第30話 贖罪、そして
●二〇〇九年 一〇月一日(木曜日)
この日、碧は約一年ぶりに休学していた大学の門をくぐった。最後に大学を訪れた日を再現するかのように、敷地内に植えられたイチョウの木々が、紅葉の季節へ向けた準備を始めている。ちょうど後期のカリキュラムが開始される日であり、大学内には多くの学生が屯していた。
「おい、あれ見ろよ。新城碧じゃねえか?」
「ああ、あの半陰陽の」
「テレビで見るよりずっと可愛くね?」
「どんな身体なのか、一度中身を見たいな」
校舎の廊下ですれ違う学生達が、皆こぞって碧を指さす。無遠慮に注がれる好奇の眼差しにも、碧はただひたすらに耐えた。
「あの人って、自分の精子と卵子で子ども作ったんでしょ?」
「気持ち悪いよね。まともな神経じゃできないよ」
「テレビで何度か見たことあるけど、あの赤ちゃんは可愛いよね。もし目の前にいたら、抱きしめたくなるくらい」
「うん、分かる分かる。でも、あの赤ちゃんが歩けないのって、あの人が親になったのが原因だって話じゃん」
連日テレビで特集されていただけあって、半年前の衝撃的なニュースは、学生達の記憶にも深く刻まれているようだった。当事者が同じ大学に通う学生だったのだから、当然ではある。さらに、碧自身が中性的で目立つ容姿の持ち主であるため、事件発覚前から既に有名人だったのだ。
真一の広報戦略によって、翡翠は同情を集める「可哀想な赤子」として、世間にすっかり受け入れられている。だが、翡翠を産んだ碧も一緒に同情されているとは限らない。こうして奇異の目を浴びせ、物珍しがったり気味悪がったりする者は、全国を見渡しても大勢いるだろう。
見世物小屋の動物のような扱いを受けても、碧はいちいち反応しない。学生課に赴き、復学の手続きをする。どの講義を受講するか未登録であるため、学生に向けて解放されている別棟のコンピュータ室へと移動。パソコンで申請手続きを行う。既に留年が決定済みの碧は、一回生の講義の単位から取得する必要があった。
そうして学生課へ戻ろうとしたとき、見知った顔と遭遇した。
「あ……」
碧の友人グループだった男子学生達だ。彼らは碧の存在に気づくと、そろって頬を引きつらせる。そのまま後ろへ引き下がりそうになるのに対し、碧は先んじて呼び止めた。
「久しぶり、元気そうだね」
できるだけ自然な調子の挨拶。すると、友人達は気まずそうに乾いた笑みを浮かべた。
「あ、ああ。そっちこそ……いろいろ大変だったみたい、だな?」
「うん。そのことで、皆に謝らなきゃいけないと思っているんだ」
そう言って、碧は深々と頭を下げた。
「ごめん。僕の身体のことを、皆にずっと黙っていた。休学するとき、嘘をついた。皆をずっと裏切って、本当にごめん」
碧の率直な謝罪に、友人達は戸惑うばかりだ。喘ぐように口を開けるが、上手く言葉にならないらしい。
「あ、いや、それはまあ、いいんだけど、さ」
「なんつーか、なあ」
碧が再び大学に来ることを、彼らも想像していなかったのだろう。再会したときに、どんな声をかければ良いのか、脳内でシミュレートもできていなかったようだ。皆、困った顔を浮かべる。やがて、友人達のうちの一人が、ぎこちない笑みで手を軽く挙げた。
「新城。近い内に、どこか美味いものを食いに行こう。復帰祝いってことでさ」
その言葉に背を押されたのか、他の友人達も揃って頷くと、碧を囲んでくる。彼らの優しさと歩み寄りが、碧には意外に思えて仕方がなかった。罵詈雑言をぶつけられることも覚悟していたのだ。
「うん。そのときは奢るよ」
「アホ。お前の復帰祝いなんだから、奢るのは俺達の方だろうが」
そう言って、友人達は揃って笑う。釣られて碧も思わず頬を緩ませた。
碧が大学に復帰することについて、真一は特に反対をしなかった。むしろ、積極的に賛成していたほどだ。
『お前は将来、小学校の養護教諭になるつもりだったな? 障碍児を育てながら、ガキに奉仕する仕事か。世間がまた喜びそうなネタだ。よし、許可する。これまで通り、学費は親父の遺産から出そう。お前が大学に行っている間、翡翠の面倒を見る人間についても手配する。うちの病院の伝手を使って、口の堅いベビーシッターを雇ってやるさ』
真一はそう嘲笑っていたが、碧の方は真一の支配下にいつまでも置かれるつもりはなかった。そう遠くない将来、真一の手が届かない場所へ引っ越すつもりだ。
とはいうものの、その道はとても険しい。身体障碍者の申請をすると、国からの援助をいくらか受けることができる。だが、それだけでは、どうしても限界があるのだ。貯蓄もなく社会人経験もない若造が、たった一人で障碍者の赤子を育てるのは、無謀というほかない。
そこで碧は大学に復学し、資格を取って安定した職に就こうと決心したのだ。奨学金を申請してすぐに実家を出ようとも考えたが、考えぬいた末に却下した。このタイミングで行方をくらませると、マスコミが不審がるに違いない。新しい家に引っ越してもすぐに住所を突き止められ、今以上に激しい取材攻撃を受けることになるだろう。当然、真一も黙っているはずがなく、世間からの興味本位のバッシングの末に、実家へと強制的に連れ戻される――そんな光景を容易に想像できる。
親が無力なままでは、翡翠を満足に養えるはずがない。何よりも優先すべきなのは、翡翠が健やかに育つための環境づくりだ。
ゆえに今は、力を蓄えるときである。ブームは長く続くものではない。世間が飽きてしまえば、マスコミが碧達親子を追うこともなくなるはずだ。実家を出るには、時期を見計らおう。そう心に決めた碧は、自分の安っぽいプライドなど放り捨て、真一にひとまず服従するフリをした。
一方で、碧は正式に独立するまでの間、一つの小細工を弄していた。それが、真一の会話の盗聴だ。
『くくくっ、翡翠のおかげで俺の信用は鰻登りだ。最近は、政界からも将来出馬しないかと誘いを受けているほどだからな。連中も、人気取りの票を喉から手が出るほどにほしいんだろう』
『ふふ。翡翠は、真一さんがのし上がるために欠かせない、大切な駒ね』
『ああ。これからも、《可哀想な赤ん坊》として世間にアピールしていかないとなぁ!』
外では聖人の仮面を被る真一だが、家の中では完全に油断しきっていた。仕事から帰宅すると、晩酌をしながら早苗と一緒に下衆な言葉を吐いている。その様子を居間に設置した隠しマイクで録音しながらも、碧は翡翠を真一から庇い遠ざけていた。できる限り、翡翠に汚い言葉を聞かせたくなかったからだ。欺瞞ともいえる矛盾に、碧は耐え続けた。
大量に蓄えたこの盗聴データが将来、碧と翡翠が真一の手から逃れるための、貴重な武器となる。そう信じて。
「岸本さん!」
校舎を出た先の広場で、碧は鈴鹿を呼び止めた。鈴鹿は碧の声に気づくと、一瞬身を震わせたが、すぐに早足で逃げていく。碧はその後ろ姿を追いかけ、彼女の肩を掴んだ。
「待って、岸本さん」
「……何か用?」
氷柱のように凍てついた声が、鈴鹿の口から発せられる。鈴鹿は、碧の方へ振り返ろうとはしてくれない。碧が正面に回ろうとしても、拒絶するように顔を背けるばかりだ。ならば、と碧は鈴鹿の背中越しに話しかける。
「岸本さんに、もう一度謝りたくて」
「……」
「ごめん。岸本さんに嘘ばかりついて。本当のことを何も話さず、入院という形で逃げて。僕は岸本さんをずっと裏切っていた。大学に入ってすぐに仲良くしてくれた岸本さんや友達の皆に、身体の秘密を話して拒絶されるのが怖かったんだ。このままじゃいけない、って分かっていたのにズルズルと引き延ばして、結局岸本さんを傷つけてしまった。本当にごめんなさい!」
碧はズボンが汚れるのも厭わず、コンクリートの地面に膝を折り、額をこすりつけた。突然の土下座に、周囲の学生がどよめく。
だが、鈴鹿の反応は冷め切っていた。
「話はそれで終わり? 私、これからサークルに行くのに、邪魔しないで」
鈴鹿は碧をその場に捨て置き、再び歩き出す。
謝罪の言葉は、やはり受け入れてもらえなかったか。
碧がそう思いかけたとき。鈴鹿がこちらを振り向いた。その尖らせた目に宿るのは、侮蔑と後悔と……好意? いや、そんなはずはない。碧は自分の甘い予想を打ち消す。
鈴鹿は美しいアルトの声を鋭く絞り、碧を貫く。
「……テレビで見たわ。あのときあなたが妊娠していたのは、自分の精子と卵子で作った子なんでしょう? よくそんな変態じみた真似を、平気でできたわね。やっぱり、普通の人間と違うから? 人としての常識とか倫理観が欠如しているのかしら」
並べ立てられるのは、耳を塞ぎたくなるほどに辛辣な言葉の数々。
しかし、どこか鈴鹿自身に言い聞かせる響きを感じさせた。もっと何か別の言葉を口に出したいのに、意地か感情が邪魔をしているかのようで。その根源を見抜くことは、碧にはできなかった。
そうして、しばらくの間、無言で見つめ合う。先に視線を逸したのは、鈴鹿だった。
「……バカッ」
短く言い捨てると、鈴鹿はヒールの音を大きく立てて去って行った。碧はそれを見送ることしかできない。
碧は自分の胸に両手を置く。涙は出なかった。今更そんなものを流したところで、過去が変わってくれるわけでもなく、鈴鹿が許してくれるわけでもない。碧に残された責務は、犯した過ちの苦い味を噛み締めることだ。
こうして、碧は大学生活に戻った。
罪の十字架を背負いながら、けっして顔を背けず、自分の人生を歩み始めていく。
(物語後半戦の第二部へ続きます)
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