第37話 兄との埋めることのない深き溝
日が沈みかけるころ。仕事から帰宅した碧は、マンション裏の駐車場に車を止めた。
今日は、昨日よりも帰るのが少し遅れてしまった。身体測定の結果をパソコン上のデータにまとめる作業のせいで、時間をかなり消費してしまったのだ。
「翡翠は待ちくたびれているかな」
碧が車から降りて、鍵をかけようとしたところへ、後ろから声をかけられた。
「失礼します。新城さん、ですね。警察の者ですが、今ご帰宅ですか」
「はい。この度は、お手数をおかけします」
振り返った先には、制服姿の男性警察官が二名立っていた。もちろん、碧の帰宅を待っていたわけではないであろうが、実に良いタイミングだ。碧は感謝を込めて一礼した。
「一時間ほど前も、この辺りを巡回したんですけれどね。そのとき、怪しい男がマンションを見張っているのを目撃しまして。しかし、こちらの気配に気づくと、男はすぐに車で逃走してしまいました。現在はどうやら姿がありませんが、いつ戻ってくるのか予想できません。新城さんとお子さんは、外出には充分にご注意して下さい」
「はい、ありがとうございます」
「いえ、住民の方々の安全をお守りするのが、我々の任務ですので。今晩、また別の者を寄越しますよ。では、我々はこれにて失礼させていただきます」
警察官達は爽やかな笑みと共に、敬礼をして立ち去っていった。
今朝の打合せの後、校長と教頭には怪しい男について報告してある。二人は親身になって心配してくれ、警察にも再度連絡を入れてくれた。だが、やはり実際に事が起きなければ、警察側も本格的な捜査に乗り出すことができないのだそうだ。その代わり、こうして巡回の警察官が来てくれている。現時点では、これ以上の手を打てそうにない。
とりあえず胸を撫で下ろしながら、碧はマンションの中に入る。管理人室のインターフォンを押すと、すぐに三橋の声が返ってきた。
『おや、あんたかい。今日はあの娘はこっちに来ていないよ。マンションまで車で送って、すぐに別れたんだ。算数の宿題を出されたらしくてね』
「そうですか。いつもありがとうございます」
『よしな。このマンションの住人は皆、あたしの家族なんだからさ』
碧はインターフォンのカメラに向かって会釈し、管理人室を後にする。階段を上り、三階の自分の家へと向かった。
(翡翠は算数がちょっと苦手だからなぁ。今頃、宿題で頭を悩ませてるのかも)
「ただいま」
玄関のドアを開けると、廊下の明かりは灯っている。だが、いつもの元気な声が返ってこない。碧は訝しみながら靴を脱ぎ、居間へと向かう。
「ただいま。翡翠」
居間では、翡翠が車椅子に座ったまま、窓を眺めている。窓ガラスを隔てた向こう側に広がっているのは、濃い紫色に染まった空だ。碧が先程よりも一段大きな声をかけても、振り向いてはくれない。碧自身に思い当たる節がないだけで、翡翠の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。
「翡翠。どうしたの? どこか具合が悪いの?」
「……お父、さん」
恐る恐る近寄った碧が、翡翠の小さな肩に手を置く――そこで、ようやく翡翠は顔をこちらに向けてくれる。その目は赤く滲んでおり、泣き腫らした跡があった。元気いっぱいだった昼間とはまるで別人のように、何かに怯えた不安げな表情だ。
それを見た碧は、すぐに娘の異常を察した。
真っ先に思いついたのは、昼間の身体測定でのことだ。他クラスの男子児童に言われた「出来損ないのコピー(複製品)」という悪口のことが、まだ気になっているのだろうか。
碧は、翡翠を少しでも安心させようと優しい微笑を浮かべ、彼女と同じ目線の高さまで屈んだ。
「それとも、何か困ったことでもあったのかな?」
「っ、何でもないよ」
翡翠は短く、だが強い声で否定する。肩を震わせ、碧と目を合わせようとしてくれない。明らかに何か異変があった様子だが、頑として口を割ろうとはしなかった。
まさか、身体測定の後にも学校で何か事件があったのではないか。碧の中で不安が増長し、脈拍が速まっていく。それでも、どうにか穏やかな口調を心がけた。
「お父さんで良かったら、話してほしい。何か辛いことがあったのかな? ひょっとして、誰かに何かひどいことを言われたの?」
「ほ、本当に、本当に何でもないのっ!」
その拒絶の声は、今まで碧が聞いたことがないほどの激しさを放っていた。だが翡翠はすぐに我に返り、きまり悪そうに碧から顔を背ける。どうやら胸の内で帯電する感情を、上手く制御できていないようだ。
「……ごめんなさい。食欲ないから、夕飯はいらない」
「そっか。でも、食べたくなったら、いつでもおいで」
翡翠は車椅子を漕ぎ、自分の部屋へと引っ込んでいく。その小さな後ろ姿が見えなくなったことを確認してから、碧は大きなため息を吐いた。
あそこまで頑なにされては、無理に話をさせようとしたら逆効果になる。翡翠から直接話を聞くのは、翡翠の心が落ち着くまで待つべきだろう。その代わりに、学校で何か問題がなかったのか、他の教員に相談したり、児童達との会話でさり気なく情報を得たりするのが得策か。
とりあえず自室へ向かい、スーツから普段着へと着替える。トレーナーに袖を通したところで、ふと机の方へと視線が向いた。
「翡翠……」
机には、何枚もの写真が貼られている。その全てが、翡翠が主役のものばかりだ。離乳食をスプーンで食べている様子。水色の着物を着て車椅子に腰掛け、白い歯を見せながらカメラに向かってピースサインをする、七五三での姿。保育園の卒園式の後、友達と一緒に撮った記念写真。校庭でクラスメイトに混じり、車椅子を機敏に動かしてバスケをする光景。それら一つ一つが、宝石のように眩い翡翠の軌跡だった。
向日葵のように咲き誇る笑顔は、他の子ども達に少しも劣らない。自分の可能性を信じ、人生を謳歌する少女の表情だ。このまま健やかに育っていってほしい、と碧は願ってやまない。
……だが、先程の翡翠からは笑顔がすっかり失われていた。今にも壊れてしまいそうなほどに、哀しげな表情。どうすれば、元気を取り戻してくれるのだろうか。
「っと、まずは今できることをすべきだよね。翡翠の食欲が湧いたときのために、夕飯の準備をしておかなきゃ」
そうして碧が自室のドアを開けようとした、そのとき。机上に置いておいたスマートフォンが小刻みに震えた。知らない番号だ。碧は嫌な予感を覚えつつ、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『碧か』
短い声。名乗ってもいないのに、碧はすぐに相手が誰なのかを察した。できれば、二度と言葉を交わしたくなかった相手だ。返す声に自然と険が含まれる。
「兄さん。何か御用ですか」
『相変わらず、反抗的な態度だな』
電話の相手、真一は尊大な声で鼻を鳴らす。しかし一〇年前と違って、今の碧は兄の高圧的な態度を恐れない。
『こちらの要求は一つだ。翡翠を返せ』
「お断りします。自分の私利私欲のために姪を利用しようとする政治家に、はいそうですかと差し出す親はいません。そもそも、翡翠は兄さんの娘や私物ではありませんから、『返せ』というはおかしな表現ですね」
『お前はなぜ理解しようとしないんだ。今の俺は、世の差別をなくすための政治活動をしている。お前のような出来損ないの性分化疾患も、翡翠のような複製品も、全てを救ってやるように動いているんだぞ。俺への協力は、お前達の生活を守ることにも繋がる』
「それが票に結び付くと知っているから、御大層な理想を掲げていらっしゃるんでしょう。本心からそうである、なんて口が裂けても言えませんよね?」
真一の上から目線の説得に対し、碧の態度は辛辣だ。真一は、碧の人生を捻じ曲げただけでなく、翡翠の将来までも歪ませようとしている。そんな男に対する敬意など、碧はとうの昔に破棄していた。
「一部の報道によれば、今は党内におけるご自分の地位の地盤固めに勤しんでいらっしゃるとか。今度の選挙で大量の票を獲得すれば、ご自分の党内での地位向上にも繋がりますからね。大方、そのために翡翠という分かりやすい『アイドル』が必要なんでしょう?」
『それのどこが悪いっ! 政治家としてのし上がっていきたい、と俺が言えば、お前達親子が喜んで奉仕するのは当然だろうが。お涙頂戴の展開こそが、世間の連中の心に最も訴えやすい題材なんだ。お前達出来損ないの使い道なんぞ、それくらいしかないっ』
やはり、それが本音か。
この通話の録音データがなくても、例の音声データが世間に流出すれば、真一自身が破滅するのは確実である。それゆえに、今更電話で暴言を吐き、脅迫材料が一つや二つ増えたところで、大した差はない――とでも真一は考えているのかもしれない。
それに、この時期にわざわざ電話という形で接触を図るのは、今の真一自身がこちらへ来られない状況だからであろう。世間では人気議員なので、下手に動けばマスコミに嗅ぎつけられる恐れがある。さらに選挙が迫り、どうしても地元から離れられないのだ。
『こちらは、お前と下らない無駄話をしている場合ではないんだ。翡翠を早く寄越せ』
(こっちだって、兄さんと下らない話をしている場合じゃないんだ!)
「何度も言いますけど、お断りです。翡翠には、穏やかな環境で生活させてあげたいんです。兄さんに渡したら、翡翠はまたマスコミの見世物にされてしまう。それこそ、偽善という名の差別でしかありません」
そこで碧は最近、近所で問題視されている怪しい人物の存在を思い出す。
「近頃、こちらの自宅周辺を見張っている人間も、兄さんの差し金でしょう。今日だって、翡翠の心を傷つけて。そうまでして、翡翠を奪いたいんですか」
『? 何のことだ』
「とぼけないで下さい。こちらをずっと見張らせているでしょう」
『何を勘違いしているのか知らんが、それで俺を恨むのは筋違いだ』
すっ呆けているのか、本心なのか。電話越しの声だけでは、碧には判断できない。
「とにかく。これ以上、こちらのプライバシーを侵害なさるのなら、例の録音データを世間に公開しますよ」
この伝家の宝刀を出されると、真一もさすがに突っぱねることができないようだった。自分の社会的地位を根底から崩されかねない、強力なカードであることを理解しているからだ。忌々しげに歯ぎしりする音が、電話越しに聞こえてくる。
『こちらの苦労も知らずに、よくもほざけるな。政治家が信用を得るのは、教師なんぞよりも遥かに難しいんだぞ』
「はっ、また『信用』ですか。そんなに大変なら、政治家をやめればよろしいかと」
『何の苦労も知らない若造が簡単に言うなっ。こっちは、お前のように気楽な身分じゃないんだ。……これは最後通告だ。これ以上駄々をこねれば、こちらも相応の手段に出るぞ』
そう言い捨て、真一が電話を切った。碧はそのままスマートフォンを叩き捨てたい衝動に駆られたが、どうにか踏みとどまる。碧の携帯電話の番号やメールアドレスは、実家を出たときから何度も変更しており、真一には一度も教えていなかった。だが、これまでにも何度か、真一側が碧とコンタクトを取るために突き止めてきたのだ。着信拒否をしたこともあったが、向こうが電話番号を換えて、あまりにしつこく電話をかけてくるので、仕方なく電話に出るようになった。
真一と縁を切れるのなら、碧は今すぐにでも叩き斬ってしまいたかった。
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