第42話 真実の涙

 本音を言えば、碧は翡翠のいる教室へと押しかけてでも、彼女と早く話をしたかった。あるいは、校内放送を使って翡翠を保健室へと呼びたい。だが、校内での二人は「親子」ではなく、あくまでも「教師と児童」の関係だ。公私混同という大きな壁が立ち塞がっており、私的な理由で翡翠と会うわけにはいかない。碧は苛立ちを胸にしまい込み、養護教諭としての思考に無理やり切り替える。児童達の前では普段通りの穏やかな微笑みを浮かべ、一人一人の悩みと真剣に向き合った。


 そうして、放課後を迎え。碧は早退の手続きを取ると、早足で学校を出た。校門前では既にマスコミが構えており、それらを無視して車を走らせる。翡翠のことが気がかりなせいで、つい車のスピードをいつも以上に出してしまいそうになった。


 そうして、『フルール』裏の駐車場へと車を止める。ここにもマスコミが大勢待機しており、碧の帰宅に気づくと車へと一気に押し寄せてきた。


「新城さん、虐待をしているというのは本当ですか!」

「学校を退職するという情報もありますが!」


 数え切れないほどのカメラとマイクを向けられ、碧の胸の中でどす黒い感情が渦巻く。


(正義の代表者面をして、何の罪もない翡翠を傷つけるなっ。言いたいことがあるのなら、僕だけに言え!)


 この場で暴れたいという衝動に駆られながらも、碧は鉄の理性で怒りを抑え込む。怒鳴り散らしても、マスコミが反省などするはずがない。それどころか、記事のネタを与えるだけだろう。


 それに今は、この連中を相手にするよりも、翡翠と話をする方が先決だ。


「……すみません、娘が家で待っていますので」

「新城さん、その娘さんに申し訳ないとは思わないんですか!」

「親として恥ずかしくないんですか!」


 好き勝手なことをまくし立てる報道陣を掻き分け、碧はマンションの建物の中へと入る。管理人室のインターフォンを押すと、すぐに三橋の声が返ってきた。


『ああ、あんたかい! よく帰ってきたね』

「この度は、ご迷惑をおかけし、申し訳ございません」


 低姿勢で謝罪の言葉を述べる碧に対し、管理人室の玄関の扉が開かれる。現れた三橋は、苛立った様子で表情を歪めていた。


「何言ってんだい。いつも言っているだろ、このマンションの住人は皆、あたしにとって家族なんだ。家族を迷惑に感じるなんて、あるわけないさ」

「……ありがとうございます」

「とはいえ、私もあの子の傍にいてあげようと思ったんだけどね。一人になりたい、って頑なに拒絶されたんだ。頼むよ、あの子を支えておくれ」


 三橋に背中を押され、碧は階段を上る。途中、他のマンションの住人達とすれ違った。皆、心配そうに眉を寄せている。彼らもマスコミの不躾な取材に対して、苛立ちを隠せないようだ。彼らを代表して、運送業者の女性が力強い笑みと共に碧の肩を叩いた。


「新城君。辛いだろうけど、頑張んなよ!」

「マスコミの奴らなんて、私達が追い返してやるよ」


 碧は住人達の励ましに多謝しつつ、階段を上って行く。逸る心を抑えながら、自宅の玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ捨てた。


「翡翠、ただいま!」


 居間のドアを開け放ったその先に、翡翠がいた。車椅子に腰かけ、幽鬼のように顔を蒼白にし、テレビの画面を眺めている。


『テレビの前の方は、一〇年前に人々を震撼させた新城議員の姪、翡翠ちゃんを覚えていらっしゃるでしょうか。翡翠ちゃんは、卵精巣性性分化疾患を親に持ち、その精子と卵子を使い、誕生しました。たった一人の遺伝子で複製品のように生まれた翡翠ちゃんは、近親交配の弊害によって、生まれつき歩くことができません――』


 テレビでは、夕方のニュース番組が翡翠についての報道を行なっていた。ちょうどライブ中継をしているらしく、『フルール』の建物が映し出されている。現場レポーターが一〇年前のことをほじくり返し、翡翠がいかに不幸であるかを強調する。


「翡翠」

「おとう、さん……」


 碧が再度名前を呼ぶと、翡翠はようやくこちらを向いた。その花びらのような唇は震え、顔面は蒼白に染まっている。


 あの週刊誌の記事によれば、有る事ない事を記者に吹き込まれ、翡翠は泣き崩れていたという。その日からずっと、自分の出生の秘密を恐れていたのだ。その幼く可憐な顔立ちが、まるでヒビの刻まれた硝子細工のように、碧の目には映った。

翡翠の精神が崩壊寸前なのは明らかだった。


(この子がこんなにも苦しんでいたのに、僕は今まで何をしていたんだ!)


 碧は自己嫌悪と憤りが胸の内から迸り、握りしめた拳に爪を食い込ませる。だが、今更自分を罵ったところで、事態は変わらない。翡翠を刺激しないよう、ゆっくりと歩み寄っていく。翡翠は逃げるという心の余裕もないのか、車椅子の車輪に手を伸ばすことはない。ただ怯え、身を竦ませるだけだ。


「どういうことなの? お父さんがお母さんなの? ワケが分からないよ」

「翡翠」

「記者の人が言ってたよ。私は、お父さんがお金欲しさに産んだ子なんだ、って。私の顔がお父さんとそっくりなのは、お父さんの言うことを何でも聞くお人形だからだ、って。そんなの、信じたくないけど、けど――」


 皆まで言わせなかった。碧は翡翠の目の前に跪き、胸に抱き寄せる。今までに何度こうしてあげただろうか。翡翠は抵抗の素振りを見せず、代わりに嗚咽を漏らした。


「今から全てを話す。一昨日の晩にも言った、大切なお話なんだ。少し、長くなるよ。それでも、いいかい?」


 翡翠は黙り込んだまま、小さく頷く。碧は翡翠の顔に口を寄せ、これまで歩んできた自分の過去を語り始めた。


 自分が性分化疾患であり、それが原因で幼いころから差別を受けてきたこと。

 早乙女の研究に巻き込まれ、翡翠を一人で妊娠したこと。

 翡翠が生まれたばかりのころは、翡翠のことが怖くて疎ましかったこと。

 翡翠の存在が世間に知れ渡り、真一が翡翠を利用して自分の立場を守ったこと。

 何も知らない無垢な翡翠と接していくうちに、碧が自分の弱さを自覚したこと。

 碧が幼かった翡翠を守るため、真一を脅迫して実家を出たこと。


「……そうして、この『フルール』へと引っ越してきたんだ」


 これまでにも碧は卵精巣性性分化疾患について、翡翠に何度か説明を試みたことがあったが、その複雑な内容ゆえに理解してもらえなかった。碧は養護教諭が性教育の授業で行うように、難しいポイントを一つ一つ、出来る限り噛み砕いて説明していった。


「今の話を、理解できたかい?」


 翡翠は返事をする代わりに、再び黙って頷いた。娘の呼吸音を、薄く膨らんだ自分の胸で感じながら、碧は話を続けていく。


「お父さんは、翡翠にいくつも謝らなきゃいけないことがある。一つは、この事実を今まで上手く君に説明してあげられなかったことだ。分かりやすいように話してあげられず、いつも君を混乱させてばかりだったね」


 翡翠には知る権利があったのに、それを上手く尊重してあげられなかった。


「二つ目は、仕事の忙しさを理由にして、君と一緒に過ごす時間を作れない日もたくさんあったよね。そのせいで、君に辛い思いや寂しい思いをたくさんさせてしまった」


 入学式や運動会などの行事の際、他の子が両親と一緒にいる姿に対し、翡翠は寂しそうな眼差しを送っていた。碧が声をかけると、すぐに笑顔を取り繕っていたのだ。


「三つ目は、君の足のことだ。君が生まれつき歩けないのは、僕を含めた大人の身勝手のせいなんだ。いくら謝っても、取り返しの付かないことだけど……それでも、歩けるように産んであげられなくて、ごめん」


 もしも、翡翠が普通の親から生まれていたなら、今頃元気に走り回ることができていたかもしれない。


「そして、最後に。今説明したように、僕は君の父親でもあり、母親でもある。でも、それは言い換えれば、父親とも母親とも言えない、中途半端な心と身体の人間なんだ。僕はこの心と身体のままで生き続けることを、自分の意思で選択した。でも、父親と母親の二人分の充分な愛情を、君に与えてあげられたのか、正直言って自信がない。寂しい思いをさせて、本当にごめんね」


 碧は、翡翠の背中に回した腕に力を込める。それに対して、翡翠は痛みを訴えることなく、碧の話にじっと耳を傾けてくれた。それから、やや間を置いて喘ぐように声を漏らす。


「……お父さんは、後ろめたいから私を今まで育てたの?」


 それは、当然の問いではあった。碧は確信を込めて答えを返す。


「その気持ちがゼロだったとは言わない。でもね、罪悪感に突き動かされていたのは、最初のうちだけだったよ。君が僕に見せてくれる向日葵のように元気な笑顔が、どんなに僕を励ましてくれたか知っているかい? 仕事でどんなに疲れて家に帰ってきても、君が元気に成長していく姿を見せてくれるから、僕は今日まで頑張ることができた」


 そうだ、翡翠の親として一緒にいられたからこそ、胸を張って生きることができた。


「君と僕がそっくりな顔を持っていても、君と僕はお互いに違うことを考えながら生きているだろう? 違う食べ物が好きで、違う音楽が好きで、違う友達と笑い合えている。これまでに喧嘩をたくさんしたし、同じ数だけ仲直りもしてきた。君の胸の奥でドクンドクンって音を立てている心臓は、君だけのものだ。君は、僕の複製品でもお人形でもない。新城翡翠という一人の人間であり、僕にとって何よりも大切な娘なんだよ。僕は、父として母として、世界中の誰よりも君を愛している。君を愛する喜びをくれて、ありがとう」


 だからこそ一〇年前、心に誓ったのだ。

 一生を懸けて、この子にしてあげられることなら、何でもしてあげよう――と。


「……か」

「え?」

「……ばか」


 翡翠の声は涙でかすれ、上手く聞き取れない。

 碧が思わず聞き返すと、翡翠は小さな拳を二つ握りしめ、碧の胸を叩く。何度も何度も、自分の想いをぶつけるように叩き続けた。子どもの力など大したものではないが、その一発一発は碧の全身に激しく響かせていく。


「お父さんのバカっ! 私は、お父さんを恨んだことなんて一度もないよっ。こないだも言ったでしょ。お母さんがいなくても、お父さんがずっと傍にいてくれたから、寂しくなんてなかったっ。クラスの皆とか岸本先生とか、紗子オバさん達が一緒にいてくれるから、毎日楽しいもんっ。それに、自分の足で歩けないのが、何だって言うのさっ。この身体はお父さんからもらった大切なものなのに、不幸だって思ったことなんて一度もないっ!」

「翡翠――」

「私は、お父さんの傍にいて、ずっと幸せだった。お父さんと過ごした思い出の全部が、私にとって大事な宝物なんだよ。私はこれからも、お父さんとずっと一緒にいたいの!」


 翡翠は碧の胸に顔を埋めながら、自分の心の内を叫ぶ。感情のタガが外れ、隣近所にまで聞こえるのもお構いなしに、ただただ泣きじゃくった。


「翡翠、まだお父さんって呼んでくれるの?」

「私のお父さんは、お父さん一人なのっ。誰にも代わりなんてできないんだよ!? お父さんが男の人でも女の人でもないなんて、そんなの関係ないっ! 私がお人形じゃなくて、お父さんの娘として一緒にいられるのなら、それで……」


 普段は鈴の音のような翡翠の声は、すっかりかすれてしまっていた。彼女の熱い体温と感情が、肌を通じて碧の心と身体に染み渡っていく。


 翡翠の親として生きようと心に決めた、あの日。当時の碧は無力な子どもに過ぎなかった。あれから一〇年間、碧はできる限りの愛情を注いできたつもりだった。かつて、碧の父が碧にそうしてくれたように、翡翠に笑顔でいてほしいという一心で。


 それは言い換えれば、碧の親としてのエゴなのだ。それを自覚していた碧は、翡翠が真実を知ったときに、自分のもとから去っていくことも覚悟していた。

しかし、翡翠は全てを聞かされた上で、碧を父として慕ってくれている。翡翠の思いの丈を聞いて、碧は自分が背負っている重石が、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。それは、生涯離してはいけないと自らに課した、罪と決意の重みだった。


 そうして碧は、自分の目から熱いものが込み上げていることに、ようやく気付く。自分が抱き絞めている温もりが、どんなに誇らしく、掛け替えのない存在であるのか――改めて実感した。


「翡翠。ありがとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る