第十楽章 終わらない音の領分へ

 ラルムは、お茶会を離席してピアノと遊び、また母と奥様の輪の中で遊ぶ。


「ラルムちゃん、さすがは先生の、お子様ですわ」

「上手ねぇ。こんなに小さい手で、器用ですこと」


 母の生徒たちは、いつも母と、その息子を褒めた。

 実際にラルムは、曲想を鋭敏に理解して表現するすべけていた。

 年齢よりも、ずっと上の解釈ができていた。


「いいえ。皆様には及びません。

 音楽に恋する心の強さだけで、弾いているのですわ」


「僕は指が、ゆらゆらしている。

 だから、うまくいくときも、いかないときもある。

 奥様たちの演奏は、安定している。

 きっと、恋じゃなくて愛の音だから、揺らがないんだね」


 親子は、いつも謙虚だった。

 ラルムという子と彼の母に、生徒たちは深い愛情をそそいでいた。

 彼の性能の良い左耳に、綺麗な耳朶じだが与えられますように。運命に願っていた。


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 ラルムは今、完璧なオートマティックメロディードールとして『アラベスク第一番』を奏でている。水の流れのように瑞々しい曲だ。ドビュッシーが挑戦者としての素質を秘めながらも、まだ隠しているような初期の名作。それはロマン派の流れを汲んだ、美し過ぎるポリリズム。


 鍵盤の上で、右手と左手が異なるリズムを刻むポリリズム奏法を確立したのは、ロマン派の代表、ショパンであろう。ドビュッシーの初期ピアノ作品には、ショパンの影響が色濃く感じられる。


 幼きドビュッシーにピアノを指導したモーテ夫人。詩人・ヴェルレーヌの義母であったモーテ夫人は、ショパンにピアノを習ったことがあったと伝えられる。


 雛鳥ひなどりは親鳥に羽包はぐくまれ、飛翔する力を得て、

 基礎という地面の上に、伸び伸びと個性を発揮させる。

 ラルムの母は、基礎にいてモーテ夫人のようで、

 既存の枠組みに嵌めようとしない点にいては、

 ショパンにとってのエルスネル先生のようだった。


 エルスネル先生は、ショパンの才質を見抜き、その才能を褒め、

 天性の作曲の開花を、肯定的に見守った音楽教育家。


 既存の常識は必要。しかし、百年後には価値の揺らぐもの。

 わかった上で羽包はぐくまれる才能は、果てしない伸びしろを持つ。


 ラルムは母に練習を強要されたり、叱られたりすることなく、

 自分自身の意志でピアノに親しみ、考えて、愛した。


 『こどもの領分』より第三曲『人形へのセレナード』の再奏リピート

 この曲は率直に発音しては、いけない。

 淡いガーゼに包まれた御人形を想起する。その御人形と遊ぶ時間。

 壊さないように、ガーゼを破らないように、心と指の抑制が求められる。


 ラルムは、硝子函ケースに閉じこもっていた幼少時代を自覚して音に重ねた。

 それはエスプリを効かせた、とにかく御洒落おしゃれな音として、

 あるいは、極限まで嫌味と雑味を無くした品の良い音として、夜会に融け込む。

 息をひそめるかの如く終熄しゅうそくするはかな小夜曲さよきょくを、ラルムは奏でた。


 たたえる拍手がく。

 奥様たちも御人形たちも拍手をしている。


「ありがとうございます。

 続きまして、ピアノと歌の二重奏をお楽しみください。

 唄い手さん、こちらへ、どうぞ」


 貴婦人は、壇上に一体のドールを招き寄せた。

 ピアノの譜面立てには、新しい楽譜が立て掛けられる。

 主旋律が無い。伴奏の譜面だ。


 ラルムは、招かれたドールとアイコンタクトをとった。

 真っ白いドレスを着こなすドールは、ラルムに無垢な秋波ウィンクを送る。

 客席には、それぞれに綺麗な御人形と、彼女たちの保護者の瞳が集っていた。


 貴婦人に促されて、伴奏の最初の和音を弾く。幼稚いとけないころ、

 何もわからずピアノで遊んでいた時代の、無邪気さがよみがえる。

 其処そこにドールの発声が重なった瞬間、ラルムは短い叫び声をあげそうになる。


 ドールの歌聲うたごえは少年のソプラノだった。

 此処ここに集う御人形には、割り当てられた性別など存在しないのかもしれない。

 性別なんて些細ささいなこと。貴婦人の言うとおりだ。


 ラルムは初見の伴奏を懸命に追う。

 ところどころピッチが遅れることもあったが、少年人形は戸惑わず、

 むしろ合わせて美しく歌った。


 何処か危なっかしくはかない音を共鳴させる合奏に、

 ヴァイオリンやセロやフルート担当のドールたちが続々と参加して、

 交響曲の様相を醸す。


 ラルムは繰り返すうちに、伴奏を洗練させた。

 アーベントは、大成功のうちに幕を閉じる。


 最後にカーテンコール。

 ラルムを真ん中にしたドールの列。


 ピアノから離れて、観客席を正面に見て初めて、ラルムは其処そこに、

 知っている御人形の姿を見た。


 自分と同じ大きさの、長い髪の少女人形が、客席から拍手を贈っている。


「たからちゃん」


 ラルムの声は、拍手にき消された。

 たからは、客席から舞台を見詰めている。

 壊れそうなソーダライトの瞳で、ラルムを見ていた。



 第十一楽章『永遠に壊れぬ結晶として』

             に、つづく

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