第46話 過去の傷痕、かけがえのない宝石

  ●二〇一九年 四月二二日(日曜日)

 事態の流れは、碧の考えている以上に加速していく。




 翌日の昼過ぎ、碧のスマートフォンに眉村から電話がかかってきた。

話を聞いてみると、どうやら早くも早乙女と連絡を取ることができたらしい。まさか昨日の今日で実現するとは、眉村自身も想定外だったのだという。早乙女は現在、故郷である愛媛県に移り住んでおり、仕事が今日は休み。こちらへ来てくれているそうだ。


 直に会って、詳しい事情を説明したいと申し出た眉村だが、早乙女はそのために一つの条件を提示してきた。





「ねえ、お父さん。今から会いに行く人って、私が生まれる研究をした人なんでしょ?」

「うん」

「……何だか、会うのが怖いな」


 車の後部座席に腰かけながら、翡翠が不安を漏らす。運転する碧もその気持ちは分かるが、状況が状況なだけに我慢するほかない。


 早乙女が提示した条件。それは、碧と翡翠の二人を、話し合いの場に連れて来てほしい、というものだった。早乙女がどういう狙いで言い出したのかは想像できない。だが、彼女を心から信用するのは、碧の経験上難しいものだった。それに、碧だけでなく翡翠とも会いたい、というのが引っかかる。


「眉村さんがいてくれるから、無理難題を突き付けられることはない、と信じたいけど」


 そんな親子の会話をしている間に、車は眉村弁護士事務所へと辿り着いた。話し合いの場をここで行おう、と提案したのは眉村なのだそうだ。喫茶店などでは、碧達に張り付いているマスコミに、話を盗み聞きされる恐れがあるからである。


 碧は翡翠を車から車椅子に移り乗せ、一緒に事務所の中へと入る。マスコミ陣営が二人を待ち構えていたが、徹底的に無視をした。


「ごめん下さい」

「あ、新城さん。お話は所長から聞いています。どうぞ、奥の面談室へ」


 昨日と同じ受付の若い女に従い、碧と翡翠はオフィスを通り抜けて奥の面談室へと向かう。ドアを開けると、既に二人の人物がソファに座っていた。

一人は、眉村。そして、もう一人は――


「お久しぶりですわね、碧さん」


 上品に薄く微笑みを浮かべる、中年の女性。紺色のスーツの胸に、白いバラを模ったピンバッヂをつけている。碧の記憶にあるよりも、いくらか老けたように見えるが、それでも陶器のように白い肌や、肉厚の唇などからは熟した色香が少しも失われていない。


「ええ、ご無沙汰しております、早乙女先生」


 声が硬くならないよう、碧は心がけて挨拶を返す。碧の中で、彼女――早乙女に対する敵愾心が消えたわけではない。彼女の研究により、碧と翡翠の人生は弄ばれたのである。だが、今日はそんな過去の怨恨を蒸し返すわけにはいかなかった。


「どうぞ、新城さん。おかけになって下さい」


 眉村の言葉に従い、碧はソファに腰を下ろした。早乙女が正面、眉村が左手にそれぞれ座る形だ。翡翠は碧の座るソファの隣に、車椅子を停める。


「そちらのお嬢さんが、翡翠さんかしら?」

「はい。翡翠。ご挨拶を」


 緊張で顔を強張らせている翡翠に、碧が優しい声音で促した。翡翠は膝の上に両手を置き、背筋を正してお辞儀する。


「は、初めまして。新城翡翠ですっ」

「はい、よろしくお願いしますわね。翡翠さん。本当に、碧さんと瓜二つですこと」


 妖艶に微笑む早乙女に対し、翡翠は早くも苦手意識を抱いてしまったようだ。助けを求めるように隣の碧に視線を向ける。碧は静かに息を深く吐いてから、話を切り出した。


「早速ですけど、早乙女先生。僕と翡翠を呼んだ理由、というのをお教え願えますか」

「あらあら、碧さん。せっかちなところは、昔とお変わりありませんのね。それでは、意中のお相手の心を掴めませんわよ」


 その滑らかで肉感的な声は、一〇年前と少しも変わっていない。柳のように捉えどころのない早乙女の態度に、思わず碧のこめかみが波打つ。昔のように早乙女のペースにハメられてしまうことを警戒し、気を引き締めなおした。


「あのときお生まれになった赤ちゃんが、こんなにも大きくなって。生命とは、本当に神秘的ですわね。産婦人科医をしておりますと、たくさんの出産に立ち会うものですから。お子さんが成長した姿を拝見させていただくのは、この仕事の楽しみの一つですのよ」

「この仕事? 今も産婦人科医をなさっているんですか?」 

「ええ。ご存じの通り一〇年前、私は研究の責任を追及されました。弁護士の方のお力添えのおかげで、医師免許の剥奪は免れ、数年の停止処分で済みまして。その後、免許を再取得してからはずっと、地方の小さな町病院で働いておりますわ。なにせ近年、田舎では特に、産婦人科医の不足が問題となっていますので。私のような問題のあった人間の手でも借りたい、というわけです」


 早乙女は伏し目とともに、自嘲の微笑みを浮かべた。


 定職に就いていることもあって、眉村が早乙女にコンタクトを取るのが難しくなかったのだろう。案外、その町病院に勤める際にも、友人である眉村の母が色々と働きかけていたのかもしない。


「職を失った当時、何もかも失った私は自殺も視野に入れていました。そこへ、眉村先生のお母様が、『知り合いの医師が産婦人科医を探している。そこで働かないか』と誘いをかけてくださったのです。あの頃までの私は、自分のアイデンティティを守るために、普通の人間を見下している部分がありました。そんな連中に助けられるのは、誇りを売り渡すのと同じこと。そう考えていました」


 確かに一〇年前の早乙女は、性分化疾患の患者としての自分に強い劣等感から、歪んだプライドを形成させているように、碧からは見えていた。


「けれど、眉村先生のお母様に叱られました。『貴女が自分の性に悩んでいることは、私も知っている。だからこそ、世間を見返してやりたいのなら、石にしがみついてでも生きようとすべきよ。貴女の手は、患者の性と生を助ける医者の手なんだから』――と」

「性と生を助ける手……ですか?」

「ええ。碧さんの性と、そちらの翡翠さんの生を弄んだ私にとっては、皮肉にも聞こえましたけれどね。それでもその言葉は、妙に心の奥で響いたのです。そうして、再教育研修を受けて医師免許を復活させた後、愛媛県にある町病院へと移りました。そこは、西神総合病院と医療設備の質が段違いに低いレベルのもので、当初は相当のショックを受けましたわ。自分が、贅沢な環境で仕事をしていたのか、と」


 国内でも有数の大病院と、小さな町病院の設備を比べるのは酷ではある。だが、大病院で最先端の医療設備に慣れ親しんでいた早乙女からすれば、その環境の差に愕然とするのは無理もない。


「そうして三年前、一組のご夫婦が診察にいらしました。その方々は、共に性分化疾患の患者――症状はそれぞれ異なりますけれどもね。その希望は、不妊治療でした」


 性分化疾患といっても、症状には個人差があった。自然妊娠は不可能であっても体外受精ならば可能な者もいれば、妊娠自体が不可能な身体の者もいる。一〇年前に聞かされた話によれば、完全性アンドロゲン不応症である早乙女の場合は、卵巣と子宮を持たず、自力での妊娠も不可能だという。


「幸い、そのご夫婦は体外受精であれば、妊娠の可能性がありました。私は自分の知識と技術を総動員し、二年ほどの治療の結果、無事に彼らの妊娠と出産が成功したのです。その後、ご夫婦は涙ながらに私の手を取り、何度も何度もお礼をおっしゃいました。……この愚かで浅ましい私に、ですのよ?」


 早乙女は、自分の手のひらに視線を落とし、じっと見つめた。


「かつての私は、性分化疾患の方々が妊娠できるよう、研究を重ねてきました。結果として大勢の方々を巻き込み、今では世間から後ろ指を差される身です。そんな私でも、まだできることがあるのだと知りました。同時に、ようやく碧さんを利用した研究が間違っていたことに気付かされました。性分化疾患の方々が家庭を持てるように、という大義名分を掲げながら、当の性分化疾患の碧さんを傷つけてしまったのですから」


 早乙女が力のない笑みを漏らす。以前に比べ、まるで憑き物が落ちたかのような微笑みだ。だが、碧は早乙女の話をどこまで信用すればよいのか、測りかねていた。少し耳触りの良い話を聞かされた程度で、一〇年前に碧と翡翠を弄んだ張本人を、すぐに受け入れることなどできるはずがない。


 それとも、本当に自分が犯した過ちを自覚したというのだろうか。


「あの町病院で働いていると、一〇年前のことをよく思い出します。私のエゴに巻き込んでしまった、碧さんとその娘さんは今頃どうしているのだろうか、と。子どもとは本来、眩い宝石のような存在です。それなのに、あろうことか産婦人科医である私が、その輝きに傷をつけてしまいました。そうして一年ほど前、私は探偵の方を雇いまして。あなた方の行方を追ったのは、直に会って謝罪をしたかったからです。……それなのに、いざ居場所を突き止めると、会うのが怖くて仕方がありませんでした。今更、どのような顔をすればよろしいのか。お二人が築いた平穏な日常を壊したくない、という言い訳と己の罪に挟まれて生きてきました。そこへ昨日、眉村先生からお電話をいただいたのですわ」


 謝罪をする勇気を持てない、という早乙女の弱さに対して、碧は嫌味を言おうとは思わなかった。碧自身にも似たような苦い経験があり、早乙女を口汚く罵る資格などない。


「この機会を逃せば、自分の意志でお二人に会う勇気を持てないまま一生を終えるでしょう。それに、お二人が私を必要として下さるのであれば、断る選択肢なんてありませんもの。ですがその前に、けじめをつけなければなりません。私が今日、翡翠さんをお呼びしたのも、そのためです」

「え、わ、私?」


 自分に話題を向けられるとは予想していなかったのだろう、翡翠は虚を突かれて慌てふためいた。早乙女はそれを笑うことなく、真っ直ぐな視線を翡翠に向ける。


「翡翠さん。私はかつて、自分の身勝手な考えによって、碧さんにあなたを産ませました。あなたには、私に復讐なさる権利があります」

「ふ、復讐ぅっ!? ないないっ――じゃなくて、ありませんっ!」


 物騒な単語に対して翡翠は目を丸くさせ、同時に声を裏返らせた。たどたどしい敬語を使い、早乙女の話に異を唱える。


「確かに、お父さんが私のお母さんだった、っていうのはショックだけど……でも私は、お父さんの娘として生まれて、本当に良かったって思って、ます。お父さんと一緒に暮らして、たくさんの人達と知り合って、今の私があるんです。お父さんのことも、皆のことも大好きだから、私は生まれてきて良かった、って思っています」


 自分が持つ語彙をかき集め、翡翠は胸の内から熱を吐き出す。ここ数日で自分の価値観に激震が走り、混乱と恐怖に縛られていた彼女も、ある程度の心の整理をすることができたようだ。その一所懸命さが伝わったのか、早乙女は垂れた目を優しく細めた。


「そう……碧さんは、あなたをとても大切になさっているのですね」


 そうしみじみと呟く早乙女。彼女の美貌を、碧は冷静な心で注意深く見据えながら、一〇年前の記憶を思い出す。


 当時の早乙女は、性分化疾患の人間が自分達だけでも家庭を築けるように、と研究を行なっていた。その手法が正しかった、と碧は絶対に思わない。


 かつての碧は自身の肉体と性自認の曖昧さから、自分が家庭を築けるとは信じていなかった。だが、過程はどうであれ、今の碧の隣には翡翠がいてくれる。二人がこれまで育んできた親子の愛情は、世間一般の家庭と比べて少しも劣らないはずだった。亡き父が碧に言いたかった「家庭」とは、おそらく碧と翡翠の関係のような絆を指しているのだろう。碧はそう信じたかった。


「私は、一〇年前の研究に新城先生が協力していたことと、新城先生の医療ミスを証言させていただきます。西神総合病院は、過去の医療ミスの痕跡など、とうの昔に消し去っているでしょう。それでも、私にできる限りのことはさせていただくつもりです。この程度で贖罪できるとは思いませんけれど、少しでもあなた方のお力になれるのなら、喜んで」

「早乙女先生……」

「ですから、碧さん。あなたもこの子の親として、精一杯守ってあげて下さいまし」


 早乙女はそう言い終えると、深く頭を下げた。碧はそれを正面から受け止め、目を閉じてゆっくりと息を吐く。


 正直を言えば、早乙女への憎悪の炎は、一〇年経っても碧の胸の内で消えてはいない。彼女が過去にもたらした爪痕はあまりに深く、そう簡単に修復できるものではなかった。


「僕は、あなたへの怒りを一生忘れるつもりはありません。それだけのことをされたと思っています」

「……はい。重々承知しております」


 早乙女は、断頭台に立つ罪人のような面持ちで、碧の声を聞いていた。彼女は彼女なりの誠意を示すため、この場に姿を現してくれたのだ。碧もその覚悟に応えようと、しっかりと目を見開いて彼女を見る。


「ですが、あなたに一つ、いくら感謝しても足りないことが一つあります。あの研究によって、翡翠が生まれてくれたことです」


 そう言って碧は、傍らの翡翠の肩を優しく抱いた。翡翠はくすぐったそうに、無邪気な笑顔を浮かべる。その光景は、どの街でも見かけられるであろう、普通の親子の姿だった。


 仲睦まじく寄り添う二人に対し、早乙女は眩しそうに目を細めた。


「この子は僕にとって、この世界で一番大切な宝物です。この子と過ごしてきたこの一〇年間は、どんな宝石よりも眩い輝きを放っているんです」

「碧さん……」

「ですから、あなたに怒りをぶつけるのは、やめておきます。せっかく、一〇年越しにその顔をぶん殴れるチャンスが訪れたのに、棒に振るのは残念ですけどね」


 後半は少し茶目っ気混じりで、碧は片目を閉じて見せる。対する早乙女は一瞬呆然とした様子を見せたが、すぐに冗談だと気づいたようで笑みをこぼした。この会談ではじめて、柔らかな空気が部屋中を包み込む。それがひとまず落ち着いたところで、碧は表情を引き締め、早乙女に向き直った。


「この身にかえても、娘を守り通してみせます。早乙女先生。ご協力いただき、本当にありがとうございます」

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