第54話 長い後悔から踏み出して
◆幕間
「……こんな文面でよかったのかしら」
スマートフォンの画面を見つめながら、鈴鹿は不安げな声を呟いた。
一度送ったメールは、もう差し戻すことができない。一〇年前の過去に戻ることができないように。
千葉市内に建てられた、とあるマンション。そのうちの一部屋を、鈴鹿は自宅として構えていた。
朝食の後片付けを終えたところで、居間のソファに腰掛けた。しばらくの間、スマートフォンの画面とじっと睨み合い。散々悩んだ末に、勇気を振り絞って一通のメールを送信した。相手は古い知り合い。もう何年も連絡を取っていなかった、大学時代の元友人だった。
「メール、ちゃんと送れた?」
そう確認の言葉を投げかけてきたのは、二○代中盤の男。細身の身体に黒色のスーツを纏い、ネクタイを巻いている。鈴鹿の夫だ。
「ええ、どうにか」
やや硬さの混じった鈴鹿の返事。それを聞くと、夫は優しく微笑みながら居間を出ていった。
鈴鹿は三年前に職場の同僚と結婚し、家庭を築いている。時折、喧嘩をすることはあるが、すぐに仲直りしてきた。どこにでもある、普通の夫婦だ。
夫には結婚前、大学時代にあった出来事を打ち明けてあった。自分の片思いと失恋、そして一方的な仲違い。後悔ばかりだった日々の想いを、夫は静かに聴いてくれた。
昨日の夕方に開かれた記者会見。鈴鹿は仕事を終えて帰宅してから、夜のニュース番組を通じて初めて知った。
動揺がなかったといえば嘘になる。
週刊誌のスクープを発端とした、一連の報道。それが鈴鹿の心に刻み込まれた傷痕を、強く疼かせた。
新城碧。大学時代、鈴鹿が想いを寄せていた相手だ。
裏切られて失恋し、それ以来キャンパス内で顔を合わせることすら避け続けた。一方的に逃げたといってもいい。鈴鹿は碧よりも一年先に卒業したが、別れの言葉を交わすことなく去った。
碧の近況については、遠く離れた地で暮らす実姉から時折聞かされていた。数年前に離婚した実姉は、ここ千葉県から遥か遠い三重県へと移り住み、新しい職場で碧と再会したのだという。今ではすっかり親友となり、公私共に支え合っているのだそうだ。そうした話を実姉本人から電話などで知らされるたびに、「友情がいつ恋愛に変化してもおかしくないな」と鈴鹿は考えている。
――彼に何か言葉をかけてあげた方がいい。
昨晩そう促したのは、夫だった。
彼がこんな大変なときに? 鈴鹿が心細そうに言うと、夫は「こんなときだからこそ、だよ」と彼女の肩をそっと抱き寄せてくれた。
一〇年前の失恋が小さな針となって、鈴鹿の心の片隅に今もなお刺さっている。それを夫は誰よりも理解しているからこそ、背中を押してくれたのだ。
現在の碧は、多くの国民から怒りの矛先を向けられている。自分の娘を護るために、激しくも陰湿な差別と必死に戦っている。
だから、鈴鹿は言いたかったのだ。
あなたを応援している人間も、どこかにいるのだ、と。
しかし、電話をかけたところで、上手く声にできないに違いない。勇気がなかった。傷だらけになりながらも立ち向かう碧に比べ、なんと臆病なことか。
直接言うのが無理なら、せめてメールで。一晩悩んだ末に決心し、つい先程送信した。その内容が、『がんばって』の一言。
本当は、もっと伝えたいことがあった。大学時代、彼を一方的に拒絶したことを謝罪したかった。酷い罵詈雑言を浴びせてすまなかった、と言いたかった。上手く言葉にできないのが、もどかしい。
その一方で、突然のメールを迷惑に思われていないか、不安でたまらなかった。今更連絡を寄越したところで虫の良い話だ、と受け止められて当然なのである。
「こんな情けない有様じゃ、子ども達を教育する資格なんてないわね」
勤務先の小学校の児童達を思い浮かべ、鈴鹿は自嘲する。
と、一通のメールが届いた。送り主は碧だ。逸る気持ちをどうにか抑えつつ、中身を見る。
その文面は先程鈴鹿が送ったものに習ってか、とても短い。
『ありがとう』
その短い文章を何度も読み返す。そのうちに、視界が涙で滲んでいく。
こんな単純なやり取りをするのに、一〇年以上もの月日を費やしたのだ。随分と遠回りをしてしまった。自分の子供じみた意地に、思わず苦笑がこぼれる。
「これなら、大学時代に仲直りできたかもしれないのに……」
なんと自分は愚かで意地っ張りだったのだろうか。
碧から届いたメールには、一枚の画像ファイルが添付されていた。開いてみると、眠たげに目をこする一〇歳前後の少女の姿が写し出される。碧の面影を強く残した、愛らしい顔立ち。その名前は、鈴鹿もテレビ番組などを通じて知っていた。
翡翠。彼女が今の碧にとって何よりも大切な宝物なのだと、画像ファイルはよく物語っていた。
碧もまた、温かい家庭を築き上げているのだ。その聖域を守るために、昨日の会見であれだけの啖呵をきってみせた。
この親子がずっと一緒にいられますように。
鈴鹿には、そう祈ることしかできなかった。
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