射界走性~Over/lay‐er/osion~

八家民人

第1話 プロローグ

十月の終わりともなると、季節は夏から秋に変わり、とは言ってもまだ気温の高い日と気温の低い日が交互に訪れる、そんな毎日である。

「最近はさあ、煙草を吸わない大学生が増えたっていうけれど、喫煙所での雑談が意外と研究に繋がるっていうことがあるからな。喫煙も馬鹿にできないと思うんだけどな」

そう言うと袈裟丸耕平は紫煙を口から吐き出す。

袈裟丸の正面には七草未来が座面のほつれたソファに座ってそれを聞いている。もちろん右手には火のついた煙草を持っている。

二人はR大学土木工学科地球環境工学研究室に所属している。袈裟丸は修士一年、七草は学部四年生である。

「煙草が嫌いな学生もいますよ?」七草は右手の煙草を一吸いすると、鼻と口から煙を吐き出して言った。

「だからこういった喫煙所っていうのを設けるんだろう?吸わない人は近寄らなければ良いんだ」

袈裟丸は七草と同じく座面のほつれたソファに座っており、二人の間に置かれた灰皿に煙草の灰を落とした。

二人がいるのはR大学五号館脇の喫煙所である。最初は灰皿だけが置かれていた簡素な場所だった。今現在はどこかが壊れた椅子が数脚、座面のほつれたソファが二セット置かれている。これには理由がある。

喫煙所の道を挟んで隣の敷地にゴミステーションがあり、大学中のゴミがここの集積される場所がある。そこには粗大ごみも集められる。各研究室でボロボロになった椅子やソファもここに廃棄されるが、その時期が重なるとゴミステーションのプレハブの中だけには収まらなくなるためにプレハブの脇に置かれる。

その中から喫煙所の使用者が座って煙草を吸いたいがために椅子やソファを拾ってくるのである。

不思議と大学関係者は誰も注意せず、黙認されている。

「最近は他の大学でも学内に喫煙所を置かないところも増えているようですね」七草も煙草の灰を灰皿に落とす。

「そうらしいね」袈裟丸は前髪を止めるように着けているカチューシャの脇を掻いた。

「友達の大学もわざわざ学外に出てすぐにあるコンビニの喫煙所で吸っているって言っていましたね」

「それならまだマシだろうな。最悪なのは外に灰皿が無いような場所だな」

「あーそうですね。灰皿を探さなければいけませんね」七草はうんざりした顔で言った。

「お前は本当に偉い奴だな。喫煙者の風上における奴だ。風下にいる喫煙者には副流煙がキツいけどな」

「あれ、今日ちょっとキレがないんじゃないですか?」

「ほっとけ。あのな、喫煙者全員がお前みたいにマナーの良い奴ばかりじゃあないんだよ。路地とか目立たないところに隠れて吸う奴もいるってことさ。そうなるとどうなる?」

袈裟丸は火のついた煙草の先端を七草の方に向けた。

「え?いや、うーん、そうですね。きっとそう言う人って携帯灰皿も持っていないでしょうからね」七草は手で顎を触っている。

「携帯灰皿はどこでも吸って良いですよっていう免罪符じゃない」袈裟丸は言い切った。

「はあ。えっと、隠れて吸ったやつですけど、吸殻をその場に捨てたりしますよね」

「そう。結局地域住民から批判が集まることになる。まあすべてが大学生とは言わないけど、大学が近くにある地域の住民がそういう被害を受けたら、大学生だっていう可能性が頭に上がるわな」

「まあ、そうかもしれませんね」

「だろう?だとすると大学生の喫煙者は大学内で吸うようにしてもらった方が大学と地域住民との棲み分けとして適切だと思うんだよな」袈裟丸はすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けて火を消し、そのまま灰皿の中に入れた。

七草はまだ席を立たずに座っていた。袈裟丸がいつも喫煙所に来るともう一本吸うことを知っているからである。灰皿に吸殻を落とした袈裟丸はもう一本煙草を取り出して火をつけた。

「確かにそう言った視点もありますね。今大学生の喫煙率が少ないって言われているのもそう言った理由があるんでしょうかね?」

「んーどうだろうなぁ。まあ昔に比べれば随分高くなったしね。七草が言うような理由もあるかもしれないな。昔は五号館の中に灰皿があったっていう話だしね」

「え?建物の中ですが?」

「そう。階段の脇に置いてあったらしいよ」

「すげー時代ですね」

「うん。ほら、ちゃんと消して入れないと中の吸殻に火がついて煙が出るだろう?あんな時は最悪だったらしいよ」

「でしょうね」

袈裟丸は二本目の吸殻を灰皿に押し付けた。七草も煙草を灰皿へと入れた。

二人は喫煙所のソファから立ち上がり、五号館の中へと入って行った。

二人が所属している地球環境工学研究室は五号館の二階に部屋がある。この研究室ではGPSや衛星から送られてくるデータを使ってリモートセンシングを行ったり、それらの技術を使って構造物の維持管理を行うための技術を研究している。コンクリートや地盤のような研究対象とは異なり、基本的にPCの前に座って作業をすることが多い。

一般的にリモートセンシングは対象物から遠く離れた地点で観測測定を行う技術を指す。手段として航空機や車や衛星を使うことがある。土木工学科の中では観測するという点で見れば測量学に近いが、全く同じというわけではない。測定するものは植生や土地利用、海洋情報といったように幅広い分野であると言える。

研究室のテーマとしては基本的に衛星画像を使った測定が多い。研究室の大半は土地利用をメインに研究を進めているが、袈裟丸とその下で卒論を進めている七草は海洋環境に関するテーマを扱っている。彼らは衛星画像を用いて日本の周囲を取り巻く潮の流れを観測している。

研究室の雰囲気は研究対象とその手法にかなり依存しており、黙々と淡々とこなす学生が何故か集まっているため、室内はPCのキーボードを叩く音だけが響いている。袈裟丸と七草は幸か不幸か二人共会話を楽しみながら作業をするようなタイプの性格である。そういう二人にはこの環境は心地良いとは決して言えない。

自分が心地良いように、二人で会話を楽しみながら作業をしていても誰も文句は言わないのだろうが、特に袈裟丸は周囲に迷惑をかけてまで自分が心地よくなろうとは思わない性格だった。だから二人は部屋で作業する時には会話はせずに黙々と行う。なるべく会話は最小限で済ますのである。

それだけだと精神が持たないために、キリが良くなると二人で目配せをして喫煙所へと降りてくるのである。

袈裟丸の他の研究室の同期と仲が良いのもそう言った理由がある。袈裟丸が飲み会を開くことが多いのはあまりにも自分の中に鬱積した気持ちが溜まるとそれを発散したくなるのである。

二人は研究室へと入り、それぞれの机に座る。二人の席は研究室の奥の窓際である。二人はちょうど向かい合うような形でそれぞれの席へと座る。袈裟丸の机には二台のPCが置かれている。一つはデスクトップ型のPCである。それをモニタアームを使ってツインモニタにしている。もう一台はのーとPCである。モニタアームに取り付けられた片方のモニタには日本列島が白く描かれている。背景は黒でその周囲にいくつもの白い矢印が置かれている。その画面の隅にはタイムカウンタが表示されており、現在時刻が表示されている。もう一台のモニタには四つほどのウィンドウが表示されている。表示されたウィンドウには記号が表示されている。

袈裟丸はマウスを操作する。日本列島の描かれている方のウィンドウで動きがある。動いているのは周辺に描かれた矢印である。向きや大きさを少しずつ変えていた。

袈裟丸はじっとその変化の様子を見ていた。隅のタイムカウンタが現在時刻で停止すると、短くため息を吐いた。視線をもう一つのモニタに移して一つのウィンドウを選択してカーソルを下げる。キーボードで英数字を打ち込んでいく。またマウスを操作して画像を確認する。

袈裟丸は腕を組んでみていたが、机の中から髪ゴムを取り出して、手慣れた手つきで後ろ髪を結わく。肩のあたりまで伸びていた髪がすっきりとした。

袈裟丸のスマートフォンが振動する。取り出してみると目の前の七草からメールが届いていた。操作して内容を確認する。

『なんかやる気出していますね』

袈裟丸は顔を上げると七草がニヤニヤしながらこちらを見ていた。袈裟丸は右手を揺らした。さっさと自分の作業をしろという意味だった。

七草はまだニヤニヤしながら作業に戻った。

袈裟丸は窓の外を見る。雲が多いがその切れ間から青空がのぞいていた。袈裟丸はそんなどっちつかずな天気が好きだった。視線を下に降ろすと、大学裏手の道を幼稚園生が先生に引率されて歩いているのが見えた

普段は衛星からの視点で物を見ることが多いが、それは単純に高さの違いしかない。対象を観察するために必要な高さ、位置によって見えるものが違う。袈裟丸はその境界がなく、シームレスに繋がっているこの世界をイメージしていた。



遡ること一週間前。

坂口はゆっくりと目を開けた。真っ白な天井が最初に目に入った。ゆっくりと頭が動き出す。自分が置かれている状況を思い出す。

ゆっくりと身体を起こした。少し頭痛がしていた。その部屋には時計は無い。壁の高いところに嵌め殺しの窓があり、そこから日の光が差し込んでいる。

坂口は周囲を見渡した。窓がある壁の下には簡単な机と椅子のセットがある。部屋の中にはそれだけである。窓がある壁の向かいは鉄格子が嵌められていた。

坂口は表情を変えずにそれを見た。

坂口は考え出した。

坂口はある組織をまとめている立場の人間である。

そして自分は警察に拘束されている。

その理由としては知人の女性をナイフで刺して逃亡した、ということになっている。

しかしそれは事実とは異なる。

そもそも、刺された女性は自分の知人でも何でもない。

女性が刺された当日、坂口はあるマンションの一室を訪れた。そこで人と会うことになっていた。

坂口の仕事は公にできない話がほとんどであるため、こうした場所で話すこともあった。

結果として坂口は油断していたのである。

坂口が部屋に入ると、女性が刺されて倒れていた。

本来打ち合わせを予定していた人物とは人相がまるで異なっていた。

坂口が気付いた時には遅かった。マンションの遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきたのである。すぐさま部屋から逃げ出して逃亡した。

それでも、表向きに勤務している建設会社のシフトに間に合うように戻ったのである。

体調不良を理由にして行かないことも考えたが、目立った行動は控えていたせいでそのような行動をとった。

その時に、当時付き合っていた同じ職場の女性と出会い、事情を話した。名前を片山と言った。片山は坂口を逃がす手伝いをしてくれた。坂口は今でもその時の片山の気持ちを思うことがある。

結果として、坂口は逃げ出すことに成功したものの警察に逮捕される結果となった。

坂口はベッドから起き出してそのままベッドの上に座り込んだ。

なぜ自分は嵌められたのか。

誰が自分を嵌めたのか。

ここにいるようになってからずっと考えていた。この状況が良いとは決して言えない。何とかしなければと考え続けていた。

しかし、この環境も少しおかしいと思っていた。鉄格子の外には他にも部屋があるが、自分以外の人の気配が全くないのである。

その時、鉄格子の外から靴音が聞こえてきた。

坂口はベッドに座ったまま鉄格子の方を見る。

靴音はだんだんと大きくなってきた。

靴音を発生させている本人が坂口の部屋の前で止まった。

制服を着用した警官だった。

坂口は無言で警官を見る。警官も無言で坂口を見ていたが、周囲を確認するように見渡すと、鉄格子に近づいた。

「ボス、組織の者です」警官は小声で言った。

坂口はベッドから飛び出すようにして鉄格子に近づく。

「遅くなって申し訳ありません。ちょっと手間取りました」

警官はそう言うと少し帽子を上げた。坂口よりも若い青年だった。

「侵入してきたのか?」坂口は尋ねる。

警官は鍵を取り出して鍵穴に差し込む。その時、少し顔を上げて坂口を見た。

「いえ、もとよりここで勤務している者です。どちらかと言えば賛同者です」

警官はそう言うと鍵を回し、鉄格子を開け放した。

坂口は開け放たれた鉄格子を見ていた。

「大丈夫なのか?君にとって不利益になることをしていると思うんだが」坂口がそう言うと、警官は僅かに笑みを浮かべた。

その時に、廊下の奥からまた靴音が聞こえた。坂口は身を硬くしたが、足音の持ち主が坂口にも見える所まで来ると、脱力した。

「身代わりを用意しています」警官が言い終わると、身代わりがゆっくりと鉄格子の中に入った。

身代わりと称される人物は、着用しているものなど今の坂口と同じだった。その人物は俯き加減で良く見えなかった顔をゆっくりと坂口に見えるように上げる。

「驚いたな。良く見つけてきたもんだ」

その顔は坂口そっくりだった。

「いえ、今の整形技術って凄いんですよ」警官が微笑む。

坂口は無言で頷くと、入れ替わりに鉄格子の外に出た。

坂口の代わりに入った人間はさっきの坂口と同じようにベッドの上に座り込んで俯いていた。

「このまま廊下を進んで外に出てください。外にも待機していますから後はそっちの人間の指示に従ってください」

警官はそう言うと鉄格子に施錠した。入れ替わりに入った坂口の身代わりは、先程の坂口と同じ姿勢で座っていた。

坂口は無言で頷くと警官の肩に手を置いた。

「ありがとう」

警官の目を見てそれだけ言うと廊下の奥の扉に向かって行った。

その背中を若い警官は儚い目で見ていた。

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