第43話 宣戦布告
すっかり泣き疲れて眠ってしまった翡翠を、碧は抱きあげて翡翠の部屋まで運ぶ。起こさないよう、そっとベッドに寝かせて、掛け布団をかけてやった。
居間に戻ると、翡翠が電源をつけたままのテレビが、ニュース番組の続きを発信していた。映し出されたのは、報道陣に囲まれた真一だ。背景にあるのは、碧にとって懐かしくも忌々しい、実家の玄関前だった。どうやら自宅に入ろうとしたところを、マスコミに捕まったらしい。
『私はこの家で責任をもって、翡翠を育てようとしました。それなのに弟の碧は、家の金を奪い、翡翠を拉致する形で姿を消したのです。一部の報道にもありますように、弟は性分化疾患ゆえに、幼いころからひどい差別を受けていました。もちろん、守れなかった私達にも責任はあります。ですが、今の弟にとって翡翠は《複製品》でしかありません。翡翠を皆に愛してもらうことによって、自分の心の傷を埋めようとしているのです。翡翠の気持ちなど知ろうともせず、親としての愛情を持とうとも考えていません。この六年間、私は専門の方にお願いし、行方を突き止めて、何度も翡翠を引き渡すよう弟に要求しました。ですが、弟は取り合ってくれません。自分しか愛していない弟は、翡翠を失えば心を支えるものがなくなります。それを知っているからこそ、弟は私の意見に耳を傾けないのです。翡翠の将来を思えば、話し合いをこれ以上ダラダラと続けるのは、時間の浪費でしかありません。近々、私は翡翠の親権を取り戻すために、訴訟の手続きをするつもりです』
真一は大仰に涙を流し、弁明を続けている。碧を一方的な悪とすることで、翡翠の親権を奪い取り、世間からのバッシングを軽減させるつもりなのだろう。だが、一〇年前と違い、マスコミは今の真一に同情しない。碧と翡翠のことをダシにして、真の狙いである違法献金の件を追及していく。
その中継を見る碧の耳を、一つの単語が百足のように這いずり回っている。
複製品。真一も、マスコミと同じように翡翠をそう表現した。かつて翡翠が生まれたばかりのころ、碧もそのうちの一人だった。しかし、そんな残酷な言葉で切りつけられる理由が、翡翠にはあるというのだろうか。
生まれが特殊だから? 生まれつき歩けないから?
どちらも、翡翠自身にはどうしようもできないことだ。それにも関わらず世間の見世物にされて、哀れみという名の差別を受けなければならないとでもいうのか。
これ以上の報道を見ても、胸糞が悪くなるだけだ。碧はテレビの電源を切ろうと、テーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばす。それを見計らったかのように、玄関のチャイムが鳴り響いた。碧は壁に設置されたインターフォンのスイッチを入れ、応答に出る。
「はい、どちら様でしょうか」
『私、弁護士の斎藤と申します。新城真一先生の代理人として、参りました』
訪問者の名乗りに、碧は身を強張らせる。まるで見計らったかのようなタイミングだ。
碧側に伝家の宝刀である録音データがあるにも関わらず、真一が正面から打って出てきた。おそらく、自分へのバッシング報道を受け、後がなくなったためであろう。あれほど「信用」を最も大事にする男が、批判の的となったのだ。一刻も早く翡翠を手に入れて、世間の同情を買うことにより、イメージダウンを少しでも軽減したいはずだった。
碧が翡翠を連れ実家を出てから、六年以上の月日が経つ。これまでは冷戦状態だった碧と真一だが、尻に火のついた真一側がようやく本格的に動き出した、というわけだ。
碧は深呼吸を一つしてから、玄関の扉を開く。待ち受けていたのは、中年に差し掛かったくらいの顔立ちの男性だった。ビジネススーツをきっちりと着こなし、黒い髪を短く切りそろえている。真っ直ぐにこちらを見据え、仮面のように薄い微笑みを浮かべた表情からは、隙が見当たらない。その左手に、何やら黒塗りの大型鞄を持っていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。お邪魔致します」
碧は客用のスリッパを用意し、居間へと先行する。相手に背中を向けているのは、いかにして守備を固めるべきか、算段する表情を見られないようにするためだ。
(マスコミが外で待ち構えているのに、あえて代理人がうちに来たってことは、力ずくで翡翠を奪い取るのが目的、ってわけじゃなさそうだな。裁判に向けて宣戦布告をしに来たのか、それとも取引をしに来たのか)
「どうぞ、おかけになって下さい」
「それでは、失礼」
碧に軽く会釈をしてから、斉藤と名乗った弁護士は居間のソファに腰を下ろし、鞄をすぐ傍に置いた。碧は台所の冷蔵庫から、冷えた麦茶の容器を取り出す。二人分のコップに注ぎ、盆の上に置いて居間へと運んでいく。
「ああ、お構いなく」
「いえ。ええと、斉藤さんでしたか。それで、ご用件は?」
などと空々しいことを言いながら、碧はソファに座り、相手の出方を待った。
と同時に、傍らのクッションの下に隠したスマートフォンを、こっそりと操作する。これからの会話を録音するためだ。
斉藤弁護士は碧が身構えていることを見透かしたように、作り物めいた微笑みを浮かべながら話を切り出した。
「本日、こちらにお邪魔させていただいたのは、他でもありません。娘の新城翡翠さんの身柄を、お渡ししていただきたいのです」
「随分と直球ですね」
「ええ。まだるっこい世間話から入るのは、時間の無駄ですので」
斉藤弁護士は穏やかな口調で、碧に先制攻撃を仕掛けてくる。
「私どもの調査によれば、新城さん、あなたがお一人で翡翠さんを育てていらっしゃるそうですね。翡翠さんは車椅子生活を余儀なくされているため、朝は地元の小学校まで車で送っていらっしゃる。しかし、その小学校に勤めるあなたは、帰りの送迎をすることができない。そこで、このマンションの管理人の方に代行をお願いしている、とか。それだけではありません。仕事で帰りがしばしば遅くなり、翡翠さんを管理人や住人の方々に預けていらっしゃるそうですね」
「それが何か?」
「今はまだ、それでもよいのかもしれません。ですが、翡翠さんが成長し、高校や大学に通われるようになったら? このマンションの方々のご厚意にいつまでも甘えているおつもりですか? それで父親としての務めを果たしているといえますか?」
斉藤弁護士が、痛いところを突いてくる。確かに、『フルール』の人々の厚意をいつまでも受けているわけにはいかない。碧はできるだけ弱みを見せないよう、冷静な仮面を念入りに築き上げる。
「兄ならば、翡翠を自ら送迎し、夕方以降は毎日一緒に過ごす、と?」
「いいえ。新城先生は、政治活動でお忙しい身です。奥様が代わりに送迎をなさり、共に過ごされる予定となっています」
真一が結婚していた、という話は初耳だ。あの辛気臭く胡散臭い家に嫁ぎたい、という奇特な人間がよく現れたものだな――碧は会ったことのない義姉に対し、内心で毒を吐く。
「政治活動で忙しいのなら、兄が翡翠を引き取ったところで、保護者として満足に愛情を注げるとは思えませんけれど」
「確かに新城先生は、翡翠さんと過ごされる時間を充分に割くことはできないでしょう。ですが、あの家には新城先生のお母様と、奥様がいらっしゃいます。お母様は、翡翠さんのことをいつも心配しておられ、自分ならば母親代わりになってあげられる、とおっしゃっていますよ。少なくとも、シングルファザーのあなたよりは、翡翠さんに寂しい思いをさせることはありません」
攻撃の手を着々と積み重ねていく斉藤弁護士に対し、碧は負けじと痛烈な言葉を返す。
「僕があの家にいたころ、母はずっと翡翠を蔑んでいました。家に置いてあげるのは、あくまでも兄がのし上がっていくために利用できるからだ、と。そんな母の言葉など、信じられるはずがありません」
「それは、あなたの被害妄想でしょう」
「証拠がある、と言ったら?」
言うまでもなく、あの録音データのことだ。あれには、真一だけでなく、早苗が翡翠に向けた悪意も収められている。碧の反撃に対し、斉藤弁護士は特に動じた様子を見せない。真一があらかじめデータについて話していたのだろう。ポーカーフェイスは、言葉を武器に戦う弁護士の方が数段上のようだ。
「あなたが所持していらっしゃる音声データが、真実であるとは限りません。仮に事実であったとしても、あなた方が家を出てから六年以上の月日が流れています。新城先生やお母様も、翡翠さんと引き離されたことで、翡翠さんへの愛情に改めて気づかされた、とおっしゃっています」
愛情? 碧は思わず皮肉気な笑みを浮かべた。斉藤弁護士に涼しげに受け流される。
「ですが、その音声データを『悪用』されては、新城先生に余計な傷を負わせる羽目になります。……このようにね」
斎藤弁護士はおもむろに身を乗り出し、碧の傍らに置かれたクッションを取り上げた。碧が防ごうとする間も無く、隠されていたスマートフォンが丸出しになる。
「やはり。こういった無粋な代物は、これからのお話には不要です」
勝ち誇るよぅに微笑む斎藤弁護士に対し、碧は下唇を悔しげに噛みしめる。おそらく、斎藤弁護士は最初から碧の小細工を見抜いていたのだろう。アポなしで自宅に乗り込んできたのも、こちらが策を巡らせる暇を与えないためだったに違いない。
「さて、話を戻しましょう。データを全て消去するか、あるいはこちらに渡していただきたい。その見返りとして、現在世間を騒がしている『間違った報道』を、新城先生と私が責任を持って鎮めてみせます。そうすれば、あなたも今のお仕事を続けることができるでしょう。いかがです? 悪い取引ではないと思いますが」
真一にとって随分と都合の良い取引だな、と碧は鼻で笑いそうになる。
真一側は、これ以上碧に弱みを握られ続けたくないため、そして翡翠を手に入れるために、音声データを今すぐにでも手に入れたい。が、大勢のマスコミ連中によって、マンションの周辺を常に見張られているせいで、派手な動きに出られずにいる。以前のように真一が碧の留守を狙い、自分の部下を家に忍び込ませようとすれば、たちまち注目を浴びてしまうだろう。穏便に事を運び、さらに真一が翡翠を手に入れるためには、「自分達が懇願し、譲歩してもらう」などと弱気な姿勢で、主導権を碧側に握らせてはいけない。あくまでも「自分達が条件を提示してあげている」という、上から目線の立場を貫く必要があるのだ。真一が翡翠の親権を奪取するために裁判を起こそうとしているのも、碧を揺さ振るための作戦なのだろう。
しかし、それは本当に裁判にもつれ込んでしまうと、音声データの公開などによって、真一の社会的信用がさらに窮地に陥る、という諸刃の剣でもある。それゆえに真一側は、水面下の交渉で決着をつけたいはずだ。ならば、交渉を決裂させて裁判に持ち込むのが、今の碧にとってのベスト……とまではいかなくとも、ベターな判断であろう。
「それで取引のつもりですか、斉藤さん? 今回の報道も元々の原因は、兄が違法献金を受けていたからでしょう。兄を叩くための材料として、マスコミはこちらを付け狙い、翡翠の存在を面白おかしく記事にしたんです。こちらはあくまでも、兄の失態の巻き添えを受けただけですよ。そんなもの、取引材料になりません」
「では、こちらはいかがでしょう」
そう言って、斉藤弁護士はソファの傍に置いていた鞄を開ける。そこには大量に敷き詰められた札束が、魔性の輝きを放っていた。おそらく、これらの金も例の違法献金によって手に入れたものなのだろう。
「こちらに四〇〇〇万ご用意しています。小学校の養護教諭などという安月給で、障碍者の娘さんを育てていらっしゃるのですから、家計はさぞや苦しいことでしょう?」
「翡翠を引き渡して、この金をマスコミには黙っていろ、と?」
「誰もが笑顔でいられる、最良の選択です」
斉藤弁護士の微笑からは、碧を見下す内心が見え隠れした。金で転んでも誰も文句は言わないよ、と嘲笑っているのだ。確かに彼の言う通り、障碍者の子を育てるには、どうしても金がかかる。翡翠の将来の学費に充てるための貯金もあって、日々の生活のための貯蓄自体は少ない。加えて、中古で購入した愛車のローンも残っている。四〇〇〇万円が手に入り、さらに碧が独り身になれば、かなりの優雅な生活を送ることができるだろう。
そんな甘い誘いと翡翠を天秤にかけること自体が、呆れるほどに馬鹿げている。 自分の享楽のために娘を金で売るつもりなど、碧には毛頭なかった。
「あなた方は、いつもそういった言い回しをなさるんですね」
「と、言いますと?」
「かつて、兄も翡翠を利用する際、似たような表現を使っていました。『皆が満足する最高の展開』とね。ですが、兄もあなたも、肝心の翡翠の心を無視しています。あなた方が描く理想図とやらに、あの子の笑顔が存在しません。あの子の親として、そのような欲望に塗れた人間の元へ差し出すつもりは一切ありませんよ」
碧が要求を突っぱねると、斉藤弁護士の瞳に初めて敵意の火が灯った。せっかく穏便に話を進めてやったのに、とでも言いたげな目だ。微笑みの仮面の奥から、鋭利な視線で碧を射抜いてくる。
「残念です。どうやら、今のあなたは頭に血が上っていらっしゃるようだ。今日のところは、この辺りで失礼させていただきましょう」
「何度いらしても無駄ですよ。兄がマスコミに言いふらしているように、裁判で決着をつけるのが正しい道であるかと」
今回の事件より以前の真一は、自分の信用に傷がつく恐れがあるために、派手な動きに出ることができずにいた。その臆病さこそが、今の真一を厳しい場所に置いている。一発逆転をするには、世間に訴えることが何よりの道だったのだが、真一は違法献金問題のせいで、世論を味方につけることが難しくなってしまった。だからこそ、こうして弁護士を派遣して碧と裏交渉をし、金の力で翡翠を譲り受けようとしたのだろう。しかし、交渉は無残に決裂した。斉藤弁護士の口ぶりでは、どうやら近日中に再び交渉の続きを行うつもりのようだが、真一側がどんなカードを見せてきても、碧は蹴るつもりである。
それでも斉藤弁護士は、作り物めいた微笑の仮面を最後まで外さずに、ソファから立ち上がった。鞄に鍵をかけた彼が背中を向けたところへ、碧は鋭い声を投げかける。
「兄にお伝え下さい。『他人を駒としか見てない兄さんに、翡翠を渡すつもりはない』と」
それは翡翠を守るための、親としての覚悟と宣戦布告だった。
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