのだろうと七草は考えた。七草は詳しく聞かなかったが、弟がいなくなってしまったという点で兄の悟と同じ気持ちになっていたのかもしれないと想像した。

それが気持ちを共有できた板倉悟を探す袈裟丸の原動力になっているのかもしれない。

深澤研の学生部屋を出ると、男子学生は斜め向かいの扉に向かってノックした。その扉には『深澤研究室』と書かれたプレートが貼られていた。

やはり、どうぞという声が室内から聞こえてきた。

「失礼します。先生ちょっと良いですか?」

男子学生が先に室内に入る。二人は何も言われなかったが、外で待てと言うことだと受け取った。

一分ほどすると男子学生が扉から出てきた。

「じゃあ、どうぞ。私はこれで失礼します」男子学生と入れ替わりで二人は室内へと踏み入れる。

「ありがとうね」袈裟丸はドアを持っている男子学生の肩に手を置いた。

深澤教授の個人研究室は簡素な作りだった。室内は白い壁で統一されており、入り口から見て奥に窓がある。左側の壁に教授の机と背の低いパーティション、右側の壁は本棚とPCが三台机に乗って並んでいた。どれも画面はついていたが、七草には何が映し出されているかはわからなかった。

入り口を入ってすぐにテーブルが置かれていて、そのテーブルを挟むようにソファが置かれている。テーブルの脇にはキャスタ付きの椅子が置かれていた。

机の前には白髪の深澤教授が座って作業していた。ポロシャツにジーンズというラフな格好だった。

「ああ、ごめんね。ちょっと今メールを送信してから対応するんで、そこのソファに座っていてくれるかな」

PCの画面から目を離さないで深澤教授が言った。

二人は言われた通り、入り口に近いソファに腰を下ろす。七草がテーブルに目を落とすと書類がいくつか置かれていた。ソースコードに赤で文字が書かれたものが数枚と同じく赤が入った論文だった。ソースコードの方は七草が知らない文法だったのでどのようなプログラムかはわからなかった。

「はい。送信っと」

深澤教授がそう言うと椅子から立ち上がって二人の方に向かってきた。

「お待たせしました。土木の学生さん?」

深澤教授は二人の前のソファに腰を下ろす。

「お忙しい所大変申し訳ありません。私は土木工学科の修士一年の袈裟丸と言います。こっちは七草です」

袈裟丸は頭を下げる。七草も一緒に頭を下げた。

「サボる理由が出来たから大歓迎だよ。ああ、これごめんね」

深澤教授はテーブルの脇に置いてあったキャスター付きの椅子を壁際まで移動させるとテーブルの上に散らばっていた書類をまとめて自分の座っているソファの横に置いた。

「打ち合わせ中でしたか?」袈裟丸は言った。

先程男子学生がノックして入って行っているので打ち合わせがあったわけではないことは袈裟丸も知っているはずだった。袈裟丸は今、様々な方向から会話の糸口を探ろうとしているのだと七草は思った。

「うーん、そうだねぇ。今日の午前中にうちの准教授の先生と打ち合わせしたまま、片付けてないだけだよ」

深澤教授はそう言って笑った。

七草はつられて愛想笑いをする。袈裟丸は微笑んでいた。

「えっとそれで、板倉君のことを聞きたいんだっけ?」深澤教授はソファに身体を深く預けながら言った。

「はい。連絡を取っているんですけれど、全く応答してくれないもので。研究室の子達に聞いたんですけれど深澤先生が知っているような事を言っていたのでご迷惑かと思ったのですが、お時間頂戴しました」袈裟丸は言った。

深澤教授は後頭部を手で掻いた。

「いやー、僕も知っているわけではないんだけれどねぇ」

袈裟丸は怪訝そうな顔をした。

「どういう・・・ことでしょうか?」

七草は袈裟丸の演技力を知らないため、深澤教授が嘘っぽく感じているのではないかと思っていた。

「実はね、ちょっと行方不明なんだよ。時代だから個人情報に煩いだろう?あまり公にしないでくれよ?最悪、僕の首が飛んでしまうからね」

七草はそう言いながら火鳥にはしっかり詳細を説明したのが目の前の人物と同一だということに若干目眩を覚えた。火鳥から取材を受けたことすら二人には話そうとはしていない。保身を優先しているような素振りを見せてはいるが、板倉悟が失踪したことについては話していることも七草には不思議だった。

「行方不明?ああ・・・そうか、だから電話やメールに返信してくれなかったんだ。なるほど」

七草は袈裟丸が深澤教授と話し始めてから急にわざとらしくなったように感じた。

「まあ、板倉君と君は仲が良かったそうだから、連絡が入ったら教えてくれるかい?ご親族の方も心配されているからね」

「はい・・・わかりました」袈裟丸は肩を落として残念がっている表情をした。

七草は袈裟丸のその表情を横目で見ると、一瞬袈裟丸がこちらを見た気がした。

「あ、あの、悟さんは研究室ではどのような学生ですか?せっかくだから聞いておこうと思って」

七草は咄嗟に質問をした。袈裟丸が聞きたかったこととして適切かはわからなかったが、袈裟丸の事だからこの質問を足掛かりにして目的を達成するだろうと考えた。

「どのような学生?そんなこと言われてもねぇ。研究上の話しかしないからなぁ」

深澤教授は右脚が上になるように組んだ。組んだ右膝を止めるように両手で押さえていた。

「もちろん、プライベートなことまではご存じないこともあるでしょうから研究上でコミュニケーションを取る際に気が付いたことと言いますか。ちょっと自分でも言っていることが正しいかわかりませんけれど・・・」

七草は弁明するように続けた。袈裟丸を横目に見ても表情に変化はない。

「うん、そういうことなら僕にも言えることはあるだろうな」

深澤教授は短い間隔で頷いた。

「板倉君を一言で言うならば優秀だな。彼は僕がドクターコースに誘ったんだ。修士はそもそも自分で進もうとしていたようだからね。修士になって教員とより密に接するようになって彼の非凡さが際立ったからね」

深澤教授が思い出すように話しているのを袈裟丸も七草もソファの背に持たれずに聞いていた。袈裟丸に至っては前のめりだった。七草にはそれが袈裟丸の演技か、本心からの行動だったのか、それを判断することは出来なかった。

指導教員から優秀と言われる学生はどういった気分なのだろうかと七草は思った。自分は言われたことはなかったから想像することしかできない。

「彼に対して僕が感じたのは、少なくとも研究上での話だが、繊細で華奢かなぁ。いつも危うい橋を渡っているようなものだったと思うよ」

「危ない橋、ですか?」袈裟丸はリフレインした。

「そう。うーん、言葉で他人に説明するのは難しいよね。こうやって伝えようとするとかなりの量の情報が抜け落ちる。君らの耳に届くのはまるで絞った後のオレンジのかすのようなものでしかない。果汁はどこに消えたのだろうね?」

「栄養はありそうですね」袈裟丸は深澤教授の目を見て言った。

「そう信じているっていうだけだろうねぇ。君、袈裟丸君だっけ?面白いね」

深澤教授は口元に笑みを浮かべているが目は笑っていない。

袈裟丸は顔を崩さずに深澤教授を見ている。

「弟さんは残念なことだったけれど、こちらとしてはそれで心を病んでしまったことがなによりも残念だ」

「あの事件の時は、悟さんはどうだったんですか?」袈裟丸が短く言った、

「呆然自失していたな。こっちとしても声を掛けてよいものか。少し悩んだ記憶がある」

深澤教授は下を向いて言った。

「本人も一応警察に連れていかれたみたいだな。一応同じ大学にいる兄として警察も話を聞きたかったのだろうね。その日のうちに帰ってきたが、すぐに来なくなったな。まあ仕方のないことだから休息してもらったっていうことだな」

袈裟丸は頷いていた。

「まあそんなところだな」深澤は手を軽く広げた。これで終わりということだろう。

「失踪した当日の事は何かわかりませんか?」袈裟丸が尋ねる。

「その日のことなんだけれどなぁ。僕は学内にいなかったんだよ。准教授の我妻先生はその日にいたから、我妻先生に聞いてみると良いよ」

「そうですか」袈裟丸は残念そうな顔で言った。

「ただね。今日はいないみたいなんだよな。午前中に打ち合わせが終わって昼食に行こうかと思って先生誘ったんだけれど部屋に居ないんだよ」

そういうと深澤教授はソファを立ち上がり扉から外を見る。

「うん、やっぱりいないね。日を改めると良いね」

そう言うとソファに戻らずに自分のデスクへと向かった。

袈裟丸と七草は目を合わせる。

「わかりました。深澤先生、お忙しいのにありがとうございました。大変感謝いたします」

袈裟丸は立ち上がって頭を下げた。七草も頭を下げる。

「ああ、構いませんよ。くれぐれもこの話は内密にね。といってもそんなに秘密にしておくべきこともないけどな。用心、何事も用心ですよ。よろしくね」

そう言うと先ほど座っていた方のPCのマウスを操作して何かを確認した。そして反対側の壁の方に置いてあるPCへと向かい、その前の椅子に座るとキーボードを叩き始めた。

その所作を見ていた二人は改めて視線を合わす。七草は後方のドアを開けると袈裟丸が再び深澤教授にありがとうございました、と言った。

深澤教授は画面を見たまま手を振った。

深澤教授の部屋を出た二人は研究室へと変えることにした。

その途中で我妻准教授の部屋を確認することにした。部屋は深澤教授の部屋から一部屋挟んで隣だった。

「本当にいらっしゃいませんね」七草は扉上部の窓として開閉する欄間を見た。

そこから室内の電気が点いていないことから七草は我妻准教授が不在だと判断した。

袈裟丸は七草と同じく欄間を確認した上で、扉をノックしたが、返答はなかった。

「まあ、一応ね。電灯消して作業している人がいないっていうことは無いからさ」

袈裟丸はそう言いながらドアノブを回していた。

「ちょっと何してるんすか」七草は焦って言った。

袈裟丸がドアノブを捻ってもドアはしっかりと施錠されており、開くことは無かった。

「よし、我妻先生も不在っと」

袈裟丸はそう満足そうに言った。

「いたらどうするつもりだったんですか?」七草は袈裟丸の手を引きながら言った。

二人は部屋の中央にある階段に向かって歩き出す。

「在室だったら、ごめんなさい間違えちゃいましたって言って舌を出せば許してくれるよ」

「どんな常識の中に住んでいるんですか?怒られますよ?」

「そうかな?そんなことないよ思うよ。お前自分の身になって考えてみ?部屋に一人でいたら急にドアが開いて知らない人が、ごめんなさい間違えちゃいましたって言ったらどうする?」

七草は口を開けたまま聞いていたが、袈裟丸からお題を貰ったので考える。

「多分、今の自分みたいに呆然としているでしょうね」

「だろう?だから怒られることはないって」

二人は階段に到着した。そのまま階段を降りる。

「いや、それはそうかもしれないですけど・・・何か人として大事な事を無視している気がします・・・」

「そんなものは無いよ。周辺環境が形作っている得体の知れないものだって」袈裟丸は七草の方を向いてウィンクする。

七草は二階から五号館に戻ると思っていたが、袈裟丸はそのまま一階まで階段を下りるようだっだ。

「一階から戻るんですか?」

「煙草吸おうと思ってね。行くでしょう?」

七草は頷いた。

二人は階段を一階まで降りると、五号館側の扉から外に出た。右手の空を見るとすでに日は傾きかけていた。二人は左手に進む。前方右手に五号館が見えた。その手前のゴミステーションを通り過ぎて喫煙所に到着した。

袈裟丸は煙草とライターを取り出して火をつける。七草もそれに従った。

「あーやっと一息だなー」紫煙を吐き出しながら袈裟丸が言った。

「そうですね。でも最後の六号館は必要でしたか?」七草が着ているコートのポケットから火鳥に渡されたポータブルハードディスクを取り出す。それを袈裟丸に渡した。

「ありがとう」袈裟丸は自分のコートのポケットに入れる。

「必要って、俺は悟さんのプライベートで遊んだことはあるけど研究室でのことは知らなかったからな。聞きに行きたかっただけだよ」

「でも火鳥さんからある程度聞いたことを話さなかったじゃあないですか?」

「深澤先生との話?それだったら先入観を持って話して欲しくはなかったからだよ」

「でもあの先生は詳しくは知らないみたいですね」

「教授職だからな。そうじゃない教授の先生もいるけれど対外的な委員会とかに忙しい先生だとそういうこともあるだろうしね」

「まあ確かに土木の先生方も忙しそうですものね」七草は思い出しながら言った。

「それが良いとか悪いとかじゃあないけれどな。でも深澤研は我妻准教授が学生の事をある程度把握しているっていうことがわかったってことさ」

「また聞きに行くんですか?」七草は紫煙を吐きながら袈裟丸に言う。

「月曜日に行ってくるよ」

「あ、ごめんなさい。行けません」

七草は灰皿で火を消して吸殻を投げ入れる。

「ああ、気にするなって。俺も時間があったらってことだからさ」袈裟丸は吸っていた煙草の火を靴の裏で消して灰皿に投げ入れた。

「あの一つ聞いて良いですか?」七草はもう一本煙草に火をつけた。

「ん?」袈裟丸は煙で目が染みたため目を細めている。

「さっき深澤研の学生部屋で板倉悟さんの机で一芝居ありましたよね?」

「一芝居って、なかなか言うね」

袈裟丸の口元は笑っていた。

「その時によろめいて倒れていましたけれど、わざとですよね?目的は何ですか?」

「やっぱりわざとらしかったかな?頑張ったんだけれどね」

「あんな所で人は転ばないです」

「ケーブルに引っかかったっていうことにしておいてもらえる?」

「わかりました」

「あれはね。悟さんの使っていたPCの状態を知りたかったんだよ」

「PCの状態?」

「そう。悟さんが前に言っていたんだけれどね。研究室から帰る時にはPCはスリープモードにしておくんだって。次の日に来てすぐに作業が出来るように。実家・・・というか叔父さんの家だな。そっちに帰るとか長期でいなくなる時でもスリープモードだそうだよ」

「そういうスタイルの人もいるでしょうね」

「ちなみにそれはデスクトップだけでノートは電源を落とすんだそうだ。使用頻度が少ないんだってさ」

「はあ、それがどうしたんですか?」

「悟さんの机の上にPCの本体は無かったから恐らく机の下かなって思って」

「だから転んだと?」

「そう。でも転んでみて確かに下にあったけれど、電源が点いているかどうか外からはわからないかもしれないでしょう?」

「そうですね。電源が入っている間は電源ボタンが光ったり、本体自体が光るものとかありますけど」

「だからマウスを落とすようにして転んだのさ」

七草は思い出した。マウスを拾い上げた袈裟丸が立ち上がった時にクリック音がしていた。

「あの時にマウスをクリックしたんですね?」

「そう。スリープモードになっていたとしたらそれで解除される。PCが起動しなかったら電源自体が落ちているっていうことだよ」

七草はあの瞬間にそんなことをしていた袈裟丸に感心した。

「結果、PCの電源はついていなかった」七草は思い出しながら言った。

「もちろん、モニタの電源もついていることは確認している。それでもスタンバイ状態だったのだから本体からの信号が来ていないっていうことだね」

七草は頷いた。

「ノートPCの方で確認しても良かったんだけれど、マウスがなかったし、机の上の本体は閉じられていた状態だったからね。それだと開いて何かしら操作をしなければいけなかった」

袈裟丸は煙草をもう一本取り出すと火をつけた。すでに七草の二本目は根元付近まで吸われている。

「良く判りましたけれど・・・」七草は手元の残り少ない煙草を見る。

「それを確認してどうするのですか?」

「どちらかと言えば、それを確認することが深澤研に行った大きな理由だよ」

袈裟丸はそう言うと煙を吐き出す。七草はまだ良く判らなかった。

空の三分の一が夕日に染められていた。風も少し出てきたらしく、煙草の煙が先程から横に流れている。袈裟丸の後ろでまとめられた髪から漏れた数本がその風に泳いでいる。

「悟さんのPCの状態を確認することでわかったのは、板倉さんは自分から進んで失踪したっていうことだね」

袈裟丸は淡々と言った。

「え?でも・・・そうじゃなかったんですか?」

「火鳥さんからは悟さんが失踪したっていうことしか聞かされなかっただろう?」

七草は火鳥との会話を思い出す。

「火鳥さんからの話だけではまだ、自分から進んで失踪したのか、誰かに脅されたり誘拐拉致されたのか判断はできないと思った。だから悟さんのPCを確認することにした。その結果、悟さんはPCを完全にシャットダウンしていた」

七草は袈裟丸が言ったことを思い出していた。板倉悟がPCをシャットダウンする場合のことである。

「長期間帰ってこない」七草は呟いた。

「そう。悟さんは自分の意思で自ら姿を消したっていうことになる。当分研究室には帰ってこないっていうことを決めていたんだ」

袈裟丸は淡々と七草に説明をしたが、七草の目に映る袈裟丸の顔は寂しさにあふれていた。



七草が缶コーヒーを飲み終わると予期していたかのように袈裟丸が手を伸ばしてきた。

「え?」

「飲み終わった空き缶、ちょうだい」

「あ、いや自分で捨てますよ」

「気にしないで。俺のも捨てたいだけだから」袈裟丸は笑顔で自分の飲み終わった空き缶を振っている。

空き缶を捨てたい人の気持ちを尊重することにした七草は素直に空き缶を手渡す。袈裟丸は道を渡って向かいにある自動販売機横のゴミ箱に捨てに行った。

戻ってきた袈裟丸はスマートフォンを握っていた。

「火鳥さん、もう到着するそうだ」

それを七草に言うと同時に正門前に黒いステーションワゴンが近づいた。

助手席側の窓が開くと火鳥が顔を出した。

「ごめんね。待たせたかしら?」

「いえ。大丈夫です。時間ぴったりですね」袈裟丸は助手席を覗き込むようにして言った。

「それは良かった。後ろに乗ってくれる?」火鳥が言う。

二人は後部座席のドアを開けて乗り込む。

ドアを閉めると同時に車は発進した。

「後部座席でごめんね。助手席がちょっと荷物で一杯なのよ」火鳥はステアリングを回しながら言った。

七草が横目で助手席を見ると確かに荷物が座席を占めていた。もしかしたら後部座席に置いてあった荷物が全て助手席に集合しているのかもしれないと七草は思った。

「大丈夫です」袈裟丸が笑顔で応える。

「映像の分析の方はどうなっているかしら?」火鳥はバックミラー越しに袈裟丸を見た。

「はい。昨日から分析をしています。今日もずっと分析しているはずですね」

昨日、研究室に戻った袈裟丸は火鳥から預かったデータを作成したプログラムで分析した。ハードディスク一杯の映像データの分析にはかなりの時間を要するようで、この休み期間中はずっと袈裟丸のPCは映像の分析に費やされることになった。

「どれくらいで終わる見込みかしら?」

「ハードディスクに入っている映像を全て確認しているわけではないので、どれくらいの情報量があるか、映像ファイル一つにどれだけの分析時間がかかるか把握できていませんが、土日の時間を使えば終わると思います」

「そう。申し訳ないわね。研究できなくて」火鳥は僅かに微笑みながらミラー越しの袈裟丸に言った。

「まあ、それはそれですよ。こういうこともありますから」袈裟丸は火鳥に言った。

「それよりも火鳥さん」袈裟丸が話を変える。

「どうしたの?」火鳥はバックミラーを時折見ながら袈裟丸に応える。

「俺もそうですけれど、火鳥さんもこんな失踪した学生の調査よりも記事になりやすい事件があったんじゃないですか?」

袈裟丸もバックミラー越しに火鳥を見る。

「ああ、昨日の」火鳥は正面を見ながら言った。

「ええそうです。そっちの方が大事件じゃないですか?」

昨日発生した羽田空港D滑走路桟橋部分の崩壊である。

七草は昨日、帰宅してからもテレビのニュースやネットのニュースを見ていた。昨夜の時点でも事態収拾の進捗報告が大半を占めていた。

「そうね。私たちの方も主戦力の記者たちはそっちの取材に行っているわ。私みたいなのが行っても、大手の会社が取材して、その後に私たちみたいな地方紙は隅で取材してってところよ。わざわざ私たちの会社で取り上げる必要は無いわ」

「はあ、そういうもんですか」七草は言った。

「火鳥さん、そんなこと言わないでください。必要とされる場所はありますよ。板倉悟さんの失踪の理由を調べることは火鳥さんしかできないですよ」

七草は都合のいい意見だなと思った。

「どうも」火鳥も七草と同じ意見なのか、一言だけで黙った。

「今日は何をするんですか?調査のお手伝いって聞きましたけれど」袈裟丸がまた話を変える。

「今日はね、板倉悟の下宿先に行ってみようかと思うの。失踪した日は大学に行かなかったらしいから、下宿先から駅に向かったっていうことでしょう?何か痕跡というか、どこに向かったかとか情報があるかもしれないわ。それを調べに行くの」

目の前の信号が赤だったため火鳥はゆっくりとブレーキを踏んだ。七草はブレーキの掛け方が上手だと思った。加速度を感じさせなかったのだ。自分もこれくらい上手にブレーキングをしたいと思った。

「なるほど。分かりました」

袈裟丸はそういうと満足したのか黙って車窓を楽しみ始めた。

七草は袈裟丸が昨日深澤研究室に行ったことを喋っていないことに気が付いていた。恐らく袈裟丸は意図してその情報を伏せているのだろうと七草は考えた。逆に袈裟丸はやはり火鳥を信頼してはいないのだと思った。

車は大学を出発してから可士和駅とは逆方向に向かって走っていた。線路の沿線に進んで国道を横切り、片田舎というよりは田舎である、と見る人が見れば判断するような光景が見えてきた。

「自転車しか持ってなかったのに、そこそこ遠くに家があるのよね」火鳥が言う。

「ああ、そうなんですね。ほとんど座っていることが多いから通学くらいは運動しようと思っているんじゃないですかね?」

袈裟丸は言った。袈裟丸と板倉悟の関係を思えば、恐らくそれは真実なのだろうと七草は思った。

車は学生が多く住む地域を超えてのんびりとした空気の流れる場所を進んでいる。窓から外を見ると水田が多くなってきた。

「もうここまで来ると大学が近くにあるっていう感じはしませんね」七草が言った。

「そうだな。大学の周辺がやはり栄えるっていうのは仕方ないからな」

火鳥の運転する車が広めの農道を進んでいると袈裟丸に火鳥が話しかける。

「ねえ、袈裟丸君、学食で昨日話した時に、去年と今とでは研究内容が違うっていうことを言っていたでしょう?」

「そうですね。去年は画像解析の高度化っていうテーマでしょうかね。今はリモートセンシングのようなものをテーマにしていますよ」

「ああ、そう。そのリモートセンシングって何なの?」

「簡単に言えば対象を遠隔地から計測する技術の事です。ですが・・・ちょっと定義って言われると幅広いですね。航空機や人工衛星から地表面を観測する技術として土木では取り扱っていますね」

「へー。だから衛星画像を使っているのね」

「そうですね。衛星画像と言っても、正確には衛星に搭載しているセンサを使って、地球上の海、森、都市、雲などからの反射や自ら放射する電磁波を観測してそれを画像化したものっていうことになります。もともとの地形にそれらのデータを重ねたものを使って分析するわけですよね」

「でもそれだけで十分なデータが得られるわけではないの?」

「もちろんそれだけでもデータの利用価値はあります。森林伐採の状況とか、ヒートアイランド現象とかエルニーニョ現象の状況、地図の作成にも使われますね」

「天気予報とかは違うの?」火鳥が言った。

「ああ、それも広い意味ではリモートセンシングですね」

「衛星画像に限ったわけではないっていうことね」

「そうですねぇ。航空機から撮影した写真を使って画像解析するっていう方法ももちろんありますけれど、俺がやっているのは衛星画像を使いますね。日本周辺の海流を調査しているんで」

「衛星画像を使うっていうのはやっぱり広範囲だから?」火鳥は巧みにステアリングを動かす。あまり広くない道ですれ違おうとしているようだった。しゃべりながらでもそれをこなすのは中々のドライビングテクニックだろうと七草は思った。

「まあそうですね。航空機からだと大変ですから」

「衛星画像ってどうやって手に入れているの?」

「普通は買いますね。でも俺は実は買ってないんです」

バックミラー越しに火鳥は首を傾げる。いつの間にか車とすれ違っていた。

「既存の衛星画像を購入するとちょっとデータが多くなってしまって大変なことになるんで、どうしようかと思っていたんですけど、いろいろ探していたら、衛星自体から直接画像を無料で取得できる方法を発見したんです」

「それって・・・大丈夫なの?」

「衛星から通信衛星、そして受信アンテナってデータが移動するんですけどその時の受信アンテナと人工衛星に出す指示を管理するアンテナの二つを管理できる方法なんですよ。ちょっと具体的には教えられませんけど」

そういうと袈裟丸は申し訳なさそうな顔をした。

火鳥が鋭い目でバックミラー越しに袈裟丸を見た。

「いや、でも現在利用可能な衛星として登録されていない衛星なんです」

袈裟丸は釈明するように言った。

「私はそういう怪しげなことをしても良いのかって言ったんですけどね」七草は袈裟丸を冷めた目で見た。

「その衛星はどこの国は打ち上げたものだとかはわからないの?」火鳥が追い詰めるように言った。

「そうですね・・・わかりません。けど、得られたデータを売るとか営利目的に使うっていうことはしていませんよ」

「当たり前ね。ただでさえ無許可で使っているんだから」火鳥が冷たく言った。

袈裟丸は大人しくなってしまった。

「まあ、手伝ってくれているから、何も聞かなかったことにしてあげるわ」

袈裟丸はシートにぐったりと身体を預けた。

「それにしても衛星画像を使って地球を測るって壮大なスケールね。そもそも人工衛星にはどのようなものがあるの?」

袈裟丸は狼狽していたが、先程の負債を払しょくするかのように話し始める。

「そうですね。人工衛星は情報伝達、位置測定そして物体の計測の三種類の目的に分けられますね。リモートセンシングに関して言えば、物体の計測が目的ですから、その場合は地球観測衛星になります。ちなみに一つ目の目的では通信衛星とか放送衛星、二つ目はGPS衛星とかですね」

火鳥は黙って頷く。

「衛星ですから地球の周りにいるわけですね。だから一定の軌道を描いています」

袈裟丸は目を閉じて思い出しながら喋る。

「リモートセンシングに使われる衛星の代表的な軌道は静止軌道、太陽同期準回帰軌道に大きく分けられます。静止軌道っていうのは地球の自転と同じ速さと向きで衛星が移動している軌道の事なので地球から見ればえいせいが止まっているかのように見えるんです。基本的には地表面から役三万六千キロ離れた赤道上の軌道になります。そんな状態の軌道だから通信放送や気象観測が目的の、いわゆる常時使用に適しています。気象衛星『ひまわり』が有名ですかね」

「ああ、聞いたことあるわね」火鳥が若干声高に言った。

「太陽同期準回帰軌道ですけど、太陽同期軌道と準回帰軌道を組み合わせた軌道のことです」

「難しそうな名前ね」火鳥がバックミラー越しに苦い表情を見せる。

「ざっくり説明しますよ。太陽同期軌道は同一地域を通過する時間が同じになるっていうことです」

「通過する時間が同じ?」

「そうです。だから太陽光の当たる向きが常に一定になるんです。そうすると取得した画像の解析が楽になります。そして準回帰軌道は、地球を周回している衛星が定期的に地球上の同じ場所に戻ってくる軌道の事です。だから太陽同期準回帰軌道っていうのは言って機関で同じ場所を同じ位置から観測することができるっていう軌道の事です」

「なるほど。ある場所の同時刻の時系列の変化を観察できるっていうことね」

「理解が早いですね」袈裟丸は驚いた。

「説明が良かったからっていうことにしておきましょうか?」

火鳥は笑顔になった。

袈裟丸も笑顔で礼をした。

「リモートセンシングで使われる地球観測衛星は地球を測るっていう目的がありますが、それには搭載しているセンサを使って測定しています。代表的なセンサとしては光学センサ、能動型・受動型マイクロ波センサですね」

「また難しくなってきたわね」

「原理の詳細は省きます。知りたければご自分でどうぞ」

「私のモットーは君子危うきに近寄らずよ」

「尊敬します。ただ、能動型・受動型マイクロ波センサの違いだけ言っておくと、能動型はマイクロ波を発射して、対象物から反射されて戻ってきたマイクロ波を測るのに対して、受動型は物体そのものが発射するマイクロ波を測定するセンサです。物体は種類と状態でマイクロ波が異なるのでそれを利用しています。いずれにしても光学センサで計測できない夜とか天候が悪い時でも測定できるっていう強みがありますね」

「もう一つ教えてくれる?衛星画像ってどうやって手に入れているの?」

火鳥はカーナビゲーションを操作して質問をする。七草はそろそろ目的地に到着するのだろうかと思った。

「そうですね、地球観測衛星からのデータを受け取ったりする施設は各国で民間企業や専門機関が運用を行っていますね。施設は衛星の状態を確認したり衛星の姿勢を制御したりする追跡管理局や観測データを受信する受信局がありますね」

袈裟丸はそういうと少しそわそわし始めた。七草は恐らく煙草を吸いたいのだろうと思った。それは自分もそういう気持ちだったからである。

「測定データの購入はこういった機関に連絡して購入しますね。CD‐ROMで送られてくるのが一般的ですね」

「そうなのね。なかなか面白いわね」

「そうですかね・・・研究開発しているこっちとしては基本的にPCの前にどれだけ座っていられるかっていうのが勝負ですからね」

「一時間したら煙草吸いに行きますからね。我々は」七草が言った。

「お前失礼だな。一時間半は我慢できるって」

「随分刻んだわね」火鳥が笑いながら言った。

「講義の一コマ分は我慢できますよ」

「見えたわ」

袈裟丸が言い終わるのと火鳥が目的地周辺を告げるのはほぼ同時だった。

そこは住居の密度が極端に少なく、田んぼや畑の方が目に映る割合が多い土地だった。その中に三階建てのマンションが建てられていた。外壁はレンガの様に赤茶色である。裏手が小高い山になっているためか、七草の目には不気味に映っていた。

「あのマンションが板倉悟の下宿先になるわ」

「こんな場所にマンションですか?珍しいというか、他の土地が田んぼや畑で地盤は大丈夫なのかな」七草が言った。

火鳥の車はそのまま道なりに進んで行くと途中から右手が小高い山になった。車道が山の裾野に沿っている形になる。車はその道をさらに進む。

「目前に見えたマンションなのに、到着するまで時間かかりますね」七草は袈裟丸に言った。

「田舎の大型スーパーマーケットみたいなものだね」袈裟丸も同じ方向を見て言った。

車はやっとマンションの入口が見える所までやってきた。マンションの入口は右手に小高い山があって車道を挟んで反対側にあった。

火鳥は車をマンションの入口側から敷地内に入れた。道を挟んで小高い山と向かい合っているマンションの玄関は日当たりが良いとは言えなかった。

車はそのままマンションを回るようにして反対側へ移動する。そこには簡単な駐車場があった。それぞれ住居者の名前が書かれたプレートが奥のフェンスに掲げられていたため、火鳥はマンション本体側に車を停めた。

「まあ、短時間だから良いわね」火鳥は自分にそう言うと、車を降りる。袈裟丸と七草も降車した。

三人は車で来た道を戻って玄関に向かう。

「本当に見晴らしが良いというか、何もないですね」

七草はその場で一周して周囲の景色を観察した。

「本当ね。遮るものがないというか。清々しささえ感じさせるわね」

火鳥も賛同する。

「見てください。ベランダ全体にネットが貼ってありますよ」七草はマンションのベランダを見て言った。

「ああ、本当だ。鳥避けネットじゃないかな?」

袈裟丸はベランダを見ながら言った。

「そんなものがあるんですか?」

「うん、あるよ。ここまで大きいのは見たことないけれどね。ほら、周りが田んぼやら畑だろう?鳥が集まったりするから洗濯物を守るために設置しているんじゃないかな?」

「時期的に鳥が集まったりするのかもね。それにしても本当にこれだけ大きいネットもあるのね」火鳥もマンションを見上げるようにして言った。

鳥避けのネットは建物の屋上から一階まで垂れ下がるようにして設置されていた。

三人はそのネットを横目にマンションの入り口側に到着する。七草は日が当たらないだけで身体が冷えるような気持になった。

「なんで日当たりが悪い方に玄関を作ったんでしょうかね?入り口が暗い印象のマンションってちょっと敬遠しませんか?」

七草は身体を摩って言った。

「あら?ベランダ側が日当たりが良い方が私は嬉しいわよ?洗濯物が乾きそうで」火鳥があっさりと言った。

「ベランダ?・・・そう言えばそうですね。確かに」七草は納得した。

マンションは車で入ってきた入り口からマンションの玄関までが駐輪場などのスペースがある。その奥に車道と平行に伸びたマンションの本体が建っている。マンションへの入り口は向かって右奥にある。

「でも板倉悟さんの部屋って簡単に覗けるものですか?」袈裟丸が火鳥に言った。

「ああ、その点はね、板倉悟の叔父にお願いして、管理会社からここの大家に伝えてもらっているわ」前を歩く火鳥が言った。

七草はそんな簡単に話が進められるものなのか疑問に思ったが、火鳥について行く以外に何もできなかった。

「このマンション、大家さんがいらっしゃるんですか?」袈裟丸が寒そうにコートのポケットに手を入れて言った。

「土地自体が大家のものみたいね。大家の家もこの近くにあるらしいけれど、そっちは成人した子供たちが住んでいるみたいよ。こっちのマンションの一階の一室を管理人室兼住居にしているようね。一応学生マンションっていうことだけれどね」

三人はマンションの中に入る。入口はオートロックだった。

「凄い、オートロックですね」七草が喋った言葉はそれほど広くないホールで良く響いた。

「オートロックって珍しいかしら?」火鳥が袈裟丸に言った。

「いや、うちはオートロック無いんですよ」七草は火鳥に言った。

すると入り口から一人の男性が入ってきた。

「こんにちは。あなたが火鳥さんですか?」

その男性は頭髪がすっかり白くなっており、生やしている口ひげも白かった。

「谷津さん、今日はありがとうございます」火鳥は名刺を渡しながら礼を言う。

「いやいや、本来ならば、見せることはしないんだけれどね。ご家族からお願いされていますからね。特別ですよ」

淡々とした口調ではあるものの、言葉の端々に怒りを感じると七草は思った。

谷津が先頭になり、オートロックを開ける。開けてすぐにエレベータがあり、その横には階段がある。大家と三人はエレベータに乗り込むと三階に上がった。

エレベータが開くと右手に折れる。

「板倉さんの部屋は三階の三〇五の角部屋ですね」

谷津はそう言うと先頭を切って歩いて行く。少し遅れて袈裟丸、その後ろに火鳥と七草が並んでいる。七草は部屋数を数えながら歩くと一フロアが五部屋だった。最近のマンションでは当たり前なのか、すべての部屋で表札が貼られる部分に名前がなかった。七草も自分の家のポストでも名前を記載していない。個人情報としては初歩である名前が簡単に手に入ってしまうことを予防していたからだった。

板倉悟の部屋の前に到着るすと谷津はブルゾンのポケットから鍵束を取り出し、鍵穴に差し込んで回した。

「どうぞ。終わったら携帯電話の方に連絡をください」

それだけ伝えると谷津は帰って行った。

「大家としての責任は無いんですかね?」

袈裟丸は谷津がエレベータに乗ったのを見計らって言った。

「やりとりをしたのが板倉の叔父と管理会社だからじゃないかしら?自分は管理会社に言われたからやったと言えるからだと思うわ」

「はあ、最初から責任がないって言いたいんですね。じゃあ行きましょうか?」

「そうね」火鳥はドアノブを握って回す。

スムーズにドアが開いた。

板倉悟の部屋は玄関の左脇にキッチン、右にトイレと浴室があった。その先に大きく一部屋があるようだった。その部屋が板倉悟が日常を過ごしていた空間になるのだろうと七草は思った。

しかし、三人の目には日常を過ごすにはあまりにも非日常な何かが映っていた。

その奥の部屋との境界の床から赤い液体が流れ出ているのが見える。

その先、僅かに残っていた板倉悟の日常の残滓は、テーブル替わりのこたつの上の何かにかき消されていて、霧散してひとかけらも残っていないかのようだった。

「あれ、何ですか?」

誰も意識していないが、誰も口に出さなかったので七草が思わず発声した。

七草自身もそれを認識できていないわけではなかった。

部屋の電気は消えているはずなのに、日当たり良好の窓から入る清々しい太陽に照らされて、三人の網膜にしっかりと結像していたのだ。

「雪じゃなくて残念だったな、七草」袈裟丸が諦めたように言った。

七草が何を言っているのかという顔で見る。

視線を元に戻しても、七草にはテーブルの上で息絶えた、下半身が不自然に平坦な人間が横たわっているという現実が変わることは無かった。


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