第2話 有界と総判

誰かにとってどうでも良いものでも他の誰かにとってみればそれ以上ない大切なものであるということは良くあることだ。

袈裟丸耕平にとっての喫煙がそうであるように。

先程からPCの画面をじっと見つめたままの袈裟丸は身体を椅子に預けるように座り直すと溜息をついた。

そのため息も音を発するようなものではなく、ただ口を開けて空気を放出しているだけというスタイルである。これは自分以外の他の人間に迷惑がかからないようにするための配慮に基づいている。

他の研究室メンバーがそれほど気にしているのかということを袈裟丸は知らない。直接訪ねてもいなかった。ただ、きっと迷惑だろうという想像でしている行動だった。

他人に対する配慮という行動の八割はこのような配慮する側の自分本位なものである。こうした方が相手は喜ぶのだろうとか、こうしておいた方が相手のためだろうという思い込みである。

自分がされて嬉しいことは相手にとって迷惑なこともあるし、自分がされて嬉しくないことでも相手にとっては嬉しいと思うことだってある。

本当に相手のためになっているかなど確認することは稀だろうと袈裟丸は思っている。

袈裟丸はゆっくりと椅子から立ち上がった。一心不乱にPCに向かっている先輩や後輩達の席の後ろをゆっくりと歩いて研究室の外に出た。そのすぐ後ろを七草が追いかけてくる。

「恋煩いでもしましたか?それとも合コンで連絡先を交換した女の子からの連絡が来ないとか?」七草はニヤついた顔で袈裟丸の後ろから覗き込むようにして顔を見た。

「そんな浮ついた気持ちだったら、もっと笑顔でいるって」

袈裟丸は諦めたような顔で言った。

「作業が行き詰ったから新鮮な空気を吸おうと思っただけだよ」

「結果的には悪い煙を吸いに行くわけですよね?」

七草は袈裟丸の隣に並んだ。二人は階段を下りる。

「結果的にな」

二人は一階に降りるとトイレ脇にある扉から外に出る。そのまま進むと喫煙所である。

喫煙所には先客がいた。

「お、暇人」袈裟丸は喫煙所のソファに座っている居石要に向かって言った。

居石は地盤工学研究室の修士一年、袈裟丸の同期であり飲み友達の一人である。居石も喫煙者であるため、二人が喫煙所で顔を合わせる機会は多い。

居石は加えていた煙草を口から離して煙を吐き出した。

その間に袈裟丸と七草は向かいのソファに座る。

「誰が暇人だよ。お前よりかは忙しいよ」居石はタバコの灰を灰皿に落とした。

袈裟丸と七草は共に煙草に火をつけた。

「実験進んでいる?」袈裟丸は一吸いすると居石に尋ねる。

「まあぼちぼちな」

居石は十月も終わるというのにアロハシャツを着ている。流石に寒いのか、アロハの下にはロングTシャツを着ており、下半身はジーンズである。居石はアロハシャツを好んでよく着ている。その理由は彼を良く知る袈裟丸達でも知らない。本人から聞いていないだけである。個人が好きで着ているものに何か意見する必要はない、という考えの人間しか袈裟丸と居石の周りにはいない。

「ん?袈裟丸さん、なんで居石さんが実験中だって分かったんですか?」七草が聞く。

袈裟丸と居石は目線を合わせた。居石がすぐに逸らす。お前が説明しろということだった。

「七草、視野が狭いよ。ほれ、足元見てみな」袈裟丸が居石の足元を指差す。

居石は安全靴を履いていた。安全靴とはつま先が鉄やプラスチックで保護されている靴であり、実験中に重量物が落ちてきたとしてもつま先がガードされて大きな怪我をしないという靴である。

「安全靴履いているだろう?だから実験中ってことさ」袈裟丸は七草に言った。

「え?でも好きで履いているかもしれないじゃないですか」七草は不満そうに言った。

居石は僅かに微笑んだ。

「いや、それは無いよ。あいつはな、常日頃から裸足にビーチサンダルだ。どんなに寒くてもね。そんな奴が靴下穿いて安全靴だから実験中だろうってこと」

「ああ、なるほど。そんな人なんですね。居石さんって」

「そう。変人だろう?」

「おい、言い過ぎだ。お前も人の事言えないだろ」居石は自分の頭を指で叩く。

袈裟丸の頭にあるカチューシャの事を指していた。

「そうですね。この人も余程変態ですからね」七草がその仕草を見て言った。

「ちょっと待ってくれるか七草さん、変人と変態では月とスッポンくらい違うからな」

袈裟丸が煙を吐き出しながら言った。

「スッポンって最近は高級食材だからな。あんまり比較にならないよな」居石が安全靴の靴裏で煙草を消した。

袈裟丸は居石を睨む。

「どうした?なんか苛立っていないか?合コンで女の子にでも逃げられたか?」

居石は穏やかな声で言った。

「君らにとって俺はどんな風に映っているんだ?」袈裟丸は煙草を持っている手だけを残して頭を垂れた。

「女好き」

「酒好き」

七草と居石は同時に答えた。

「覚えてろよ。本当に」

袈裟丸は不貞腐れてソファに背中を預ける。

「袈裟丸、古見澤から何か聞いていないか?」

居石は新しい一本に火をつけて話し始めた。

「古見澤?何も聞いてないよ?」

袈裟丸は真剣な表情で居石を見た。

「なんかあったのか?」

「いや、なら良いんだ。さてと」居石は靴裏で消した吸殻を灰皿へと放り込んで立ち上がった。

「俺より、お前の方が何か変だぞ?」袈裟丸はソファに座ったまま居石の顔を見上げた。

「かもな。まあ、でも、何が変なんだろうな?」

居石はそう言うと袈裟丸を見ずに五号館の裏へと向かって行った。

「居石さんって中二病とかですか?」七草が袈裟丸の顔を見て言った。

袈裟丸は立ち上がって居石が座っていた方に座り直す。

「いやー、そんなことないけどな。でもあんな感じは珍しいな」

「古見澤さんに聞いた方がわかりますかね?」

古見澤雄也は水理学研究室の修士一年である。

「うーん。別件で飲み会やろうと思って連絡しているんだけど折り返しが無いんだよな」

「でも居石さんには何らかの連絡があった」七草は前のめりで言った。

「いや、お前が何考えているかはわからんけど、古見澤は意味のないことはしないからな。それは居石に用があって連絡したんだろうし。その内容が仲間内全員に話す内容なら、まだ俺に話す時期ではないってことじゃあないかな」

袈裟丸は言い切った。

「へー。信頼しているんですね」

「信頼・・・うーんちょっと違うかもしれない。あいつがしたかったことに他人が口出すことないだろう?」

「それを信頼っていうんじゃないですか?」七草は口角を上げて笑った。

袈裟丸は顔を横に向けて空に向かって煙を吐き出した。そして、

「どうだろうね」と言った。



喫煙所で話し込んでいると、時刻はすでにお昼を回っていた。

「ああ、昼飯行くか。お前どうする?ダイエット中か?」袈裟丸が七草に言った。

「なんでそんな女子みたいなことやるんですか?どこでも大丈夫ですよ」

袈裟丸は下唇を出して肩を竦めた。

「じゃあどうするかな。双子屋にするか?」

「はい。じゃあ行きましょうか」

双子屋とは通称である。今袈裟丸達がいる理工学部のキャンパスから出てセミナーハウスの方に向かうと途中で薬学部のキャンパスがある。薬学部のキャンパスにも学食がある、その学食に双子の調理師が在籍していることから袈裟丸は双子屋と呼んでいた。

二人は喫煙所を後にした。すぐ目の前にある五号館の前を通っている道に出ると大学の裏門方向へと進む。右手には化学科と情報工学科の研究室がある六号館、左手にはゴミステーションがある。

二人はそのまま道を進むと六号館の奥に大学の裏門がある。その裏門を抜けて幅の狭い道を渡ると、インターロッキングブロックが敷き詰められている歩道に出る。これも大学の敷地である。それを進んで道なりに左手に折れる。さらに進むと右手に薬学部の学生が利用する生協がある。生協を右手に見ながら真直ぐに進むと車道を挟んで薬学部のキャンパスが見える。

時刻も昼時のためか学生が正門から出てきていた。

薬学部は女子学生の割合が非常に高い。薬学部二学科でその八割が女子学生である。また国家試験への対応も手厚く毎年受験者が多いことで知られている。

「ああー目の保養になるなー」袈裟丸が脇を通り過ぎていく女子学生を目で追いながら言った。

「お前もそう思わん?」七草を見て言った。

「いや、袈裟丸さんほど露骨なのは珍しいでしょ。さっき自分が言った通りじゃないですか」

「あのな、俺は女の子が好きなんじゃないからな。美しいものが好きなんだよ」

「はいはい、わかりましたよ。私は普通にかわいいと思っているだけです」

「お前も同じじゃないか」

七草は袈裟丸を睨んだが何も言わなかった。

二人は車道を渡って薬学部へと入る。インターロッキングロックの舗装は薬学部キャンパス内にも敷かれていた。

正門を潜ってすぐ右手に向かう。左手には小さな土手がありそれを左手に見ながら先に進む。その先を左に折れて道なりに進むと右手に階段が見える。それを降りると双子屋となる。

二重の自動ドア通って食堂の中に入った。右手に置かれているショーケースの中からメニューを選ぶ。二人はそれに対応した食券を購入し、受け渡し口に向かった。

双子屋の名前の由来となった調理師はカレーと定食の受け渡し口で作業していた。

「久しぶりに来ましたけれど・・・女性ばかりですね」

七草はあたりを見渡して言った。

二人は幸運にも窓際の席を確保できていた。席に着いた二人は早速食べ始めた。

「まあ、割合がそうだからな」袈裟丸はメンチカツを口に運んで言った。

「でも、少しくらい男子がいても・・・」

「この食堂はさ、内装もお洒落だし、席もそれなりにあるだろう?女子が集まりやすいってことだよ」

「そうですけど・・・」

「ほら、周りを見てもさ、白衣着ていたり、ふわふわした服だったり、スーツだったり・・・」そこで袈裟丸は言葉を切った。

「どうしたんですか?」

「ん?ああいや、なんでもない。だからな、こういったところに男子が入り込むのはちょっと難しいんじゃないか?今日はたまたまかもしれないけれど、ちょっと勇気が必要な人もいるだろう?」

七草はあたりを見渡す。何人かがこちらを見ている。特に袈裟丸を見ていた。

「やっぱり注目されていますね。よく平気で食べられますね」

「俺は気にしない。食堂でするべきことをしているだけだからな」

袈裟丸は味噌汁を飲んだ。

「それよりもあれ見てみなよ。さっき見つけたんだけどさ」

袈裟丸は七草に顔を近づけて言った。

七草は袈裟丸の顔が向いている方向を見る。そちらには一人でテーブル席に座って缶コーヒーを飲んでいる女性がいた。

灰色のパンツスーツに薄いピンクのブラウスを着たその女性はテーブルにノートと手帳を広げている。

「凄い美人じゃないか?さっきはあの人を見つけて発言が途中で止まったんだよ」

「確かに美人ですね。脚のフォルムが綺麗」

「だろう。いやー今日ここ来て良かったよ。儲けものだ」

袈裟丸はすぐに訝しげな顔をした。

「どうしたんですか?」

「いや、どっかで見かけたような気がするな」

袈裟丸は記憶を辿るように目を閉じた状態で天を仰いだ。

「先輩は女性しか見ていないんだから辿る記憶も沢山あるでしょうね」

「まてまて、女性以外にも見ているぞ。PCの画面とか自然とか」

「先輩の場合は、女性もそれに入るんですよ。空、山、海、川、女」

「勝手に自然のカテゴリに女性を入れるな・・・いや、ある意味当たっているのか?いや、これはちょっと哲学的な考察が必要に・・・」

「はいはい。終わりましょう。でも見てください。あの女性、こんなお昼時にテーブルにノートと手帳を広げて缶コーヒーだけって迷惑じゃないですか?」七草が不満を言った。

「いや、別に良いだろう?並んでないし」袈裟丸が受け取り口の方を指差す。

袈裟丸の言う通り、並んでいる学生はおらず、昼休みももう終わりに近いためか、まだ授業がある学生達が席を離れている。そのために袈裟丸達も座ることができたということだった。

「それはそうですけど・・・でも見た目から社会人っぽいですよね。そんな人が大学の食堂で仕事しているのってどうなんですか?」

「別に社会人だって大学に用があるかもしれないだろう?製薬会社の人とかそういう業者の人かもしれないだろう。何にしたって綺麗は正義だ」

袈裟丸は一人納得している。

「食べ終わりましたか?行きますよ」七草は袈裟丸の発言に嫌な気分になったのか席を立ちあがった。

袈裟丸はお茶を飲み干してそれに続く。

そんな二人の後姿をスーツの女性がじっと見ていた。

双子屋から出た二人は来た道と同じルートで理工学部のキャンパスへ戻ることにした。

「一度で良いからあんな美人を横にして歩いてみたいよな」袈裟丸は空を見て言った。

「あんな綺麗な人そうそういるわけじゃないですからね。その気持ちはわかりますよ」七草は地面を見て言った。

「こんな片田舎にいる人じゃないな」

二人は薬学部の正門を通り抜けて車道を渡った。

薬学部の生協がある方に移動すると後方から駆け出す音が二人に聞こえた。

「ちょっと。そこの二人」

大きな声が二人の背中から聞こえてきたので袈裟丸と七草は振り返る。

そこには双子屋にいたスーツの女性が立っていた。

両者は車道を挟んで向かい合う形になった。

袈裟丸と七草は大きな声で呼び止められたことと先ほどまで話題に出ていた人物が目の前に立っていることに対する驚きで何も言えなくなっていた。

女性は余程急いだのか、息を整えるように深呼吸した。

「お時間、あるかしら?」

その女性は乱れた髪を整えながら軽やかに微笑んだ。

「えっとすみません。どちら様でしょうか?」

袈裟丸はそう聞いていた。

「ああ、そうね。自己紹介がまだだったわ。可士和タイムズで記者をしている火鳥真理恵と言います」

車道を渡ってやってきた女性が気付いたように名刺ケースから二枚名刺取り出して二人に渡す。

「新聞記者さんですか?」七草が名刺に視線を落としたまま言った。

「そう。地方紙だけれどね」火鳥は微笑む。

「火鳥ってかっこいい名前ですね。ファイヤーバードですか」

袈裟丸が火鳥の目を見つめて言った。

「あら、そう?そう言ってくれるのはあなたで二人目ね。もう一人は嫌な男だったけれど」

火鳥はそう言うと右手の肘辺りを摩る様な仕草をした。

「その男に言ってやりたいですね。何を見ているんだって」袈裟丸は火鳥に一歩近づいた。

「そう?今度そう言ってくれる?」

「自分はそう思いませんけれどね。虫取りの線香かと思いましたよ」

七草はそう言うと袈裟丸の脹脛に蹴りを入れた。

体勢を崩した袈裟丸を火鳥から引き離す。

七草は代わりに火鳥と対峙した。

「大変失礼ですが、先程、お昼時の学食で席を占領してテーブルの上で仕事をしていた女性で間違いないですよね?」

火鳥は驚いたように目を開くとすぐに微笑んだ。

「あら、随分な言い方ね」

火鳥はそう言うとじっと七草を見つめる。

「あなたはどっちなのかしら?」

七草はそれを無視するように後ろに下がった。

「そもそも、何の用ですか?」

七草は視線だけは火鳥から逸らさずにいた。後ろで袈裟丸が足をさすりながら立ち上がる。

「ナンパっすか?」

七草は振り向きざま袈裟丸の腹に拳を入れた。

「袈裟丸さん、ちょっと話が進まないから黙っていてください」

「う・・・今度からさ・・・言葉を先に言いなさい」

袈裟丸は蹲りながら言った。

「お願いしたいことがあるのよ」

火鳥は七草の目を見ながら言った。

「お願い事?見ず知らずの人間にお願いごとですか?新聞記者さんっていうのはそういうお願いをするものなのですか?」七草は火鳥からの視線を逸らさずに言った。

「さっきから怖い言い方するわね。あなたは人に質問をする時に怖がらせるようにしなさいって教わったの?」

火鳥は挑発するように七草に言った。

「火鳥さん喧嘩売っていますよね?」

「あら、さっきからそうよ?」

七草が一歩詰め寄る。

その間に袈裟丸が割って入った。

「はいはい、終わり終わり。つまらないことで争うと後々後悔するから」

袈裟丸は二人を引き離す。

「いいわ、今日は彼に面して許してあげる」

火鳥が腕組みして言った。

「なんで頼み事している方が上から目線なんだよ」

七草が詰め寄るのを袈裟丸が抑える。

「おい」

袈裟丸が七草を睨む。七草は大人しく引き下がった。

「後輩が申し訳ありませんでした」

袈裟丸は頭を下げた。

「ですが、こいつの言うこともわかります。いきなりお願いがあるって言われてもこっちとしては面食らいますし、怪しいと思うことはわかって欲しいんですよ」

袈裟丸は真直ぐ火鳥の目を見て言った。

火鳥は袈裟丸の目を見据えた後、一度目を閉じてゆっくりと開いた。

「そうね。こっちも急ぎすぎたわ。ごめんなさい」

火鳥は謝罪した。

七草は肩の力が抜けたようになった。

「急ぎの用ってことですか?」袈裟丸は火鳥の表情を観察しながら言った。

「そうね。簡単に言えば人を探すのを手伝って欲しいのよ」

火鳥は二人を見てゆっくりと言った。



火鳥は立ち話しも申し訳ないので、どこか座って話すところはないかと二人に聞いた。二人は理工学部キャンパスにある食堂を提案した。カナル食堂の一階は食堂になっているが二階にテラスがあり、自販機等でコーヒーも飲めるからである。

三人は袈裟丸と七草を先頭に歩く。理工学部キャンパスに入ってからは、六号館の脇を通り、図書館とラウンジの間を通り抜けて学食へと向かった。

「また、食堂?またそこで仕事していたら怒られるかしら?」

火鳥は七草の背中を見て言った。袈裟丸は七草の肩に手を置く。

「さっきの話なんですけれど」袈裟丸は首だけ火鳥を向いて言った。

「どうして俺らに声をかけたんですか?まだこっちはまだ名前も名乗ってないんですけれどね」

その発言に火鳥は何も返答しなかった。

三人の前には食堂が見えてきた。この食堂は三階建てで、一階部分は普通の食堂の様に受け渡し口と食事を摂れるテーブルや椅子がある。二階は一階の面積のおよそ半分で室内テラスの様になっている。受け渡し口は無いが、飲み物の自動販売機が二台と昼時のみ菓子パンがカートに並べられて販売されている。袈裟丸達が入った時にはすでにカートは片付けられており、人も一階に比べればほとんどいなかった。最上階となる三階は大きな会議室が一室とミーティングルームが二室ある。これは教職員のみが立ち入ることが出来る空間である。

三人は食堂に入ってすぐ脇の階段から二階に上がっていた。

「ここだったらゆっくりと話を出来ると思うのですがどうですか?」袈裟丸は火鳥に言った。

火鳥は、そうねと言って見渡し、勉強している数人の学生から離れた席に座った。袈裟丸達もそれに続いて着席する。

「自販機のコーヒーしかないですけれど大丈夫ですか?」

丸テーブルの正面に火鳥、上がってきた階段側に袈裟丸と七草という座り方になった。必然的に上座が火鳥、下座が袈裟丸と七草ということになる。

「それしかないのでしょう?選択権があるのかしら?」火鳥は頬杖をついて言った。

「シアトル系のコーヒーが良ければ可士和の方に買いに行きましょうか?」袈裟丸はにこやかに言った。隣で七草は冷めた目で袈裟丸を見ている。

「冗談よ。これからお願いすることになるのにそんな我儘を言わないわ。これ、三人分のコーヒーお願いできる?」

火鳥は鞄の中にあった財布からお札を取り出し、袈裟丸に渡す。

「自分が買ってきます」七草はそのお札を袈裟丸から奪い取る様にすると、階段脇の自販機に向かった。

すぐに缶コーヒー三本を抱えて七草が戻るとお釣りを火鳥に返す。

「お小遣いってことであげるわ」

「いえ、そういったことで相手に借りを作るなと親から教わっていますので」

七草はそう言うと無理やりに火鳥に返却した。火鳥は黙ってお釣りを受け取り、財布に戻した。

「えっと、さっきの話っていうのは・・・」袈裟丸が会話を続けようとする。

「そんなに焦らなくてもちゃんと話すわよ、袈裟丸耕平君」

火鳥は口元に笑みを浮かべて言った。

袈裟丸と七草は動きが止まっていた。

「俺の事を知っていたってことですか?」

「そういうことね。そっちの後輩さんの事は知りませんでしたけど」

火鳥は七草の方を見て言った。

「なぜ知り得たんですか?」七草が火鳥の視線を振り払うように言った。

「袈裟丸君の昨年の研究論文よ」

「論文?」七草は怪訝そうな顔をして袈裟丸を見た。

袈裟丸は小さく何度も頷いた。

「卒論を学会誌に投稿したものですね」袈裟丸は火鳥に言った。

「ああ、そうだったの。それは知らなかったわ。いずれにしてもそれを読んでね。面白いなって思って記憶していたのよ」

「火鳥さんが先輩を知っていたことはそれでわかりましたけれど、それでなぜ人探しの手伝いをお願いするっていうことに繋がるんですか?」

「それは多分論文の内容じゃあないかな?」袈裟丸が火鳥の代わりに言った。

「内容ですか?」

「そう。卒論の時の内容はね、デジタルカメラでよくある顔認証の技術を応用して、監視カメラ等から人相を解析するっていう技術の開発だったんだ」

「ああ。なるほど・・・」七草は納得した。

袈裟丸達の研究室では広く画像解析の技術を用いたものがテーマとなる場合がある。配属された四年生全員がそうではないが、年に数人の学生がそう言ったテーマに当たる。昨年度の四年生の中では袈裟丸もその一人だった。

七草は袈裟丸の下についていたこともあり、また袈裟丸だけでは追いつかない作業もあったため、同じ内容のテーマとなっている。しかし、七草の同期には確かに土木とは関係ないようなテーマを行っている学生もいた。

「その論文を読まれたんですか?火鳥さんが?」七草は火鳥に言った。

「そうだけど・・・何かおかしいかしら?」火鳥は首を傾けた。

「いえ、ネット上にオープンアクセスで読める論文でしたからね。火鳥さんが何故そんな論文を読んでいたのかっていうことは気になりますけど」袈裟丸は言った。

「ちょっと取材の関係上ね」火鳥はコーヒーに口をつける。

「具体的な技術というよりは概念的な内容にしましたから、判り難かったでしょう?」

袈裟丸も缶コーヒーを飲んで言った。

「そうね。良く判らなかった。でも面白いなと思っていたのよ」

「そうですか」袈裟丸は嬉しそうに言った。

「それでその論文と火鳥さんのお願いと何が関係あるんですか?」

七草が割って入る。

袈裟丸と七草はすでに火鳥が何を頼もうとしているか理解しつつあった。

「その技術を使って人を探してくれないかしら?」

袈裟丸と七草は顔を見合わせる。

「それがお願いですか?」袈裟丸は火鳥を見ずに言った。

「そうだけど。ダメかしら?」火鳥は袈裟丸を見ていた。

「それは興信所とか人探しのプロの所へ行くべきではないですか?こんな田舎町の大学にいる、通りすがりのイケメン大学院生にお願いすることじゃないですよ」

「一ワード余計なところがありましたけれど、自分もそう思います」七草も火鳥に言った。

「本来ならばそうなんだけれど、そうすると費用が掛かるでしょう?」

「当たり前ですよね」七草は答える。

「なるべく安く済ませたいじゃない?」

「え?そんな理由?本気で言っているんですか?」

「本気よ?」火鳥は不思議そうな顔をしている。

「弱小の新聞社だからね。大して金額が出せないのよ」

「だからって一般市民の大学生にお願いするのは無理やりでしょう」七草は反論した。

「ところで袈裟丸君、今もその研究を続けているの?」火鳥は七草の発言を無視して袈裟丸に向き直った。

「いえ、今は全く違う研究をしていますね。今は衛星画像を使って日本周辺の海流のモニタリングが可能かどうかについて研究をしていますよ。それは調べていないんですか?」

「ごめんなさい、調べてなかったわ」火鳥は微笑みながら言った。

憤りを感じている七草を除いて、火鳥と袈裟丸は平静を保って話していた。

「それを踏まえた上で、俺が研究していた手法を使って人探しをお願いしたいっていうことなんですね?」

「そう言うことなの。頼めるかしら?」火鳥は袈裟丸の目を見て言った。

「ちょっと即答は出来かねますね」袈裟丸も火鳥の目を見て言った。

「理由は?」

「こっちが知らないことが多い。最も疑問なのが、なんで地方紙の記者さんが失踪した人間を探そうとしているのか、その理由がわからない」

袈裟丸は缶コーヒーを喉に一気に流し込んだ。

「それは単純よ。いなくなって心配している人たちがいるからよ。そういう人たちの為にも探し出してあげたいのよ」

「まあ、そうでしょうね」

袈裟丸は予想していたというような素振りを見せた。

「それにしたって、なぜ火鳥さんが動いているのかがわかりません。火鳥さんにとってメリットが何かあるんですか?」

袈裟丸は火鳥の顔を見ずに言った。

「袈裟丸君、人ってね、メリットやデメリットだけで動いているわけではないのよ?」

「そうでしょうか?それならば人探しのプロに頼む方が良いと思いませんか?費用が掛かるっていう理由で火鳥さん自身にデメリットだから俺にお願いしているんでしょう?」

火鳥は鼻から息を漏らした。

「分かったわ。この調査を新聞紙面に掲載していきたいって思っているの。もちろんあなたたちの名前は出さないけれどね。失踪者を追うっていう企画よ。私が立ち上げたんだけれどゴーサインは貰えなかったから単独で動いているわ。だから予算が出ないの。プロに頼むっていうことを断ったのもそんな理由があったから。理解してもらえた?」

袈裟丸は火鳥のその発言を手で顎を触りながら聞いていた。

七草は袈裟丸の横顔を横目で見る。まるで寝ているかのように目を細くし、目じりも下がった状態で火鳥の話を聞いていた。七草はこの時の袈裟丸が少なくとも相手に興味を持ち、話を理解しようとしている状態であることを知っていた。七草には火鳥の言っていることが自分の事しか考えていないことに気付いていたが、袈裟丸がこの状態になったことから自分は黙るという選択をしたのである。

「ああ、そういうことだったんですね。良く判りました」

袈裟丸は椅子をテーブルに近づけて両肘をテーブルに付けて言った。

「理解してもらえてよかったわ。では引き受けてもらえる?」

火鳥も身を乗り出して袈裟丸に笑顔を見せる。

「回答は急ぐものですか?」

「人が失踪していますからね。なるべく早く結論を出してあげたいと思いませんか?」火鳥は質問に質問で返した。

「そうですか」

袈裟丸は考えるように腕組みをした。七草はその仕草がただのポーズであることを知っていた。すでに袈裟丸の中では答えが決まっているのである。

「もう一つ教えていただけますかね?」

顔を上げた袈裟丸は火鳥の目を見て言った。

「何かな?難しいことは私も答えられないかもしれないわよ?」火鳥は微笑む、

「あ、簡単な事なんですけど。俺たちは誰を探すんですか?」

「それは、引き受けてくれたら教えるわよ。一応、個人情報だからね。こっちも守秘義務っていうものがあるから」

七草は一瞬だけ火鳥の目が細くなったのを見逃さなかった。七草が視線を袈裟丸の方に戻すと袈裟丸は口元にわずかに笑みを浮かべていた。

「それを教えてくれたら引き受けますよ。俺たちもそれなりに時間と労力を使うんです。卒業研究がこれから忙しくなりますからね。火鳥さんにとっては探す人の情報を教えるだけでこちらの協力が得られるのだから安いと思いませんか?俺ら以外に聞いている人はいないのだし」

袈裟丸は笑顔で火鳥に言う。

七草は袈裟丸の発言に意図がわからなかった。

火鳥にとっては何もリスクがないのである。火鳥は失踪者の情報は協力するまでは明かさないと言っている。それに対して袈裟丸はそれを教えることが協力するための条件だと言っている。これでは交換条件になっていない。火鳥にとっては協力を得られてからの説明が省かれるくらいの利点しかないがリスクはほぼないと言っても良い。

袈裟丸はほぼ協力すると言っているようなものである。七草は袈裟丸が発言した理由がわからなかった。

火鳥も腕を組んで黙って袈裟丸を見ていた。悩んでいるというよりも袈裟丸が何を考えているのか理解てきないような雰囲気だった。一分ほどそうしていると火鳥は腕組みを解いてテーブルの上に手を乗せた。

「わかったわ。じゃあ、探して欲しい人の情報を教えるわ。それで良いかしら?」

「もちろん、こちらから提示した条件ですから、飲んでくれるならば、俺たちもご協力しますよ」

袈裟丸はそう言って微笑んだ。

火鳥もかすかに微笑むと鞄から手帳とファイルを取り出した。

「探すのを手伝ってもらいたいのは実はこの大学の学生なの」

袈裟丸は鼻から息を吐き出して腕を組んだ。

「土木の学生ですか?」七草は火鳥に尋ねる。

「どうしてそう思うの?」

「いや、なんとなく、声を掛けてきたのだからそうなのかなって」

「土木工学科の学生ではないわ。でも遠からずって言ったところかしらね」

火鳥の発言に七草は首を傾げた。

「失踪した学生の名前は板倉悟」

板倉悟の名前が出た途端に袈裟丸の表情が強張ったものになる。

「板倉・・・悟?」

七草は袈裟丸がそのような表情をする理由がわからなかった。

「火鳥さん、それは本当ですか?」

火鳥はそんな袈裟丸の反応を楽しんでいるかのような様子だった。

「ええ、そう。失踪したのは板倉悟、この大学の情報工学科の博士課程に所属している学生ね。二人共知っているはずだけど、約三ヶ月前にこの大学のセミナーハウスで起こった殺人事件の犯人、板倉凌の兄よ」

七草はそこまで言われてやっと気が付いた。そして袈裟丸がそのような表情になったことも納得した。

失踪した板倉悟の弟、板倉凌は土木工学科の修士一年生で計画学研究室に所属していた。毎年夏に実施されている、泊まり込みで行う測量学実習の期間中、殺人を犯したことで警察に逮捕された。逮捕には計画学研究室の大学院生が貢献したということを七草は噂として聞いていた。

袈裟丸は逮捕された板倉凌と仲が良く、逮捕の知らせを聞いた時からしばらく落ち込んでいた。もっと板倉の話を聞いていてやれば、相談に乗って寄り添ってあげていれば、もしかしたら事件を止められたかもしれないと後悔をしていた。

「そうなんですか・・・」

袈裟丸は絞り出すように声を出した。袈裟丸の表情は七草が以前に見た表情と似ていた。

七草はテーブルの下で握っていた両手を開いてみた。手のひらに汗が滲んでいた。袈裟丸と火鳥にわからないようにジーンズで拭き取った。

「ええ。偶然ってあるものね。弟が人を殺してその兄が失踪だなんてね」

火鳥は言った。袈裟丸は黙ってその発言を聞いていた。

「火鳥さん、板倉悟さんが失踪したのはいつですか?」

袈裟丸は表情を変えずに言った。先程のような悲壮感に満ちた表情は消えていた。

火鳥は袈裟丸の発言を聞くと、手元の手帳を捲った。

「そうね。失踪したとされるのは今からちょうど一週間前ね」

「一週間前・・・」袈裟丸は七草に聞こえるかどうかの声量で言った。

「一昨日に板倉悟が所属していた研究室に取材に行ったわ。そこで聞いた話だけれど、研究室に無断で一週間も来なくなったことで指導教官がおかしいと思ったらしいわね。携帯電話に連絡しても電話に出なかったから、彼の家族に連絡してそちらからも連絡をしてもらったそうよ」

「それでも連絡が取れないと」七草は火鳥の言葉を受けて続きを発言した。

「そういうことね。彼は下宿していたから、指導教官は研究室で彼の下宿先に近い学生に見てきてもらうことにしたそうよ」

「その時点では失踪ということはわかっていなかったということですね」

「また引きこもっているのだろうって指導教員は考えていたようね」

袈裟丸は怪訝な表情をした。

「またっていうことは以前も引きこもっていたことがあるっていうことでしょうか?」

七草は火鳥に言った。

「彼はね、いや、彼らはね、親を一年前に亡くしているのよ。飛行機事故でね。それから彼らの生活の面倒は彼らの叔父がしていたそうよ。弟君の方は心の整理ができたらしいんだけれど、失踪したお兄さんの方はショックが大きかったのでしょうね。二か月ほど家から出られなかったそうよ」

「そうだったんですか」七草は口元に手を当てた。

「それにしてもその教員の意見は酷いですね。引きこもりの可能性があるのにそんな言い方はないだろう」

袈裟丸はいつも通りのトーンで喋っているが憤りを感じていることが七草にはわかった。

火鳥はそんな袈裟丸に軽く微笑むと手帳に目を落とした。

「それで板倉悟の下宿先に安否確認に行った学生なんだけれど、チャイムを押してもノックをしても出なかったそうなのね。もちろん施錠もされていたそうよ」

「居留守を使っていた可能性もあるんじゃないですか?」火鳥が顔を上げたタイミングで七草が言った。

「そうね」火鳥は七草を見て言った。

「電気メータとか確認していないんですかね?」

「最近は電化製品も電源を入れっぱなしにしておくこともあるだろうしね。それに電気メータを確認しているとかいないとか判断できるってことは常日頃から使用量を確認しているっていうことじゃあないか?」

袈裟丸が七草を見て言った。

「ああ、まあ、それもそうか」七草は言った。

「その学生もそんな風に考えたのかわからないけれど、いないと判断して戻ったらしいわ。それでその事を教授に報告して、それから親というか叔父さんの方に連絡が入ったそうよ」

「それが一週間前ってことか。捜索届は出されたんですかね?」袈裟丸は火鳥に言った。

火鳥は手帳を捲る。

「出されたそうよ」

「でも一週間じゃあ少し気分転換をしたいからどこかに出かけていたっていうこともあるかもしれないじゃないですか?」

七草は火鳥と袈裟丸の顔を見ながら言った。しかし、二人は黙ったまま一言も発しなかった。

「え?違うんですか?」

「悟さんの叔父さんは一年前の悟さんの様子を知っているから捜索届を出す決心したんだろうね」

袈裟丸は微笑みながら七草に向かって言った。

七草は思い至って言葉を失った。

板倉悟の身内の心情に寄り添えば、もし自分がその立場であれば、板倉の叔父の様にすると思い至ったからである。

心から、相手の事を考えてさえいれば、発言や行動の理由が理解できるといった間違った認識があふれているこの世の中で、わかりやすいことだったにも関わらずその真意が見えないということが数多くある。きっとそれが人間というもので業のようなものなのだろうかと七草は考えた。

「あの、やはりお兄さんが失踪した理由っていうのは弟さんのことでしょうか?」

七草は恐る恐る言った。

「さあ、どうかしらね。本人に聞いてみないことには分らないと思うわ」

火鳥は突き放したような内容だったが、七草に同調するように穏やかな口調だった。

「いや、違うだろう。それが理由だとしたら板倉凌が逮捕されてから間もなく失踪しているはずだ。わざわざ三ヶ月経ってから消える必要は無い」

袈裟丸は火鳥とは逆に突き放すように七草に言った。

「じゃあ・・・」七草が袈裟丸に訴えようとすると、袈裟丸は手で制した。

「まだわからないだろう?それに火鳥さんの言う通りだと俺も思うよ」

火鳥は缶コーヒーを一口飲んだ。

「他には聞きたいことはあるかしら?」

「警察の捜査はどこまで進んでいるんでしょうか?」袈裟丸は視線をテーブルに向けたまま言った。

「今私がここに来ているっていうことが答えだと思うけれど?」

火鳥は笑う。袈裟丸も微笑むが目は笑っていなかった。

三人はテーブルを挟んで向かい合った状態で黙った。

二階のこの空間は自習をしている学生がほとんどであり、静かである。その中で袈裟丸達の話し声が勉強中の学生達にとって邪魔にならなかったのは、一階からの声が響くためだった。

一階にはまだ食事をしている学生や、友達と話しながら課題をこなしている学生、サークルの話し合いなどが行われている。騒がしい状態ではないものの、食堂という場所柄、静寂な空間というわけでもない。

「さて。質問は?無いかしら?」

火鳥はそう言うとテーブルの上の資料や手帳を鞄に入れた。

「具体的に、俺たちはどう動けば良いんですか?」袈裟丸は諦めた様に火鳥に言った。

「具体的に君たちにやって欲しいことは二つ。一つは私と一緒に彼を探す手伝いをしてほしいこと。もちろん君たちも忙しいでしょうから土日で構わないわ」

「そうすると明日明後日ですね」

「そうね。大丈夫かしら?」

「俺は構いませんよ。七草は?」

袈裟丸は七草の方を見る。

「大丈夫です」

「じゃあ、決まりね。明日こちらから連絡するわ」

火鳥と袈裟丸は連絡先を交換した。

「それでもう一つなんだけれど」火鳥はそう言うと鞄から外付けのハードディスクを取り出した。PCのUSBから給電できる薄いタイプのものだった。

「この中に、運河駅と可士和駅の構内監視カメラの映像が入っているわ」

火鳥はハードディスクを袈裟丸の方に差し出す。

袈裟丸は首を傾げた。

「駅構内の監視カメラですか?」七草がハードディスクに目を落としながら言った。

「そう。これを袈裟丸君が作ったシステムで映像の解析して欲しいの」

「映像がどれくらいの分量があるんですか?」

「板倉悟君が来なくなった日から三日分の映像が駅ごとに入っているわ」

「板倉悟さんの画像はあるんですか?」袈裟丸がハードディスクを手元に引き寄せて言った。

「そこに一緒に入っているわよ」

「そうですか。駅構内のカメラに彼が映っているかを判断できれば良いんですね?」

「そういうことね」火鳥は鞄のファスナーを閉めて足元に置いた。

「板倉さんは他に足は持ってないんですか?」

七草は言った。この場合の足は移動手段という意味である。

「それも調べたけれどね。自転車だけしか持ってないそうよ」

「車やバイクが無いってことは自転車で行ける範囲か公共交通機関しかないってことですね。バスやタクシーは?」七草は言った。

「それは無いわね」

「なぜそう言い切れるんですか?」袈裟丸はハードディスクをコートの内ポケットに仕舞った。

「当日に駅で彼を見かけた学生がいるのよ。サークルの後輩だったかな。その学生は大学に向かっていたから駅の改札を抜ける板倉悟を見かけはしたけれど、その後はわからないって言っていたわ」

「なら、電車を使ったっていうことがわかったんですよね?こっちがすることって何もないと思うんですけれど」七草は少し不満そうに言った。

「七草、質問が違うよ。なぜ埼玉側の駅の映像が無いのかっていうのが正しい質問だよ」

そういうと袈裟丸は火鳥を見た。

「え?何故ですか?」

「考えてみ?この路線は運河駅から見れば可士和方面と埼玉方面に行くしかないんだよ。現時点で板倉悟さんは駅の改札を通ったことだけはわかっている。その後の行動は上り線ホームに向かったか、下り線ホームに向かったかのどれかだ。そしてハードディスクには運河駅と可士和駅の構内映像が入っている」

言われて七草も気が付いたような顔になった。

「電車でどっちに行ったかわからない以上、埼玉側の駅の映像も入っていないと変だよ」

袈裟丸はそう言うと火鳥を見た。

「そうね。ごめんなさい。本当はそこにも入れてあるはずなんだけれど、まだ手に入らなくてね。今手配しているから待っていてくれる?それまでに可士和駅側の映像の解析をしていてくれる?そっちで見つかれば運が良いって感じじゃない?」

まあ、そうですね、と袈裟丸は言った。

「じゃあ、そう言うことでよろしくね」

火鳥は立ち上がった。袈裟丸と七草も立ち上がって火鳥を食堂の入り口まで送り届ける。

「ここでいいわ」火鳥は食堂入り口の自動ドアを出てすぐのところで言った。

大学生門の方に歩き出す火鳥が途中で歩みを止めて袈裟丸の方に振り返った。

「解析の方はどれくらいかかりそうかな?」

「ちょっとわかりません。実際にプログラムを動かしてみないと。でも一日で終わるものではないですね」

袈裟丸は頭を掻きながら言った。

「良く知らないのだけれど、PC一台で分析するの?」

「そうですよ。だから二人で分担していた作業もすべて七草がやることになります」

「え?」七草は驚愕の表情で袈裟丸を見る。

「そりゃそうだろう」

袈裟丸は七草を見て言った。

火鳥はその答えに満足だったのか、笑顔で頷いた。

「どれくらい時間が必要かわかったら教えてね」

そう言うと颯爽と歩き始めた。

二人はその後姿を見送る。

「えーマジっすか?」七草は両手を膝に置いて袈裟丸を見上げるようにして言った。

「残念だったな」袈裟丸は笑顔で七草を見下ろした。

袈裟丸は右手の人差し指と中指だけを立て口元に当てて七草を見た。煙草を吸いに行こうというジェスチャである。

「はい。行きましょう・・・」

七草は首を垂れながらも袈裟丸について行った。

二人は食堂の入り口を背にすぐ左手に折れた。さらに左折して食堂入り口を正面に見た時に右手にあたる方向に向かう。そちらには食堂の壁に面して喫煙所が設置されていた。今は誰も一服をしていなかった。ここは食堂の隣が事務棟に当たるため、事務員の喫煙者が利用することが多い。すでに昼休みは終わっているために利用者も少なくなっていた。

二人はそれぞれ煙草を取り出して火をつける。喫煙所の周りには備え付けのベンチがあったが、二人は座らずに立っていた。

「結局受けるんですね。火鳥さんのお願い」七草は裾に着いた汚れを気にしながら言った。

「なんか困っていたからな。人助けだと思ってね」

「え?でもあの人怪しいじゃあないですか?」

「そうか?」

「そうですよ。人探しなんて警察に任せておけば良いんですよ」

「怪しいっていうなら、俺らだって十分怪しいだろう」

「そんなことないですよ。まったく、火鳥さんに出した手伝いの条件だってあれ火鳥さんにリスクは無かったじゃあないですか」

「別に取引するわけじゃないんだからさ。手伝いするなら誰を探すか教えて欲しいっていうのは当たり前だろう?」

七草は煙草を咥えた状態で黙って袈裟丸を睨んだ。

袈裟丸は諦めた様な顔になった。

「まあ、確かに俺も火鳥さんの言っていることに疑わしい点っていうか違和感はあったよ」

袈裟丸はゆっくりと言った。

「そうですよね」七草は袈裟丸の顔を見つめて言った。

「お前はどの点で怪しいって思った?」袈裟丸が煙草の灰を灰皿に優しく落として言った。

「え?あんな内容のお願いをいくら便利なプログラム作ったからってただの大学院生に手伝いを頼むのかなっていうところです」

七草は声を張って袈裟丸に言った。

袈裟丸は一瞬、七草の顔を見る。

「そうか。そう言った点ね。なるほど。七草らしいな」

そう言うと煙草の煙を吐き出しながら微笑んだ。

「袈裟丸さんは違うんですか?」

七草は煙草を灰皿に押し付けて消した。袈裟丸はまだ吸っているが、集中するべき話だと七草は判断したためである。

「まあ、まず火鳥さんがこの調査に着手する動機が疑問なんだよね。一週間前に失踪届が出された人間の事をなぜ火鳥さんが知ることができたのか」

袈裟丸の目は穏やかだが、口調は淡々としていた。

「でも新聞社勤務ですよね。そういう情報って入ってくるんじゃあないですか?」

七草はこんな時の袈裟丸を初めて目の当たりにした。先程、火鳥から失踪者が板倉凌の兄であることを聞いてから袈裟丸の態度がおかしいと七草は感じていた。

「入ってくるかもしれないけれどね。うーん、何だろう。他にあると思うんだよ。ネタになりそうな情報ってさ。行方不明者を探して、しかも独断で捜索して記事にするってどうなのかな?」

「わざわざ扱う事件ではないと?」

「地方の新聞社だろ?俺も良く知らない新聞だよ。そんな会社で扱うような事件なのかな?失礼な言い方かもしれないけれどメジャな新聞社が社を上げて捜索するっていうならわかるんだけどね」

「紙面に新しい風を吹き込もうとしているんじゃないですかね?」

「お前さ、火鳥さんに真っ向から意見していたけれどどっち側の立場なの?」

「今は議論をする時間ですから。議論になる様にコメントするだけです」

「何?その急に真面目になるの。やめない?」

七草は無言で手のひらを差し出す。

袈裟丸の言葉には答えませんという意味と発言を先に促す意味を持っていた。

袈裟丸はうんざりとした顔をしたがすぐに口を開いた。

「まあ、いいよ。それを踏まえてね。一日に何人が全国で行方不明になっているかわからないけれどさ、少なくないだろうし、これまでにも失踪して見つかってない人なんているだろう。わざわざここの大学の学生の失踪に目を付けた」

袈裟丸は煙草の灰を落とし、口の再び加えようとしたが、短くなってしまっていたため灰皿に投げ込み、新しい一本に火をつけた。

「火鳥さんはこの企画を自分で立ち上げたって言っていただろう?だとするとどこかから板倉悟が失踪したことを知って、この企画を立ち上げた、または企画を立ち上げてから板倉悟の失踪を知ったってことだよね?」

「そうなりますよね。それが何か変なんですか?」

「失踪してからの期間が短すぎやしないか?」

七草は袈裟丸の発言に返答できなかった。

「つまりな、新聞ネタにするっていう動機でこの捜索をするつもりならば、失踪期間が短いと思うんだよな。もしかしたらすぐに、明日にでも発見されるかもしれないだろう?」

「なるほど。ネタにするには弱いってことですか」

「まあ、そうだな。俺は見たことないけどテレビとかでもこういった企画が放送されているだろう。そういった人の捜索の場合、長い間行方不明だった人物を探しているからインパクトがあるんじゃないか?」

袈裟丸の意見に七草は素直に頷いた。

「だから、二週間程度の失踪で記事として成立するのかなって思っちゃうんだよな」

袈裟丸は紫煙を吐き出す。

「ご家族からすれば一日音信不通でも心配するとは思うんですけど」七草は沈んだ声で言った。

「あ、いや、だからな、それは今議論の中心じゃあないだろう?火鳥さんがどういった点で疑わしいかっていう話だよ」

「ごめんなさい。そうですね。火鳥さん側の立場での話でした。そうすると確かにそうかもしれませんね。そこまで話題性は無いように思います。でも・・・失踪した期間が短くてもその間にこう何かインパクトのある話題というか、エピソードがあるのなら記事になりそうですよね」

袈裟丸は火のついた煙草の先端を七草の方に向けた。まるで学校の先生がチョークで生徒を指すかのようだった。

「そう、その通りだよ。もしそれでも火鳥さんが記事にできるっていう確証があるのならばそういった理由しかないと思うんだよね」

七草は腕を組みながら頷いた。

「すると・・・どちらにせよ現時点で火鳥さんの思惑を把握することは困難っていうことですね?」

「そうなんだよね。記事にしたいっていうこの捜索の動機的な側面からは推し量ることは限られている」

「それ以外からはあるんですか?」

袈裟丸はゆっくりと火のついた煙草の灰を落とした。

「動機の面に比べたら些末差なことだけれどね。埼玉側の駅の映像の件もそうだな。最初から可士和駅で降りたんだと決めつけているような気がした。あえて何も言わなかったけれど、本来ならば運河駅から可士和駅までの間の駅すべての映像を分析しなければいけないだろうしね」

「そうですね・・・。あ、でも結果として分析の数は減ったからラッキィですね」

「ポジティブだな。本当に前向きで素晴らしい」袈裟丸は二本目も灰皿にいれた。

「何言っているんですか、袈裟丸さんほどポジティブではないですよ」

袈裟丸は微笑んで歩き出す。

「袈裟丸さん、そこまで怪しいって思いながら、なんで依頼を受けたんですか?断ったっても良かったんじゃあないですか?」

七草は袈裟丸の後ろに追いつくように走りながら言った。

「それな。それは・・・俺の物語を進めないとなって思ったからだよ」

袈裟丸は追いついた七草を見ることなく言った。

「俺の物語?いきなりどうしたんですか?頭の中がロマンティックモードですか?」

「これをロマンティックモードって言うの?」

「仮称としておきましょうか」

「うーん、じゃあそれで」袈裟丸は七草を見て笑った。

「先輩も乗っかるの早いっすね」七草も笑った。

「あ」袈裟丸が急に立ち止まった。

「どうしたんですか?」

「七草、お前来週から故郷に帰るんじゃなかったっけ?」袈裟丸はしまったという顔で七草を見た。

「ええ、そうですけど。それが何か?」

「そうかー。ごめーん。そうしたら土日は忙しいよな?」

七草は袈裟丸の発言に微笑む。

「いえ。そんなことないですよ。気にしないでください。最近はパッと帰れますから」

「帰ってきたら肉まん、奢ってやるから」袈裟丸は手を合わせて七草に言った。

七草は袈裟丸が言い終わると目を丸くした。それからすぐに微笑んで袈裟丸を見た。

しばらく七草が見ていると袈裟丸も気が付いたように手を額に当てた。

「ああ、そうだった。度々すまん」

「良いですよ。気にしないで下さい」

七草は袈裟丸を置いて行くように食堂の入り口の方へと歩き出す。袈裟丸も後頭部に手を当てながら苦い顔をして歩く。

カナル食堂は西側以外の三面がガラス張りになっている。そのために夏は暑く、冬は寒い。またガラス張りのため昼間は外から中は見えにくく、日が落ちた夜には中が見えやすい。中から外を見る時はその逆になる。しかし、中が全く見えないわけではなく、目を凝らせば人の顔まではっきりと判断できる。

七草は何気なく入り口付近のガラスから中を覗いて歩いていたが、途中でまた歩くのをやめた。

「どうしたの?」袈裟丸が七草の横に立つ。

「なんか中で人が集まっていませんか?」

袈裟丸も七草の指差す方向を見る。七草の言う通り食堂の中心部分に人が集まっているのが見えた。

「本当だ。ちょっと行ってみようか」

袈裟丸と七草は食堂の中に入って行った。

食堂の中に入るとすぐに白い壁が目隠しの目的で置かれている。その壁は掲示板になっており、キャンパス内のニュースやサークルのイベント開催告知が掲示されている。その脇には資格試験の案内が各種置かれたラックがある。

火鳥と話をするために入った時はすぐに左手に折れて二階へと上がったが、そのまま壁を越えて直進する。すぐに二人の目に大きな空間が広がる。

本来であれば幾つもあるテーブルに学生達が散り散りに着席して勉強や無駄話をしているはずだが、今は空間の中央、大きな柱の所に学生が集まっている。

今学食にいる学生達全員がそこに集まっているようだった。集まっている学生達は同じ柱の方向を向いて立っていた。

学生達の中にはスマートフォンを操作していたり、真剣な顔をして会話をしている者もいた。

学生達の視線の先にある柱には液晶テレビが備え付けられている。音声は無いものの、世界情勢や日本各地のニュースが文字と共に映し出される仕組みになっている。

袈裟丸と七草が食堂に足を踏み入れた時、そのテレビから音声が流れていた。

「珍しいですね」七草が言った。

二人は学生達の集合の最後尾でテレビの画面を見る。

テレビ画面に映し出された光景に袈裟丸と七草の顔が一瞬のうちに驚きの表情に変わる。

「何これ?」袈裟丸は驚愕の顔で言ったが隣にいる七草に聞こえる程度の音量だった。

七草は手で口元を押さえたまま、何も言えなかった。



「誰かと思ったら。まさかねぇ」

坂口は車の後部座席に横になりながら言った。乗車してから五分程度が経過していた。

「嫌なら降りろー。仕事だから載せてやってんだよ。今日何曜日か知っているか?日曜だぞ?日曜。普通の家族持ちだったら奥さんと子供を車に乗せて遊園地とか郊外の大型ショッピングセンタに行ってフードコートで昼飯食べる日だぞ?それを反故にしてくだらない罠で捕まったおっさんを後部座席に寝かせてドライブしているんだから最初に感謝の言葉が一言二言その口から俺に聞こえてきても何にも不思議はないんだけれどな。おかしいな」運転席の男は一息でそこまで言った。

「仕事なんだろ?黙って運転しろよ」坂口は言った。

「あ、聞こえていましたか?申し訳ありません。独り言の音量だけは調節できない体質でして」

男はそう言ったが、目は据わっている。

今まで囚われていた冷たい牢屋から逃走した坂口は牢屋がある建物から出ると、身を低くしながら敷地全体を取り囲んでいる塀を通り抜けた。

先程の警官の格好をした若者が仕込んでいたのだろう、塀に設置されている非常口の扉が開いていた。扉から出ると立ち並ぶ林の奥に車と、その前に立っている男が目に入った。男は坂口を確認するとゆっくりと運転席に回ってエンジンをかけた。坂口もすぐに車に近寄って助手席のドアを開けようとする。

しかし、運転席の男から後ろへ行けというジェスチャをされたため、今こうして後部座席を行儀悪く使っていた。さらに大音量の独り言を聞いていた。

車が発進して間もなく、坂口はこっそりと自分が今まで置かれていた施設を眺めた。堀に非常口がある施設など、警察関係にあるのだろうかと思ったが、施設の全容は把握できなかった。坂口はそれ以上疑問に思うことは無かった。

今自分が施設を出ることができたことに喜びを感じ、これからどうするかについて考え始めた。

「この車どこに向かっているの?」坂口は運転席の男に言った。

「身を隠せる場所までお連れします」男はそういうとハンドルを切った。

坂口の身体に加速度がかかる。

運転席の男は藪島と言い、坂口と同じ建設会社に勤務している。会社では藪島が坂口の上司だが、組織の中では坂口がトップで藪島は運転者という役割だった。

「今、どうなっているの?」坂口は車内の天井を見ながら言った。

「私の知っている範囲でよろしいでしょうか?」藪島が言った。

「もちろん」坂口は身体を九十度回転させて前方を見た。坂口の位置からだと正面に助手席のシートが見えるが、目線を下に向けると、運転している藪島の横顔が左後方から見える位置である。

「組織運営としては臨時の人間が指揮を執っています」

「松崎?」

「いえ。幹部の一人です。なぜ松崎だと?」藪島は抑揚のない声で言った。

「いや、なんとなく」

「当てずっぽうですか?」

「そう。当てずっぽう。あ、当てずっぽうって魚の名前みたいだね。カタカナでアテズッポウって書くとさ、そう見えない?」

「まだ精神的に参っていますか?到着するまで寝ていてくれれば起こしませんよ?」

「計画の方は?草薙先生のドローンはどうなった?」

坂口は藪島の提案を無視した。

「懸念事項だった草薙教授のドローンですが、プロトタイプを含めた本体と研究データもろとも破棄することに成功しました」

「草薙先生は?」坂口は身体の向きを変えて天井を見ながら言った。

藪島は何も口にしなかった。

坂口は鼻から大きく息を吐いた。身体から力が抜けていた。

「わかった」坂口は一言だけ口にした。

「しかしながら、問題が発生しました」

坂口は身を強張らせる。

「問題?」

「ええ、しかも二つです。どちらも現在進行形です」

坂口は片手で目を覆った。疲労が溜まっているのは間違いがなかった。

「うまいこと行かないもんだな」

「期待値と得られる計測値の違いなんてかけ離れているのが当たり前でしょう」

坂口はうんざりした顔で運転席の藪島を見た。

「一つずつ聞かせてくれる?」

「はい。一つは草薙教授が開発したドローンの初号機がまだ破壊されずに残っているということです」

「さっき全て破壊したって言ってなかった?」

「はい。それ以外は、という意味です」

「それは全てとは言わないだろう?まあいいや。その残ったドローンはどこに?」

「一緒に研究していた学生の手元にあるそうです」

「ふーん。それで?」

「機体の確保を進めているとのことです」

藪島はハンドルを切る。

「その学生は草薙先生みたいにしてはダメだよ?」坂口は感情を込めずに言った。

「その方向にはなっているはずです」藪島も感情を込めずに言った。

車は市街地に入った。信号で止まることも多くなってきた。

「人が多い所に入った?」坂口が身体を起こそうとする。

「是非、横になられたままでいてください。発見された場合、対応いたしかねます」

藪島は少し大きな声で言った。

坂口は素直に従って背中をシートに預けた。

「ああ、寝てしまいそうだな」

「寝られてはいかがですか?随分と顔がやつれていますよ?」

「その前にもう一つ聞いてからにする」

坂口は目をこすりながら言った。

「はい。もう一つは、草薙教授のもとで学んだ社会人学生がおりまして、その人間が自分の会社でそれを使った製品を販売しようとしていることです」

「あれ?土木研究所の人じゃなかったっけ?松崎に行ってもらった」

「それはもう終わっています。建設機械メーカの人間だそうです」

「なるほど。自動化施工で使おうとしているんだな」

「そのようですね」

「そっちはどうなっているの?」

「推しメンの松崎が向かっています」

「俺は別に推してないよ」

「いえ、私の推しです」

「ああ・・・そう・・・了解です。寝て良い?」

車は市街地を抜けて人が少ない地域に入ったようだった。坂口が感じる車両の発進と停車の繰り返しからくる加速度が落ち着き、車はスムーズに走り出した。

「最後に現状ですが、予定通り進んでいます」藪島は再び口を開いた。

坂口の提案は無視された形になった。先程の仕返しかと坂口は思った。

「しかしながら、そちらでも問題が」藪島は言いにくそうに言った。

「二つじゃないじゃん」

坂口はうんざりとした口調で言った。

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