第40話 判断ミスの代償

  ●二〇一九年 四月二〇日(金曜日)


 あれから日を重ねても、翡翠は塞ぎ込み続けていた。今朝も碧と一度も目線を合わせてくれず、いくら話しかけてもロクに返事もしてくれない有り様だ。


 瑞希いわく、昨日は給食をほとんど残しており、仲の良い友人達とおしゃべりをする元気もなかったらしい。三橋や『フルール』の住人達も心配していたが、翡翠は身近な人間には何も相談していないようだった。


「これじゃ、父親失格だなあ……」


 一時限目の最中。保健室で、各学級から届けられた健康観察の用紙をチェックしながら、碧は本日だけで三〇回目になるため息を吐いた。翡翠を心配するあまり、仕事を頑張る気力も湧いて来ない有り様だ。娘には早く元気を取り戻して、楽しい学校生活を送ってほしいのだが。


「っと、ダメだ。仕事に集中しないと」


 私的な思考を振り払おうと首を振っているところへ、保健室のドアが勢いよく開け放たれた。現れたのは血相を変えた男性教頭だ。


「し、し、新城先生!」

「いかがなさいましたか、教頭先生。そんなに慌てられて」

「い、今すぐに職員室へ来て下さい!」


 何やら緊急事態のようだが、ひょっとして児童が怪我をしたのだろうか。碧はすぐに席を立ち、白衣を翻しながら教頭の後を追う。


 職員室は、保健室から放送室を挟んだ先にある。職員室の扉を開くと、何重もの電話の呼び出し音が鳴り響いてきた。職員室で待機していた事務員達が、それらの応対に追われている。


「その件につきましては、本校はお答えすることができません」

「ご心配をおかけし、真に申し訳ございません。はい……はい」


 一件の電話が片付いて受話器を置くと、すぐに次の電話がかかってくる。すっかり、事務員達は疲労困憊のようだ。碧は教頭に連れられ、職員室の一番奥にある校長の机へと向かう。席に腰かける老年の女校長が、重苦しい表情を浮かべながら待っていた。


「何があったんですか?」

「これですよ、新城先生」


 教頭はすっかり禿げ上がった頭を撫でながら、一冊の週刊誌を碧の前に差し出す。今朝発売の、『週刊未来』だ。芸能ニュースから政治の話題まで、他紙を出し抜いて特ダネを定期的に掴み取る。そのおかげで、売上部数は業界でも指折りである。ただ、その取材のやり方がやや強引であることから、取材対象からの評判はよろしくない。


 教頭は雑誌のページをめくり、巻頭特集の記事を開いた。その見出しには、『新城真一議員の裏の顔』と書かれている。碧が記事を斜め読みすると、どうやら真一が選挙資金を得るために、違法献金を受けていたことが発覚したらしい。


「兄への批判記事ですか」

「問題はここですよ、ここ!」


 教頭がめくった次のページには、大きく掲載された碧と翡翠の顔写真が掲載されている。その隣の見出しには、『新城議員の姪、その出生の秘密』と書かれていた。


「これは……っ!?」


 一気に青ざめた碧は、ページを素早く読み進める。


 記事は、翡翠について書かれたものだった。碧が卵精巣性性分化疾患であること。翡翠が、碧の精子と卵子で作られた子であること。それを推し進めたのが当時、西神総合病院に勤めていた早乙女であったこと。それらの情報だけならば、一〇年前の報道を蒸し返しているだけである。問題は、その続きだ。


 翡翠が金の成る木であることから、碧がテレビ局からの報酬の件で真一と激しい口論になったこと。それが原因で、碧は新城家の金を奪い、翡翠を無理やり連れ出したこと。地方で親子二人暮らしをしていたが、日々虐待が行なわれていること。碧が性分化疾患の患者として世間から爪弾きにされたことで、世の中を強く恨んでいること。自分の代替的存在として、翡翠が人々に同情してもらうことで、碧が鬱憤を晴らしていること。など……


「こんな、デタラメを平然と掲載したのか……っ!」


 碧は荒れ狂う感情のせいで、勢い余って雑誌を破り捨てそうになる。それでも理性をフル動員し、どうにか踏みとどまった。


 何よりも碧の怒りを加熱させる燃料となったのは、記者による翡翠へのインタビューだ。一昨日、彼らは碧親子の自宅へと押し入り、翡翠に突撃取材をした。そこで出生の秘密をバラし、碧が金と自己満足のために翡翠を引き取った、と吹き込んだのだ。「碧の狙いは、親の自分が世間の同情を買いたいからという欲望によるもの」、「生まれつき歩くことができないのも、碧が翡翠を利用するには都合が良かった」、「碧が、自分の複製品としか翡翠を見ていない」……などといった歪んだ妄想を、さも裏付けの取れた真実であるかのように語り聞かせたらしい。そのときに翡翠が涙をこぼした姿を、写真として堂々と掲載していた。『親と伯父の暴走に振り回された、可哀想な犠牲者』として、である。


 複製品。彼らはその言葉が持つ、凶器ともいうべき悪意を理解していないのか。いや、充分に理解した上で、翡翠を泣かせるために平気で使ったのだろう。でなければ、嬉々としてこんな写真を掲載するはずがない。


 あまりの残酷な話を聞かされた翡翠は、どれほどまでの絶望感に締め付けられたことだろうか。ここ数日の翡翠の情緒不安定は、碧を信じたくても信じて良いのか、悩んでいたからなのかもしれない。その苦しみを上手く把握してあげられなかった己の愚鈍さに、碧の全身の血が逆流し沸騰しそうになる。


(くそっ、やっぱりあの晩、きちんと説明してあげるべきだったんだっ!)


 最近、マンションや学校の周辺から感じた、気配と視線。その正体は、この週刊誌の記者だったのだ。あのときに無理やりにでも探し出し、警察に突き出しておくべきだった。


(今更、翡翠の話をマスコミが蒸し返すことはないだろう、と高をくくっていた。その油断がこの結果だ!)


 碧がいくつもの判断ミスをしたせいで、それらが致命的な傷となって、翡翠の幼い心を切り裂いている。


「この記事のせいで、朝から抗議の電話が鳴りやまないんですよ。こんな最低の人間をお宅の学校は雇っているのか、って」


 困り果てた様子で、教頭は額の汗をハンカチで拭いた。碧はただただ平身低頭で謝罪する。


「本当に申し訳ございませんっ、大恩ある学校にご迷惑をおかけしてしまいました!」

「いえ、我々は新城先生を全面的に信じていますよぉ。あなたが本校の児童達をあたたかく見守っていることや、娘さんを心から愛していることは、我々もよぉく知っています」


 今年で定年退職を迎える予定の校長は、表情を曇らせながらも、独特の間延びした口調で語り、教頭と顔を合わせて頷き合った。それから、声のトーンを数段階落とす。


「ですがねぇ、世間はそのような『実情』など、見向きもしていません。彼らが見ているのは、分かりやすく叩きやすい『卑劣な教師』なんですよぉ。外を御覧なさい、マスコミや野次馬が、学校を包囲するよぉうに見張っています。これでは、児童達の精神状態にも影響を及ぼしかねません」


 そこへ、若い事務員の女性が慌てた様子で職員室に入ってきた。


「校長先生。保護者会の方々がいらしています」

「今回の報道の件、ですねぇ?」

「はい。新城先生を今すぐに辞めさせるよう、求めています。新城先生に会って、直接文句を言いたいと」

「校長室へお通しして下さい」


 事務員に指示をしてから、校長が碧の方に視線を戻す。


「先方は、新城先生の同席を希望なさっていますねぇ。ですが新城先生は、この場にいて下さるだけでけっこうですよぉ。後は、私と教頭先生が何とかフォローしますので」

「……重ね重ね申し訳ございません」

「いえいえ、先生方をお助けするのは、上の人間の責務ですよ」

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