第二楽章 心ころがる音

 母は自宅でピアノ講師をして生計を立てていた。

 平日、ランドセルを降ろす時間、

 玄関に程近いレッスン室から、ピアノの音が聴こえる。

 ラルムは旋律を聴きながら宿題をして、おやつを食べるのが習慣だった。


 母の生徒は何故か、おとなの女性ばかり。

 こどものころにピアノを習っていた。幼き日を思い出して嗜む女性。

 あるいは、生涯学習に老後の趣味に、ピアノを選ぶ女性。


 優雅な生徒の集まりだった。

 自宅でフィナンシェを焼きましたの。

 余暇に編んだ帽子ですの。

 ラルムちゃんに、どうぞ。


 母の生徒に与えられた大きい手編みの帽子を被って、

 穏やかで甘い、お茶会を楽しんでいた。

 集う女性は皆、思慮深い。ひとりとしてラルムの耳に障らない。


 帽子を編んだ女性は、ドビュッシーを好んで弾いていた。

 母も同じ趣味で、『こどもの領分』という難易度の高い教材をラルムに与える。

 その第三曲『人形へのセレナード』が、親子のお気に入りだった。

 

 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 最後に弾いたのは、いつだっただろう。


 ピアノを弾く自分が居た日々を、甘い夢のように思い出す。

 伯父の家に来て半年、夢は泡沫うたかたの如く消えていた。


 今も『人形へのセレナード』を奏でたいのに、

 夢につながるみちが分からない。


 分からないまま、彷徨さまよっている。

 

 どれぐらい歩いたのだろう。

 疲れ始めた少年の空洞に、天使の吐息が触れた。

 その吐息は、こどもの夢を歌った小夜曲セレナード


「幽霊かな。幽霊鳥トラツグミさえずりみたいなピアノだ」


 薄暗い雑木林ぞうきばやしに佇んだラルムは、枝葉に遮られて見えないそらを仰いだ。

 既に夜は更けているのだろうか。確かめられない。背負った鞄から端末を取り出して、時刻を読み取ろうとしたが、肝心の充電が切れていた。


 チャージできる電力の無い雑木林は、森林と言った風情ふぜいで少年を閉じ込める。


 閉じ込められた風景の中に一軒の屋敷が建っていた。小夜曲セレナードは速い鼓動の音律で、疲れたはずのラルムの足を急がせる。足音は屋敷に吸い込まれて行く。


 砕いた途端に青色を失うソーダライトのようにはかない瞳と、対峙たいじしていた。

 室内は静寂と薄闇に包まれているが、常夜灯のように輝く瞳が在る。


「お気に召されましたか? たからの瞳が」


 持ち手の付いたパフュームキャンドルをかざす貴婦人が、少年にたずねた。

 彼は旋律に誘導されて、森の中の屋敷に無断侵入したのだと気付く。


「ごめんなさい。甘美な小夜曲セレナードに引き寄せられて。すぐに出て行きます」

「お待ちください」

 貴婦人は、背を向けた少年を引き止めた。

「いいのですよ。ゆっくり、くつろいでください。たからも喜びます」


 一燭いっしょくのパフュームキャンドルが、たからを彩っている。

 浮き立って現われる少女の輪郭は、西洋人形のように美しい。

 ピアノ椅子に掛けてラルムを見ている。


 たから、と称された少女は瞬きひとつしない。

 彼女の瞳は、ラルムを吸収するように深い。


此処ここは世間から切り離された屋敷です。

 よく、たからの弾く音が聴こえましたね。

 あなたは、の世界の御方でしょう」


 内壁に添って、等間隔にパフュームキャンドルをともしながら、

 眼鏡の似合う貴婦人が話す。鏡面にキャンドルのが反射している。


「精度の高い耳をお持ちです。この音は、決して外界に届かないはずですのに」


 ラルムは、そっと左耳に手を当てた。

 やはり耳朶じだは無い。ラルムの抜け殻のような心が冷えていく。

 たからと同系の脆さをたたえる少年の瞳は、潤んでいる。


「哀しいことは、思い出さないほうが、いいでしょう」


 キャンドルのあかりに照らされて、

 耳朶じだの無い少年の頼りなさが浮き彫りになる。


 貴婦人は慰めるように、彼の頭を抱き締めた。

 こんなふうに抱き締める人が過去に、存在したはずだ。ラルムは口走る。


「おかあさん」


 貴婦人は発条バネはじかれたように、ぴくりとしたが、

 少年には伝わらない。彼の意識は夢にけ始めていた。



 第三楽章『心が落ち着く音』に、つづく

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