第36話 身体測定問題と親友
「次、出席番号三一番、逢坂壮一君。どうぞ」
「はい」
保健室。床に並んで体育座りをしていた男子児童達のうち、先頭の児童が立ち上がる。彼を含めて児童達は体操着姿だが、中には新品を着た児童もいた。成長期真っ盛りということもあり、新学期の開始と共に保護者が新しいサイズのものを買い揃えたようだ。
「はい、次は体重計に乗って下さいね」
体重計と身長計が並ぶそのすぐ正面に、碧は机と椅子を置いて腰かけていた。碧の仕事は、計測した数値を各児童の身体測定用紙に記入していくことだ。全校児童の計測結果を記録するのは、毎年のことながら骨が折れる。それでも、児童の成長は教師として喜ばしいことだった。
「は~い、自分の番が終った子は、教室に戻ってね」
そう言いながら、次の児童を身長計に乗せているのは、瑞希だ。現在は四年生男子の番であるため、四年一組の担任である瑞希に測定を手伝ってもらっている。
「これで、男子はおしまいかな、碧先生?」
「はい。廊下で待機している女子に、入ってもらいましょうか」
「うん、じゃあ呼んでくるね」
瑞希が保健室のドアを開け、二列で並んでいた四年一組の女子児童達を、保健室内へと入れる。それらの列の一番後ろには、車椅子に乗った翡翠の姿もあった。もちろん、彼女もここで測定する。
ただし翡翠は、自分の足で立つことができないため、他の児童と同じようには測定ができない。肢体不自由の障碍者の身長を測定するには、床に真っ直ぐな体勢で寝かせ、メジャーを使用する。足を伸ばせない障碍者の場合は膝を曲げさせた上で、頭から大転子、大転子から膝関節、膝関節から足の踝までをそれぞれ測り、足した数値を身長とするのだ。体重の測定では、車椅子専用の体重計に乗せた上で、車椅子の分の重さを引く手段を取る。専用の体重計が置いてある普通学校は少数であり、そういった意味において、白鷺小学校は翡翠にとっても貴重な学校だった。ちなみに、車椅子専用の体重計は普段、校舎の階段脇の倉庫に収納されている。
一組の女子達が、室内に整列して体育座りをしようとした、そのとき。測定を終えて教室へ戻ろうとする三組の男子児童が、翡翠に向かって意地の悪い笑みを浮かべた。
「おい、歩けないやつは邪魔なんだよ。お前みたいなのがいると、皆が迷惑するんだ」
あまりに子どもじみた安い挑発に対し、翡翠よりも先にその友人達が乗ってしまう。
「翡翠ちゃんを迷惑に思っているわけないでしょ。翡翠ちゃんのこと、ろくに知らないくせに、勝手に『皆』を代表しないでよ」
「そうよ、そうよ」
女子達の怒りなどどこ吹く風、とばかりにこの男子児童は煽りをやめようとしない。翡翠の座る車椅子の車輪部分を、軽く蹴飛ばしてみせる。
「お前の親って新城先生なんだろ? お前と新城先生って顔はそっくりだけどさ。その足じゃお前は、出来損ないのコピー(複製品)みたいなもんだよな。ってことは、親の新城先生にも問題があるんじゃ――」
男子児童は最後まで、しゃべらせてはもらえなかった。翡翠が車椅子に座ったまま男子児童の胸倉を掴んで、自分の目の前まで無理やり引き寄せたのだ。そこでようやく碧と瑞希が二人の口論に気づくが、既に遅い。
「私の顔も身体も、お父さんとお母さんからもらった大切なものなの。二人のことまでバカにするのは、絶対に許さないんだから!」
「なにおぅっ!」
男子児童と翡翠が互いに握り拳を作り、相手に殴りかかろうとする。そこへ、瑞希と碧が慌てて間に割って入った。
「こらこら、保健室で喧嘩しないの。壮一君、出来損ないなんて言葉は、絶対に使っちゃダメよ。それは、悪口としてはあまりに酷い言葉なの」
瑞希が男子児童を叱る一方で、碧はなおも男子に掴みかかろうとする翡翠の腕を抑えた。
「離して、離してよ、お父さんっ。あいつは、お父さんをバカにしたんだよっ!」
「どんなに腹が立っても、暴力を使ってはいけない。そう教えていますよね、新城さん?」
「でもっ!」
「僕のことはどうでもいいです。でもね、二人が怪我をしてしまう方が、ずっとずっと悲しいことなんですよ」
碧が静かな口調で諭すと、翡翠は渋々振り上げた拳を下ろした。それを確認してから、碧と瑞希は視線で頷き合う。
「それじゃ、二人とも『ごめんなさい』って言って、仲直りしよっか」
その後、無事に四年生全員の測定が終えられるのと同時に、休み時間となった。最後の女子児童も教室へと戻っていき、碧と瑞希が保健室に残される。瑞希は苦笑して、椅子に腰かける碧の肩に手を置いた。
「それにしても、自分のことよりも、お父さんの悪口を言われて怒るなんて、翡翠ちゃんらしいね。ほんと、親思いの子だなぁ。それに比べて、うちの子は思春期に突入したみたいで、恋バナとか、最近あまりしてくれないんだよ。母親としては、子どもの成長が嬉しいけど寂しいなぁ」
「翡翠の場合、あの歳の女の子にしては、少々親にベッタリすぎる気もしますけどね」
碧も苦笑いで返しながら、身体測定用紙の束を整える。瑞希親子とは家族ぐるみの付き合いがあり、瑞希の娘と翡翠も歳が近いこともあってか、仲が良い。瑞希の娘は白鷺小学校とは別の小学校に通っている。
「翡翠ちゃんは、まだ自分の出生の秘密を知らないんだよね?」
「はい。僕の身体のことも含めて、少しずつ話してはいるんですけど。なにせ常識外れの話ですからね、どうにも上手く理解してもらえないんです」
碧は白鷺小学校に赴任したとき、全職員に自身の身体の秘密や、翡翠の出生について説明している。一〇年前の鈴鹿達との一件から、下手に隠す方が後に事態をややこしくする、と考えたからだ。赴任当時はまだ翡翠出産の報道を覚えている教職員は数多く、距離を置かれがちだった。だが、碧が児童に愛情を持って接している姿や、翡翠を気遣っている様子を、職員達はよく見てくれていた。少しずつ信頼を積み重ねた甲斐があり、今では養護教諭として多少は頼りにしてもらっている。
一方で、保護者には碧親子の秘密を話さない方が良い、と校長は判断した。教職員一同には秘密厳守が言い渡されている。
主な理由は二つあり、一つは下手に保護者の不安を煽ってしまう要因となり得るからだ。教師とは、子どもの教育において頼り甲斐のある存在であり、「この教師に自分の子どもを任せて、本当に大丈夫か」と保護者に疑問を抱かせるわけにはいかない。特に高学年になると二次性徴期を迎え、男女の性の違いについても敏感になる児童も増えてくる。それなのに、男でも女でもない「中途半端」な性の持ち主が養護教諭であっては、子ども達の心のケアを安心して任せられない――そう考えてしまう保護者が現れてもおかしくはない。碧としては、「中途半端」の身体と心の持ち主だからこそ、子ども達に正しい性教育をしてあげたい、と考えていた。
もう一つの理由が設けられたのは、「翡翠を入学させても良いか」という議論が職員会議で行われたときのことだ。下手に保護者に事実を公表すれば、彼らから話を聞いた児童によって、翡翠への差別やイジメを招く恐れがある。性分化疾患は、今もなお誤解と偏見を抱かれがちな人種である。そんな碧が自分一人の遺伝子で産んだ子、ということで一〇年前の翡翠ブームは凄まじいものだった。無論、全ての人が翡翠に同情を寄せていたわけではないだろうし、場合によっては同情もまた差別の一形態となり得る。ようやく世間から忘れられたのに、新たな火種を生むべきではない。
(でもそれは言い換えれば、先生方の厚意に甘えている、ってことだよね)
碧は教職員達に深い感謝の念を抱くのと同時に、強い負い目を感じていた。多くの人間に心配と負担をかけている。やはり、特別支援学校に入学させた方が良かったのではないか――そう考えたことは一度や二度ではない。
「翡翠は、クラスに溶け込めていますか?」
「うん。まあ、クラスの構成自体は、基本的に三年生のときと同じだからね。去年一年間、同じ教室で過ごして、みんな翡翠ちゃんのことを理解してくれているみたい。翡翠ちゃん自身の人柄が優しくて明るいおかげで、たくさんの友達に支えてもらっているよ。ただ、他のクラスの中には、さっきみたいに歩けないことを指して、からかう子もいるの。でも翡翠ちゃんは気が強いから、お父さんや友達のことをバカにする相手には特に、迷わず突っかかっちゃうんだ。担任としては、それが特に心配でね」
瑞希は碧の机に尻を預けながら、細い肩を竦めた。彼女は四年一組の担任、つまり翡翠の担任でもある。身体障碍者の児童を受け持つのは、外から見ているよりもずっと大変だ。クラス内で差別やトラブルが発生しがちで、そういった問題の火種を消していくことが難しい。また、担任が障碍者の児童に対して肩入れしすぎると、他の児童から不満の声が上がってしまう。障碍者と健常者の児童を別け隔てなく教育するには、細かいバランス取りを常に意識する必要があった。
それでも去年のクラス替えの際、瑞希は翡翠の担任になることを進んで志願した。おかげで翡翠の親としても、碧は瑞希に深い感謝を寄せている。
「碧先生が心配しているのは、さっきの身体測定でのことだよね?」
「……はい」
碧の心配事とは、三組の男子児童が翡翠に言い放った、『出来損ないのコピー(複製品)』という言葉だった。あの悪口は、翡翠にとって致命傷にもなり得る、危険な言葉である。幸い、翡翠本人も男子児童も、その本当の意味に気づいていない様子だった。だが、先程は大事に至らなくても、あの喧嘩を見ていた他の児童が、同じ悪口を使ってイジメに発展する恐れがある。児童達の多くは、言葉の刃の鋭さを上手く理解できていない。一方で、中にはその威力を知りながら、平気で使用する児童もいる。そのため、碧を含めた教師一同は、全校児童が安心して学校生活を送れるよう、普段から彼らを注意深く見守る必要があるのだった。
もちろん、そういった教師側の配慮は、翡翠だけでなく他の児童が相手であっても変わらない。碧も、学校で翡翠を特別に贔屓するつもりはなかった。ここは自宅ではなく学校であり、ここでの碧は親ではなく教師だ。
「そうだね。三組担任の大林先生や学年主任の吉川先生を集めて、昼休みにミーティングを開こうか。私も気を配っておくよ」
「……先生方にはご迷惑をおかけして、本当にすみません」
「気にしない、気にしない。これも担任の大事なお仕事だよ」
瑞希はにへら、と笑いながら、碧の額を人差し指で軽く突いてくる。それから、ふと気安い調子を重ねて、話を振ってきた。
「と、話はかわるけどさ。碧ちゃんって結婚しないの?」
瑞希が一〇年前のように「碧ちゃん」と呼ぶのは、親しい友として接する二人きりのときだけに限られている。特に、児童や他の教職員の前では、「碧先生」と呼ぼうと心がけているようだ。
「碧ちゃんってシングルファザーとして、ずっと翡翠ちゃんを育ててきたわけでしょ。この間も碧ちゃんの家で一緒にご飯を食べたとき、今まで誰かと付き合ったこともないって言ってたし。うちの妹の件なら、もう気にしなくていいんだよ?」
「え、あ、はい……」
「私にも娘がいるから、碧ちゃんが翡翠ちゃんを溺愛する気持ちも理解できるけど。もうあまり若くないんだし、そろそろ、自分の恋愛を考えてもいいんじゃないかな。まあその場合、翡翠ちゃんの説得に苦労しそうか」
瑞希の微笑みに対し、碧は後頭部を指で掻く。話題がガラリと変更されたのは、碧が翡翠を心配して気持ちが暗くなりかけたのを、瑞希なりに察して気遣ってくれたようだ。
(まったく、岸本先生には勝てないな)
先輩の心配りに、碧は苦笑いを漏らした。
「昨日、マンションの管理人さんにも同じようなことを言われましたよ。でも、翡翠には猛反対されるのと同時に、デリカシーがないって叱られまして。話の切り出し方が、特にマズかったといいますか……年頃の娘にいきなり『新しいお母さんってほしいかな?』って尋ねるのは、やっぱりアウトですよね」
碧がそう言うと、瑞希は呆れ返ったようにジト目を送ってくる。
「いや、それはさすがにストレートすぎるでしょ。養護教諭なんだから、そういう子どものデリケートな部分は分かってあげなよ」
「……返す言葉もありません」
「でも翡翠ちゃんって、本当にお父さんが大好きだね」
そこへ、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。瑞希は笑みをにじませ、机から尻を上げる。それから、普段の緩さからはまるで想像もできないような、熟した牝だけができる扇情的な流し目を向けてきた。
「私は翡翠ちゃんの担任だからね。今すぐには、碧ちゃんに交際を申し込めないなあ」
「ふふ。後輩をからかわないで下さいよ」
おどけた調子で片目を閉じる瑞希の誘いを、碧は思わず笑みをこぼして受け流した。
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