第六楽章 少し抑制をきかせて

「いつも、お世話になっております。

 家の子、頭が痛いと申しまして。

 本日、お休みさせてくださいませ」


 息子が頭痛を訴えた朝は、学校を休ませる母だった。

 母の権限で速やかに学校へ連絡をした後は、医師に診せることもなく、

 粉薬を与えて、東洋医学の経絡けいらくに指を並べた。


「ショウヨウ・ジカン・サンカン・ゴウコク。ラルムちゃん、肩が疲れましたね。

 あんまり、お勉強を頑張り過ぎてはいけませんよ」


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 同級生は勉強しなさいと追い立てられ、学校の後は塾に通うのが日課なのに、

 ラルムの母は悠長だった。


 週に一度は頭痛で学校を休み、学習塾に通った経験は無いが母からピアノを教わっていたことを伯父に告げると、苦い顔をされた。挙句、母の悪口に繋がる。


「いったい、あいつは、どんな教育をしたんだ。

 勉強よりピアノとは道楽者だな。

 ピアノなんて、生きていくうえで何の役にも立たないじゃないか」


 自分のことを悪く言われるだけならば我慢できる。

 しかし、母を悪く言う言葉は我慢できない。以来、少年は発言を控えた。

 心の声を表に出すことをしなくなった。


 以前にもまして閉じ込められる心。

 ピアノに心情を浮き沈みさせていたころに統制を保っていた少年の神経は、ことごとく簡単に失調した。新しい家族が追い打ちをかける。


「いつまで寝ているんだ。たかが頭痛で甘えるな」

 頑健な一家に突如、加わった厄介者は、追い出されてしかり。


 ラルムは、イヤーマフを装着しても鳴り止まない頭痛に加えて、吐き気を感じていた。環境が変わってから顕著に、強い吐き気が少年を苦しめる。


 あきらかに、伯父の家はラルムにとって、ストレスの温床だった。

 そんな環境には、帰りたくない。


 教会的旋法のようにめぐる母の声と指を探している。


「サンリ・キョクチ・チュウリョウ・ゴリ・ヒジュ……」


 唱えながら御人形をメンテナンスする貴婦人の、眼鏡越しの瞳は閉じていた。

 たからの腕に並べられた指。その力を探していたような気がする。


 母に陽明大腸経ようめいだいちょうけいという腕のツボをしてもらうと、

 次第に身体の凝りと頭痛が軽減した日々。懐かしい親子の記憶が重なる。


「あら、お目覚めですか、ラルムさん」


 ラルムは、こめかみをす貴婦人の指の力で眠気を催して、

 実際に眠っていたようだ。

 此処ここに来たとき同様、寝台ベッドに寝かされている。

 御人形は未だ目覚めることなく、揺籃ゆりかごに眠ってメンテナンス中だ。


 醒めた瞳に瑠璃色アズレーのピアノを映す少年の秘められた能力に、貴婦人が勘付くのは早かった。眠りに就く前、たからの自動演奏を聴いていたラルムの指が、膝の上で正しい指遣いを刻んでいたことを見通している。


「何歳からピアノを?

 ドビュッシー作曲『アラベスク第一番』と『人形へのセレナード』が、

 お好きでしょう」


 眼鏡の奥の瞳をみはった貴婦人は、同時に心の瞳を開いたかのように、

 疑いなく言った。


 ラルムは驚く。

 ピアノを弾けることは伯父の家に来て以来、弱みにしかならない。

 勉強よりピアノとは道楽者だな。そんな発言でラルムを辟易させた伯父。

 本当に母の兄なのだろうか。母とは似ても似つかない。


「何歳だったんだろう。よく分からない」


 ラルムの答えは真実だ。ピアノは遊び道具だった。

 何歳から遊んでいたのか、思い出せない。


「良い指をお持ちです。しなやかな関節。なんて可動域が広いのでしょう」


 貴婦人は、ラルムの指の水掻きと、合谷ごうこくと言うツボをさえながら言った。

 その指圧は幼き日におぼえた母の指の抑制に似て、心地好ここちよい。



  第七楽章『少し控えめに』に、つづく

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