第50話 10年分の想い

 そして、運命の時間がやってきた。


「では、行きましょうか」


 校長を先頭に碧、眉村が順に続いて職員室を出て、紫色の色濃い夕闇が差し込む廊下を進んでいく。


 今回の記者会見は、大人数用の会議室で行われる。会議室があるのは、第一校舎の二階で職員室のちょうど真上だ。室内の明かりが独特の緊張感と入り混じり、廊下にまで漏れ出ていた。校長が目で碧達に合図をし、会議室の前方の扉から中へ入っていく。


 会議室の中は、あらかじめ教師陣によって用意されたパイプ椅子が、ズラリと並んでいた。それらに座っているのは、五〇人近くもの記者達だ。室内後ろに設けられたスペースには、カメラマンをはじめとして、取材用機材を構える専門スタッフ達がいた。


「来たぞ、新城碧だ!」


 記者の一人が声をあげ、一斉にカメラの矛先が碧達に集中する。眩いばかりのフラッシュが光り、校長が顔をしかめた。眉村はこういった場数を何度となく潜ってきただけあり、全く動じずに校長の後ろを進む。


 そして二人の間を歩く碧は、堂々と背筋を伸ばしていた。その姿は、まるで戦へ臨む武将のようだった。翡翠と交わした約束を守るために、この場に足を踏み入れたのだ。後ろめたいことなど、今の碧には一つもない。


 三人は、室内前方に配置された長机に並んだ。正面から見て真ん中が碧で、残る二人が左右にそれぞれ立つ。長机に置かれたマイクのうちの一つを、校長が手に取る。


『報道陣の方々、本日は遠方から足をお運びいただき、ありがとうございます。これよりぃ、新城碧教諭の記者会見を執り行いたいと思いますよぉ』


 校長のイマイチ緊張感の欠けた言葉を受け、三人が報道陣に会釈をする。フラッシュの集中砲火を受けるが、顔を上げた碧は視線を跳ね除けるように胸を張った。その態度が生意気だと感じたのか、記者達が意地悪く口元を歪めた。おそらく、「この鼻っ柱をどうへし折ってやろうか」とでも考えているのだろう。


 三人はパイプ椅子に着席し、碧が目の前に設置されたマイクの電源を入れる。


『このたびは、私と兄の内輪の騒動に巻き込んでしまったこと、学校全体への不信を招いてしまったこと。保護者の方々をはじめ、学校関係者や地元の方々に心よりお詫び申し上げます』


 最初にそう詫びて、碧は深くお辞儀をする。明朗かつ落ち着いた声を心がけ、長い昔語りを始めた。


『今回の騒動の発端は、私が娘を妊娠した一一年前に遡ります。当時の私は大学生であり、兄は病院の医師でした。ある日、当時兄の同僚だった産婦人科医の方が、自身の研究に協力することを私に要請しました。その内容は一連の報道にもありますように、私自身の精子と卵子による体外受精で、子を産むことです。そのあまりの悍ましさに、私はすぐさま拒否をしました。ですが、兄は研究に協力するよう、私に強く命令しました。なぜなら、兄は手術ミスによって患者を一人死なせ、それを同僚の産婦人科医の方が揉み消していたからです。その同僚医師は見返りとして、自身の研究に協力するよう兄を脅迫しました。兄は己の保身のために、弟である私を売り渡したのです』


 開幕からいきなり、真一の医療ミスを暴露したことで、報道陣がどよめいた。世間に公表されず、闇に葬り去られていた事件に驚きを隠せないようだ。同時に、碧が自己正当化のために、口からでまかせを言っているのだろう、という疑いの目を一斉に向けてくる。


『研究に協力させられた私は、妊娠し一年後に娘を出産しました。その数日後に研究が世間に明るみに出て、兄は己の保身のために、今度はマスコミの前で真実を捻じ曲げて公表したのです。当時の私は兄の言いなりになるばかりで、闘う勇気を持てませんでした。一方の兄は、自分が世間からの同情を得るために、娘を利用するようになりました。マスコミの取材やテレビ番組制作などを通じて、娘を《可哀想な子》として売り出し、その保護者である自分への同情を集めていました』


 ここにいる報道陣のうちの何人かは、真一の企みに加担していたはずだ。忘れたとは言わせない。碧の言葉の裏には、そんな敵意が仄めかされていた。


『当時の私は正直を申し上げますと、娘を愛することができませんでした。誰かと愛し合った末の授かりものではなく、自分一人の精子と卵子で産んだ我が子に対し、恐れを抱いている部分がありましたので。そんな私が娘に対する考え方を変える、最大の転換期となったのが、三か月検診で娘の足の障碍を知ったときのことです。兄は、娘が障碍を患っていることに、微塵も悲しむ様子を見せませんでした。それどころか、娘がさらに世間から《可哀想な子》として同情してもらえるのだ、と喜んでさえいました』


 娘を最初から愛してあげられなかった、親としてあまりに重い罪。けっして忘れてはならない記憶を、碧はマイクを通じて声に乗せていく。


『兄や母は、性分化疾患である私を幼いころから忌み嫌い、ずっと疎んじていました。そんな私を唯一愛してくれたのが、亡き父です。その父でさえ、おそらく最初は私をどう愛してあげれば良いのか、悩んでいたのではないかと思います。そのことを思い出した私は、娘を疎む己を強く恥じました。これでは、兄や母と同じではないか。まだ何も知らない赤子の娘を、たった一人の親である私が支えてあげなければいけないのではないか。愛せないのなら、愛せるように娘と向き合うべきだ――そう強く誓いました』


 碧は正面を見据え、力強く断言する。


 かつては亡き父が家族である碧を愛し、心を支えてくれた。今は碧が親の立場となり、この身にかえても守りたい家族がいる。碧にとって翡翠はかけがえのない愛娘であり、翡翠にとっても碧はこの世に一人だけの親なのだから。


 翡翠。あの眩しい笑顔を失わせてたまるものか。


『それから四年後、私は娘を連れて実家から逃げ出しました。もうこれ以上、娘を兄の操り人形にさせたくなかったからです。兄から追っ手を差し向けられるのを防ぐため、私はこれまでの兄の所業をマスコミに全て暴露するぞ、と兄に迫りました。そうして兄を黙らせ、私は娘と共に自由を得ました。マスコミや世間による見世物小屋にならない、という自由です』


 世間の人々は、碧を悪逆非道の輩と見なしている。今更その評価を覆し、味方に引き込むことは難しい。それゆえに碧は、被弾を覚悟で喧嘩を買う道を選択したのだ。この場にいる報道陣や、この会見をテレビで見ている民衆に対する、真っ向からの批判。ざわめきと敵意が会議室内に充満していく。なおも碧は攻撃の手を緩めない。


『しかし、最近になって兄は、自分の違法献金事件を誤魔化すために、再び娘を担ぎ上げようとしました。私は、もう一〇年前のように兄の命令に従い、娘を世間の晒し者にさせるつもりはありません。あの子の親として、兄の魔の手から娘を全力で守ります』


 碧がそう言い終えると、隣の席に座る眉村がマイクを握る。


『それでは、質疑応答に移りたいと思います』


 すぐに報道陣が挙手を重ね、眉村がそのうちの一人を指名する。当てられた若い男性記者が、マイクを持って起立した。


『毎朝新聞の近藤です。新城議員が医療ミスをしていた、という証拠はどこにあるのでしょうか。あなたがこの会見のために作り出した、嘘出まかせなのではありませんか』

『その証拠については、今後の裁判で提出する予定です。また、この会見の後日、全体の一部ではありますが、メディアの方々にも公開させていただきます。それがなければ、六年前に兄が娘を手放すことはなかったはずです。もしも、それを脅迫罪として兄が訴えるのであれば、私も受けて立ちます』


 碧の冷静な口調に、記者がムッとした様子で着席した。素人の碧がオロオロする様を見たかったのだろうが、そのような希望を叶えてやるつもりなど、碧には毛頭ない。


 眉村に指名された次の女性記者が、起立する。歳は三十路といったところか、濃い目の化粧が鼻につく女性だった。


『曙テレビの安本です。あなたが実家を出る際、新城議員から多額の金を持ち出した、という一部報道もありますが』

『私が実家にいた間は、娘の養育費や私の学費などを兄に出してもらっていました。ですが独立してからは、私は兄と縁を切っています。兄からの援助を一切受けていませんし、兄の金を盗んでもいません。その分、裕福とはお世辞にもいえず、慎ましい生活を送っております』


 つい最近、四〇〇〇万を交渉材料にされたが、とはさすがに碧も言えない。あの場での証拠がないため、それを言ってしまえば名誉棄損になってしまう恐れがあるからだ。


『週刊報徳の相磯です。あなたが、娘さんを虐待している、という証言がありますが』

『どこの誰がそのような嘘をついたのか、私には分かりません。娘の身体に、虐待の傷痕を見たわけでもないでしょうに』

『近所の方が、あなたが娘さんに罵声を浴びせながら殴っていた様子を何度となく見た、と証言しているんですよ。虐待の傷痕については、学校側が気づいていないはずがありません。学校側がこれ以上の問題事を隠すために、黙っているんじゃないんですか』

『近所とはまさか、私達親子が暮らすマンションの住人の方々、という意味ではありませんよね? 少なくともマンションの住人の方々は、今回の件について私と娘を全力で応援する、とおっしゃって下さいました。もしお疑いになるのであれば、管理人の方に直接お尋ねください。もちろん、善良な市民に対する最低限の良識をお忘れなく。それと、虐待の痕を調べたいとおっしゃるのであれば、児童相談所あるいは警察の方に、娘の身体を見ていただいても、一向にかまいません。ただし、娘を見世物にするつもりはありませんので、マスコミの方にお見せするつもりはありませんが』


 碧はそう言って、マスコミを牽制した。翡翠をこれ以上、「可哀想な子」として利用されてたまるものか――と胸中で罵倒する。


 週刊新朝の記者と入れ替わりに、次の記者が起立する。こちらは恰幅の良い中年の男性である。先程の二名と比べ、記者としての経験が豊富で手強そうだ。碧はさらに気を引き締めて、記者の質問に立ち向かう。


『週刊未来の寺門です。あなたがそこまで強情に娘さんを手放したくない理由について、おうかがいします。あなたは、娘さんを人形として扱い、世間から同情を買うことで、自分の不幸な生い立ちによる心の傷を癒そうとしているんじゃないですか』


 それまでの質問よりも、さらに攻撃的な質問だった。言い逃れできまい、と言いたげに記者は意地の悪い笑みを浮かべる。週刊未来。この連中が、今回の騒動の引き金を引いた張本人なのだ。碧は胸の内で沸き立つ憎悪を、理性で必死にコントロールする。


『世間からの同情を買いたいとは、私も娘も全く考えておりません。私達は普通の人々と同じように、穏やかな生活を送りたいだけです。それを破壊するきっかけとなったのが、他でもなくあなた方週刊未来の記事です。あなた方は、刺激的な記事を書くために、娘に突撃取材を行ないましたね。それこそ、世間の同情を買うことによって、雑誌の売上部数を伸ばすために』

『我々はジャーナリズムの精神に則り、あなたに利用されている翡翠さんの心を知りたかったのです。あなたのその傲慢に満ちた洗脳教育の実態を、世間の皆様に知っていただきたかったのですよ。翡翠さんは、あなた一人の精子と卵子から生まれたお子さんですよね。そんな翡翠さんをご自分の《複製品》として扱うことで、あなたご自身が送ることができなかった、理想の人生を重ね見ているのではありませんか』


 記者は、質問に猛毒を塗り込んで来る。対する碧は平静な表情の仮面をつけたまま、内心では燃えたぎる感情に対して、理性のブレーキを踏み続けていた。


 だが、さすがにもう我慢の限界だ。二度と「その単語」を使わせてたまるものか。こめかみに太い青筋を刻みつけた碧は、感情のアクセルを力強く踏み込んだ。


『今、あなたはあの子のことを《複製品》と表現なさいましたね?』


 碧の質問返しに対し、記者は「それがどうした」と言いたげな眼差しを向けてくる。正義の代弁者様は、自分の発言の正しさを微塵も疑っていないのだろう。


『小学生に対して侮蔑的な言葉で傷口を抉っていたぶり、悲しみ涙をこぼす様子を喜んで記事にする。そのような取材姿勢は傲慢ではないのでしょうか? もしもあの記事が、正義感に燃えた結果だとおっしゃるのなら、その神経の図太さを私は心底軽蔑します』


 碧の声に鋭利さが増したのを感じ取ったのか、隣で座る眉村が自分の手を碧の手に重ねた。冷静になれ、というサインだ。記者からどんな挑発的な質問を受けても、こちらが下手に過剰反応すれば相手の思う壺だ。


 もちろん、碧とてそれは理解している。それでも、この会議室にいる記者達や、茶の間で生中継を見ている世間の連中に、どうしても言ってやらなければ気が済まない。


『自分達の批判は正義であると信じ込み。その正義のためなら、相手の人権をいくら踏みにじってもかまわない。そのような方々の行いこそが、娘のように希少な境遇の子に対する、最も卑劣な差別でしょう』


 卑劣な差別。その過激な言葉を、碧はあえて選択した。まるで、中学生の少女のように、潤いに満ちた可愛らしい顔。その表情こそ落ち着きを保っているが、瞳に宿る敵意までは隠せなかった。


 それに目ざとく気づいた報道陣は、全員揃って真剣そうな仮面を被りながらも、目の奥は笑っている。きっと、「よしよし、上手く怒りを煽れたぞ」と内心喜んでいるに違いない。


 彼らの悪意に対し、碧は正面から斬り込む。


『確かに、私の心と身体は男でも女でもない、中途半端なものです。娘は、私一人の精子と卵子から生まれた、特異な出生の子です。共に、世間一般における「普通」とは呼べない存在なのでしょう。ですが、あの子は断じて複製品や人形などではありません。血の通った、幼くも健気に生きる一人の人間です。重ねて申し上げますが、性分化疾患である私も、複雑な経緯を経て生まれた娘も、世間からの注目など浴びたいとは思いません。家族二人で、ただ穏やかに暮らしていきたいだけなのです。もちろん、それには周囲の理解が必要不可欠であり、とても困難であることは事実です。それなのに、あなた方の遠慮のない言葉の暴力が、あの子の心をどんなに傷つけていることか、ご理解いただけないでしょうか』

『私達はそんなつもりは――』

『ない、と言い切れますか。ここにいらっしゃる報道陣の方々や、この会見をテレビでご覧になっている視聴者の方々ご自身が、あの子のことを複製品や人形として見ていないと言い切れるのですか。何度でも繰り返しますよ。私の遺伝子を色濃く引き継ぎ、よく似た容姿を持っていても、あの子は一人の人間です。私にとって何よりも大切な愛娘なのです。あの子のためにも、二度と複製品などという蔑みの言葉を使用しないで下さい』


 反論しようとする記者を、碧は冷静な声で押し潰す。これらの発言内容は、翡翠の人としての尊厳を守るために、絶対に退いてはいけない一線だった。


『たとえ、多くの方々の目には歪と見られようとも、私達二人は別々の人格と身体を持った異なる人間同士であり、家族として手を取り合って暮らしています。その愛情は、他のご家庭と何ら変わらないものであると信じています。どうか皆様、私達親子をあたたかい目で見守って下さいますよう、お願い申し上げます』


 そう言い終えた碧は、マイクを机に置く。真っすぐに立ち上がり、細身を折り曲げてお辞儀した。


 報道陣のカメラのフラッシュが、碧に降り注ぐ。


 それからしばらくの質疑応答の末、記者会見の幕は閉じられた。

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