人形への小夜曲

宵澤ひいな

第一楽章 心はじける音

 少年には先天性の欠損があった。

 しかし、母に保護されているあいだ、自らの欠損を嘆いたことは無かった。


 母は毎朝、息子の洋装に合うイヤーマフをコーディネートする。

 あたたかいバルコニーにて、通学前の日課だ。


「ラルムちゃん、おいで」


 ラルムと呼ばれた少年が、艶々つやつやとした茶色の髪を揺らせて振り向く。

 ふわりと頬に遊ぶ髪が揺れて、彼の秘密が露になる。

 それは、生まれた瞬間から失われていた左の耳朶じだ


 あるべき耳朶じだの無い耳は、暗闇に続く迷路の細い入り口のように頼りない。

 空洞を悟られないよう、母の手により整えられた前下がりボブの髪。

 その上に、ふわりとイヤーマフが装着される。


「今日は雛鳥ひなどりの色よ。ラルムちゃんのセーラーカラーに、ぴったりでしょう?」


 今朝のラルムは、紺色のセーラーカラーのカットソーに同色の膝上丈のズボン、濃紺と白のボーダーのハイソックスに、黒いストラップシューズをめている。

 茶色い前下がりのおかっぱ頭には、スマイルマークの付いた黄色いイヤーマフ。

 音楽を聴くためのヘッドホンのような形のイヤーマフは、ラルムの心を守ろうとする母からの愛の防具。


 片耳が無い。そんなふうに生んだのは私。ごめんなさい。

 思いを決して口に出すことのない母は、強くて優しい。


 どうして僕にだけ片耳が無いの? 神様が付け忘れたのかな? 

 疑問を決して口に出すことのないラルムも、また強くて優しい。


 しかしながら、本当の心は、辛く苦しい。


「おかあさん、ありがとう。行ってきます」


 黒いランドセルを背負った息子に、母は言う。


「ラルムちゃん、もう少し大きくなったら、

 おかあさんが、誰よりも素敵な左耳をプレゼントしてあげる。

 凄腕の技師さんに、お願いしているのよ。楽しみにしていてね」


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 嘘つき。

 心でつぶやいたラルムの上衣うわぎの胸のボタンが、はじけた。

 それは運悪く、学習塾帰りの兄弟の行く道に転がる。


「ラルム、ちょうど、おまえの話をしていたんだ」

「こいつだぜ、居候いそうろうの猫型ロボット。ネズミにかじられたに決まっている」


 半年前、ラルムの母の行方が分からなくなった。母子家庭のラルムが伯父の家に引き取られた日から、生活を共にする兄弟に揶揄からかわれている。彼らは、寄ってたかってラルムの弱みをあげつらい、こどもなりのストレスを発散しているようだ。


 今日は、兄のクラスメイトらしき、高等学校の制服を着た青年が一緒にいる。

 少年と言ってもいい年齢の彼らだが、十三歳のラルムの目には随分、おとなに映った。


 弟のほうは中学校に入学したばかりで、ラルムと同級生だ。血のつながった高校生の兄と組むと、何故か嗜虐性が強くなる性分。


 高校生たちは、ラルムの手足を捕まえた。

 身動きの、できないラルムの頭から、イヤーマフという心の防具が外される。


 この世には、耳を塞ぎたくなる罵詈雑言ばりぞうごんあふれている。すべての品のない言葉を、ラルムの脳裏に羅列して苦しめる脅威から身を守ろうとするとき、耳の穴を隠したいとき、イヤーマフは役に立った。


 学校に特別の許可を取って装着しているイヤーマフを外されると、本来、左耳のある場所には黒いあながあるだけ。


「本当に片耳が無いな。超無理な奴じゃん」

「兄ちゃん、こいつずるいんだよ。左耳が無いから、おかっぱ頭でも校則違反じゃないんだ。欠陥品ポンコツのくせに特別扱いだよ。気に入らない」


 弟の学生鞄から、キラキラ輝く刃物が取り出されるのを見て、ラルムは危機感をつのらせた。何をされるか、見当が付く。


 片方の耳朶じだが無いことを除けば、ラルムは年相応より少しだけ小柄で、敏捷な少年だ。逆上がりの要領で、思い切り身体に弾みを付けた。大き目の革靴を嵌めたラルムの足が、高校生の身体にヒットする。


 一瞬、ひるませた隙を縫って、通学路を外れる勢いで逃げた。学校指定の大きい革靴が、道路に置き去りになったが構わない。ラルムの逃げ足は速く、あっというまに、兄弟の視界から消え去る。


「すばしこい奴だ。今日こそ絞めてやろうと思ったのに」

「兄ちゃん、欠陥品ポンコツは生意気なんだよ。次こそ、もっと虐めてやろうぜ」


 兄弟の残酷な会話が顔の横、ぽっかりと空いた空洞に、こびり付く。

 イヤーマフを取り上げられたラルムの耳の精度は、姿の見えない兄弟の声を聞き取れるほどに過敏だ。


 全力で走っていると髪がなびき、擦れ違う人々は振り返る。好奇の視線に囲まれた繁華街に、迷い込んでいた。立ち止まり、両の手で顔の横を押さえる。ふっと、喧騒ノイズは跡絶えるが、また聞こえ始める。もう、何も聞きたくない。


 ラルムは再び走り出していた。耳を押さえたまま、瞳は濡れている。強く掌で蓋をした耳を、不意に慰めるピアノの音を聴いたのは、鬱蒼うっそうとした雑木林ぞうきばやしを突き抜けていたときだった。



  第二楽章『心ころがる音』に、つづく

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