第四楽章 心が飛び行く先に
母はラルムに寄り添って、ピアノの前で長話をするのが好きだった。
ラルムは母の長話を毎回、分かったような分からなかったような気持ちで、
しかしながら確実な安堵の心で傾聴する。
母の声は、ささやかで耳を澄まさないと聴こえない。だから口を挟まずに聴く。
「六曲から成る『こどもの領分』は、ドビュッシーが愛する子に捧げた曲集なの。
でも、グレードは、こども向けじゃない。
あくまでも、おとなが奏でる、こどもの心象風景。
あら、ラルムちゃんは、いつのまにチェルニー三十番を終えたのかしら。
ソナチネも、ひととおり弾いたわね。
そろそろ『こどもの領分』を弾いてみましょう。
おかあさん、第三曲が一番、好きなの。
ラルムちゃんも気に入るはずよ」
母が弾く『人形へのセレナード』の楽譜には、曲の解釈が著されていた。
ドビュッシーがフランス語で記した注釈。
それらの意味するところが日本語に訳され、詳細に書き込まれている。
「二十八小節目から『少し抑制をきかせて、控えめに』することで、
三十小節目が生きてくる。楽しいでしょう? 音に波を付けるのよ。
丁寧にね。飛ぶ音を見失わないように、統制を保つの」
母は模範演奏を示す。ラルムは音の波を感じる。
「本当だね。その楽譜で弾きたい。おかあさんみたいに弾いてみたい」
親子が共有する楽譜は物語の如く。
音符と共に、五線譜の隙間に並ぶ文字を読み取って弾く。
そうすると、音に表現力が生じる。
幼いラルムが自然に身に付けた表現力は、
飛び行く先に在る心を取り戻す構成力で、
自身の心情を鍵盤に
*:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*
貴婦人は御人形に寄り添って、何かを
「お客様に演奏を聴いて頂きましょうか。ドビュッシーから始めましょう」
オートマティックメロディードール・たからは淡い照明の中、作動する。
楽譜を見ることも、指が
「もっと近くで聴いてもいいですか?」
ラルムは、抑えた声で貴婦人に
ラルムは
「ありがとう。でも、たからちゃんの気が散らないかな」
「大丈夫です。たからの機関に
近付いたぐらいで振れることはありません」
その言葉に安心したラルムは、たからの右横に立つ観客になる。
貴婦人が椅子を組み立てた。
勧められるまま椅子に掛けて、自動ピアノ弾き人形の音の世界を堪能する。
機械仕掛けの無機質。狂いの無い淡々とした演奏だ。
その中に有機的な感情の波が、端々に打って聴こえるのが不思議だった。
プログラムは『こどもの領分』第三曲『人形へのセレナード』を奏でていた。
たからは第三曲が、お気に入りらしい。
三回リピートして、第四曲『雪は踊っている』に
『雪は踊っている』は、舞い落ちる
僕のことみたいだ。
ラルムは貴婦人の
『こどもの領分』に続いて『ふたつのアラベスク』。
『アラベスク第一番』は、母の生徒に人気の曲だった。軽快と言うより、ひたすらに甘美なポリリズムの名曲を、弾けるはずのラルムの指は
僕も弾きたい。
言葉を呑み込むラルムに、フレーバーティーのおかわりが
絶え間なく奏でられていたメロディーが、ぷつりと途切れた。
たからの腕は、空中に固定された形のまま動かない。
すぐさま、貴婦人が御人形の腕を取った。
「ヒューズが飛びましたね。
随分と過熱気味でしたから。何時間かの冷却が必要です」
発熱したこどものように貴婦人の支えに
「ヒューズが飛ぶまで稼働させてしまったんだね。ごめんなさい」
「お気になさらず。御人形には、よくあることです」
「長いあいだ、お邪魔しました。さようなら」
帰らなければ。家に。気性の荒い兄弟と、裁く父と、無関心な母の待つ場所に。
ラルムは哀しい涙を
第五楽章『ラルムの由来を語る声』に、つづく
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