第35話 色濃くなる不穏な影

  ●二〇一九年 四月一八日(水曜日)


「さ、乗って」

「うんっ」


 翌朝。マンション裏の駐車場で、碧は車の後部座席のドアを開いた。翡翠を抱き上げて、後部座席に運んであげる。木漏れ日が窓ガラスを通して、車内を穏やかに包み込んでいた。それから車椅子を折り畳んで、後部トランクに収納していく。


 そうして、自分も運転席に乗ろうとした、そのとき。無遠慮に絡みつくような視線を感じ、碧は周囲を見渡す。そうして、隣に建つ別のマンションの倉庫から、視線の主を見つけ出した。よれよれのスーツを着た、中年の男。碧の反応に気づくと、近くに建っていた倉庫の壁に、慌てて身を隠してしまう。


「やっぱり、こちらを観察している?」


 ここは、追うべきだろうか。いや、相手が凶器を持っているかもしれない。それに、仮に男に仲間がいるとすれば、碧が離れた隙に翡翠が危害を加えられる恐れもある。藪蛇をつつく羽目になるのは避けるべきだろう。何か事件が起きてからでは遅いので、早めに警察に相談をしておいた方がよさそうだ。


「……とりあえず今日帰ったら、三橋さんに報告しておこうか」

「おーい、新城君」


 背後からの呼び声に、碧の思考がキャンセルされる。振り返った先には、がっしりとした体格の若い女性が立っていた。彼女は碧と同じく、『フルール』の住人だ。


「今から出勤? 頑張ってねえ」

「おはようございます。夜勤明けですか」

「うん。おかげでもう、眠くて眠くて」


 女性は運送会社に勤めており、勤務時間が日によってバラバラだ。彼女の息子が碧の勤める小学校に通っており、子どもの教育についての相談を受けることも多い。そんな縁のおかげで、片親で子どもを育てる者同士、懇意にさせてもらっている。時折、仕事の都合でどちらかの帰りが遅くなった日などには、一方の家に子どもを預けることもあった。


「そういえば昨日、会社に出勤するときに、怪しい男に話しかけられたよ。新城君と翡翠ちゃんのことで、色々と質問されたんだよね」

「僕と翡翠について、ですか」

「うん。親子の仲はどうか、とか、虐待とかの話は聞かないか、とか。新城君と翡翠ちゃんの粗探しをしているみたいだったよ。あまりにしつこくて、困っちゃったね」


 と、そこへ、別のマンションの住人が話に加わってくる。こちらの男性は、出勤前のサラリーマンだ。昨年、『フルール』に引っ越してきたばかりの新婚だった。


「それ、うちにも来ましたよ。親子関係の良さをいくら説明しても、『本当は、裏で酷いことをやっているんじゃないのか』とか疑ってきたんで、怒鳴りつけてやりました」

「カハハッ、若い男は血気盛んでいいねぇ」


 鼻息を荒くし、サラリーマンの男性は握り拳を見せる。それを見た運送会社の女性は、豪快に笑った。


 昨今の日本では近所付き合いが薄くなり、相手と顔を合わせても挨拶をしない、という者も少なくない。だが、『フルール』の住人達の心の距離は比較的近く、困ったことがあれば気軽に助け合う者達ばかりだ。春になれば近所の公園で桜の花見をし、夏になればバーベキューをする。それらのイベントに渋々参加する者はいない。そんなあたたかい関係を築けているのも、管理人である三橋の人徳のおかげなのだろう。


(でも、マンションの人達に、僕達親子についての聞き込みをする狙いは何なんだろう)


 笑顔で雑談をしながら、碧は考えを巡らせた。

 妙に引っかかるのは、碧が翡翠を虐待しているかどうか、という質問である。児童相談所の人間ならば、碧の元へ直接話を聞きに来るはずだ。それ以前に碧は、児童相談所の手を煩わせるようなことをしていない。


「新城君?」

「え、あ、すいません。ちょっと考え込んでしまいました」


 怪訝そうな表情の女性に額を軽く叩かれ、碧は我に返る。女性は少し呆れた様子で肩をすくめ、ため息を吐いた。


「何だか、ややこしい事件に巻き込まれているみたいだけどさ。私達『フルール』の住人は、新城君達の味方のつもりだからね」


 そう言って運送会社の女性とサラリーマンの男性は、力強く笑みを浮かべて見せた。同じマンションの住人達からの信頼に対し、碧は嬉しいと同時に申し訳なく思ってしまう。


「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、すみません」

「何言ってんの。うちのバカ息子が世話になっているんだから、お互い様だって。この件については、私の方からも後で管理人さんに伝えておくからさ。警察が動いてくれるといいんだけど、まあ、事件になっていないから難しいだろうねえ」


 運送会社の女性は碧の肩を親しげに叩くと、大きな欠伸をした。


「あふぅ……じゃ、私はとりあえずもう寝るから。二人とも、お仕事頑張ってね」

「はい。行ってきます」


 マンションの玄関へと向かう女性の背中に、碧とサラリーマンの男性は丁寧に会釈する。


 一方で、言いようのない不安が碧の足元に絡みついていた。何者かによって、翡翠との穏やかな日常が侵食されつつある。こちらも何か手を打たなければならない、と碧は思案した。






 碧は当初、翡翠を市外にある特別支援学校に入学させるつもりだった。翡翠が足の障碍のことで出来るだけ色眼鏡で見られることなく、のびのびと学校生活を送ることができるのではないか、と考えたからである。だが、「近所の友達と同じ学校に通いたい」と翡翠が希望したことにより、散々迷った末に娘の意思を尊重することを決めたのだ。碧の勤務先であり、自宅の校区内でもある白鷺小学校に通うことができるよう、学校側に願い出た。当初、教職員の中には否定的な意見の者も少なくなかったが、職員会議を重ねた結果、入学が許可されたのだった。


 ただし入学の条件として、碧が翡翠と交わした約束が一つあった。


 それは、学校内において碧と翡翠は「親子」ではなく、「教師と児童」の立場を取ることだ。公私混同は、翡翠や他の児童に対する教育上、良くないと考えたからだった。


 近鉄宇治山田駅から徒歩で一〇分ほど進んだ先に、倉田山と呼ばれる山が存在する。そこは、皇学館大学をはじめとした長い歴史を誇る学校が建ち並び、穏やかな風と共に伊勢の古い街を見守り続けていた。白鷺小学校もそれらの施設のうちの一校だ。


 碧は学校の駐車場に車を止め、翡翠を車椅子に乗せた。そのまま昇降口の児童用下駄箱へ向かい、翡翠が上靴に履き替える。


「よいしょっと」


 翡翠の教室へと通じる階段前に到着すると、碧は翡翠を抱きかかえた。白鷺小学校では予算とスペースの都合により、車椅子のための階段昇降機が第一校舎の一箇所にしか設置されていない。翡翠のクラスの教室は第二校舎の二階端にあるため、階段の上り下りにはどうしても大人の介助が必要だった。翡翠を二階へと運んだ後、一階へ下りて車椅子を回収。再び二階の翡翠のもとへ戻り、車椅子に乗せてやった。


「ごめんね、お父さん。いつも大変でしょ」

「こーら、学校では『新城先生』でしょう。教え子の手助けをするのは、教師として当然のことだよ」


 上目遣いで謝る翡翠に対し、碧はあたたかい声を返した。翡翠は照れ臭そうに頷き、廊下を車椅子で漕ぎ出す。


「じゃ、お父さ――じゃなくて、新城先生、行ってきまぁす!」

「うん、気をつけてね」


 翡翠が無事に教室に入って行ったのを確認し、碧は一階へ下りる。それから、校舎中の廊下の窓を片っ端から開け、空気の入れ替えを行なっていく。同時に、廊下やトイレに設置された手洗い場で、石鹸やトイレットペーパーが足りているか、チェックを行なった。これらも、養護教諭の大切な仕事である。


 校舎を一通り見回った後、碧は一階の職員室へと向かう。途中の廊下で、登校してきた児童達数人とすれ違い、笑顔で挨拶を交わした。碧の腕時計は八時前を指しており、そろそろ学校が賑やかになり始めるころだ。


「おはようございます」


 職員室の扉を開き、碧は明るく挨拶をする。職員室内には、既に大半の教師達が出勤しており、それぞれの机に向かって仕事を始めている。中には保護者からの電話対応で、児童の欠席連絡を受けている教師もいた。


「おはよう。昨日に続いて今日も身体測定か。新城先生にとって、この時期は大変だね」

「ふふ、毎年の恒例行事ですからね。こればかりは後回しにできません」


 同僚教師達と言葉を軽く交わしあいながら、碧は自分の席へと向かった。碧の席は職員室内の窓側の一番端にあり、そのすぐ隣が四年一組担任である瑞希の席だ。児童向けのプリント作成をしていた瑞希は、椅子の背もたれに身を預けながら、碧の方に明るい視線を投げかけてくる。


「おはよう、碧先生。何だか今日は元気がないみたいだね。何か心配事でもあるの?」

「う。顔に出ていますか」

「うん。ということは、家で何か問題が起こったのかな?」


 悪戯っぽく口端をつり上げる瑞希。碧は肩を竦めて、降参の意を示した。


「ええ、まあ。少々、ややこしい事態になりつつありまして。岸本先生こそ、朝からお疲れのようですけど」

「あー、うん。これから打合せで報告することがあるの」


 などと会話を交わしていると、マイク音が室内に響き渡った。教頭の司会進行による、朝の打合せが始まるのだ。


『先生方、おはようございます。朝の連絡を行ないたいと思います。昨日から引き続き、春の身体測定が行われます。詳しくは新城先生、お願いします』


 さっそく教頭に話を向けられ、碧は席から起立する。軽く咳払いをし、あらかじめ用意しておいたプリントを手に取った。


「保健室からお願いがあります。身体測定ですが、先週配布させていだいたプリントにもありますように、今日は四年生から六年生までの番となります。一時限目の授業が始まりましたら、四年生の男子を一組から順番に保健室へと移動させて下さい。三組の男子の測定が始まりましたら、各組の女子を保健室前の廊下に集合させて下さい。予定では、二時限目の終わりまでかかるものと見ております。三時限目と四時限目は五年生、昼休みと掃除を挟んで、五時限目と六時限目に六年生、となっています。先生方のご協力をよろしくお願いします。以上です」


 一通り説明を終え、碧は席に座る。


『新城先生、ありがとうございました。他に先生方、何か連絡等ありますか?』

「はい」

『岸本先生、どうぞ』


 司会の教頭に岸本が挙手をし、立ち上がった。真剣味を帯びながらも、どこかふんわりとした声が、職員室内に響き渡る。


「最近、校内をカメラで撮影する、不審な男の目撃例がいくつもあがっています。今朝も教師用の駐車場を撮影しているのを、児童の証言により発見しました。残念ながら、私が現場に駆け付ける前に、男は逃走しています。児童に危害が及ぶ可能性もありますので、休み時間や放課後などで、先生方に巡回のお手伝いをお願いしたいと思います。以上です」

『不審な男については、岸本先生から報告を受け、既に警察の方に報告をしてあります。ですが、実際に事件とならない限り、警察も迂闊に動くことができないようです。先生方は、児童の安全を第一に行動してください』


 瑞希は着席し、教頭が補足説明を行う。それらの話を聞きながら、碧は何とも言えぬ胸騒ぎで落ち着けずにいた。


「不審な男……」


 今朝、マンション裏の駐車場で発見した男。果たして、これは偶然なのだろうか。いや、この田舎町で同時期に、不審な人間が何人も現れるとは、さすがに考えにくかった。たとえ同一人物ではなくとも、何らかの関係があるのかもしれない。警察に相談することでもあるため、教頭に報告しておくべきだろう。


「杞憂で済めばいいんだけど……何だか嫌な予感がするな」

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