第九楽章 幸せの調を響かせて
「ラルムちゃん、今日は調性をお勉強しましょうか」
母は時々、ピアノ講師の一面を見せて、スケールと呼ばれる音階と、カデンツと呼ばれる終止和音と、アルペジオと呼ばれる分散和音を、楽しく我が子に伝えた。
「ラルムちゃんの好きな『人形へのセレナード』の冒頭、それから『アラベスク第一番』も、同じホ長調よ。おかあさん、この調はね、ホホホって歌うような温和な性格だと思う。ラルムちゃん、試してみましょうか。スケールから、どうぞ」
ファとドとソとレが、黒鍵を弾く音階。
七音中、四音が黒鍵というのは意外に難しい。
五音を黒鍵で取るロ長調や変ニ長調のほうが容易だと感じるのは、九九の九の段が、七や八の段より少し憶えやすいことに通じる。ラルムは七の段が苦手だった。しかし、繰り返し練習することにより、苦手意識を克服する。
「僕、ホ長調は、皆が幸せそうにしている、お茶会の音だと思うよ」
「ホホホと幸せな笑顔。そうよね。ラルムちゃんはホ長調が好き?」
「好きだよ。これは『幸せの調』だ」
親子はクラシックで使われる二十四の調に、性格を付けて遊んでいた。
母とラルムの感性は似通っており、違和感を憶えることは一切なかった。
親子はピアノに依存して話す。そうして現実の苦しみを幸せに変える。
無意識の逃避。喪失したものを哀しんだり、嘆いたりすることのない、
一見、平和で穏やかな、しかし闇を鍵盤の底に沈め続けた時間だった。
ふたりは幸せの絵の中に居ない父親と、左耳の欠損に気付かない振りをする。
実際にピアノに恋している時間は、現実世界の喪失感が抑制されて、
哀しい心の涙を流さずに済んだ。
*:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*
「皆様、ようこそ、おいでくださいました。
これより、アーベントを進行させて頂きます」
麗人たちは、進行役のアナウンスを聴き、続々と屋敷の中に招かれる。
総勢二十名ほどの奥様と、同じ数の御人形。
「お待たせ致しましたことをお詫び申し上げます。
そのぶん本日は時間延長で、お楽しみください。
ピアニストは、オートマティックメロディードール・ラルムでございます」
「まぁ、原石だわ」
「たからちゃんと同じ
奥様たちの
今、ラルムの耳は、ヘーゼルナッツ色の
むしろ、弾きたくてたまらないと
我慢していた。
本当の自分を押し殺して生きてきた少年の、生来の心が音に鳴る。
ピアノに恋する心が開く。
ラルムが最初に奏でるのは、ドビュッシーの『人形へのセレナード』だ。
この曲に関しては、ピアノを弾くのではなく、はじく。
弦楽器を
ホ長調で持続していた低音は、ロ長調に、嬰ト短調に、目まぐるしい転調を見せ、調性という枠に嵌まらずに展開された。それは調性を理解した少年が、解った上で跳び越えていく常識の逸脱である。
ドビュッシーとは、そんな作曲家ではなかったか。
過去の音楽常識に
その過程は
おとなしく、常識の枠内で作曲することもできたはずだ。しかし、
クラシックは素晴らしい。
その素晴らしさを認めて、自分の色を付けていく。
それが後の世のクラシックに
第十楽章『終わらない音の領分へ』に、
つづく
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