第三楽章 心が落ち着く音

 ピアノを生業なりわいにしていた母は、包丁を使わない料理のレパートリーが豊富だ。

 卵焼き、御味噌汁おみそしる、ポトフ、サラダ、マリネ。魔法のようにこしらえた。


 料理する母の姿を見ては、

「僕も、やってみたい」

 と背伸びする。幼い息子に与えられたのは、真空パックの絹漉豆腐きぬごしどうふさじすくって御味噌汁に浮かべる作業と、葉野菜を手で千切る作業。


「ラルムちゃん、お手伝い、ありがとう」

 母はセラミックのキッチンばさみを器用に使って、様々な食材を切る。


「持っていてあげる」

 食材と一緒に長い毛先を切ってしまわないように、ラルムは母の三つ編みをつかまえていた。母の髪はバニラエッセンスのい香りがする。パンケーキの香りだ。


 パンケーキは毎日の主食だった。朝食にも、おやつにも、最適な一品。


 学校から帰ると、甘い匂いと甘い音に迎えられていた、あのころ。

 少年が、幸せだったころ。


 壁伝いに聴こえるドビュッシーを聴きながら、

 ひとりでパンケーキを食べるのは淋しくなかった。

 母と、ふたりきりの生活だったが淋しくなかった。


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 今は、どうだろう。兄弟ができたのに、父と名乗る人もいるのに、

 淋しいと言うより怖い。


 怖い気持ちを落ち着かせる術も無い。

 音楽室でピアノを借りて弾いていると、決まって邪魔が入る。

 級友を引き連れた弟に、

「女みたいな奴」

 とののしられる。


 心が落ち着く音を、探してやまない。


「お加減、如何いかがです?」


 ラルムは、い匂いのする寝具ベッドで眠っていた。

 仰向けのまま、天井の高い室内に視線を泳がせている。

 パフュームキャンドルが連なる部屋は、幻想的な暖色に染まっていた。

 起き上がって見渡すと、幻想的なあかりの中に、たからがいる。


 彼女は、目も冴えるような黄金とつややかな漆黒の調和したドレスを着て、柔らかく波打つプラチナブロンドに、海水晶の髪飾りを付けている。耳朶じだにはブルーレースアゲートのピアス。淡水色みずいろに揺らめいている。


 何よりも際立って美しいのは、視線を合わせる者を吸い込むような、暗闇のもとでも輝いていた瞳だ。不思議に落ち着く深い青は、宝石以上の、たからものだ。


「彼女が、たからちゃんと称されるのが分かるよ。たからものみたいな美しさだ」


 たからにかれたラルムは、フレーバーティーを勧める貴婦人にく。


「あなたの、こどもさんなの?」

「いいえ。違います」

「じゃあ、妹さん?」

「いいえ」


 たからの肩を抱き、貴婦人は真顔で述べる。


「こちらはオートマティックメロディードール・たから。

 私の、たからもの。少女の形をした自動ピアノ弾き人形です」


 ラルムは、半信半疑で、たからを見詰める。


「あなたの、たからもの?」


 プラスティック質の少女の肌は、一生、衰えを知らぬまま、白く滑らかなのかもしれない。瞬かない瞳は、海の底に眠る宝石のように穏やかに輝く。貴婦人の言うことに、嘘はないのであろう。


「御人形さんだったのか。羨ましいな。

 この世のものではないのなら、哀しみを感じることもないよね。

 生涯、壊れない甘い夢だけ、見ていられるのだから」


 錯乱する人間関係の糸に絡まることも、性急な時間に追われることも無い。

 来る日も来る日も、閉ざされた森の屋敷で夢の音だけつむいでいる。

 上等のドレスに彩られて。


「自動演奏は如何いかがでしょう?」


 瑠璃色アズレーのピアノが待機している。

 屋根は瑠璃るり色。白鍵は淡水みず色。黒鍵はあい色。特殊な配色だ。


「たからちゃんの音を、聴かせて」


 ラルムの答えに、たからの花唇くちびるは一瞬、微笑んだかのように見えた。



 第四楽章『心が飛び行く先に』に、つづく

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