第55話 耐え忍ぶ戦い


●二〇一九年 五月八日(水曜日)


 自宅謹慎を言い渡され、はや二週間。

 碧は翡翠の親権を巡る裁判に向けて、本格的に動いていた。眉村と綿密に打ち合わせをし、資料をまとめていく。一〇年前の記憶については、いくらか朧げになりつつある。それを埋めるのが例の盗聴記録だ。この大きな武器を保管し続けたことは、本当に良かったと碧は思う。


 また、週刊未来を発端とするマスコミの捏造報道の件も、名誉毀損として訴えることを視野に入れている。これらの裁判は、互いの結果が強く影響し合うものだ。完全な悪役となった碧には、世論を味方につけることなど望めない。証拠を積み上げ、向こうの主張の嘘を突いていくほかなかった。


 当然ながら、マスコミはその動きを潰そうとしてくる。裁判になれば自分達の敗訴が目に見えているためだろう、碧の妨害に躍起だった。連日の偏向報道によって、国民の怒りを激しく煽っている。


 碧と翡翠の個人情報がネットに流出し、頼んだ覚えのない出前の支払いを迫られることが何度もあった。『フルール』の敷地から一歩でも出れば、あちこちから侮蔑の言葉を浴びせられ。駐車しておいた車の窓ガラスを割られたこともあった。具体的な実害のあるケースについては、警察に相談し、事件として捜査してもらっている。


 そうした毎日で碧を精神的に疲弊させ、追い詰めていくことがマスコミの狙いなのだろう。自殺となったら、彼らの勝利である。


 絶対に負けてたまるものか。

 翡翠の心をケアしながら、碧は何度も自分に強く言い聞かせた。裁判の判決が出るまでは耐え忍ぶしかない。






 ●二〇一九年 六月八日(金曜日)


 その日、翡翠の親権をめぐる調停を進めるため、碧は家庭裁判所に赴いていた。


「碧っ!」


 廊下を歩いていた碧と眉村は、待ち伏せていた真一に捕まった。六年ぶりに顔を合わせた真一は、心労のせいか、やせ犬のように骨ばった身体へと衰えている。だが、その目にはまだ野心の火が消えていない。


「碧、今ならまだ間に合う。な、翡翠を譲ってくれ」


 真一は近づいてくるや否や、碧の右手を両手で握った。じっとりとした汗の感触が、碧の手肌に絡みついてくる。


 現在、真一は一〇年前の手術ミスの件で、亡くなった患者の遺族から訴訟を起こされている。先日の碧の記者会見で暴露され、早乙女が証言者として現れたのが主な要因だ。当時の手術に関わった人間は皆、真一や病院側から口止めとして多額の金を受け取っていたが、マスコミからのしつこい追及に折れてしまい、真実を白状してしまった。


 違法献金の件も含め、真一の政治家としての支持率は地に堕ち、結局五月に行われた衆議院選挙において大差で落選した。かつては党の青年局長を務め、そのまま順調に実績を積んでいけば、一〇年後には閣僚に入ることを有望視されていたにも関わらず、だ。結局、真一が口癖にしている「信用」こそが、彼の人生を転落させる原因となった。


 この男には、もう何も残っていない。


「頼む! 俺が政治家として蘇るためには、翡翠が必要なんだ!」


 碧は何の言葉も返さない。それが焦れったいと思ったのか、真一は手を離すと同時にその場で膝をつき、ひれ伏した。廊下には彼らの他に誰もいなかったが、いつ誰に見られてもおかしくはない状況だ。それほどまでに形振りかまっていられないのだろう。


 碧の記憶の中にある真一は、碧に対して下手に出たことなど一度もない。真一にとって碧は己の付属物であり、家畜も同然の存在だったのだ。そんな自尊心の塊だった兄の変わり果てた姿に対し、碧が感じたのはただ哀れみだけだった。


「頼む、この通りだ!」


 しつこく懇願する真一にかける言葉など、碧は持ちあわせていない。

 この男は、まだ気づいていないのだ。翡翠を手に入れても、自身の問題が解決しないことを。彼の愛して止まない信用は、バブルが弾けて暴落している。今更、姪の親権を得たところで、世間の彼に対する不信感を拭い去ることなどできない。それでも追い詰められた今の彼は、翡翠に縋る以外の選択肢が思い浮かばないのだろう。


 碧は、土下座をする真一の横を通り過ぎて行く。なおも真一が碧の後ろ姿に何やら叫んでいるようだが、碧は最後まで無視を貫いた。

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