第44話 帰る居場所
●二〇一九年 四月二一日(土曜日)
貴重な休日の朝は、生憎の曇り空となっていた。それでも、天気予報は降水確率を〇パーセントとしており、どうやら洗濯物をベランダで干しておいても大丈夫そうだ。碧と翡翠は自宅を出ると、まず一階の管理人室のチャイムを鳴らした。
「マンションを出たい、だって?」
玄関の扉を開けた三橋は、寝耳に水とばかりに怪訝そうな顔をする。だが、碧が至って真面目な表情を浮かべているため、冗談ではなさそうだと考えてくれたようだ。とりあえず、碧と翡翠を管理人室の中へと入れた。居間のソファに腰を下ろし、三橋は細腕を組む。碧は正面の席に腰かけ、翡翠もソファの傍に車椅子を止めた。
「どういうつもりなんだい?」
「今回の報道により、『フルール』には多大なご迷惑をおかけしています。ですが、騒動の原因である僕達が出て行けば、マスコミも消えてくれるはずです」
「あたしに、あんた達を追い出せって言いたいのかい? 冗談じゃない」
論外だ、とばかりに首を左右に振る三橋。だが、碧も簡単には退かない。
「このままでは、このマンションそのもののイメージダウンに繋がってしまいます。現に、住人の方々のプライバシーも侵害されていますし」
「仮にここを出て行ったとして、だ。次に住むところで、あんた達は安心して暮らしていけるのかい?」
「それは」
「無理だろうさ。マスコミはあんた達を地の果てまでも追う。あんたが逃げれば、それは後ろめたいことがあるせいなんだ、って考えるだろう。たとえ、あんた達が追い込まれて一家心中したところで、連中が反省するはずがない。他人の罪はいくらでも追及するのに、自分達の責任には触れようともしないんだ。せいぜい、『こんな不幸をどうして防げなかったんでしょうかね』とか言って、いけしゃあしゃあと無関係を装うだけだよ。世間に浸透する『真実』っていうのは、そうやって作り上げられていくんだ」
三橋は忌々しげに顔をしかめる。
「民衆も同じさ。二〇五号室の芹沢の兄ちゃんから聞いた話じゃ、近頃はインターネットを使って、匿名の連中が手前勝手な正義を振りかざしているそうじゃないか。その自称正義の味方とやらは、マスコミの放送した映像や、この辺りの地域に住む人間のタレコミなどから、ここの住所まで特定したらしいんだけどね。おかげで昨日から、罵詈雑言の電話がいくつもかかってきたよ。あんたの家もそうなんだろう?」
「……はい」
碧の自宅の電話番号も、ネット上で拡散しているらしい。悪意に満ちた電話が次から次へとかかってくるので、碧は自宅の電話機の電源コードを引っこ抜いてしまった。携帯電話の番号までは、現時点でまだ流出していないようだが、時間の問題なのかもしれない。
「膨大に膨れ上がった民意は、暴力や私刑の免罪符になる。一度標的にされた人間は、世間様が飽きて、次の玩具を見つけるまで我慢しなきゃならない。だけど、あたし達はこのまま泣き寝入りするつもりはないからね」
三橋は『あたし達』を強調し、碧の顔を正面から見据える。
「あたしは管理人として、絶対にあんた達を追い出したりなんてしない。この件については昨日のうちに、他の住人達からも了承を得ている。みんな、快く頷いてくれたよ。だから、あんた達が外でどんな罵声を浴びせられようとも、このマンションはあんた達の帰る場所を用意して待っている。それくらいしか、あたし達にはできないからねえ」
「いや、ですが」
「ですが、も、へったくれもないよ。あたしがいつも、このマンションの住人を家族だ、って言っているのは、伊達じゃない。住人が危機のときに身体を張る。それが管理人の責務なんだ」
三橋の気迫に、碧はこれ以上の反論を言葉にできない。積み重ねた歳月の違いなのか、それとも踏んだ場数の差か。三橋は翡翠の手をそっと握り、いくつもの小皺が刻まれた顔に微笑みを浮かべた。
「それにね、あたしはこの子の成長を見守りたいんだよ。あたしにとって、この子は孫みたいなものなんだ。――だから」
翡翠から手を離すと、三橋は次に碧の胸を拳で小突く。
「あんたも、この子を守るために気張りな。父親なんだろう?」
今時、たかが一住人のために、ここまで身を挺してくれる人間が何人いるのだろうか。碧は声を震わせ、ただただ深謝するばかりだった。
「……ありがとうございます」
管理人室を出た碧と翡翠は、駐車場へと向かう。目的地が目的地であることと、外に出ればマスコミの攻撃に晒されるため、碧としてはできれば翡翠に留守番をしてもらいたかった。だが、翡翠がどうしても聞き入れてくれないのだ。どうやら、昨日の一件が尾を引いているせいで、碧が近くにいないと不安になってしまうようである。結局、碧が根負けしてしまった。
そうしてマンションの建物から一歩踏み出すと、外で張り込んでいた報道陣が、一斉に群がってきた。
「新城さん、どちらに行かれるんですか!」
「お子さんを自由にしてあげないんですか!」
「そうやって、お子さんを首輪に繋いだままなんですか!」
まるで、碧が翡翠をペットとして引き連れている、と言わんばかりの追及だった。
「お父さんのことを悪く言わないでっ!」
たまらず翡翠が車椅子に座ったまま、報道陣に怒鳴る。それは逆効果でしかない。記者達の目には、翡翠が碧に洗脳されていると映るだろう。碧が静かな声で翡翠を制した。
「翡翠。ダメだよ」
「でもっ!」
「今は我慢だ」
碧の言葉に、翡翠は渋々引き下がる。そのやり取りが記事の肥やしになると思ったのか、報道陣のカメラのシャッター音がいくつも重なった。報道陣はさらに追ってくるが、碧は徹底的に無視をして車のもとへ辿り着く。いつものように翡翠を後部座席に乗せ、車椅子を畳んで後ろのトランクに入れる。そうして自分も運転席に乗ろうとすると、そのドアの隙間に記者の一人が強引に足を挟ませてきた。
「新城さん、娘さんはあなたの自己満足のための人形じゃないんですよ! それを分かっているんですか!」
「……先を急ぎますので、その足をどかせて下さい」
碧は込み上がる苛立ちを表情に出さず、記者の足をやんわりと押しのけた。車のエンジンをつけ、報道陣を跳ね飛ばさないよう気をつけて発進させる。
「追え、追えっ!」
記者達は、近所に停めてあった自分達の車に乗り込んでいく。そんな連中にいちいち付き合っていては、碧達の精神が持たない。
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