第五楽章 ラルムの由来を語る声

 母は、ことあるごとに息子の名前を呼んでいた。


「おはよう、ラルムちゃん」

「ごはんにしましょう、ラルムちゃん」

「おやすみなさい、ラルムちゃん」


 母の生徒たちも、ことあるごとに連呼した。


「お邪魔しています、ラルムちゃん」

「今日もラブリーね、ラルムちゃん」


 白い薔薇ばらの咲くバルコニーがあった。

 喧騒けんそうとは程遠いにぎわいがあった。

 信じられない平穏があった。


可愛かわいい響きでしょう。おかあさん、最初から決めていたの。

 男の子でも女の子でも『ラルムちゃん』と呼ぼう。

 ラルム。仏蘭西フランス語で『なみだ』という意味よ」


「哀しいときに流すなみだ?」


「いいえ。嬉しいときに流すなみだよ。

 おかあさんはラルムちゃんを授かった日から嬉しくて。

 この目が潤むのは嬉しいから、なのよ」


 母は時折、息子を抱き締めて泣いた。

 何故なぜ、泣くの? 何処どこか痛い?

 たずねる息子の問いには答えず、嬉しいのよ、と繰り返し、

 名前の由来を何度でも語るのだった。


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


「お待ちください。あなたが此処ここに、いらしたのも何かの御縁。

 たからの、おともだちに、なってください」


 きびすを返す少年を引き止めて、貴婦人は提案した。


「御人形と、おともだちなんて、嫌でしょうか」

「嫌じゃないよ。たからちゃんは、どうかな。

 僕の耳を見ると怖がってしまうかも」


 茶色い髪に隠した欠損を気にする少年に、貴婦人は問う。


「あなたの、お名前を教えてください」

「ラルム」


 少年は簡潔に答えた。


「まぁ、詩的な響きです。

 そういう名前を与える方が、どういう方だったのか、想像できますわ」


「おかあさんが付けたんだ。僕はラルムちゃんと呼ばれていた。

 今は、この名前、好きじゃないよ。

 名簿で浮いてしまうし、男か女か分からないんだもの」


 ラルムは貴婦人の組み立てた椅子に掛けて、御人形の静謐せいひつな寝顔を見ている。

 揺籃型ゆりかご寝台ベッドに寝かせた御人形の、こめかみをしながら貴婦人は話す。

 精密機械を確かめるように、謎の指圧は繰り返された。


「でも、ラルムちゃんと呼ばれることが嬉しかったのでは?」


「うん。そう呼んでくれる、おかあさんが大好きだった。

 家でピアノの先生をしていたんだ。

 僕は、一週間に一回、生徒さんたちと、お茶する時間を楽しんでいた。

 もっと楽しかったのは、おかあさんとふたりきりのレッスンと、食卓の時間と、

 髪を綺麗にしてイヤーマフを付けてもらう時間。

 左耳が無いなんて、たいしたことじゃないんだって思わせてくれるぐらい、

 幸せな時間だった。

 なのに、どうして、僕を置いて行ってしまったの。行方不明なんだ。

 おかあさんは、何処に行ったのかな。それからだよ。恥ずかしくなったんだ。

 左耳が無いことも。この名前も」


 不思議なほどに、すらすらと、心の声が流れ落ちた。

 誰にも言えないでいた弱みと、母への思慕。

 中学校で、そんな自分を見せると、ますます浮いた存在になるに違いない。

 分かっているから、本来の純粋を閉じ込めていた。


 ラルムは気付いている。母に守られていた時間は特別で、

 自分は硝子函ケースで培養された、こどもだったということに。


「何も恥ずべきことはありません。

 片方の耳朶じだが無いなんて些細ささいなこと。

 男は男らしく。女は女らしく。

 そんな古い常識のつるに巻き取られた人間も、

 また心無くラルムさんを揶揄やゆするのかもしれません。

 それも些細なことです。ラルムさんは美しい。

 その魅力を誇って生きるべきですよ」


 貴婦人は、御人形に繰り返した指圧を止めた。

 その指を少年の、こめかみに添える。


「綺麗な経絡けいらくです。ラルムさんもヒューズが飛びそうですね。

 こんなに過熱して可哀想かわいそうに」


 打ち明け話をして疲れたのだろうか。ラルムは、また眠くなった。

 こめかみを押す貴婦人の指は、妙なる抑制で頭痛を鎮めた母の指に似て、

 心を落ち着かせる。



 第六楽章『少し抑制をきかせて』に、つづく

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