第45話 予想外の接点

 伊勢市から車で約一時間。国道を通って北上し、同じ三重県の津市へと向かう。目的地は駅前にある、「眉村弁護士事務所」と看板を掲げられた建物だ。先程、評判の良い弁護士事務所を三橋に教えてもらったのである。


『あそこの所長の母親とは、古い知り合いでね。所長とも、時折電話で近況報告をもらう程度には親交がある。きっと、あんたの心強い助けになってくれるはずさ』


 そう言ってくれた三橋だったが、何か含みがあるような笑みだった。先程の話の流れから、彼女は意味のない冗談を言うことはあるまい。おそらくは、何かサプライズ的な情報が待っているのだろう。


 県庁所在地である津市内の駅近郊ともなると、街は華やかな彩りに包まれていた。さすがに都会と比べると幾分も見劣りするが、建ち並ぶビルや人込みを視界に入れると、碧はどうしても自分達の暮らす町と比較してしまうのだった。もちろん、伊勢市とて賑やかな地域も存在するのだが。


 眉村弁護士事務所内にある駐車場に、碧は車を止める。


「お父さん、ここって何をするところなの?」

「んー、ドラマやニュースで、裁判の様子を見たことがあるだろう?」

「犯人の人に、『ちょーえき何年』って言うやつ?」

「そう、それ。その裁判で犯人を庇ってくれる人が、ここで働いているんだ」

「え、じゃあ、お父さんも捕まるの?」


 翡翠は、心配そうに碧のワイシャツの端を掴む。説明の仕方が下手だったかな、と反省しつつ、碧は苦笑した。


「違うよ。裁判というのは、犯人に罰を与える以外にも種類があるんだ。たとえば、クラスで喧嘩が起きたときに、喧嘩した子達にそれぞれ味方して庇ってくれる子が現れるだろう? 弁護士はその庇ってくれる人のこと。喧嘩を話し合いで決着させるために、味方してくれるんだ」

「へー」


 建物の扉を開け、碧は先に車椅子の翡翠を行かせる。その後ろでは、報道陣が車で追いついてきたようだ。捕まって詮索をされる前に、碧も中に入った。


「眉村弁護士事務所です。本日は、どんなご依頼でしょうか」


 メガネをかけた受付の若い女性が、柔和な笑顔で応対に現れた。


「親権の訴訟について、相談に伺いました」

「では、奥の面談室へとお通し致しますね」


 受付の女性の背中を追って、碧は翡翠の車椅子を後ろから押してやる。その途中、従業員達のオフィスを通り過ぎていく。休日だというのに、六人の従業員達が書類仕事に勤しんでいた。その中のうちの何人が弁護士なのだろうか、と碧は疑問を抱く。


 そこへ、別の若い女性従業員が入ってくる。


「よろしければ話し合いの間、娘さんをキッズルームでお預かりしましょうか」

「お願いしてもよろしいですか」

「はい、もちろん。えっと、お名前は?」


 後半の問いかけは、翡翠に対してのものだ。翡翠は、少し上ずった声で自己紹介をする。


「は、はじめまして、新城翡翠ですっ」

「そう、翡翠ちゃんっていうのね。じゃあ翡翠ちゃん、お姉さんとこっちへ行こうか」

「え、あの、でも」


 翡翠は眼前の女性従業員と傍らの碧を交互に見上げ、縋るように碧の手首を強く掴んできた。やはり、まだ碧と離れるのが怖いようだ。碧は翡翠を安心させるため、その小さな肩に優しく手を置いた。


「大丈夫。僕は、ここの人と大事なお話があるけど、この建物から出たりはしないから」

「……うん、わかった」


 どうにか納得してくれた翡翠は、女性従業員に連れられて別室へと向かう。それを見送った後、碧はオフィスの奥へと足を運んだ。案内されたのは、落ち着いたインテリアで飾られた一室だ。受付の女性に勧められ、碧はソファに腰かける。


 それから少しの間を置いて、三〇代後半と思われる女性が面談室へと入ってきた。落ち着いたグレー色のスーツを着こなし、長い黒髪を後ろで束ねている。バリバリのキャリアウーマン、といった雰囲気の持ち主だ。


「どうもっ、お待たせしてすみません。私、当事務所の代表の眉村明美と申します」

「こちらこそ、急に押しかけてすみません。新城碧といいます。一緒に連れてきたのは、娘の翡翠です」


 女――眉村は碧の自己紹介を聞き、何か気づいたように連続して瞬きする。


「新城。もしかして今、テレビで騒がれている、あの新城碧さんですかっ?」

「ご存じでしたか」

「まあ、これだけ派手に報道されていますからねっ。あっ、ひょっとして、本日いらっしゃったのも、その関係でしょうか?」


 眉村は凛とした力強い笑みを向け、碧の対面のソファに腰かけた。それは良いのだが、いちいち声が甲高く大きい。まるで、蒸気機関車のように、有り余った元気が頭から噴き出しているかのようだ。……まあ、ともかく話が早いので、碧としてはありがたい。しつこいマスコミの報道も、少しは役に立つようである。


 碧は話の切り出しとして、あのことに触れておく。


「実は、三橋紗子さん、という方にこちらの弁護士事務所を紹介していただきまして。お名前をご存じでしょうか」

「え、三橋さん? い、伊勢にお住まいの三橋紗子さんのことですかっ?」


 三橋の名を聞いた眉村は、一転して声を裏返らせ、頬を引きつらせた。懐かしさの中に、どこか怯えが入り混じったかのような声。自身の過去でも思い出したのか、どこかきまり悪そうに、苦笑しながら後頭部を掻く。


「……いやぁ、参りましたね。あの人とうちの母は古い友人でして。私は幼いころから、あの人に頭が上がらないんですよ。なにせ、悪戯をするたびに、頭に拳骨でお仕置きされていましたから」


 眉村と三橋の思わぬ昔話を受け、碧も釣られて笑みをこぼす。碧自身も、三橋から料理の教えを受ける際、何度も同じ失敗をすると平手で頭を叩かれているのだ。碧も眉村も、同じ相手から厳しい教育を受けた仲間というわけか。


「三橋さんがご結婚し、故郷をお離れになってからも、母との交流は続いていました。私が、若手時代に勤めていた弁護士事務所から独立する際にも。あの人に相談し、この地を紹介していただいたんです」

「へえ、そうだったんですか」


 眉村と三橋の強い信頼関係に対し、碧は素直に感心した。


「三橋さんが当事務所――というよりも、私をご紹介して下さったということは、おそらくは新城さんのご依頼内容とも大きな関係があるのでしょうね。っとと、つい話が脱線してしまいました、すみません」


 眉村は二度深く頷き、本題に戻る。


「一部の報道によれば、新城真一議員が娘さんの親権について争うと主張しているようですけれど」

「はい。昨日、家に兄の顧問弁護士が来ました。最初は翡翠を差し出す見返りとして、一連の報道を鎮めてやると。それを断ると、次は大金を取引材料として見せて来ました」

「そのお金は?」

「もちろん、受け取りませんでした」


 碧が昨夜についての説明をすると、眉村は「なるほど、なるほど」と右人差し指で顎を軽く突いた。思考するときの癖なのかもしれない。朗らかな笑みを浮かべてはいるが、同時に探るような鋭い眼差しが碧へと向けられる。


「新城さん。できれば、一〇年前の騒動の経緯についても詳しくお聞かせ願えますか。メディアの報道では、少々偏りがあるように感じられましたから」

「分かりました」


 眉村の頼みを受け、碧は説明を行う。自分の出生から、早乙女の研究、翡翠を連れて実家を出たことなど、包み隠さず打ち明けた。眉村はそれを聞きながら、時々質問を挟み、しきりに頷く。どうやら碧の話をもとに、自分の頭の中で整理整頓を行なっているらしい。


 全てを話し終えた碧は、持ってきた手提げ鞄から、外付けのハードディスクを取り出す。その中身を知る由もない眉村は、「これは何ですか?」と小首を傾げた。


「この中に、兄と母の会話を録音した音声が入っています」

「中のデータを確認させていただいても、よろしいですか?」


 眉村は、部屋の外で待機していた受付の女に声をかけ、ノートパソコンを持ってこさせる。それにハードディスクのケーブルを繋げ、何百と並ぶ音声ファイルのうちの一つを再生させた。


「これは……」


 音声ファイルは、真一と早苗が翡翠をあげつらう様子を記録していた。さらに、自らの「信用」についての持論を展開し、翡翠と世間を利用して、社会的地位を登り詰めていく計画を自慢げに語っている。


 それらを大まかに確認し終えた眉村は、力強い笑みを浮かべた。


「後日、訴訟を起こしたとき、証拠として提出し、この音声が本当に新城議員であることを証明させていただきますね。これだけのデータがあれば、裁判でこちらの強い手札となるでしょう」

「昨日の弁護士との会話を録音できていれば、なおのこと良かったのですが」

「いやいやっ。そこはもう、相手の方が一枚上手だった、と諦めるほかありませんよ」


 自分の至らなさを悔やむ碧に対し、眉村は明るい調子で励ます。


「新城議員が、マスコミの前で何度も自己弁護をしているのが、こちらにとっては反撃の糸口になります。何しろ、このデータを裁判で証拠として提出すれば、新城議員の記者会見などでの発言の信用性が失われますからね。もちろん、『昔は昔。離れて暮らしていくうちに、愛情は生まれていった』と言い逃れようとするでしょうけど。それでも、裁判でのマイナスイメージは避けられません」


 眉村は、イタズラ好きの子どものような、少し意地の悪い笑みを浮かべる。


「それから、体外受精の研究を行なった、早乙女友里恵という医師についてですけどね。彼女については、ツテがないわけではありません」

「本当ですか?」


 さすがに早乙女の行方を知るのは無理だろう、と碧は最初から諦めていた。何しろ、翡翠を出産した数日後に病室で会って以来、彼女とは言葉を交わしていないのだ。研究が明るみに出て、マスコミに叩かれ、病院側から解雇されたことまでは、テレビのニュース番組などで知っている。

 なぜ眉村が早乙女の情報を持っているのだろうか。碧がそう問いかける前に、眉村が説明をする。


「彼女は、私の母と高校時代の友人でして。一〇年前の騒動が落ち着いた後も、何度か連絡を取り合っていたそうです。どうやら母は、三橋さんにもその辺りの事情について、過去に話したことがあったようですね。おそらくですが、三橋さんも早乙女さんと何らかの形で旧知だったのかもしれません」

「三人は、そんなご関係だったんですか」


 碧はさすがに驚きを隠しきれず、思わず何度も瞬きした。それから、今朝の管理人室での、三橋の意味ありげな笑みを思い出す。


(そうか。三橋さんがここを紹介してくれた理由の一つが、これだったのか)


 碧は以前、一〇年前の真相を三橋に話してある。早乙女とのパイプ――これこそが、最も大きなサプライズだったのだ。


「ええ。そこで、『体外受精研究の取引として、新城議員の医療ミスを裏取引で揉み消した』という証言を早乙女さんにお願いしようと思います。事実が明るみに出れば、新城議員の社会的信用に響きますし、彼が翡翠さんの親権を得る資格にも大きく影響します。もちろん、証言には裏付けが必要となりますけどね」


 眉村の提案を聞いた碧は、闇の中に光明が見えた気がした。


 三橋と早乙女が過去と現在、どの程度親しい仲であるのか、碧には当然ながら知らない。仮に、二人の縁が遠くなっているならば。三橋が直接早乙女に連絡を取るよりも、眉村(あるいは眉村の母)にさせた方が、話が上手くいく可能性が高いのではないか。三橋はそう考慮していたのかもしれない。


「それに何よりも、この裏取引を証言するのは、早乙女さんにとっても大きなリスクとなります。ですから残念ながら、早乙女さんに証言していただける保証はありません」


 眉村の懸念は当然ではある。早乙女が現在、どこで何をしているのは分からないが、現在の社会的立場すら失いかねないのだ。素直に協力してもらえるとは考えにくい。

 このまま碧が、一〇年前の真一の医療ミスをマスコミに公表したところで、苦し紛れの嘘だと一蹴される可能性が極めて高い。西神総合病院側は既に事実を揉み消しており、関係者も口を閉ざしている。一〇年前に真一から聞いた話によれば、例の手術の関係者には多額の金を払うのと同時に、圧力をかけていたという。そんな彼らが真一と碧の内輪もめのために、今更真実を告白してはくれまい。


 隠蔽された過去。それをこじ開ける鍵の一つが、早乙女の存在だ。

 早乙女は、あの体外受精研究の中心人物であり、当時の医局でそれなりの権力を持っていた。といっても、彼女の証言単体では説得力が低いだろう。なにせ、世論で徹底的に叩かれた極悪人、というのが一般人の認識である。きっと民衆からは、「何を今更」と冷ややかに見られてしまうのがオチに違いない。


 そこで放つ第二の矢が、例の音声データ。あれらの中には、早乙女に利用されていたころの鬱憤と、それを逆転した痛快さを語る真一の肉声も入っていた。命を救う医師であった真一が、早乙女に自らの意思で追従し、碧と翡翠親子を差し出したという裏付けである。


 これらの餌に対し、マスコミが食らいついてくれたなら。消されたはずの裏事情を暴き出す突破口となる。連中を煽り、真一の発言の信用性を徹底的に叩きのめすのだ。


 碧にとって、一世一代の大博打。


 相手が実の兄だからといって、情けや容赦を見せる余裕など、今の碧は持ち合わせていない。無論、賭けに負ければ、碧側に跳ね返ってくる猛毒でもあった。


 その毒は西神総合病院の関係者をはじめ、名も知らぬ多くの人々を激しい混乱に巻き込むことになる。中には責任を取って、職を失う者も現れるかもしれない。他に取れる手段が思いつかない碧は、我が子可愛さで、身勝手極まりない道を選ぶと決めたのだ。そうした自分の醜悪この上ないエゴから、けっして目を背けてはいけない。


「早乙女さんとのコンタクトについては、こちらでさせていただきます。けど、あまり期待はなさらないで下さいねっ」


 つまり、ダメで元々、ということだ。碧は淡い希望を胸の奥に押し込め、話を続ける。


「裁判には、どれくらいの時間がかかりそうですか?」

「まず、一か月程度では終わりません。短くて半年、長ければ一年以上はかかるでしょう。新城議員も社会的立場を失いかねませんから、しつこく食らいついてくるでしょうし」


 少なくとも裁判が終了するまでの間は、世間やマスコミからのバッシングが止むことがないだろう。長丁場となるが、翡翠を守るためにも耐えなければならない。そんな碧の心中を察したのか、眉村は勇気づけるように拳を握って見せる。


「でも、心配なさらないで下さい、新城さん! 親権争いの裁判の場合、現保護者に重要視されるのは『その人が、保護者としての義務をきちんと果たせているか』です。それについては新城さんの場合、職場の方や、マンションの住人の方々にも証言していただけるでしょうから」

「そうですか、良かった」


 眉村の心強い言葉を受け、碧は芯の通った覚悟の言葉を返す。


「この裁判には、絶対に負けられません。娘の未来のために」

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