第38話 真一の焦り

◆幕間


「くそっ、意固地なクソガキが!」


 碧の住む『フルール』から遠く離れた長野県。新城家の一階にある居間。そのソファに腰かけていた真一は、クッションの上にスマートフォンを叩きつけた。苛立ちのあまり、歯ぎしりを立てる。


「碧め。散々面倒をみてやった恩を忘れやがって。こちらが下手に出たせいで、余計に調子に乗らせたな」


 テーブル上に用意された酒瓶を引っ手繰る。琥珀色の液体をワイングラスに満たし、一気に飲み干した。豊穣かつ爽やかな味わいが、乾いた舌を潤す。その程度で吹き飛ばせるような精神的ストレス量ではないが、このままでは明日にまで引きずってしまいそうだ。


 現在、真一は衆議院選挙の真っただ中。毎日、朝から選挙区内を回ってのスピーチに、通りかかった市民への爽やかな笑顔と握手。夜は後援者への挨拶回りだ。下らない愛想を振りまくことについては、仕事の一環として割り切っている。

 とはいえ、連日の選挙活動による疲労が見えない重石となって、肉体に圧し掛かっているのは事実だ。


 そうした睡眠不足が続く中、忙しい時間の合間を縫って、わざわざ電話をかけた。相手は、もう何年も顔を見ていない『弟』。……そう、戸籍上はまだ弟だった。実際は、男でも女でもない半端ものの存在。自分一人の肉体で子を作れるような異形の化け物だ。元医者の身でありながら、真一は実の弟をそうした目で忌み嫌っていた。


 先程までの碧との電話内容は、真一からすれば十分すぎるほどの譲歩だった。それなのに、見事に蹴られたのである。勝手に逃げていった昔の飼い犬に再会したら、手を噛まれたようなものだ。


 数年前、勝手な理由でこの家を飛び出していった碧を、真一はどうにかして呼び戻そうとしている。


 その理由は二つあった。


 一つは、衆院選を勝ち抜くために、碧とその娘を利用すること。

 真一の掲げるマニフェストは、『障碍者との平等な社会』を目指すこと。本音では侮蔑で笑い飛ばしたくなるような、甘ったるい幻想だ。そうした幻想で民衆を惑わして「信用」を勝ち取るのが、国会議員の腕の見せどころだった。地元選挙区から二期目の出馬となり、「人権派議員」として有権者からの人気を着実に集めている。現段階におけるメディアの選挙予想では、真一の圧倒的な優勢。だが、いざ投票結果を開いてみれば、簡単に引っ繰り返るのが選挙の恐ろしさだ。前回当選した際、落選した負け馬達の姿を見て、真一は改めて学習していた。

 勝利をより確実に掴むには、碧と翡翠を使って有権者からの同情を引く。それが作戦の一つだった。


 一〇年前、真一は自分のイメージアップの道具として、あの弟と姪を利用した。真一とメディアで共同作成した脚本のおかげで、一時期は全国的な大ブームを巻き起こすことに成功したのだ。それを好機として、彼は世間に向けて自らの顔をせっせと売り、抜群の知名度を獲得した。碧達親子についての流行自体は、さすがに今はもう廃れている。それでも、真一のマニフェストをより強くアピールする、マスコット人形としては役立つだろう。そもそも、マニフェストの内容自体が、あの二人の境遇を叩き台にした代物なのだから。民衆の薄っぺらい偽善の心に訴えるのは、現代世論においては大いに効果的である。


 また、碧を連れ戻したいもう一つの理由は、碧の監視だ。

 家を出る際、碧は生意気にも真一を脅迫してきた。その材料が、例の音声データ。当時、自宅内ですっかり油断していたせいで、本音が大量に記録されてしまったのである。そこで真一は、裏仕事用の部下に命じて、碧の新居へと潜入させ、音声データを奪取させようとした。が、どうやらデータはコピーを取り、複数の場所に隠されているらしい。その事実を裏付けるかのように、「次に同じことをしてきたら、警察に被害届を出し、音声データを公開するぞ」と警告までしてきた。さらに、「もし、そちらが自分達親子を拉致や危険な目に遭わせた場合も、自分の信頼する者達が同様の報復をする」とも先に釘を刺されている。いつ、碧の気持ちが変わって、メディアにデータがばら撒かれるのか。公人となった真一は、怯えながら毎日を過ごしている。


 不安の種はそれだけではない。碧は、真一が翡翠を生み出す研究に手を貸した、その裏事情を知っている。手術ミスで患者を死なせ、その事実を隠ぺいしてもらったという過去だ。


 当時勤めていた西神総合病院側は、自分達の不利益を少しでも減らしたいがために、碧をメディアに宣伝する真一に協力した。手術に携わったスタッフには、大金を積むのと同時に圧力をかけてある。各々の人生がかかっているので、彼らから真実が漏れる心配は少ないだろう。無論、一〇〇パーセントの安心はできないが。

翡翠誕生の研究における中心人物だった早乙女友里恵。彼女にとって真一は裏切り者であり、自分を病院から追放した仇敵だ。さぞや恨まれていることであろう。世論に叩きのめされ、社会的信用が完全に失われた現在では、どう足掻こうが見向きもされないだろう。それでも、油断は禁物である。できることならば、不幸な事故に偽装してでも葬ってやりたいところだが、さすがにリスクが大きすぎる。現代警察の捜査力をけっして侮ってはいけない。ここは藪蛇を突かないのが賢明だった。


 後は碧が下手な行動に出ないよう、首根っこを掴むだけだ。身内のくせに、真一に対して最も反抗的な態度を取るので、遠く離れた地で自由に動き回らせるのは危険極まりない。手元に置くことで、ようやく安全を確保できる。……そんな真一の切なる願いを、碧は身勝手にも無視し続けているのだった。


「今は特にメディアの連中に見張られているせいで、表立った動きができない。くそったれが」


 真一は無意識に右手の親指の爪を噛み、焦りを誤魔化そうとする。


 政党支持率のための手段として、党本部から客寄せパンダとして利用されるのは、真一側としても党幹部や派閥に取り入ることができる。同時に、民衆からの好感度を得るチャンスでもあった。が、それによって必要以上に動きを縛られるのは鬱陶しい。


「今に見てろよ、党に居座る老人ども。必ず、その椅子を奪ってやるからな」


 党の重鎮達の顔を順番に思い浮かべ、真一は権力欲を一人暗く呟いた。


 一番になること。幼いころから母親にそう教育されてきた真一にとって、信念にも等しい目標となっていた。

 医者になったときは、勤め先である大学病院の院長の座が夢だった。医局の最大派閥に上手く入り込み、順風満帆な出世コース。そのはずが、思わぬ失敗で躓いてしまう。絶望しかけていた真一を、天は見放さなかった。人生の逆転に成功した彼は、一躍時の人となったのだ。


 そこへ政界に目を付けられ、議員候補の打診を持ち掛けてきた。いや、真一の方からメディア出演を通し、政界関係者との人脈を築いていたのである。


 どうせ一番になるのなら、大学病院の院長の座よりも、この国の総理大臣の座の方がいい。なにしろ、人生は一度きりなのだ。より高みを目指せるチャンスがあるのなら、そちらに道を修正した方が良いに決まっている。その大きな可能性に比べれば、院長という夢などちっぽけなものに見えた。元々、医療の道への情熱を持っていたわけでもない。


 誰よりも高みへ。

 そこに到達するためならば、過程でどれだけ頭を垂れ、媚を売ることも安いものだ。一方で、ライバルを蹴落とすことに対して、良心は全く痛まない。熾烈な権力闘争において、善良さなどという綺麗事を欠片でも信じる者は、底抜けの阿呆である。


 そう、一番。

 一番、一番、一番だ!


「……しかし。例の報告が引っかかる」


 ふと、将来の夢から現実へと意識を戻した真一は、ある懸念を思い出した。先日、専属秘書から受けた不穏な噂だ。


「さすがに、考えすぎか?」


 左手に持ったワイングラスを軽く振りながら、肩を竦める。どうやら、ここ最近の目まぐるしい日々のせいで、少々ナーバスになっているらしい。

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