第39話 決定的な悪手


 夜九時過ぎ。

 入浴で身を清めても、碧の心まではさっぱりしなかった。当然、原因は翡翠のことだ。あれから翡翠は、部屋に篭もりっきりだ。碧がドア越しにどんなに呼びかけても、拒絶されてしまった。


 明らかな異変だ。


 碧自身も、少々過保護であることは充分に自覚していた。それでも、一人娘の身に何かあったのではないか、と思うと気が気でなくなるのだ。


 翡翠にも思春期が訪れ、父親に拒否感を覚えるようになった。その可能性はありえなくはないが、あまりに突然すぎるだろう。


「こういうとき、親として何をしてあげればいいんだろう……」


 父親と母親の二人分の愛情を注ぐ、と息巻いても結局はこのザマである。自分の無力さが鞭となって、碧の全身を激しく打っていた。みっともなく取り乱しそうになるが、ギリギリのところで食い止めているのは、事態の真相を突き止めよう、という強い理性だった。


 碧は当初、翡翠がクラスメイトと喧嘩をしたか、あるいは失恋をしたのが原因ではないか、とも考えていたのだ。そこで先刻、情報収集を兼ねて、担任であり頼れる友人でもある瑞希に電話で相談をした。瑞希いわく、身体測定の後に学校で特に事件が起こった様子はないのだという。三組の男子児童とも接触をしておらず、給食は残さず食べて、帰りの会のときもずっと笑顔でいた、とのことだ。また、『フルール』管理人の三橋の話によれば、彼女が車で迎えに行ったときも、機嫌が良かったらしい。

 つまり、学校内の児童と揉めた、という可能性は低い。


 加えて、『フルール』の他の住人達にも相談したが、彼らが顔を合わせたときにも、翡翠には異常が見られなかった、と返された。


「そうなると翡翠の帰宅後に、外部の人間が独自に接触を図った可能性があるな」


 脱衣所で寝間着に着替えた碧。すぐ隣の洗面台から、備え付けの歯ブラシを手に取る。


 最も疑わしい人物である真一は、何も知らないと言っていた。実にうそ臭い話だ。真一が翡翠を手に入れるために、何らかの作戦に出た、という話の方が違和感は少ない。ならば、彼が黒幕だと見なしても良いのだろうか。


「いや、決めつけるのは、まだ早いか。仮に、兄さんの話が真実だとするのなら、他に誰がいるんだろう?」


 ここ数日碧達に付き纏っている、あの得体のしれない人物。やつが真一の関係者でないと仮定するなら、その正体は一体何者なのか。


 あの男かその仲間が翡翠を襲った、という可能性はどうだろうか。テレビなどのニュースを見る限りでは、凶悪事件が周辺地域で近年発生した、という情報は特にない。だが全国を見渡せば、小学生を標的とした犯罪者など、いくらでも存在していた。目的は金銭目当ての誘拐か、もしくは性的暴行か。そういった類の犯罪者ならば、「足の不自由な女子小学生など、容易に拉致できる」と考えるだろう。危ないので一人で家を出ないように、と翡翠には何度も言ってあったのだが。


 そんな不安に駆られた碧は、大げさかもしれないと思いつつも、昼間に続いて先刻、警察と再度連絡を取っていた。学校や『フルール』の住人からも通報があったおかげで、警察は一連の碧の話を、過保護な親の戯言だとは捉えなかったようだ。といっても翡翠があの状態なので、今日のところは警察も彼女から直接話を聞くことはしなかった。本当に事件に巻き込まれたとするならば、なおさら事を急いで下手に刺激するわけにはいかないからである。一応、巡回をさらに強化することと、周辺区域に注意を呼びかけることを約束してくれた。碧の方も、翡翠の心が落ち着いたら、原因が何であったのかに関わらず、警察に連絡を入れる約束を交わしている。


「誰かに襲われたんじゃないとすると……他に思いつくのは、あれしかないな」


 翡翠があそこまで情緒不安定になるには、相当の破壊力を持った理由が必要だ。

 すなわち、翡翠が何らかのきっかけで、自分の出生の秘密を知った、という可能性。それなら、あの不自然な様子にも納得できるのではないか。


「仮にそうだとしても、翡翠は誰に教えられたんだろう?」


 仮説を一度築くと、疑問は次から次へと湧いてくる。

 学校側には六年前に赴任した時点で、碧の方から既に説明済みだ。校長は保護者や児童に漏らさないよう、教職員全員に対して厳命している。少なくとも碧は彼らから恨みを買った覚えはないし、同僚を疑いたくもない。


 当時の翡翠ブームを体感した、この辺りの地域の住人達はどうだろうか。ブームは六年前、碧と翡翠が実家から出たのを境に衰退しており、碧の知る限りでは、多くの者達がすっかり飽きて忘れ去っているようだ。だが、現代ではインターネットという、便利かつ危うい代物がある。全く関係のない分野について調べている途中で、当時のニュースを知った者がいても、おかしくはない。


 あるいは、翡翠自身がネットサーフィンをして、偶然知ったのか? そうとも考えたのだが、居間にある共用パソコンのネット閲覧履歴を見ても、今日翡翠が使用した痕跡は見られなかった。もちろん、履歴を消した可能性もあるが……。


 それともまさか、マスコミにこの住所を突き止められたのだろうか。雑誌やテレビ番組などで特集を組んで、『可哀想な翡翠』というブランドの再ブームを狙っている? いや、今更話を掘り返したところで、誰も見向きもしないだろう。現に、真一が選挙に出馬していても、翡翠について特に目立った報道をしていないではないか。


 いや、ひょっとして――と、そこまで考えかけたところで、碧は頭を振った。


「待て待てっ。あくまでも僕の勝手な思い込みであって、実際は単なる勘違いかもしれないんだぞ」


 無論、その方が圧倒的に可能性は高い。

 だが、もしも碧の予想が正しかったとしたら? 翡翠が真実に打ちのめされ、自分の存在そのものを疑っているとしたら? 親である碧が全てを放り出してでも、翡翠を支えてあげるときではないのか。自分のアイデンティティを見失う苦しみを、碧は今まで歩んできた人生で学んでいる。それを娘にまで味わわせてはならない。


「……そのときは、僕の口から全てを説明しよう」


 碧は思考を巡らせながらも、歯を隅々まで丁寧に磨いていく。


「あ……」


 そこへ、当の翡翠本人が車椅子に乗って、気まずそうに顔を出してきた。どうやら、洗面所の隣にあるトイレを使用したいようだ。いくら引きこもっていても、さすがに生理現象には勝てなかったのだろう。


 数分後。トイレから出てきた翡翠は、幼い顔を悲哀で歪めながら、碧を見上げてくる。


「お父さん、その……」


 翡翠は何かを言いかけては、口を閉ざす。自分の気持ちを、上手く言葉にできないのだろう。碧はけっして急かさず、辛抱強く話の続きを待った。


「や、やっぱり、ごめんなさい」


 しかし結局、翡翠は顔を伏せ、車椅子で碧の元から逃げ去ろうとする。


(今、逃したらダメだ!)


 一瞬でそう判断した碧は、後ろから翡翠をそっと抱きすくめた。娘の耳元に出来る限り優しく声を置いていく。


「翡翠。どうして君がそんなに傷ついているのか、お父さんには分からない。でもね、これだけは信じてほしい。どんなことがあっても、お父さんは翡翠の味方だよ」

「お父、さん……」


 翡翠は肩を震わせながらも、碧の腕を振り払おうとはしなかった。その複雑に絡まった心を、ほんの少しでも解きほぐそうと、碧は娘の潤いに満ちた黒髪を撫でる。一方で、自身の焦りを必死に堪えつつ、言葉を慎重に選んでいく。


「だから、心が落ち着いてからでいい。少しずつでいいから、何があったのか、お父さんに話してくれないかな?」

「………………うん」

「それから、もう一つ。お父さんからも、翡翠に伝えたいことがある。とっても大切なお話なんだ。翡翠がそれを聞く決心がついたときに、おいで」


 碧の真摯な声に、翡翠は小さく頷いた。






 

 それが致命的な悪手であったことを、このときの碧は知る由もなかった。

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