第二部 社会人編

第31話 養護教諭となった碧

  ●二〇一九年 四月一七日(火曜日)


 春の空は雲ひとつなく冴え渡り、運動場は子ども達の笑顔と明るい声で溢れ返っていた。


「新城せんせーっ!」


 保健室で書類作りをしていた碧は、自分を呼ぶ声に反応し、机から顔を上げる。椅子に座ったまま振り返った先には、揃って笑顔を浮かべる五人の女子児童の姿があった。碧の周囲に群がり、羽織っている白衣を指で摘んでくる姿は、ひな鳥が親鳥に餌をねだる光景にも似ている。


「おや、どうしましたか?」

「遊びに来たのー」


 女子児童達は互いの顔を見合って、「ねー」と声を揃える。その微笑ましい姿に、碧は思わず口元を緩ませた。


「ねえ、新城先生、聞いて。うちのクラスの男子ったら、掃除の時間にホウキで野球を始めるんだよ」

「おやおや、それは困りましたね。注意はしましたか?」

「うん。でも何回怒っても聞かないから、昨日引っ叩いちゃった」


 得意げにケンカ自慢をする女子児童達。彼女達は今月、三年生になったばかりだ。まださほど体力差はなく、男子と取っ組み合いの喧嘩をしても、互角に渡り合えることが少なくない。だからこそ、養護教諭としては悩みの種となりがちなのだが。


「お互いに怪我をしてはいませんか?」

「ううん。その前に担任の先生に止められちゃった」


 不満そうに女子児童達が拳を握る。碧は困った笑みを浮かべ、女子児童達の頭に手を置いた。


「喧嘩をするな、とは言いません。でも、その後はちゃんと仲直りしましょうね」

「はーい」


 素直な返事をする女子児童達。


 保健室とは、怪我や病気の治療をするためだけの場所ではない。普段から児童達と世間話を重ね、居心地の良い空間にするのも大事だ。そうすることで、もし児童が担任教諭にも話せないような悩み事を抱えても、養護教諭を信頼して相談してくれるかもしれない。だからこそ、保健室を憩いの場にしなければいけない――それは、碧が教育実習生だったころに、実習先の学校の養護教諭が説いてくれた言葉だった。


 そんな教えを受けてから、幾多の月日が流れ。今の碧は一人前の養護教諭としてこの「白鷺小学校」に赴任し、保健室を預かっている。淡い色の花びらを思わせる幼い顔立ちは、一〇年前から僅かも美しさが損なわれていない。大人へと脱皮する最中の女子中学生のように、その肢体は華奢でほんのりと柔らかかった。おかげで、夜中にスーパーへ出かけているところへ警察官に未成年と間違えられ、補導されそうになったことも何度かあり、そのたびに運転免許証を見せている。


「新城せんせー、聞いてよ。俺、昨日のサッカーの試合で二点もゴールを決めたんだぜ!」


 今度は保健室の窓の外から、鼻に絆創膏を貼った男子児童が得意げな顔を浮かべ、話しかけてくる。つい先程まで運動場でサッカーをしていたのだろう、履いている半ズボンが砂で少し汚れていた。


「凄いじゃないですか。試合には勝てたんですか?」

「もっちろん! おかげで春の大会で、三回戦突破したんだっ。勿論、優勝を狙ってるし」


 運動場から別の男子児童が現れ、絆創膏の少年の肩を後ろから掴む。


「おーい、早く戻って来いよ。お前がいないと、うちのチームが負けちゃうだろ」

「ごめん、ごめん。じゃあ新城先生、行ってきまーす!」

「はい、くれぐれも怪我をしないようにね」


 碧は笑顔で手を振って、男子児童達を送り出す。


 そこへ、息をつく暇もなく、新たな訪問者が保健室に飛び込んできた。鈴の音のように可愛らしい声が、素っ頓狂な響きを奏でる。


「お父さん、お父さんっ。たいへんなの!」


 入ってきたのは、車椅子に乗った少女だ。瑞々しい黒髪を長く伸ばし、猫の柄をしたブローチを胸につけている。くりっとした大きい瞳が宝石のように輝き、不安でいっぱいの表情の中にも、可憐さの片鱗が見られた。


 その幼くも美しい顔立ちは、碧と瓜二つだった。


「どうしましたか、新城さん。そんなに慌てて」

「体育館でバスケをしてたら、亜里沙ちゃんが転んじゃったの!」


 車椅子の少女から遅れて、別の少女が保健室に入ってくる。その目には涙が溜まっており、今にも声をあげて泣き出しそうだ。碧が右ひざを見てみると、派手に擦りむいたのか、赤々とした血が肌に染み渡っていた。


「ちょっと待っていて下さいね。今消毒しますから」


 碧は、素早く棚から消毒液とガーゼを取り出す。怪我をした女子児童を丸椅子に座らせ、膝を前に出させる。


「少し沁みますけど、我慢してくださいね」


 碧は安心させるために笑顔を崩さず、消毒液を傷口に塗った。女子児童は一瞬、肩を大きく跳ねさせるが、それでも唇をぐっと噛んで座っている。消毒を終えた碧は、ガーゼをそっと貼り付けてあげた。


「はい、よく我慢できました」

「うん」


 女子児童は涙を拭って、小さく頷く。その隣で、車椅子の少女が胸を撫で下ろしていた。


「良かった。血がいっぱい出たから、心配しちゃった」

「ごめんね、翡翠ちゃん。それと、ありがと。付き添ってくれて」

「何言ってるの。友達だもん、これくらい当然でしょ?」


 日向のような笑顔を輝かせ、車椅子の少女は女子児童の手を握る。少女の有り余る元気が手の温もりから伝わったのか、怪我をした女子児童は小さく微笑んだ。


「さ、教室戻ろっ。みんな心配してるよ」

「うん」


 保健室を出て行こうとする二人の小さな背中に、碧は陽だまりのように柔らかな声をかける。


「くれぐれも、廊下を走らないようにして下さいね。でないと、また転んじゃいますよ。それと、新城さん」


 名前を呼ばれた車椅子の少女は、悪戯がバレたときのように背筋を伸ばした。どうやら、呼び止められた理由は、本人も気づいているようだ。対する碧は穏やかな笑顔のまま、やんわりと窘める。


「学校では、『お父さん』じゃなくて、『新城先生』と呼ぶように。いつも言っているでしょう?」

「……はーい」


 いかにも渋々といった様子で、車椅子の少女――新城翡翠は可愛らしい口を尖らせる。その表情をクラスメイトの男子に見せれば、何人かは心を奪われるのではないか――と考えかけたところで碧は肩を竦めた。


「いや、さすがに、親のひいき目かな?」

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