先輩の淀みと恋の味

平都カケル

Buon appetito

 部室の扉の前に立った私はすぐに扉を開ける決心がつかなくて、自分の胸に手を当てて大きく息を吸った。肺の中が酸素で満たされていくのを感じて、それから空気を吐き出す。大丈夫。シミュレーションは完璧にやってきた。私はきっと、いつも通りの明るい後輩でいられる。

 扉を開ける前に手に持った箱へ視線を落とす。箱の中身は徹夜で作ったチョコレート。徹夜したから今日の授業は殆ど寝て過ごしたけど、そうやって成績を犠牲にした分だけきっと美味しくなっているはずなのだ。

 どうか私に力をください。心の中でチョコレートへの祈りを捧げる。チョコに祈ったところでご利益はあるのだろうか。あるはずだよね。なぜなら今日は2月14日。バレンタインデーだから。

 いや、違うな。私は心中のモノローグに修正を施すことにした。今日は、ハッピーバレンタインなのだ。

「せーんぱい、こんにちは!」

 勢いよく扉を開けた私は自分が世界で一番可愛い後輩になっていることを期待しながら先輩に挨拶をする。先輩は読みふけっていた文庫本から顔を上げて私の顔を見た。

「ああ、お疲れ」

 そしてそれだけ言ってまた読書を再開した。こんなに可愛い後輩より600円もしないで買える本の方が大事か。大事なんだろうな。彼はそういう人だ。

「先輩、今日は何の日でしょうか?」

「第1回箱根駅伝が開催された日だな」

「えっ、そうなんですか」

「ああ」

「勉強になります……ってそうじゃなくて」

「将棋の羽生はぶが史上初のタイトル七冠を達成した日か」

「そうなんですか。粋なプレゼントですね……ってそうじゃなくて」

「まりもっこりの誕生日だな」

「そうなんです……ってそうじゃないんですよ!」

 私は思わず声を荒らげていた。どうしてこの期に及んで言うことがまりもっこりなんだろう。バレンタインに可愛い後輩が明らかにチョコが入っているであろう箱を持って今日は何の日か尋ねているのに。ふたりしか部員がいない文芸部で部長を務めているこの先輩はどこか変わっている。

「今日はバレンタインですよ! はいこれチョコです! 恋の味ですからね!」

 予定していたよりかなり勢いよくチョコを渡す。先輩が受け取ってくれて味わってくれるならなんでもいい。

「恋の味……?」

 先輩は渡された箱を見つめながら首を捻っていた。

「そうですよ」

「それはどんな味なんだ?」

「先輩は恋の味ってどんな味だと思います?」

 質問に質問で返す。

「そうだな……」

 先輩は思いのほか真剣に考えていた。私はどんな答えが飛び出すのか緊張感を覚えながらその答えを待った。

「……涙の味、かな」

「涙?」

「涙」

 私の頭の中で岡村おかむら靖幸やすゆきが歌う『スペース☆ダンディ』のオープニングテーマが流れた。私の涙は先輩に委ねさせてもらえるだろうか。

「なぜ涙かお尋ねしても?」

「なんでって……そりゃ失恋のイメージだよ」

「それは先輩の実体験込みで?」

 先輩が控えめに頷いた。ほっぺが少し赤くなっているような気がしなくもない。

 それにしても、それにしても、である。先輩に失恋の経験があると? あの先輩に? 先輩はよく見ると結構かっこいい顔をしているし話してみると優しいというか温かいというかその時々で私が求めている言葉とか距離感とかを出せるように頑張ってくれるから好きだし恋愛のひとつやふたつくらいはできそうに思えるけど、人見知りというか慣れない相手とは関わりたがらないところもあるからリアルでの恋愛経験は無いと思っていたのだ。だから恋の味だって苺みたいに甘酸っぱいとかステレオタイプでピースフルな感じの答えを言うと思っていたのに。

「その、好きだった人はどんな人だったんですか?」

「うーん……可愛い女の子だったよ。ちょっと幼く見えるけど自分で目標を立ててそれに向かってひたむきに努力するような、そういう芯の強さも持ってた」

 予想以上にベラベラ喋る。好きなものについて話したい人は結構多いのだ。言葉にすることで溢れだす感情が整理される。話を聞いてくれた誰かに好きという気持ちを認めてもらえたら嬉しい。ということはこれだけ話すなら今も好きなのかな。それとも時間が経って好きだった気持ちそのものを愛おしく思えているだけ?

「して、その女性は今は何を?」

茅女かやじょに通ってるよ」

 ふむふむ。先輩が女子校の生徒と接点を持つことは考えにくいのでその女性は中学時代の知り合いとかなのだろう。

「それで、告白したけど振られたとかですか?」

「いや。告白もできなかったよ。しようと思った頃になってその子が俺の部活の先輩と付き合ってるって知った。先輩から言ってきたんだ。俺はその先輩に嫌われてて色々と嫌がらせもされたけど、あれを言われた時が一番辛かったな」

 先輩は私ではなくて私が渡した箱を見つめながら言った。私のせいでなんかトラウマみたいなものを引っ張り出してしまったのかな。違うか。これはたぶん先輩の中でずっと出口を求めて流れ出すタイミングを窺っていた淀みなのだ。私は信頼されていてその淀みを受け止める役を任されている。本当は誰でも良かったのかもしれないけど私は自己肯定感が高い人間なので私じゃなきゃダメなんだと思うことにする。

「……その先輩が俺のことを嫌ってたのも俺があの子のことを好きって気づいてたからなんだろうな。俺は先輩のことは気づかなかった。先輩の方が視野の広い人間で、俺は自分のことしか見えてなかったんだ。そのへんがダメなんだな」

 違うよ。私の先輩はダメなんかじゃないよ。そう言おうとしたけどダメなのは私の方で、ちょっと心のダムが耐えられそうになくなってる。先輩は私じゃなきゃダメだって淀みをぶつけてくれたのに。でも目の前で好きな人が自虐的に合理化をしている姿を見ているのが辛くて悲しさが溢れて仕方なくて言葉を出すこともできない。本当は落ち着いて話を聞いて、可愛い後輩が一瞬だけ大人になりつつある異性に見えるような微笑みを浮かべて、何か気の利いた言葉をかけてあげたいのに。

「って、こうやって一方的に話すのも良くないよな…………なんで泣いてんだよ」

「だって先輩が不憫で……」

「別に普通の失恋話だろ」

 普通なんかじゃない。特別な人が語る失恋話は特別な失恋話だ。

 先輩は自分のことしか見えていなかったと言った。確かに世の中には他人のことをよく見ている人間もいるけど、それはあくまで自分のために他人を見ているのだと私は思う。基本的に人間は誰かのためになんて生きられない。自分のための行動が結果的に誰かのためになることがあるだけなのだ。誰でも特別なのは自分自身だ。

 でも恋をしたらその相手が自分と重なってくる。その人のことをまるで自分みたいに特別に思えて、その人が関わるすべてが特別になる。自分の周囲の世界だけが特別であるのと同じように。

「きっと、これが先輩の恋の味だったんですね」

 私は目元を擦って涙を拭った。十分に味わったから先輩に私の涙を委ねるのはまた今度だ。今日はハッピーバレンタインだし。

「でも全部がこんなに苦くはないですよ。だから私のチョコも安心して食べてみてくださいね」

「そうか。なんかこう……ありがとな」

「どういたしまして」

 私は笑った。この笑顔で可愛い後輩から異性として気になる存在に格上げされてたらいいな。それともあどけなさの方が濃い笑顔になってしまっているだろうか。それはそれでいいのかもしれないけど。前に好きだった人も幼く見えるって言ってたもんね。

「ホワイトデーのお返し、楽しみにしてますからね」

「……善処します」

 先輩は苦笑いしていたけど、淀みになっていた失恋の苦さはある程度流すことができたんじゃないかと思う。また淀みを解放しなきゃいけなくなった時も傍にいるのが私だったらいいな。そして私の淀みを受け入れてくれる人も先輩であってほしい。

 きっとそうなるよね。ちょこっと不安はあるけど、私は可愛い私にとっても自信を持っているから望んだ未来を掴めると信じてやまないのだ。

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先輩の淀みと恋の味 平都カケル @umauma_konbu

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